第二十九章
地獄の業火のような午後の熱気――奇妙なことにそれはドミニーに急接近する嵐を予告するものでもあったが――その熱気がドミニーを書斎からテラスへ向かわせた。隣の椅子にもたれていたのは、真っ白なフラノのスーツを着たエディ・ペラムだった。ブラック・ウッドの謎が解けて五日目のことだった。 「ここに呼んでくれて感謝するよ」若者はにこやかにそう言い、脇に置いてあるタンブラーに手を伸ばした。「氷さえあれば、こんな天気の田舎は天国だ。しかもロンドンときたらぞっとしない噂なんぞにあふれているからね。奥様の容態はどうなんだい」 「意識不明のままだよ。しかし医者はこれで良しとすっかり満足している。目を覚ます瞬間が問題だな」 若者は快方に向かえばいいねと呟き、その話を切りあげた。彼の目は遠くの小さな砂埃に焦点を合わせていた。 「今日、誰か来るのかい」 「来てもおかしくないさ」素っ気ない返事がかえってきた。
若者は立ちあがってあくびをし、伸びをした。 「ぼくは消えるとするか。おやおや!」彼はふと足を止め、感心したようにこう言った。「その軍服のチュニックは立派な仕立てだね、ドミニー。この国が切羽詰まってひ弱なぼくでもかまわず外地に送り出してくれるときがきたら、君の仕立て屋を訪ねることにしよう」 ドミニーはにっこりと笑った。 「これは地元の義勇農騎兵団のいでたちだよ。敵は君を捕まえても、警防団だと思うだろう」 ペラムが出て行くと、ドミニーはガラス戸を通って書斎に戻った。机の前に座り、何通か手紙を見ていると、数分後、シーマンが部屋に通されてきた。ほんの一瞬、筋肉がこわばり、身体が緊張した。次の瞬間、再会を祝するように伸ばされた訪問者の手に気づき、緊張は解けた。シーマンは汗をかき、大声を出し、興奮していた。 「やっと会えたね。おい、どうした《ドナー・ウント》!その格好は何なんだ」 「十三年前にノーフォーク義勇農騎兵団を脱退してしまっていたのさ。でもうまく戻ることができたよ。事態が緊迫してきたからね――」 「うむ、周到だな」シーマンの重々しい声が彼をさえぎった。「君は期待通りの男だよ。用意周到、やることに抜かりがない。だからこそ」彼は少し声をひそめた。「われわれは世界でもっとも優秀な民族なのだ。何よりもまず一杯やろう。喉がからからだ。まったくなんて日だろう。太陽を隠していた雲にまで地獄のような熱気がこもっている」 ドミニーは呼び鈴を鳴らし、氷入りのホック・アンド・セルツァーを持ってくるように命じた。シーマンはそれを飲むと安楽椅子に身を投げた。 「その仕事のせいで国外に行かされる心配はないのだろうね」彼は相手の軍服を顎で示しながら、やや不安そうに尋ねた。 「今のところは、ね。わたしは少々年がいっているから、先発隊に加えられることはない。今までどこにいたんだい」 シーマンは自分の椅子を少し引き寄せた。 「アイルランドだ。ほったらかしにしてすまなかった。だが、まだ君の出番じゃないからね。イギリスがどういう抑留政策を取るのか、ちょっと不安だったので、アイルランド旅行は中止せざるを得なかった」 「で、イギリスは抑留政策をどうすることにしたんだい」 「政府はいま協議中だよ」シーマンはくすくすと笑った。「逃げ出さなくちゃならなくなるまで六ヶ月は間違いなく余裕があるな。ところで、どうして田舎のほうに来たのかね」 「ターニロフが帰国してから、都会がいやになったんだよ。こちらで新兵募集の仕事も頼まれていたし」 「ターニロフは――例の小冊子を君に預けていったんだね」 「そうだよ」 「どこにある」 「安全なところさ」 シーマンは額の汗を拭いた。 「そうでなくちゃ困るよ。焼いてしまえという命令を受けたんだ。あとでさっそくその話をしよう。君から離れているとき、ときどき心配のあまりいらいらすることがある。