Category: Crime, Thrillers and Mystery

入れかわった男

大事件の発端となるあの災難は、エヴェラード・ドミニーが小一時間も低木の藪を押しわけ、細く渦巻きながら立ちのぼる煙をめざし、子馬に最後の絶望的な努力をしいて巨大な夾竹桃の茂みを通り抜け、前のめりに頭から小さな空き地へ転落した時点にはじまる。翌日の朝、気がつくと、彼は数ヶ月ぶりにリンネルのシーツに包まれて、キャスターつきのベッドに横たわっており、過酷な太陽と彼のあいだには、涼しげな竹で編まれた屋根があった。彼はベッドの上でわずかに身体を起こした。 「いったいどこなんだ、ここは?」 バンダの入り口に胡座をかいていた黒人少年が立ちあがり、何事かをぶつぶつと...

Summary

大事件の発端となるあの災難は、エヴェラード・ドミニーが小一時間も低木の藪を押しわけ、細く渦巻きながら立ちのぼる煙をめざし、子馬に最後の絶望的な努力をしいて巨大な夾竹桃の茂みを通り抜け、前のめりに頭から小さな空き地へ転落した時点にはじまる。翌日の朝、気がつくと、彼は数ヶ月ぶりにリンネルのシーツに包まれて、キャスターつきのベッドに横たわっており、過酷な太陽と彼のあいだには、涼しげな竹で編まれた屋根があった。彼はベッドの上でわずかに身体を起こした。 「いったいどこなんだ、ここは?」 バンダの入り口に胡座をかいていた黒人少年が立ちあがり、何事かをぶつぶつとつぶやいて出ていった。すぐに上背のある、痩せたヨーロッパ人が、一点の染みもないまっ白な乗馬服に身をつつみ、入り口をくぐってドミニーのそばにやってきた。 「ご気分はよろしいですか?」彼は丁寧に尋ねた。 「ああ、いいよ」と彼はやや無愛想に答えた。「ここはどこなんだ?それに君は誰だい?」 新たにあらわれた男はむっとした表情を浮かべた。彼の物腰には威厳があり、口調にはいくぶん非難がこめられていた。 「ここはイリワリ河から半マイルも離れていない、と言えばおわかりになりますかな。ダラワガ入植地から七十二マイルほど南東です」 「何だと!じゃあ、ここはドイツ領東アフリカなのか?」 「その通りです」 「すると君はドイツ人なんだな?」 「ドイツ人であることはわたしの誇りです」 ドミニーは軽く口笛を鳴らした。 「不法侵入したことは深くお詫びする。ぼくはマーリンシュタインを二ヶ月半前に出発したんだ、土地の者二十名と、貯えをたっぷり持ってね。ぼくらはライ...

Chapters

6. 第六章

ドミニーはその晩、カールトンホテルの自室でシーマンを待ちながらひどく落ち着かない一時間を過ごした。ようやくシーマンがあらわれたのは七時になろうとする頃だった。 「分かっているのかね?七時にアイダーシュトルム王女のお宅に伺う予定だってことは」 「そうだってね」とシーマンは答えた。「しかし心配することはないさ。王女は分別もあるし、政治に対して見識のある女性...

7. 第七章

カールトン・ハウス・テラスの大使官邸では晩餐会に引き続き小さな歓迎会が催された。大使のターニロフ王子は最後の客である妻の従姉妹アイダーシュトルム王女に別れを告げていた。彼女は王子を脇に引き寄せた。 「大使、今晩ずっとお話したいと思っていたのです」 「わたしもです、ステファニー。まだ時間は早い。ちょっと座りましょうか」 彼は長椅子に彼女を導こうとしたが、...

28. 第二十八章

それから数日のあいだに奇妙な噂がドミニー邸からその近辺に広がった。つまり農場労働者から農場主へ、学校の子供から家庭へ、村の郵便局から近隣農村へと伝わったのである。となりの郡から集まってきた木こりの一団が、発動機と商売道具を駆使して、ブラック・ウッドの北の端の木や茂みを、片っ端からなぎ倒しはじめたのだ。戦争のことなどあっけなく忘れ去られた。作業がはじまっ...

