入れかわった男

第十八章

Chapter 18 5,238 words Public domain Markdown

医師はいつもの傍若無人な口ぶりで、この時ならぬ訪問が内密の話をするためのものだと言った。キャロラインはさっそく席をはずし、二人の男は大広間に取り残された。ビリヤードルームと客間の灯りは消えていた。数人の召使いを除いて、屋敷のなかの人間はみな部屋に引っこんでいた。 「サー・エヴェラード。今回のドミニー夫人のお帰りにはまったく驚いた。明日の朝、君と話をするつもりでいたんだが」 「先生の報告を今か今かと待っていたんですよ」 「いい報告だよ」自信にあふれた返答だった。「知らせを受けていたら、こんなに急に療養所を離れることは許さなかっただろうが、しかしあそこに留め置く理由もない。ドミニー夫人は精神的にも肉体的にも申し分のない健康状態だ。ただ、一つだけ妄想を抱いているが」 「その妄想というのは?」 「君が夫じゃないと思っているんだよ」 ドミニーはしばらく黙っていた。それからどことなくわざとらしい笑い声をあげた。 「まったくの正気といえるのでしょうか、周りのすべてから現実性を奪うような妄想に取り憑かれているのに」 「ドミニー夫人は完全に正気だ」医師はぶっきらぼうに言った。「その妄想を追い払うことができるかどうかは、君次第だ」 「何か助言はありませんか?」 「あるとも。率直に言うよ。まず、君は幾つかの点で目に見えて変貌した。それがドミニー夫人の妄想を誘発したとしても無理はない。例えば君がイギリスに戻ってきて八ヶ月あまりが経つが、そのあいだ君はまったく人が変わったように振るまいつづけている。悪い癖をことごとく克服したかのようだ。紳士らしく適度にお酒を飲み、荒っぽい気性を押さえ、自分の人柄を唯一の武器に名士や実力者たちを自分のまわりに集めている。十年以上も前にイギリスをすたこら逃げ出したエヴェラード・ドミニーからは考えられんことだ」 「妻の病状を弁護なさっているみたいですね」 「奥様に弁護なんか必要ない」医者はぞんざいに返事した。「彼女は我慢強い、貞節な女性だ。残酷な病に苦しんでいるが、それは、うんと思いやりのある言い方をすれば、君のいい加減さ、無思慮によって引き起こされたものだ。善良な女性はみんなそうだが、寛容は彼女の第二の天性だ。今、彼女は人生において自分が収まるべき場所に収まりたいと願っているのだ」 「しかし妄想があるかぎり、つまり、わたしが夫ではないのだと真剣に思っている限り、そんなことは無理でしょう?」 「それこそ君とわたしが直面しなければならない問題だよ」医師は厳しく言った。「まだ妄想に取り憑かれている奥様が、君のところに喜んで戻ってきたという事実は、わたしには説明もつかないし理解もできない。しかし今晩ここに来たのは、君に一つの責任を与えるためなのだ。完全な回復に至るには、奥様にはあと一歩が必要なのだということを忘れてはいけない。その一歩が踏み出されるまで、君には恐ろしく困難な、しかし避けられない務めがある」 ドミニーはしばらく歯をきつく食いしばっていた。膝に手を当てて、身体を乗り出したとき、医師の鋭い灰色の目が毛むくじゃらの眉の下で光った。 ドミニーは静かに言った。「ということは、妄想が消えない限り、帰国以来つづいているわたしたちの状況はまったく変わらないということですね」 「そうだ。ややこしいことになったが、われわれは、というより、君はそれに対応していかなければならない。他の妄想はことごとく消えてなくなった。それは約束できる。ロジャー・アンサンクの幽霊や、夜中に聞こえる叫び声や、彼の謎に満ちた死のこと。それらは彼女にとって痛ましい過去の一部であるにすぎない。君の命を奪おうとしたこともちゃんと意識しており、ひどく後悔している。しかし今度の症状こそ本当に危険なのだ。君に対して情熱的な愛情を捧げているようだが、その実、君を夫と信じてはいないのだからな」 ドミニーは熱気を避けるように、椅子を暖炉から遠ざけた。彼の目は医師の目に釘づけになっているようだった。

医師は重々しく話をつづけた。「どうしてそんな妄想が生じたのか、分からない。しかしわたしの義務として警告しておくよ、サー・エヴェラード。君に愛情を注ぐことで彼女は大いに回復に向かうだろう。ドミニー夫人はもともと非常に愛情深い女性だ。肉体的健康を取り戻し、人間的な思いやりを十分に受けたことが、おそらくそうした性向を目覚めさせたのだろう。しかも彼女はますます君が好きになりつつあるし、君は夫として立派に振る舞っている。彼女の性向がはぐくまれるのはまったく当然だよ。いいかね、サー・エヴェラード、君の立場はとてつもなく困難な立場だ。しかし困難ではあっても、とにかくやらなければならない義務がある。できるだけ奥さんの愛情をはぐくみつづけたまえ。しかし妄想が残っているあいだ、その愛情はある一定の限度を超えてはならない。ドミニー夫人は善良な優しい女性だ。ある朝彼女が目を覚まし、妄想は残ったまま、しかも良心のとがめに苦しむというようなことになれば、今まで何ヶ月もわれわれが苦労してやってきたことは、みんな無駄になるかもしれない。彼女自身、精神病院で一生を終える可能性も大いにある」 「先生、ご忠告の一言一言が身に染みました。任せてください」ドミニーは力強くいった。

