第二章
翌日の朝、ドミニーは遅くまで眠りをむさぼった。夢も見ずにぐっすりと眠ってようやく目覚めると、彼は野営地の奇妙な静けさに気がついた。医師が彼を見にやってきて、朝の挨拶のあと、すぐにその説明をした。 「閣下は本国から重要な知らせを受け取り、ダルエスサラームからの使節を出迎えに行きました。三日間は戻りません。戻るまであなたには賓客として留まってほしいとのことです」 「ご親切なことだ」ドミニーはつぶやいた。「ヨーロッパのニュースは聞いているかい?」 「存じません」返事は素っ気なかった。「閣下からの言伝ですが、現地人が十人ほどと、子馬も何頭か残っておりますので、河のほとりに沿って南のほうへお出かけになるなら、お供につけさせます。ライオンが相当おりまして、現地人が知っている一、二の場所にはサイがいるかも知れません」 ドミニーは風呂を浴びて身繕いし、薫り高いコーヒーを飲んでから、ぼんやりとあたりをぶらついていた。彼は午後遅く、医師と共にお茶を飲みながら、こう胸の内を明かした。 「狩猟には全然興味が持てないんだ。厄介ばかりかけて気がとがめるが、でもどういうわけかフォン・ラガシュタインにはもう一度会っておきたい。君の寡黙な上官に惚れたみたいなのさ。あいつは男らしい男だ。ぼくがなくした何かを持っている」 「閣下は偉大な方です」医師は熱をこめて言った。「いったん心に決めたことは、必ずやりとげますから」 ドミニーはため息をついた。「ぼくもきっかけさえあれば、あんなふうになっていたかもしれないんだがな。ぼくらが似ていることに気がついていたかい?」 医師は頷いた。 「こちらに到着なさったときから気がついていました。お二人ともよく似ていらっしゃるが、相違点も大きい。お若いときはもっとよく似ていらっしゃったでしょう。時の力がそれぞれの容貌に応分の報いを与えたのですね」 「そう何度も嫌味を言わなくていい」ドミニーは苛々した。 「嫌味など言っていません」医師は動ぜず平然と答えた。「本当のことを話しているのです。閣下と同じ精神力をお持ちでしたら、健康やいろいろ大切なものをそのまま維持できたかも知れません。閣下のように、祖国にとって有用な人物になっていたかも知れません」 「ぼくの健康状態はそんなに悪いのか?」 「身体に無理なことをなさっています。しかしまだ活力は充分に残っています。数ヶ月自制なされば、見違えたようになるでしょう。では、失礼します。仕事がありますので」 ドミニーは落ち着きのない三日間を過ごした。河の中の象の群れも、猛獣が野営地にこっそり忍び寄るころ聞こえる異様な猛々しい夜の合唱も、彼の心を動かしはしなかった。狩猟に対する情熱、現実世界に対する最後の接点がしばし失われたかのように思われた。動物を殺したところで、それがどうだというのか?彼の心はそわそわと過去のことばかりを考え、見つけることのできない何かをたえず探し求めていた。夜明けには摩訶不思議な輝かしい変容を遂げて生まれくる薄明を見守り、夜はバンダの外に座って、河向こうの山並みが形を失い、青紫色の暗闇にとけこむのを待った。フォン・ラガシュタインとの会話が彼を動揺させていた。はっきりなぜとは分からなかったが、もう一度彼に会いたいと思った。彼を苦しめることを止めて久しかった記憶が今一度よみがえった。最初の日はいつものやり方でそれを取り除こうとした。 「先生、ウイスキーを持っているだろう?」 医師は頷いた。 「どこかにケースがあるはずです。閣下はあなたの言うものなら何でも与えるよう指示していきました。しかし戻るまでは白ワインだけを飲むようにとのご忠告です」 「本当にそう言ったのか?」 「閣下の言葉をそのまま申しあげました」 ウイスキーに対する渇望は消え、再びあらわれたが押し殺され、夜中にまた舞い戻ってきた。そのせいで彼は顔から汗を垂らし、舌に乾きを感じながら起きていた。彼は代わりにリチウム水を飲んだ。三日目の午後遅くにフォン・ラガシュタインは馬に乗って野営地に帰ってきた。服は破れて湿地帯の黒い泥にまみれ、埃と汚れが顔を厚く覆っていた。勢いよく下馬しようとしたとき、子馬はほとんど倒れそうになった。それにもかかわらず彼は几帳面なくらい礼儀正しく客に挨拶をしようと立ち止まった。二人の男が握手したとき、彼の目に心から満足そうな輝きが宿った。 「ここにいてくれて嬉しいよ」彼は熱をこめて言った。「風呂を浴びて着替えるあいだ失礼する。少し早めに晩餐にしよう。今日は朝から食べていないのだ」 「長旅だったのかい?」ドミニーは興味を感じて訊いた。 「遠くへ旅してきた」相手は静かに答えた。