26. 第二十六章

当時の日々はすべてのロンドン子に生々しい印象と、強烈な記憶を残した。そののちも、まるで日常から切り離された、異次元に属する日々ででもあるかのように、奇怪な非現実感を伴って心によみがえった。ドミニーもその日の夜のことを長く記憶していた。すなわち、バークレイ・スクエアにある町屋敷の、趣味の良い家具を備えた、くすんだ色の食堂で食事を取った夜のことを。ドミニー...

29. 第二十九章

地獄の業火のような午後の熱気――奇妙なことにそれはドミニーに急接近する嵐を予告するものでもあったが――その熱気がドミニーを書斎からテラスへ向かわせた。隣の椅子にもたれていたのは、真っ白なフラノのスーツを着たエディ・ペラムだった。ブラック・ウッドの謎が解けて五日目のことだった。 「ここに呼んでくれて感謝するよ」若者はにこやかにそう言い、脇に置いてあるタン...

4. 第四章

ミスタ・マンガンはレストランに入る前に小さな応接間で知り合いとしばらく歩きながらおしゃべりをした。一方、食事に招待したドミニーは支配人に話しかけ、通りかかったウエイターにカクテルを注文し、両手を背中に回して大広間に入ってくる男女を観察していた。外国暮らしの長かった人間が同国人を好奇の眼で見ている、そんな様子だった。彼は混雑する広間を通り抜ける若者の一団...

23. 第二十三章

シーマンはすぐさま王女の部屋へ足を運んだわけではなかった。代わりに召使いたちの居住区へ行き、執事の部屋をノックした。返事はなかった。取っ手を回してみたが無駄だった。鍵がかかっているのだ。隣の部屋から、背の高い、真面目な顔つきをした、地味な黒服の男が出てきた。 「今晩外国からいらっしゃったお客様をお捜しですか?」 「ああ。鍵をかけて閉じこもったのかな?」...

15. 第十五章

ノーフォーク狩猟の会のいちばん新しい、いちばん人気のある会員、サー・エヴェラード・ドミニー男爵は、ドイツから戻って数ヶ月後のある午後、裏の小山の頂きから屋敷の菜園まで長々と続く森の一角に立っていた。彼の左手には適当な距離を置いて四人の狩猟隊のメンバーが並んでいた。彼の隣にはミドルトンがトネリコの杖をついて立っていて、勢子の近づいてくる音を聞いていた。反...

10. 第十章

悪夢がゆっくりと現実の恐怖に変わっていった。その最初のもつれた瞬間に、ドミニーはアフリカに戻って、敵に喉元を押さえつけられている自分を見ていた。それから目覚めた記憶がどっとばかりに押し寄せてきた――広大な屋敷の静けさ、自分の身体が横たわる、黒い樫材の四柱式寝台、そのまわりで謎めいた衣擦れの音をたてる重い垂れ布、そして喉を軽く突き刺す命に関わる何か――そ...

2. 第二章

翌日の朝、ドミニーは遅くまで眠りをむさぼった。夢も見ずにぐっすりと眠ってようやく目覚めると、彼は野営地の奇妙な静けさに気がついた。医師が彼を見にやってきて、朝の挨拶のあと、すぐにその説明をした。 「閣下は本国から重要な知らせを受け取り、ダルエスサラームからの使節を出迎えに行きました。三日間は戻りません。戻るまであなたには賓客として留まってほしいとのこと...

1. 第一章

大事件の発端となるあの災難は、エヴェラード・ドミニーが小一時間も低木の藪を押しわけ、細く渦巻きながら立ちのぼる煙をめざし、子馬に最後の絶望的な努力をしいて巨大な夾竹桃の茂みを通り抜け、前のめりに頭から小さな空き地へ転落した時点にはじまる。翌日の朝、気がつくと、彼は数ヶ月ぶりにリンネルのシーツに包まれて、キャスターつきのベッドに横たわっており、過酷な太陽...