馬鹿げているようだが、君の手元には――例の地図やら、フォン・ターニロフの回想録やら――世界中でやっているわが国のプロパガンダを台無しにするものがあるからね」 「どちらも安全なところにしまってある」ドミニーは安心させるように言った。「ところで、君はいつもの用心を忘れていることに気がついているかい」 「どういうことだ」 「今、座ろうと腰を屈めたとき、ポケットが拳銃の形にふくらんでいた。分かっていると思うが、君のような名前を持ち、イギリス人といっても帰化しただけの人間が、この時期、小火器を持ち歩くというのは、言い訳の立たない無思慮な振る舞いだよ」 シーマンはポケットに手を突っこみ、拳銃を机に投げだした。 「君の言う通りだ。預かっておいてくれ。そいつはアイルランドに持っていったんだ。あの驚くべき国では何が起こるか分からないから」 ドミニーは何気なくそれをつかんで、自分が座っている机の引き出しにしまいこんだ。 「これからわれわれが使う武器は狡猾と策略だ。残念だが、君とわたしは、今までのように頻繁に顔を合わせることができない。あと数ヶ月、イギリスをそっとしておきたかったのだが、それができなかったのは、いろいろな意味で不運だった。しかしこうなったからには、それに対処するしかない。君は事実上、誰からも疑われることのない地位を築きあげた。偉大な将軍にお仕えする者のなかでも、君は輝かしい、独自の位置にある。わたしがこれから君に近づくとしたら、それは同情と援助を求める時だろう、先見の明あふれるイギリス人どもに疑われてね!」 ドミニーは頷いた。 「今晩は泊まっていくだろう?」 「そうさせてもらえるとありがたい。この先、何ヶ月も、こんなふうに親しく接触することはないだろう。われらが友人、パーキンスが、この機会を葡萄酒で祝ってくれるかな」 「つまりドミニー家秘蔵の白葡萄酒とポートワインを、祖国の栄光のために飲もうというわけだね」 「祖国の栄光か」シーマンは相手の言葉をくり返した。「その通りだ、友よ――あれは何の音だね?」 家の前の道を一台の車が通った。ホールで人声がし、ドアがノックされ、女の服の衣擦れの音がした。やや慌てたパーキンスが来客を告げた。 「アイダーシュトルム王女と――紳士の方がお見えになっています。王女は緊急の用だとおっしゃっています」彼は申し訳なさそうに主人に向かって言った。
王女はすでに部屋のなかに入っていた。そのあとから地味な黒いスーツに白いネクタイをしめ、山高帽を手にした小柄な男がついてきた。男は厚い眼鏡を通して部屋のなかを一瞥した。ドミニーは最後が訪れたことを悟った。彼らのうしろでドアが閉まった。王女はさらに数歩、部屋のなかに進んできた。その手がドミニーに向かって差し伸ばされたが、挨拶のためではなかった。白い指がまっすぐ彼を差した。彼女は連れの男のほうを振り向いた。 「あの男ですか、シュミット先生」 「何てことだ、あのイギリス人だ!」とシュミットは言った。
数秒間、水を打ったような静寂がその場を支配した。四人のなかでいちばん落ち着いていたのはドミニーだっただろう。王女は怒りに顔が真っ青になった。彼女が口をきいたとき、激しい感情が言葉の背後で嗚咽しているように思われた。 「エヴェラード・ドミニー。わたしの恋人に何をしたの。レオポルド・フォン・ラガシュタインをどうしたの」 「彼は運命に出会ったのです。わたしを陥れようとしていた運命に。わたしたちは争い、わたしが勝った」 「殺したの?」 「殺しました」ドミニーはおうむ返しに言った。「そうせざるを得なかったのです。死体はブルー・リバーの河床に眠っています」 「そしてここで偽者の生活を送っていたのね」 「とんでもない。本当の生活を送っていたのです」とドミニーは言い返した。「あなたがカールトン・ホテルで初めて話しかけてきたとき、言ったではありませんか。そのあとも何度も言いましたよ、わたしはエヴェラード・ドミニーだと。それがわたしの名前です。