入れかわった男

第七章

Chapter 7 8,272 words Public domain Markdown

カールトン・ハウス・テラスの大使官邸では晩餐会に引き続き小さな歓迎会が催された。大使のターニロフ王子は最後の客である妻の従姉妹アイダーシュトルム王女に別れを告げていた。彼女は王子を脇に引き寄せた。 「大使、今晩ずっとお話したいと思っていたのです」 「わたしもです、ステファニー。まだ時間は早い。ちょっと座りましょうか」 彼は長椅子に彼女を導こうとしたが、彼女は頭を振った。 「十一時半に約束がおありですわね。邪魔をしたくありませんわ」 「じゃあ、ご存じなんですね」 「今日、カールトンのレストランでお昼をいただいたとき、応接間でレオポルド・フォン・ラガシュタインと鉢合わせしました」 大使は何も言わなかった。まず相手の言いたいことをみんな聞いてやろうとしているようだった。しばらく間をおいて彼女はつづけた。 「話しかけたら、人違いだと言ったのですよ。よりによってわたしに向かって!わたしの人生で最悪の瞬間でした。あんなに苦しい思いをしたことはない。あんな苦しみはもう二度といや」 「さぞつらかったでしょうね」王子は同情をこめてつぶやいた。 「今晩、ある男がわたしを訪ねてきました。最初はドイツの卑しい中産階級の一人だと思ったのですが、あとで正体が分かりました。その男の説明によると、レオポルドはこの国で諜報活動に携わっているのだそうです。今の名前は彼が教えてくれた通りサー・エヴェラード・ドミニー、アフリカで長いこと行方不明になっていたイギリス人男爵になりすましているのだと言うのです。あなたはこのことをご存じ?」 「今晩サー・エヴェラード・ドミニーが訪ねてくることは知っています」 「彼はあなたのもとで働くことになっているのね?」 「とんでもない」と王子は憤慨して言った。「わたしはこのスパイ組織を好ましく思ってはいないのです。わたしを育てた外交術の流派は、そんな浅ましい手段を用いたりしません」 「とにかくレオポルドは今晩ここに表敬訪問にくるのね」 「今、書斎でわたしを待っていますよ」 「彼に一言伝えてほしいの。先ほどのシーマンという男は、今わたしとレオポルドが親交を結ぶことは、それがどういう形であろうと賢明ではないと言いました。わたしは彼の言い分を全部聞きました。そのときは、わたしは態度を明らかにしませんでしたが、今は考え直しました。必要に対しては妥協しましょう。サー・エヴェラード・ドミニーとのおつき合い、それで満足しましょう。でも必ずおつき合いはさせていただくわ」 「わたしはフォン・ラガシュタインがどんな任務をおびてこちらに来ているのかさえ知りません。しかし、彼の正体を完全に隠すために、あなたとのおつき合いは望ましくないと政府が考えているなら――」 彼女は彼の腕に指をのせた。 「お黙りなさい」命令だった。「わたしは政府の人間ではありません。ドイツ人でもない。オーストリア人ですらないのです。わたしはハンガリア人、あなたたちの利益を図るのにやぶさかではないけれど、それをわたしの人生に優先させるつもりはありません。協定は結びますが、屈服はしません。協定の内容はレオポルドと話し合います。ああ、後生だから、わたしの願いを聞いて!」声の調子が急に変わった。「お昼のあの短いひとときからわたしはずっと夢のなかだった。わたしの心を鎮めることができるのはたった一つ。彼と話をしなければならない。これからどうするか彼と決めなければならない。助けてくれるわね?」 「あなたとサー・エヴェラード・ドミニーがおつき合いなさるのは、もちろん、少しもおかしなことではありません」 「わたしを見て」彼女は懇願した。

彼は振り返って彼女の顔を覗きこんだ。美しい瞳の下には黒い隈があり、弧を描く口はどこか痛々しかった。彼女は一晩中、その第二の天性ともいうべき威厳を崩さずにいたが、にもかかわらず彼は彼女の容貌に対して一度ならず同情的な声を聞いたことを思い出した。 「苦しんでいらっしゃるのですね」彼は優しく言った。 「わたしの眼は焼けるように熱い。身体の中では火が燃えさかっています。なにがあろうとレオポルドと話をしなければなりません。フレーダがわたしに、まだ帰らないで一時間ほどおしゃべりをしようと誘ってくれました。車は待たせてあります。彼にわたしを家まで送るようおっしゃって。ああ、わたしだってごく普通の女なのよ。