晩餐の時のフォン・ラガシュタインはいつもの彼に戻っていた。清潔なシャツの上に、白いダック地の服を隙なく着こなし、髭を剃り、疲労の跡を少しもとどめていなかった。しかし彼の態度には何か違うもの、ドミニーを戸惑わすある変化が見られた。今まで以上に客の話に注意を払うのだが、同時に気持ちは彼からいっそう遠くへ離れ、共感も同情も感じられなくなっていた。彼は奇妙なくらいしつこくパブリック・スクールと大学時代のこと、ドミニーの友人と親戚関係、その後の人生の出来事を話題にした。ドミニーはそれまでの人生遍歴を絶え間なく話すよう促されている気がし、なぜか相手が終始自分の片言隻句に細心の注意を払っていることを意識していた。シャンペンをたっぷりと供応され、ドミニーは秘密の部屋のまさに入り口のところまで饒舌にべらべらと話をした。食事が終わると、彼らは以前のように椅子を外へ持ち出した。物言わぬ当番兵が今まで以上に大きい葉巻を差し出し、ドミニーのグラスはまたもや素晴らしいブランデーに満たされた。医師は四分の一マイルほど離れた現地人野営地に出かけていて、当番兵はなかで忙しくテーブルの後片づけをしている。団扇を動かす召使いたちの黒い影だけがぼんやりと見え、頭上には燦めく星があった。彼らは二人きりだった。 「ろくでもないぼくの身の上話ばかりしゃべり立ててしまったな。君の仕事やここに来る前のドイツでの暮らしぶりなんかを少し教えてくれないか」 フォン・ラガシュタインはすぐには答えなかった。奇妙な沈黙が二人の男のあいだを波のように満ち引きした。時折、流れ星が空を横切り、山の端から赤い月がのぞいていた。灌木の静けさは、あらゆる静けさのなかでもっとも神秘的なものだが、それが次第に声にならない情熱をみなぎらせてきたようだった。じきに動物たちは鳴き交わしはじめ、空き地の隅に燃えている火に向かい、じわりじわりと近づいてくる。 「君」フォン・ラガシュタインがとうとう口を開いた。時間を掛けてじっくり考えぬいたような口調だった。「君はドイツのこと、わたしの祖国のことを聞きたいのだね。たぶん、義務のためだけにこんな未開の地に来たとは思っていないだろう。わたしも悲劇をあとにしてきたのだ」 ドミニーが束の間感じた同情は、ほとんど苛烈なまでに己を律する、相手の厳しい態度によって押し殺された。喉にしがみつく言葉を引きちぎるような言い方だったが、こわばった顔に傷心や後悔の色などかけらもなかった。 「国外に追放されてから今日まで、このことを口にしたことはなかった。今晩は弱気になったのではなく、偶然の不思議な力に身をまかせたい気分なんだよ。生まれついた国は違うが、同級生であり大学の親友だったわれわれが、お互い魂に苦悩を抱えてこの野蛮な場所で出会うとは。わたしに何が起きたか話してあげよう。君は君自身の呪いのことを話してくれ」 「それはできない!」ドミニーはうめいた。 「いや、話せるさ」仮借のない返答だった。「聞きたまえ」 一時間が過ぎ、二人の男の声が途絶えた。獣たちの咆哮は焚き火の火が小さくなるにつれ減っていった。そよ風が緩慢で憂鬱な小波のように茂みのなかを通りぬけ、川面を撫でていった。ほとんど夢うつつの状態を最初に破ったのはフォン・ラガシュタインだった。彼は立ちあがるとバンダのなかに消え、タンブラーを二つ手にして、すぐまた姿をあらわした。彼はその一つを、タンブラー用にあつらえた客の椅子のひじ掛けに載せた。 「今晩はいつもの規則を破ってウイスキー・ソーダを飲むよ。われわれの新たな前途に乾杯しよう」 「ここでの仕事は終わりなのか?」ドミニーは好奇心から訊いた。 「わたしは巨大な機械の部品だよ」どことなく曖昧な返事だった。「従わざるを得ないのだ」 強い感情がわきあがり、ドミニーの顔を歪ませ、一瞬声の調子があがった。 