それがわたしの正体です」 シーマンの声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。しばらく彼は卒中にでも襲われたかのように勇気も気力も失っていた。彼の心は過去をさかのぼった。 「わたしに会うため、君はケープタウンに来た。そのとき君はフォン・ラガシュタインの手紙をすべて持っていた。身の上も知っていたし、皇帝の命令書も持っていた」 「フォン・ラガシュタインとわたしは、キャンプでごく親密な会話を交わしたのだ。そちらのシュミット先生がご存じだろう。わたしは自分の生い立ちを話し、彼は彼の生い立ちを話した。手紙や書類は彼から奪い取った」 シュミットはしばらく両手で顔を覆っていた。肩が震えていた。 「おいたわしい!」彼はすすり泣いた。「お慕いしていたのに!酔っぱらいのイギリス人に殺されるなんて!」 「あなたが思うほど酒に溺れてはいなかった」とドミニーは冷静に言った。「不摂生にたたられていたが、ここぞという大事な時に、立ち直れないほどではなかった」 王女の視線は二人の男のあいだを行き交った。シーマンは悪夢から抜け出そうといまだにもがいているようだった。 「わたしが、初めて、たった一度だけ疑ったのは」とシーマンは口ごもるように言った。「ヴォルフが消えた夜だった」 「ヴォルフの来訪はとんだ災難だった。幸い、屋敷に秘密諜報員がいて始末してもらったけれど」 「彼の失踪はおまえの仕業だったのか」シーマンは愕然とした。 「もちろん。彼は真相を知っていて、あなたにそれを伝えようとしていたからね」 「金はどうした」シーマンは目をしばたたかせながらつづけた。「十万ポンド以上あったが」 「あれは贈り物と解釈したよ。しかしドイツの秘密諜報部が権利を主張して、わたしを訴えるのなら――」 王女が急に彼らのやりとりをさえぎった。目が燃えるように光っていた。 「あなた方は二人とも、いったい何なの」彼女はシュミットとシーマンに指を突きつけて叫んだ。「土くれか、泥人形か、知性も勇気もない生き物なの。わたしの恋人を殺し、あなたたちを欺したイギリス人がそこに立っているのに、何もしようとしない。そこであなたたちを嘲笑っているのに、手も出さず、何も言わないなんて!この男の命は神聖で犯しがたいとでも言うつもり?この男は秘密を知っているのではないの?」 「しまった!」シーマンは突然恐怖に顔を蒼白にしてうめいた。「やつは王子の回想録を持っている!皇帝の地図も!」 「とんでもない。どちらも外務省に保管してある。のちほど大いに役立つだろうと期待しているんだ」 シーマンは虎のように飛び出したが、ドミニーが突き出した拳をかろうじてよけると、ごろりと床に転がった。シュミットはじりじりとにじり寄ってきた。袖口から取り出した何かがきらりと光った。 「二対一よ!」二人が攻撃を躊躇したとき、王女は興奮して叫んだ。「わたしも武器があったらいいのに。さもなければ男だったらいいのに!」 「王女様」窓のほうから気さくな声が言った。「逆に四対二になりましたよ」 エディ・ペラムが両手をポケットに突っこみ、ガラス戸のところに立っていた。いつもはぽかんとしている顔が油断なく警戒していた。その後ろから二人の恐ろしく屈強な男が部屋のなかに入ってきた。争いはおろか、揉めることさえなかった。シーマンは驚きのあまり、完全に動転して、あっという間に手錠をかけられた。シュミットは武器を取りあげられた。奇妙な沈黙を最初に破ったのはシュミットだった。 「わたしが何をしたと言うのだ。なぜこんな扱いを受けねばならないのだ」 「シュミット先生ですね」エディは快活に訊いた。 「そうだ」と敵意に満ちた答が返ってきた。「わたしは東アフリカから来たばかりだ。出発したときは、戦争になるとは思ってもいなかった。わたしはこの男の正体を暴きに来たのだ。あいつは偽者だ――殺人者だ。ドイツ人の貴族を殺したのだ」 「あいつは大逆罪を犯したのだぞ!」