それにわたしを木や石みたいに扱っても何の得にもならないわ。今晩なら人に見られず彼に会える。お断りになるなら、別の手段に訴えます。わたしは何一つ約束はしません。通りで遇ったら、面と向かって嘘つき呼ばわりしたり、偽者呼ばわりしないとも限らない。レオポルド・フォン・ラガシュタインと呼びかけて――」 「どうかお静かに!」彼は懇願した。「ステファニー、あなたは興奮していらっしゃる。わたしはまだあなたのお願いに対して返事をしていませんよ」 「聞き入れてくれる?」 「いいでしょう。この話が終わったら、若者をフレーダの部屋に連れて行って紹介します。あなたはそこにいてください。彼もあなたを家まで送り届けると申し出ることができるでしょう」 彼女は不意に身をかがめると彼の手にキスをした。計りしれない安堵が彼女の顔にあらわれた。 「これ以上は引き留めません。フレーダが待っている」 大使は物思いにふけりながら官邸の裏手にある書斎に入っていった。ドミニーが彼を待っていた。 「お会いできて嬉しいよ」大使は手を差し伸べながら言った。「最初の五分間はあなた本人に向かって話をしたい。そのあとはあなたの新しい人格を尊重しよう、イギリスにいるあいだは」 ドミニーは無言のまま一礼した。主人はサイドボードを指さした。 「さあ、あなたの横に葉巻と煙草がある。サイドボードにはウイスキーとソーダが。そちらの椅子に掛けて楽にしたまえ。アフリカに行っても、ちっとも変わらないね。初めて会ったときのことを覚えているかい、ザクセンで?」 「よく覚えております、大使」 「あの頃の皇帝は宮廷でおもてなしするのがお上手だった。イギリスの田舎のパーティーに出ているような気分になったよ。しかし昔話はやめておこう。あなたは、もちろん、知っているだろうね、あなたがいま、こちらでしていることを、わたしは少しもこころよく思っていないことを」 「そのようにうかがっています、大使」 「お互い遠慮なく意見を交換しようじゃないか」王子はそう言って葉巻に火をつけた。「あなたがこの国に張りめぐらされた諜報網の一部であることはよく知っている。もっともわたしはそんなものの必要を露ほども認めていない。これは目的を達成する方法の問題にすぎないがね。わたしはあなたがわたしと同じ目的でこちらに来たものと確信している。つまり皇帝がご自身の口から、御本心として話してくださった目的、ドイツとイギリスのあいだに友好の絆を築くという目的だ」 「それが可能だとお考えですか?」 「必ず可能だと信じている」真剣な答えだった。「こちらでの仕事がどのような性格のものになるのか知らないが、しかしわたしの信念を披露する機会が持てたのはよかった。思うに、ドイツ政府はこちらの有力政治家の何人かを誤解し、不正確な情報に基づいて判断している。わたしの周囲にいるのは平和を熱心に、真摯に求める人ばかりだ。この国にはドイツとの戦争を望むような政治家は一人としていない、わたしはそう確信するようになった」 ドミニーはじっと耳を傾けていた。思いがけないことを聞かされたような様子だった。 「ですが、大使、わが国の立場から見るとどうでしょう。あなたもわたしも知っての通り、ドイツでは大勢の人が、イギリスとの戦争は避けられないと考えています。誰もがドイツこそ世界最大の帝国にならなければならないと信じています。わたしたちの友人の一人がかつて言ったように、ドイツはイギリスという獅子の首に足をかけて、その地位に昇りつめなければならないのです」 「それは時代遅れの考え方だよ」大使が熱をこめて言った。「あなたがどうしてこちらに送られてきたのか、その理由がやっと分かった。そういう時代は過ぎ去ったのだ。この世界には大英帝国とドイツが共存できるだけの充分な余裕がある。近い将来、ロシアが瓦解するのは間違いないだろう。領土拡大を図るなら東に目を向けなければならない」 「それは確定済みの方針ですか?」 「当然だよ!それがここでのわたしの任務の核心なのだ。わたしが受けた命令は平和の命令だ。イギリスの政治家を観察し、イギリスの見解を理解すればするほど、自分の努力が成功するという自信があふれてくる。だからこそシーマンが大きく関与している諜報活動は、わたしにはときどき賢明でもないし不必要だと思われるのだ」 「わたしの任務もですか?」 「それがどういうものなのか、まだ明らかにされていない。