入れかわった男

第二十五章

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六ヶ月後のある朝、ターニロフとドミニーはゴルフコースを一周したあと、冷たい飲み物を手に、ラネラ・ガーデンズのニレの大木の下でのんびりとくつろいでいた。同じ頃、数百万のイギリス人は汗をかきながら昼の新聞の大見出しを呆然と見ていた。

大使はけだるく満足そうに椅子にもたれた。「ローマが燃えているのに、わたしは竪琴を弾いていると、非難されそうだな」 「確かにあなたほど事態を楽観視している人はいませんね」ドミニーは静かに答えた。 「わたしくらい状況を把握している人間はいないからね」 ドミニーはしばらく黙って飲み物に口をつけていた。 「ロシアの動員令について最新のニュースを聞きましたか。今朝、街ではとんでもない数字が飛び交っていましたが」 王子はくだらないとでも言うように手を振った。 「わたしの信念は外面的な出来事にもとづいているのではない。ロシアが動員令を出すとしたら、それは防衛のためだ。ドイツを攻撃しようと夢想する国は世界のどこにもないし、世界に冠たる国家たろうとするドイツが軍事行動などという手荒な方法でその地位を危うくする真似などするわけがない。セルビアは当然罰せられなければならないが、それに関してはヨーロッパの全国家が原則として一致している。オーストリアが度を超した報復をすることは、われわれが許さない」 「あなたの意見は少なくとも終始一貫していますね、王子」 ターニロフはにこりとした。 「それは舞台裏を知っているからだよ。大使の特権として各指導者たちの心の内をのぞかせてもらったからだ。君は青春を軍隊で過ごしたね。君たち軍人は、自分たちこそドイツで一番重要な人間だと思っている。実はそうじゃないのだ。皇帝が望んでいるのは軍事力とは別物なんだよ。ところで昨日、ステファニーからびっくりするような電報が届いた」 ドミニーはヒナギクの上で無造作に振り回していたパターを止め、話を聞こうと振り向いた。 「彼女は帰国の途上ですか」 「もうすぐサザンプトンに着くだろう。着いたらさっそく会いたいので、どこに行けばいいか教えてくれと言っていた。ひどく重要な情報があるそうだ」 「アフリカに行った理由を言いましたか」 「それがさっぱり教えてくれないのだ。考えられることといえば、君の過去に関する情報を集めに行った、ということくらいなのだが」 「彼女はシーマンにもそう説明したそうですが、そんなことをしても得るものはありませんよ。どれだけ徹底的に調査していただいても、わたしはアフリカで、やましいことなど何一つしていませんから」 「全くばかばかしいかぎりだ。だが、それにしても君の判断は賢明だったのだろうか。君の役割は分かっているが、皇帝の命令には従ってもよかったのじゃないか。わたしの知るかぎり、仲間内で浮気をし、恋のあだ花を咲かせるのは、この国の社交界では珍しいことではないのだから」 「みんなが同じようにすねに傷をもっているなら、それもいいでしょう。しかしドミニー夫人に対するわたしの態度はひどすぎました。妻をそっちのけに別の女とつき合ったりしたら、これはもう弁解の余地がない。それにわたしが遂行すべき任務にも影響が出たかも知れません」 「何度も議論したことだね」大使はため息をついた。「蒸し返すのは止めておこう。おや、見たまえ!ご婦人方だよ!」 ロザモンドと王女が屋敷からあらわれ、二人の男は急いで出迎えに行った。王女はにこやかな表情を浮かべ、贅をこらした衣装をまとい、堂々と振る舞った。その横に立つロザモンドは、同じように衣装に贅をこらしていたが、より若々しいいでたちで、ほとんどまだ未成年者のように見えた。昼食室にはいると、名士や著名人が小さなグループを作ってあふれかえっていた。社交界きっての人気の会合場所にふさわしく、給仕の赤いお仕着せやら、おびただしい花やら、何ともいいようのない優雅さに輝いていた。ご婦人方は席に着くと、その日、大勢のイギリス人が口にした質問を発した。 「新しいニュースがございます?」 ターニロフは多くの人から刺すような、不安な視線を投げかけられるのを感じた。彼は軽やかに微笑んで答えた。 「何も。ニュースがあるとしたら、きっといいニュースですよ。ついさっきまでサー・エヴェラードと死力を尽くして一騎打ちをしていたんです」 「戦争か平和かという問題の次に大事なことを教えてちょうだい……結果はどうでしたの?」と王女が訊いた。 「実力以上の力を出したんだがね。もちろん普通の人間がゴルフでドミニーに勝てるわけがないさ。彼の腕前は誇り高きドイ…」 大使は言葉を切ってマヨネーズに手を伸ばした。 「どんなに誇り高きドイツ人も彼にはかなわないよ」彼はそう言って言葉を結んだ。 お昼は非常に楽しい食事になった。多くの人が快活で美しいドミニー夫人に注目した。ちょうど彼女の写真が新聞にあらわれはじめた頃だった。食後は芝生に出て、ニレの木の下で音楽を聴いたり、ロンドンを脱出できたことを互いに祝福してコーヒーを飲んだり、酒を味わったりした。華やかに着飾った女性や、フラノを纏った男たちが刻々と変化する風景を織りなし、その単調さを打ち破るようにモーニングを隙なく着こなした外交官やフランス人がそこここを歩いていた。そのなかには見知った顔もたくさんあった。キャロラインとその友人たちはテラスから彼らに向かって手を振った。エディ・ペラムは染み一つない白ずくめの格好に、紺青の縁取りをした長めのテニス・コートを羽織っていた。彼は中庭へ行く途中、彼らのところに立ち寄った。 「自動車商売のほうはどうだい、エディ」ドミニーは目をきらりと光らせて尋ねた。 「まあまあだね。今は以前ほど熱を入れてやっていないんだ。実を言うとね」彼はあたりを見回し、声を潜め、とっておきの情報を誰にも聞かれないようにして打ち明けた。「僕はついてるよ。先日、ニューマーケットのジア・ムーアの競走馬に出資することができたんだ。額は少ないけど。今は自動車の仕組みのことよりお馬さんのことのほうがちょっぴり詳しくなった気がする」 「なるほど君ならきっとそうだろう」とドミニーは応じた。若い男は身振りで別れを告げると向こうへ行った。 ターニロフは不思議そうに彼を見送った。 「ああいう若者だよ、理解できないのは。戦争になったらどうするんだ?招集されて、たとえば祖国のために戦地に赴くことになったり、国家的な大切な仕事を任されたりしたときは」 「そのときはそのときで仕事をするんでしょう。勇敢に、一生懸命に、お粗末な仕事をね。イギリス上流階級の若者にありがちなタイプです。極端に脳天気で、全く規律がない。連中も連中の国家も、いざというときは勇気が訓練の代りになると思っているんです」 ジェラルド・ワトソン判事が階段のところでイタリア大使夫人と話をしていた。やがて彼女が立ち去ると、彼は両手を背中に回し、ゴルフ場の向こうを望み見るようにして芝生を歩いてきた。 「あの男」とターニロフが呟いた。「最近人が変わったように思う。初めてここに来たときは率直にものをしゃべってくれたのに。今でも独英両国の友好を心から望んでいると信じているが、何かがわれわれのあいだに割って入ってきたようだ。何かは分からない。どういう性質のものかも分からない。けれどもわたしは他人がわたしをどう思っているか、敏感に感じ取れるのだよ。おまけにイギリス人は感情を隠すのが世界一へたな民族だ。ワトソンは君の親戚のウースター公爵にそそのかされたのかな。ノーフォークでは君にもわたしにもとても友好的な態度だったが」 ご婦人方はそのとき、少し離れた知り合いたちのほうへ移動し話をしていた。二人のすぐ側を通りかかったミスタ・ワトソンはドミニーの挨拶を受けて立ち止まった。しばらくとりとめのない会話が交わされた。 「相変わらず良いニュースがつづいていますか?」と大使は言った。ありきたりの会話から転換するきっかけは、礼儀から言って自分のほうから差し出さなければならないと考えたのだ。 「いささかご期待には添えないようです」相手は一瞬ためらってからそう答えた。「六時にダウニング・ストリートに呼ばれているのですよ」 「わたしが今朝打った急送電報にたいする返事はもう首相にお見せしましたが」とターニロフは言った。 「ここに来る前に拝見しました」ためらいがちな返事だった。 「真剣に平和を望んでいる口調だということはお分かりになったでしょう?」ターニロフが心配そうに尋ねた。