16. 第十六章

偉観を誇るドミニー邸の食事室といえども、さすがにその晩は、マホガニー製の大テーブルをぎりぎりいっぱいまで広げなければならなかった。最近閣僚に指名されたジェラルド・ワトソン判事を含む泊まりがけの客のほかに、近隣から州統監や名士たちを数名招待していたのだ。キャロラインは州統監とターニロフに挟まれ、女主人の役をそつなくこなしていたが、身を入れてそうしていたわ...

22. 第二十二章

ドミニー邸のその日の晩は、外から新たな客の一団を迎えたという点を除けば、実質的には最初の晩のくり返しに過ぎなかった。晩餐のあと、ドミニーはしばらく席を外し、ロザモンドの腕を取って戻ってきた。彼女はお祝いの言葉をかける近隣の人々に愛らしく応対していた。すぐに彼女の周りに小さな宮廷ができた。晩餐の席に連なったドクター・ハリソンは、その輪の外で彼女の軽やかな...

17. 第十七章

これほどいたましいものは見たことがないとドミニーは思った。それは広間の片隅、暖炉の前に立つ女が奇妙に疲れた眼から彼に注ぐ、半ば希望にあふれ半ば不安にさいなまれた真剣なまなざしだった。彼女の横には快活で人なつっこそうな制服姿の看護婦がいた。さらにその後ろには宝石箱を抱えた小間使いがいた。黒いベールをかきあげたロザモンドは片足を炉格子にかけて立っていた。ド...

19. 第十九章

東の空には依然として黒っぽい灰色の雪雲が低く垂れこめていた。そこに一条のか細い紅色の線が走り、朝の訪れを告げた。風は止み、幽霊でも出そうな気配が静かに薄明のなかに漂っていた。ドミニーは屋敷の裏から外に出て、まだ誰も踏んでいない雪の道をロザモンドの窓の下へと進んでいった。そこに立った彼の唇から小さな驚きの声が漏れた。テラスから踏み段を降り、庭園を抜けてま...

18. 第十八章

医師はいつもの傍若無人な口ぶりで、この時ならぬ訪問が内密の話をするためのものだと言った。キャロラインはさっそく席をはずし、二人の男は大広間に取り残された。ビリヤードルームと客間の灯りは消えていた。数人の召使いを除いて、屋敷のなかの人間はみな部屋に引っこんでいた。 「サー・エヴェラード。今回のドミニー夫人のお帰りにはまったく驚いた。明日の朝、君と話をする...

8. 第八章

「先祖代々のお屋敷が見えてきましたよ」車が草の生えた並木道の最初のカーブを曲がり、ドミニー邸が見えてきたときミスタ・マンガンが言った。「しかも実に立派なお屋敷だ!」 相手は返事をしなかった。ほんの少し前から嵐が吹きはじめ、彼はまるで寒気がするかのように、帽子を目深にかぶり、コートの襟を耳まで立てたのだった。屋敷がはっきりと見えてきた。正面玄関の両側には...

5. 第五章

ウースター・ハウスは一見したところなんの理由もなくリージェンツ・パークのど真ん中に建てられた、半ば宮殿のような邸宅の一つである。以前、とある公爵が親しい友人の摂政王太子にそそのかされて入手し、その後代々引き継がれ、百万長者街道パークレーンに軒をつらねる無様な邸宅に対して、無言の非難を浴びせつづけた。ドミニーはまず門衛詰め所で革のチョッキとシルクハットの...

13. 第十三章

シーマンの愛想のいい顔に陰りがあった。その日の朝、ミスタ・マンガンが出発したあと、オーバーコートに身をくるみ、主人と二人でテラスを散歩しているときのことだ。彼はいささか唐突に思っていることを相手にぶつけた。 「さっそくわたしが訪ねてきた目的について話そう。君にとっては素晴らしいニュースだ。しかしその前に……」 「決行のときが来たのか?」ドミニーは怪訝そ...