「こんなふうに生き、死んでいくことに満足しているのか?ここの太陽とは別の太陽が心を暖め、胸を満たす場所に帰りたくはないのか?この原始的な世界はそれなりに素晴らしいが、しかし人間的ではない。人の住むようなところではない。ぼくらには都会の巷が必要なんだよ、フォン・ラガシュタイン。人の流れ、車の騒音、人声のざわめきが周りに必要なんだ。動物なんか糞食らえ!この国に長く住んでいると四つ足で歩くことになりそうだ」 「君は環境に左右されすぎだ。都会で生活しているとき、君は自然を思う感傷家になるんだろう」 「どこの都会も文明国もぼくなんかに戻ってきてほしくはないさ」ドミニーはため息をついた。「戻っても何て言われるやら、怖いくらいだ」 フォン・ラガシュタインは立ちあがった。薄闇のなかで背筋を伸ばしたその姿にはある種の威厳があった。目の前の椅子にぐったりと座っている男の上に聳え立つかのようだった。 「また会えることを願ってウイスキー・ソーダを飲み干そう、わが学友。明日は君が目を覚ます前に出発しているだろう」 「ずいぶん早いな」 「明日の夜までにあの山の向こうに行っていなければならないのだ。これがお別れだ」 ドミニーは愚痴をこぼし、ほとんど見るに忍びない姿をさらけだした。彼は急に一人になるのが嫌になった。 「ぼくもすぐ西に向かわなければならないんだ。というか、東でも北でもたいした違いはないんだ。一緒に旅はできないかい?」 フォン・ラガシュタインは首を横に振った。 「公務で旅行するのだ。それに一人で行かなければならない。明日、ここから撤収することになるが、君には付き添いをつけて、行きたい方向に道案内させよう。残念だがわたしにできるのはそれだけだ。われわれはここでお別れするしかない」 「そうか、無理じいはできないな」ドミニーはまだ言い足りなそうな様子だった。「しかし人生の裏街道からも遠く離れた、こんな辺鄙なところで出会い、握手しただけで通り過ぎなきゃならないとは妙な話だ。黒人と動物には死ぬほど飽きてしまった」 「運命だよ」フォン・ラガシュタインがはっきりと言った。「わたしは行くべきところに一人で行かなければならない。さようなら、君。モードリンの君の宿舎で最後の晩に乾杯したね。あれと同じ乾杯をしよう。あのサンスクリットを研究していた男が訳してくれたじゃないか。『それぞれがその求めるものを手に入れることができますように!』われわれは自分の星を追わなければならないんだ」 ドミニーはどこか苦々しげな笑い声をあげた。彼は灌木のあいだに点滅している光を指さした。 「ぼくの狐火だよ」彼はやけっぱちな口調でつぶやいた。「あれについていけば――沼に呑みこまれるってわけさ!」 数分後、ドミニーは自分の小屋の長椅子の上に身を投げた。不思議なくらい無性に眠くなったのだ。お休みを言いにきたフォン・ラガシュタインは見おろすようにして、意味ありげな視線をしばらくじっと彼に向けていた。客が間違いなく眠っていることに満足し、彼は垂れさがった枯れ草のカーテンを通って隣のバンダに入っていった。そこにはまだ正装したままの医者が待っていた。彼らは声をひそめドイツ語で話した。フォン・ラガシュタインはどことなくいつもの落ち着きを失っていた。 「万事、命令通り進んでいるか?」彼は問いただした。 「遺漏はありません、閣下!召使いたちは荷物をまとめていますし、馬の用意をさせるためにワディファンに伝令を出したところです」 「夜明けに出発することは伝えてあるか?」 「ご心配なく、閣下」 フォン・ラガシュタインは医師の肩に手を載せた。 「外に出よう、シュミット。計画のことで話したいことがある」 二人は籐の長椅子に座り、医師は相手の言葉を一心に待ちかまえた。フォン・ラガシュタインは頭を巡らして聞き耳を立てた。ドミニーの小屋からは深く規則正しい寝息が聞こえてきた。 「素晴らしい計画を立てたのだ、シュミット。ベルリンから来た知らせのことは知っているだろう?」 「閣下から少しだけ聞かせていただきました」医師が彼に思い出させた。 「その日が来たのだ」フォン・ラガシュタインは言った。声が深い感情に震えていた。