医師が彼を見た。 「信じているよ」そう言って医師は安堵のため息をついた。「それを聞いてうれしいよ」 「もう一つだけ教えてください」ドミニーは間をおいて言った。「もしもこの妄想がなくなったとしたらどうなりますか。急にわたしが夫であると確信したら?」 医師の答えに熱がこもった。「その場合はまったく逆を行うことになるだろう。彼女が夫に捧げる愛情を押しとどめないことが大切だ。逆の場合はそれを受け入れないことが大切なようにね。彼女が今の心の状態を維持したまま、君が法的に結ばれた正当な夫であると自覚したとしたら、そのときこそ彼女の新しい人生のはじまりだよ」 どちらもは語るべきことはすべて語ったという気がした。短い沈黙のあと、医師は最後の一杯を飲みほし、パイプに煙草を詰めて、立ちあがった。ドミニーが車庫から出すように命じてあった車は、もうドアの前に停まっていた。奇妙なことに、彼らはどちらも今まで話していたことに、間接的にも触れたくない気分だった。 「送ってくれるとはありがたい」医師がしわがれた声で言った。「家を出たときはよかったが、沼地を歩くのは憂鬱だった」 「来ていただいてとても感謝しています」ドミニーの言葉には明らかに誠意がこもっていた。「一両日中に患者を診に来ていただけますね?」 「この屋敷に泊まっている連中を追っ払ってくれたら、すぐに来るよ。おやすみ!」 二人は別れた。なぜだか分からないが、ドミニーはこのぎこちない別れの挨拶で、出遭ったときから彼らのあいだにわだかまっていた反感が葬り去られたような気がした。一人になった彼は薄明かりの灯る大広間をしばらくうろつき回った。奇妙にそわそわした気分が彼に取りついたようだった。消えかけている火のそばにしばらく立ちつくし、白っぽい灰が、煙突から吹き込む風に、落ち着きなく揺さぶられるさまを見つめた。それから広間の別の場所へ行き、新しく取りつけた電灯のスイッチを一つずつ入れ、壁に掛かっているくすんだ油絵を照らし出した。今はなきドミニー家の祖先の顔を見ながら、その生涯について耳にしたことを思い出そうとした。いちばん長く眺めていたのはスチュアート朝時代のしゃれ男の肖像画で、その悪行の数々は、当時の恋愛事件について書き残している人々に格好の材料を与えたのだった。眠そうな召使いが後ろをうろついていたので、とうとう階段を登らざるを得なかったが、それでもちょっとのあいだ廊下をぶらついた。寝室のドアの取っ手を回したときも、指はいやいや動いているようだった。なかに人がいるのに気がついて、彼の心臓は飛びあがった。つかの間、入り口に立ちつくし、それから自分の馬鹿げた想像をふっとあざ笑った。召使いが主人の帰りを辛抱強く待っていただけだった。 「もう寝たまえ、ディケンズ。今晩はもう用はないよ。明日の朝は狩りに行く」 召使いは黙って去り、ドミニーは床に就く用意をはじめた。しかし寝る気にならず、シャツとズボンをはいたまま、部屋着をまとい、読書灯を脇に引き寄せると、本を手にして安楽椅子に沈みこんだ。しばらくのあいだ本がさかさまであることに気がつかなかった。持ち直しても文字は彼に何の意味も伝えはしなかった。そのあいだ、女性の顔の不思議な行列がずっと目の前を通り過ぎていった。どこか浮ついた、骨の髄まで感傷的な女友達キャロライン。肉感的な身体と情熱的に光る目を持つステファニー。そしてこの二人の女性のイメージを頭と記憶のなかから完全に消してしまうロザモンド。その真剣な面立ちからはありとあらゆる人生の喜びが輝き出している。彼女はこの前、彼に近づいてきたときと同じように、おののく唇に言葉にならない微かな叫びをのせ、やわらかな瞳には忘れることができない哀訴の表情を浮かべていた。他の記憶は、初めから存在しなかったかのように、ことごとくかすんでしまった。アフリカでの鬱々とした追放の歳月も、危険な人生に伴う日々の緊張も、すっかり忘れさられた。彼は思いも寄らぬ天佑の訪れをしきりに待ち望んでいた。誇りにしていた己の力よりもずっと強い無力感が、蜘蛛の巣のように彼を絡め取るのを感じていた。そのとき、突然、恐れていた狂気が本当に彼を襲ってきたのかと思った。それは彼がもっとも望み、もっとも恐れていたものだった。小さなかちりという音が聞こえ、二つの白い手が羽目板を後ろに開いた。ロザモンドがそこに立っていた。彼女は神秘的な、不思議な光をたたえた眼で彼を見た。唇は感じのよい微笑みに軽く開かれていた。そこには子供のような、いたずらな微笑みが一抹含まれている。彼女は後ろを振り返って羽目板を閉めると、指を一本あげ彼に近づいてきた。 「眠れないの。ちょっとだけお邪魔してもいいかしら」彼女は小声で言った。 「もちろんさ。ほら、座ったらいい」 彼女は安楽椅子のなかで丸くなった。 「ちょっとだけでいいの」彼女は満足そうにつぶやいた。「あなた、手を出して。まあ、冷たい!あなたも火のそばに来なくちゃだめよ」 彼は彼女の椅子の肘掛けに腰をおろし、彼女は両手で彼の頭を撫でた。 「羽目板から出てきたのを見て怖くなかった?」 「君に何をされようと怖くない」 「あの馬鹿げた気持ちは本当になくなってしまったの」彼女は熱心に話をつづけた。「ロジャーに何があったにしろ、今は彼を殺したのはあなたじゃないと思っている。今晩、幽霊の呼び声が聞こえても、わたし、怖くないわ。どうしてあなたを傷つけようと思ったのかしら、エヴェラード。ずっとあなたを愛していたのに」 彼の腕がそっと彼女を包んだ。彼女はその抱擁にためらうことなく反応した。彼女は頬を相手の肩にのせ、彼は毛裏の白い部屋着を通して彼女の腕の暖かさを感じた。 「じゃあ、どうしてわたしが君の夫じゃないと思うんだい?」彼の声はしわがれていた。