シーマンはあえぎながら言った。「皇帝を欺いた!あつかましくも皇帝の御前でフォン・ラガシュタイン男爵になりすました」 フラノの若者はドミニーのほうを見やり、にやりとした。 「冗談をおっしゃるつもりはないのでしょうけど、そんなふうに聞こえますね。まずシュミット先生ですが、サー・エヴェラードが偽者だと言って非難する。その理由は、彼が自分の本名を使ったからですか?また彼を殺人者呼ばわりなさるが、相手のほうこそ彼を残忍にも殺そうとしたのですよ――ちなみにあなたもその共犯者ですからね、シュミット。そしてこちらのお友達は、イギリスとドイツの実業家のあいだに友好関係を築こうとする協会の書記をなさっているけど、サー・エヴェラードがドイツに行ってイギリスのためにやったことはけしからんとおっしゃる。でも、フォン・ラガシュタインがここイギリスでドイツのためにやっていると、あなたが信じていたことだって、同じことじゃないですか。ドイツ人というのは、おかしな、頭の悪い民族ですねえ」 「もう一度訊く」とシュミットが叫んだ。「何の権利があって、わたしを犯罪者扱いするのだ」 「犯罪者だからですよ」エディは平然と言った。「あなたとフォン・ラガシュタインは東アフリカでサー・エヴェラード・ドミニーを殺害しようとした。それにたった今、あなたがナイフを手に、忍び寄っていくのを見ました。逮捕するのに十分な理由です。シーマン、質問がありますか」 「ない」苛立たしげな返事だった。 「聞き分けがいいですね」若者は落ち着いて言った。「昨日、一昨日と、フォレスト・ヒルのお宅と、ロンドン・ウォールの事務所を捜索しました」 「もう分かった。運はわたしに味方してくれなかったのだな。皇帝には、わたしよりも有能な部下がいる。しかもありがたいことに、めかし屋とうすのろが住むこの島を、握りつぶしてしまう力をお持ちだ」 「めかし屋とはひどいことを言う」エディは憤慨したように呟いた。「しかし、とにかく、この事件を片づけてしまおう」彼は二人の部下に向かって言った。「外には軍用車輛が待っている。この男たちをノリッジ兵舎の衛兵詰所へ連れて行け。護衛兵をつけて彼らを町に送ることになっている。後ほど、わたしも行くと大佐に伝えてくれ」 王女は最前座りこんだ椅子から立ちあがった。ドミニーが彼女のほうを見た。 「王女、お話することは何もありません。しかし、これだけは覚えておいてください。フォン・ラガシュタインは冷酷にもわたしを殺そうとしました。わたしは、やろうと思えば、少しも危険を冒すことなく、彼を殺すことができました。しかし、わたしは正々堂々と渡り合いたかった。命を取るか、取られるか。わたしは祖国のために闘いました。彼が彼の祖国のために闘ったように」 「わたしはあなたを死ぬまで憎みつづけるわ。あなたはわたしの愛する人を殺したのだから。でも、女とはいえ、わたしは公平に振る舞うことを知っています。あなたはわたしに優しく、礼儀正しく接してくれた。レオポルドに対しても、たぶん、彼があなたに接する仕方以上に、気を配っていたかもしれない。あなたには二度とお目にかかりません。見送りはいりませんから、いますぐこの屋敷を出て行かせてください」 ドミニーはテラスに出るガラス戸を開け、脇に退いた。彼女は彼に一瞥もくれず姿を消した。エディがそのあと、テラスをゆっくり歩いてきた。 「いい玉だよ、あの二人は。シーマンは、ついさっき、フォーサイスという青いサージのスーツを着ていた巨漢に百ポンドを渡して、撃ち殺してくれと頼んだんだ。逃げようとしたという口実で」 「シュミットは?」 「士官の権利を主張して前部席に座らせろと言うんだ。出発前には葉巻を要求したよ!うまくやったね、ドミニー。きれいに片づいた」 ドミニーは二台の車が埃を蹴立てて走り去るのを見ていた。 「エディ、教えてくれないか。一つだけ、ずっと不思議に思っていたことがある。