20. 第二十章

ターニロフ王子と主人は腕を取り合って長々と続く樅の木立の裏の、雪に覆われた斜面を登っていった。二人がめざしていたのは小さな旗つきの棒だった。そこが彼らの立ち位置なのである。見渡す限り人影はなかった。他の撃ち手たちは傾斜のきつい、けれども回り道をしないですむ道筋を辿ることにしたのだ。 「フォン・ラガシュタイン、勝手だが名前で呼ばせていただく。知っていると...

9. 第九章

「お宅のワイン貯蔵庫には心から祝福の言葉を申しあげます、サー・エヴェラード」その晩、客はポートワインを口にしながらそう言った。「これほどの七十年代ものは実に久しぶりです。しかも、わたしがロンドンから寄こした新しい雇い人――パーキンスですが――彼によると、これがまだたっぷり残っているそうですよ」 「じっくり寝かしてあったからね」 「夕食の前に貯蔵庫のリス...

12. 第十二章

ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。帰宅した時間は遅かった。し...

11. 第十一章

ドミニーは夢のなかをさまようように部屋を出た。階段を降りて自室に戻ると、帽子と杖をつかみ、見る間に庭を覆いつくさんとする海霧のなかへ踏み出した。氷のように冷たい蒸気の雲には、北極の寒気がありったけ詰めこまれている。しかしそれにもかかわらず彼の額は熱く、脈は燃えるようだった。壁に囲まれた庭の裏門を抜けると、広々とした沼地があった。あちらこちらに水路が走り...

14. 第十四章

二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。ドミニーはそれこそ極端に無口になった。過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなか...

25. 第二十五章

六ヶ月後のある朝、ターニロフとドミニーはゴルフコースを一周したあと、冷たい飲み物を手に、ラネラ・ガーデンズのニレの大木の下でのんびりとくつろいでいた。同じ頃、数百万のイギリス人は汗をかきながら昼の新聞の大見出しを呆然と見ていた。

3. 第三章

リンカーンズ・インの弁護士ミスタ・ジョン・ランバート・マンガンは助手が差し出した名刺を見てあっけにとられた。驚きはすぐに狼狽と入り混じった。 「まいったな。これを見ろよ、ハリソン」そう言って、それまで相談をしていた部長に名刺を渡した。「ドミニー――サー・エヴェラード・ドミニーがイギリスに戻ってきたよ!」 部長は細長い名刺を一目見てため息をついた。 「こ...

21. 第二十一章

ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーは見たところすこしも警戒心を抱かせるような人物ではなかった。彼は執事の私用の居間で丁重きわまりないもてなしを受け、その歓待ぶりに充分満足しているようだった。ドミニーが入り口にあらわれると、彼は立ちあがって不動の姿勢を取った。軍人らしい挙措がいくつか眼についたが、それがなければ非常に社会的地位のある、隠退した商人としてどこで...

27. 第二十七章

それからほんの数時間後にドミニーはカールトン・ハウス・テラスから電話連絡を受けとった。その短いメッセージには毒々しいほど劇的ななにかがあった。さっそく彼は車で街を走り抜けていったが、その途中の光景には、見慣れたなかにもすでに奇妙な変化が認められた。男も女もいつも通りに仕事をしているのだが、どこを見ても明らかに呆然とした空気が漂っているのだ。道行く人はほ...

24. 第二十四章

次の日の朝、ドミニーが苦心して編成した狩猟隊は解散することになった。王子は車に荷物を積みこむあいだ、主人の腕を取って脇に引き寄せ、しばらく話をした。型通りの感謝の言葉を述べたあと、ぐっとくだけた調子で話しはじめた。 「フォン・ラガシュタイン、先日の話をもう一度思い出してほしいんだが」 ドミニーは頭を振って後ろをちらりと振り返った。 「ここでのわたしの名...