彼女はため息をついた。 「ああ、だって、違うんですもの。こんなふうに思っているのは悪いことかしら。あなたは夫にとても似ているけど、全然彼らしくないわ。夫は死んだの。アフリカで死んだの。そんなことを知っているなんて変でしょう?でも知っているのよ!」 「しかし、そうだとすると、わたしは誰なんだろう?」 彼女は哀れむように彼を見た。 「分からない。でもあなたはわたしに優しくしてくれる。あなたがそばにいると思うと幸せなの。療養所がいやになったのは、あなたに会いたかったからよ。つまりあなたが大好きっていうことなのね、きっと」 「ここにわたしと二人きりでいるのは怖くないかい?」 彼女はもう一方の腕を彼の首に回し、顔を引き寄せた。 「怖くない。わたしは幸せなの。でも、あなた、どうしたの?さっきは冷たかったのに、今は額に汗をかいて、手が燃えるみたい。わたしがここにいるのは嫌なの?」 彼女の唇が彼を求めていた。彼の唇は一瞬だけそこに触れ、それから彼女の両頬にキスをした。彼女は少し顔をしかめた。 「あなたは本気でわたしのことが好きじゃないのね」 「わたしが本物のエヴェラード、君の夫だと信じられないのかい?わたしを見てごらん。以前わたしを愛していたことを覚えてないかい?」 彼女は悲しげに頭を振った。 「いいえ、あなたはエヴェラードじゃないわ」彼女はため息をついた。そして目を輝かせてこうつけ加えた。「でもね、あなたは愛と幸せと人生をわたしに持ってきてくれた。それに――」 その直前まで、ドミニーは拷問のような彼女の甘くしつこい要求から逃れられるなら、地震でも落雷でも足下の床の崩壊でも心から歓迎したい気分だった。しかし実際に妨害にやってきたのはかつて経験したこともないような恐ろしいものだった。彼女は半ば彼の腕に抱かれて頭をそらしたまま聞き耳を立てていた。彼も恐怖のあまり一瞬身体が震えたくらいだった。彼らは夜の静けさを破るあのすさまじい叫び声、獣の口に閉じこめられた、苦しみあえぐ魂の叫び声を聞いたのだ。彼らはそのこだまが絶え果てるまで一緒に耳を澄ませていた。それから恐らくもっとも驚くべきことが起きたのだった。彼女は少しも慌てず、怖がることもなくゆっくりと頷いたのである。 「ほら、帰らなければならないわ。ここに居させたくないのよ。あなたのことをエヴェラードだと思っているに違いないわ。そうじゃないって知っているのはわたしだけなの」 彼女は椅子から滑り降りると、彼にキスをし、しっかりした足取りで床を歩き、バネに手を触れて、羽目板を抜けた。そんなときですら彼女は振り返って小さく手を振り別れを告げた。彼女の顔には恐怖を示すものは何もなかった。ただ無言の失望が微かにあるだけだった。羽目板は滑るように元に戻り、彼女の姿を見えなくした。ドミニーは気が狂ったように頭を抱えた。