あのヴォルフという男、戦争もはじまっていないし、法も犯していないのに、どうして監禁できたんだ?」 若者はにやりと笑った。 「あのときは無理をして容疑をでっちあげなければならなかった。要塞の見取り図、さ」 「彼は要塞の見取り図を持っていたのか?」 「ノリッジ城の絵はがきをね」と若者は打ち明けた。「誰にも言っちゃ駄目だぜ。車で帰る前に一杯もらえるかい」 一日の騒動が終わった。異常な緊張をしいる生活がついに終わり、ドミニーは静かな、しかし湧きあがるような感謝の念を覚えた。しかし彼の心は、二階の寝室で繰り広げられている戦いに、すぐさま占領されてしまった。
晩餐のとき、老医師が上から降りてきた。彼はドミニーの食い入るような眼差しを受けて、こくりと頷いた。 「容態はいい」 「熱も異常もありませんか」 「幸いにね。肉体的にはほとんど申し分のない健康状態だ。去年の今頃と比べたら、見違えるようだ。目が覚めたら、彼女は自分を取り戻し、妄想からすっかり解放されているか、さもなければ――」 医師は一呼吸置いてワインに口をつけ、それを飲み干すと、いかにも良い酒だというように、グラスを置いた。 「さもなければ?」ドミニーは先を促した。 「さもなければ頭の一部に何らかの障害が残る。良い結果が出ることを祈っているよ。君がこの場にいてくれて本当に助かった!」 二人はろくに口もきかず、食事を終えた。そのあとは、しばらく、テラスで煙草を吸ってから、足音を忍ばせて二階にあがっていった。医師はドミニーの部屋の前で別れた。 「一時間ほど奥さんのそばについているが、そのあとは奥さん一人にするよ。何かあったときに備えて君もここにいるね?」 「います」ドミニーは約束した。
一分一分がいつの間にか一時間に変わった。ドミニーは大波のような激しい感情に揺すぶられながら、安楽椅子に座っていた。帰国した当初の記憶が痛いほどの切なさとともによみがえってきた。あの頃と同じ、心のなかをかきむしられるような、奇妙な、落ち着きのない、優しい気持ちを再び感じた。この世界という大舞台で役を演じつづけなければならないことは分かっていたが、それが遙か遠いところで起きているような、まるで人間とは違う種族の問題事であるかのような気がした。彼の全存在が狂おしいほど一つのことを期待し、その魔法のような音楽をとらえようとしている、そんな感じだった。しかし長いこと耳を澄まし、じっと待っていた音がとうとう聞こえたとき、期待は凍りついて恐怖に変わったように思えた。彼は少しだけ安楽椅子から身を乗り出した。両手は手もたれをつかみ、目はゆっくりと広がる羽目板の割れ目を見ていた。以前と同じことがくり返された。彼女は屈めた身体を伸ばして、彼のほうに近づいてきた。そのうしろで見えない手が羽目板を閉じた。彼女は腕を突き出し、輝く目にこの世の良きものすべてと愛をあふれさせ、彼のそばにやってきた。あのかすかに夢遊病者めいた様子は消えていた。こんなふうに近づく彼女は見たことがなかった。彼女はまさに本物の、生き生きとした女性だった。 「エヴェラード!」 彼は彼女をかき抱いた。最初のキスをしたとき、彼女は頭のてっぺんから足の先まで戦慄が駆け抜けるのを感じた。しばらく彼女は相手の肩に頭をもたせかけていた。 「まあ、わたし、何て馬鹿だったんでしょう!ときどき、あなたがエヴェラードでないような、夫でないような気がしていたの。でも、今、分かったわ」 彼女の唇はもう一度、彼の唇を求めた。それは何年も満たされなかった欲求に乾ききっていた。廊下では老医師がほほえみを浮かべ、こっそりと自分の部屋に戻っていった。
後記
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End of Project Gutenberg's Irekawatta Otoko, by E. Phillips Oppenheim