しかし、もしわたしが考えるように、わたしの任務と密接に関連しているなら、きっとその内容は平和をめざすものになるだろう」 ドミニーはいとまごいをしようとして立ちあがった。 「そのうち分かるときが来るでしょう」彼は低く言った。 「もう一つだけ、少々個人的なことで話がある」ターニロフの口調が変わった。「アイダーシュトロム王女が今、二階にいらっしゃるのだ」 「この官邸にですか?」 「あなたと話をしようと待っている。わたしたちの友人シーマンが今晩、王女を訪ねていった。王女は現状を受け入れるつもりらしい。しかし一つだけ条件をおっしゃたのだ」 「条件とは?」 「わたしにサー・エヴェラード・ドミニーを紹介してほしいというのだよ」 ドミニーは動揺を隠そうともしなかった。 「大使、申しあげるまでもないでしょうが、どのような形であれ、王女とわたしが交渉を持つことは、こちらでのわたしの立場を非常に困難なものにする危険があります」 大使はため息をついた。 「よく分かっている。シーマンもわたしも説得しようとした。しかし、あなたもたぶん知っての通り、王女はたいそう意志の強いお方だ。またこちらで大変な影響力を持っていらっしゃる。それにベルリンの王宮がうるさく要求してくるのだよ、ハンガリーの貴族である彼女を手を尽くしてなだめろと。もちろん、わたしが政治的な観点からしかしゃべっていないことことは理解してくれ。あなたがお亡くなりになった王子と不幸な関係にあったという事実を無視はできないが、しかし現状に鑑みれば、あなたもより大局的な立場に立つことを忘れはしないと思うのだ」 訪問者はしばらく黙っていた。 「王女はこちらで待っているのですね?」 「妻と一緒にいるよ。あなたに家まで送ってほしいとのことだ。妻もあなたと旧交を暖めることを望んでいる」 「この件については大使のご判断に従います」ドミニーは決心した。 ターニロフ王女は国際的な教養を持つ芸術家だったが、しかしそれでいて素晴らしく魅力的な女性だった。彼女は夫が連れてきた訪問者をひどく愛らしい小部屋で迎えた。ごく簡素なノルマン王朝風の部屋だった。彼女はどことなく気まずいその場の雰囲気を和らげようと一生懸命だった。 「ロンドンにお迎えすることができて、こんなに嬉しいことはありませんわ、サー・エヴェラード・ドミニー」と彼女は握手しながら言った。「これからはちょくちょくいらしてくださいね。わたしの従姉妹を紹介しましょう。あなたに興味を持っていますのよ。包み隠さず申しあげますとね、あなたが彼女の親しい友達によく似ていらっしゃるからなの。ステファニー、こちらはサー・エヴェラード・ドミニー。こちらはアイダーシュトルム王女」 ステファニーは従姉妹が立ちあがった椅子に座ったままドミニーに手を差し出した。ドミニーは深く、慇懃な一礼を返した。彼女が着ていたのはなんの飾りもない黒一色のガウンだった。見事なダイヤモンドが首の回りに輝き、ハンガリー風のティアラがやや額にかぶさるようにつけられていた。彼女の態度と声には、まだ幾分、このような状況に対する憤懣がこもっていた。 「今朝、間違ったことをしつこく申しあげたこと、許してくださいね」と彼女は言った。「人違いとは、とても信じられなかったものですから」 「他の人からも似ていると言われます。自分がノーフォークの男爵でしかないことが悔やまれますね」 「以前、ヨーロッパの王室に出入りなさったことは?」 「一度もありません」 「旅行なさらないわりにドイツ語が素晴らしくお上手ね」 「外国語だけは、ろくに勉強しなかった学生時代から得意でした」 「ノーフォークに埋もれて人生を送るつもりじゃないでしょうね、サー・エヴェラード?」ターニロフ王女が尋ねた。 「最近はノーフォークとロンドンの距離がとても近くなりました。それにここ数年、孤独はもう充分すぎるほど味わってきました。時にはこちらへ来ようと考えております」 「いつかお食事にいらしてください」と王女が言った。「アフリカの話をしてくださいな。夫がとても聞きたがっています」 「ご親切にありがとうございます」 ステファニーがゆっくりと立ちあがり、優雅に身をかがめると、女主人の両頬にキスをし、王子に向かって手を差し出した。王子はそれに唇を当てた。それから彼女はドミニーのほうを振り向いた。 「家まで送っていただけますか?」と彼女は訊いた。「そのあとわたしの車でお好きなところへいらっしゃればいいわ」 「喜んで」ドミニーは承諾した。