彼は一瞬思いに沈み、話をつづけた。「何月決行するか、時期も決まった。ここから召還されるのはわたしに定められた運命を引き受けるためだ。それがどういう運命か、分かっているな?わたしがイギリスのパブリック・スクールと大学に送られた理由を知っているな?」 「見当はつきます」 「わたしはイギリスに住むことになる。特殊任務を帯びて。あの国でイギリス人に化けるのだ。その手段はわたしの才覚に任されている。聞いてくれ、シュミット。名案が浮かんだのだ」 医師は葉巻に火をつけた。 「聞いております、閣下」 フォン・ラガシュタインは立ちあがった。規則正しい寝息だけでは満足できず、バンダの入り口まで行き、ドミニーの眠りこけた姿をじっと見つめた。それから戻ってきた。 「あのイギリス人に聞かれてはまずいことですか?」医師が尋ねた。 「そうだ」 「ドイツ語なら大丈夫でしょう」 「外国語は彼の唯一の才能だよ」と彼は用心深く答えた。「君やわたしと同じくらい流暢にドイツ語ができる。しかしそんなことはどうでもいい。彼はずっと眠りつづけるだろう。ウイスキー・ソーダに眠り薬を混ぜたのだから」 「そうでしたか!」医師はうなった。 「イギリスに行って何より肝心なのは誰になりすますかということだ。わたしは決めたよ。あのイギリス人だ。サー・エヴェラード・ドミニーとしてイギリスに戻るのだ」 「本気ですか!」 「われわれは驚くほど似ているし、ドミニーはこの八年間か十年間、知り合いの同国人に会っていない。パブリック・スクールや大学の友達なら誰にあっても疑われずにやり過ごす自信がある。ドミニー邸に泊まったこともある。ドミニーの親類は知っている。今晩彼は知っておいて損のないことを何時間もしゃべりまくってくれた」 「近親者はどうです?」 「いちばん近い親戚でも従姉妹だ」 「奥さんはいないんですか?」 フォン・ラガシュタインは話を中断し頭を巡らせた。バンダのなかの深い寝息が途絶えていた。彼は立って心配そうにそっと入り口に近づき、大の字に寝ている客の姿を見おろした。どう見てもドミニーはまだ熟睡している。ほんのしばらく様子を見たあと、フォン・ラガシュタインは元の場所に戻った。 「そこが彼の悲劇なのだ」彼は声をさらに落とした。「彼女は気が触れたんだ――どうやら彼が与えたショックのせいで頭がおかしくなったらしい。彼女が唯一の障害とも思われたが、実はいないも同然なのだ」 「見事な計画ですね」医師は熱をこめてささやいた。 「素晴らしい計画だよ!シュミット、わが国を見守り、わが国を世界の支配者にしようとしている見えざる偉大な神が、あの男をわれわれのもとに遣わしたに違いない。わたしはイギリスで比類のない地位につく。サー・エヴェラード・ドミニーとして社交界にもぐりこみ――恐らく政界の中枢にさえ入りこめるだろう。嵐が吹きはじめても、必要とあらば、わたしはイギリスに居つづけることができる」 「もしもあのドミニーがイギリスに戻ったらどうするのです?」 フォン・ラガシュタインは振り返って質問者のほうを見た。 「そんなことはあってはならない」 「そういうことですか!」医師はつぶやいた。
翌日の午後遅く、ドミニーは付き添いの従者二名とともにライフル銃を肩から斜めにさげ、馬に乗って灌木の中の来路を辿った。小柄な太った医師は彼の姿が見えなくなるまで立ったまま帽子を振って見送った。それから伝令を呼んだ。 「ハインリッヒ、イギリスの紳士にちゃんとウイスキーを渡したかね?」 「水筒に他のものは何も入っていません」 「荷物のなかに水とかソーダ水は入れてないね?」 「一滴もありません、軍医殿」 「食料はどのくらい?」 「一日分です」 「牛肉は塩漬け肉だね?」 「塩気がとても強いです、軍医殿」 「コンパスは?」 「十度狂っています」 「従者たちは命令を聞いているね?」 「完全に理解しています、軍医殿。イギリス人がお酒を飲まなければ真夜中に、ブルー・リバーが折れるあたり、閣下の野営地へ連れて行くことになっています」 医師はため息をついた。彼は心の底から非情な男ではなかった。 「あのイギリス人、酒を飲んだほうが苦しまないだろうな」と彼はつぶやいた。