相手は一礼して、身体をまっすぐに起こした。ここ数日の緊張が身体にこたえているのは明らかだった。口のまわりに皺が寄り、目は眠られない夜がつづいたことを物語っていた。 「こんな時に言葉をもてあそぶのは無意味ですよ。しかし、王子、今ここであえて一言だけ申しあげましょう。あなたの国が望まない限り、戦争は決して起こりません」 ターニロフの顔は束の間、異様なまでに青ざめた。それは記録に残されていない歴史の一場面だった。彼は立って帽子を持ちあげた。 「戦争は起こりません」彼はおごそかに言った。

閣僚は前よりも軽い足取りでその場を去った。ドミニーは、信義に厚く忠実ではあるけれども底抜けにおめでたいターニロフのような人物が、なぜこの重要な地位につけられたのか、その人事の背後にある深謀遠慮を今までにもまして明瞭に理解した。彼は唇の端にかすかな笑みを浮かべて閣僚の後ろ姿を見送った。 「今のような時局においてこそ」と彼は意味ありげに言った。「わが国の偉大な作家――確かベルンハルディじゃなかったでしょうか――が、島国には外交官という種族は生まれないといった理由が分かってきます」 「この島を取り巻く海はね」と大使は考え深げに言った。「イギリスに大いなる繁栄をもたらしたが、同時に禍をもたらすかもしれない。機敏すぎる外交官の頭脳は、彼がその利益を守っている国民の心と同じように不誠実なものだよ。わたしはイギリスの政治家の誠意を信じている。その信念は、もうすぐ君に見せるささやかな回想録に書きつけておいた。しかし、こんな話は夏の午後には深刻すぎるな。政治情勢に対するわれわれの意見を世間に表明するため、もう一度九ホール回ろうじゃないか」 ドミニーは喜んで立ち上がり、二人は最初のティーグラウンドへ歩き出した。 「ところで、あのにぎやかな友人シーマンはどうしている?きっと忙しくしているだろうが」 「どういうわけか、今晩ドイツから帰ってくるのですよ。バークレイの屋敷で会うことになっています。まっすぐわたしの所にくるようです」