彼も別れの挨拶をした。玄関で召使いから帽子とコートを受け取ると、車に乗りこみ、彼女の横に座った。発車すると彼女は電気のスイッチに触れた。車は暗闇に包まれた。 「言葉をもて遊ぶのはもうたくさん。レオポルド、やっと二人きりになれたわね!」 彼女がもたれてきたとき、宝石の燦めきと柔らかな目の輝きが彼をとらえた。彼の声は、自分の耳にも、とげとげしく不快に響いた。 「違いますよ、王女様。わたしの名前はレオポルドではありません。わたしはエヴェラード・ドミニーです」 「まあ、あなたがとても頑固なのは知っているわ」彼女は優しくいった。「とっても頭が固くて、あなたの麗しいお国のために忠義を捧げている。でもあなたにも人間の心があるでしょう、レオポルド。祖国に押しつけられた義務と同じくらい大切な、人間としての義務があることは分かっているでしょう。わたしがあなたに何を望んでいるか、あなたから何を引き出さなければならないか、お分かりでしょう。さもなければわたしは屈辱と惨めさにまみれて地獄に堕ちてしまう」 彼は急に喉がひからびたように感じた。 「いいですか、そのときが来るまで、わたしは世間に対してもあなたに対しても、二人きりでいるときも大勢といるときも、エヴェラード・ドミニーでなければならないのです。わたしに与えられた任務を果たすには、一つの方法しか、ただ一つの方法しかないのです」 彼女は突然声を殺して嗚咽した。 「待ってちょうだい。すぐ返事をするから。手を握らせて」 彼は固く握りしめていた指を開いた。彼女の熱い手が情熱的にそれを掴み、引き寄せ、もう一方の手の指もそれにからみついた。彼女はしばらくそのまま座っていた。 「レオポルド」やがて彼女は話をつづけた。「分かるわ。わたしが二人の愛をうっかり漏らしはしないか、それが心配なのね。もっともだわ。あなたも知っているように、わたしはひどく衝動的だし、感情的だから。でも自分を抑えることもできるのよ。二人きりになったときのわたしたちがお互いにとってどういう存在であるのか、世間の人に知らせることはないわ。不注意な真似はしない。誓って。他の人がいるときは、あなたの注意を惹くそぶりさえ見せない。わたしと会うことも好きなだけ避けたらいい。わたしもあなたがいいと言うときしかお招きしない。でもこんな扱いは嫌よ。戻ってきたと言って。ほんのちょっとだけ、その嫌らしい仮面を脱ぎ捨ててちょうだい」 彼女の両手は彼の手を強く引き寄せ、彼女の唇と目は彼に向かって懇願した。彼はじっと座ったままだった。

彼は断固として言った。「何があろうと、そのときが来るまで、わたしはエヴェラード・ドミニーなのです。あなたがレオポルド・フォン・ラガシュタインに対して抱いているお気持ちにつけこむわけにはいきません。彼はここにいないのです。アフリカにいるのです。たぶん、いつか、あなたのもとに戻ってきて、あなたの思いをかなえてくれると思います」 彼女は彼の手を放り投げた。彼は相手の目が炎のように自分の目に食い入るのを感じた。それは強い詮索のまなざしのようだった。 「あなたをじっくり見させてちょうだい」彼女は声を荒げた。「確かめさせてちょうだい。ただのひどい心変わりなの?それとも偽者なの?胸のなかが冷たくなっていく。あなたはわたしが今まで待ち望んでいた人なの?わたしが唇を与え、名誉を犠牲に捧げた人なの?夫を殺し、わたしを捨てた人なの?」 「わたしは追放されたんです」こみあげる感情に彼の声も震えていた。「それはご存じでしょう。この計画に関しては別ですが、わたしはまだ追放を解かれていないのです。わたしは罪の償いをしているのです」 彼女は疲れたように席にもたれ、目を閉じた。車が鉄の門扉を通り抜け、彼女の家の玄関前に停まると、とたんにドアが開いて、召使いが急ぎ足に出てきた。彼女はドミニーのほうを振り返った。 「しばらく寄っていかないこと?」 「御訪問の許可をいただければ、喜んでまた参ります」彼は堅苦しく答えた。「よろしければ、ノーフォークから帰り次第、連絡をさしあげましょう」 彼女は悲しげな微笑みを浮かべて手を差し出した。 「うちの者にあなたをお好きなところへ連れて行かせるわ。それから覚えておいて」彼女は声をひそめてつけ加えた。「わたしは負けを認めません。お話はこれが最後じゃありませんからね」 彼女はお仕着せ姿の人目を惹く家令兼召使いにかしずかれ、豪華な正面扉を堂々と通り、ロンドンでも数少ない大邸宅の一つのなかに消えた。ドミニーがカールトンに戻ると、ラウンジでは楽団が音楽を奏で、大勢の人がまだ椅子に座っていた。そのなかでもシーマンはひときわ目立つ恰好をしていた。こざっぱりしたディナー服に身を包み、新しい友人を作ろうと誘いかけるように丸ぽちゃの顔を輝かせていたのである。彼はドミニーを熱烈に迎えた。 「いや助かった」と彼は声をあげた。「独りはもうたくさんだよ!顔見知りが一人もいないんだからな。わたしの舌は運動不足でひからびてしまった。話はしたいが、相手がおらん。山奥の一軒家にでも住んでるような気分だ」 「わたしでよければ話をさせてもらうよ」ドミニーはかすかに顔をしかめてそう言うと、時計を見て急いでウイスキー・ソーダを注文した。「最初に言っておくべきことがある」彼は声をひそめた。「この計画を脅かす、いちばん危険なものを見つけた」 「何のことだ?」 「女だ。アイダーシュトルム王女」 シーマンは肌身離さず持っている葉巻に火をつけ、短い太い足を組んだ。しゃれたコートシューズを履いていた彼は、自分の小さい足先を満足そうにちらりとながめた。 「驚いたね。そのことはわたしもよく考えたが、特に問題にはならないと思う」 「じゃあ、君はわざと問題に対して目を閉ざしているに違いない。さもなければ王女の気性や性格を知らないんだ」 「どっちも分かっているつもりだよ。それでもたいした問題になるとは思わない。イギリス貴族として君には文句なくアイダーシュトルム王女と友達づきあいする権利がある」 「君は人情の機微を察する人間だと思っていたがね!」ドミニーは嘲るようにいった。「少しは人間性というものを理解していると思っていたが。ステファニー・アイダーシュトルムはハンガリー生まれのハンガリー育ちだ。あの民族に生まれついても自己抑制とは縁がない。まさか本気で思ってはいないだろうね、あれだけ長いこと苦しんできて――それも生やさしい苦しみじゃない――今頃ふぬけた友達関係で満足するだろうなんて?率直に言おう、シーマン。彼女はそんなことでは満足しないと今晩はっきり言ったのだよ」 「君ら二人の個人的な関係は――」とシーマンは言いかけた。 「そんなことじゃない!」相手は話を遮った。「王女は衝動的で、情熱的で、疑いもなく原始的で、おまけに野性味たっぷりの女だ。陰謀だの政治的必要だのと彼女に説いても、これっぽっちも意味はない」 「それにしてもだな」とシーマンが言い返した。「君が国家から重要な任務を与えられているということは、ちゃんと理解できるだろう?」 ドミニーは首を横に振った。 「彼女はドイツ人じゃない。それどころか他の多くのハンガリー人と同じように、ドイツもドイツ人も嫌っているのだと思う。彼女が関心を持っているのは、わたしとの個人的な問題だけだ。わたしは残りの人生をことごとく彼女に捧げるべきだと、そう思っているんだ」 「君が明日ドミニー邸に行くのは正解だったかもしれないな。わたしが一つ策を練ろう。何とか彼女をなだめるよ」 消灯の時間だった。二人の男はややしぶしぶといった感じで立ちあがった。ドミニーは妙に寝る気がしなかったが、それと同時に友人を追い払いたくて仕方がなかった。彼らは一緒に暗くなったホテルの広間に入っていった。 「その件に関してはできるだけのことをしよう」とシーマンは約束した。「わたしの考えでは、君が最大の問題にぶつかるのは明日だよ。ドミニー邸で何を相手にしなければならないか分かっているだろう」 ドミニーの顔はこわばり、重々しくなった。 「覚悟はできている」 シーマンはそれでもためらっていた。 「覚えているかい、ケープタウンで君の計画を話し合ったとき、君は写真を――ドミニー夫人の写真を見せてくれたね」 「覚えているよ」 「もう一度見てもいいかな?」 ドミニーはかすかに震える手でコートの胸ポケットから革のケースをつまみ出し、なかからすり切れた写真を取り出した。二人の男はまだ明かりの灯っている電灯の一つの下で、肩を並べて写真を見た。その顔は少女の顔、ほとんど子どものような顔だった。大きな目には奇妙な、訴えるような光が満ちている。同じ表情が唇にも認められた。どこか頼りなげな感じ、強い存在に対して愛と庇護を求めるような表情だった。 シーマンは小さくうめいて顔を背け、こう言った。 「もしもわたしに普通の人間の、普通の感情がほんのしばらく戻ってくるとしたら、その写真の女性を相手するより、君のお姫様を一ダース相手にした方がましだと思うだろうな」