入れかわった男

第十九章

Chapter 19 5,378 words Public domain Markdown

東の空には依然として黒っぽい灰色の雪雲が低く垂れこめていた。そこに一条のか細い紅色の線が走り、朝の訪れを告げた。風は止み、幽霊でも出そうな気配が静かに薄明のなかに漂っていた。ドミニーは屋敷の裏から外に出て、まだ誰も踏んでいない雪の道をロザモンドの窓の下へと進んでいった。そこに立った彼の唇から小さな驚きの声が漏れた。テラスから踏み段を降り、庭園を抜けてまっすぐブラック・ウッドへ向う足跡がくっきりと残されていたのである。あの叫び声は空耳ではなかった。人間か何かが夜中にブラック・ウッドから出てきて、ここへまたやってきたのである。 ドミニーはこの発見に異常なくらい興奮し、足跡を熱心に調べ、ついで森の端までそれを追った。ところどころで彼は首をひねった。足跡は人間のものでも、人間が知るどのような動物のものでもなかった。それは森の端の巨大な茨の茂みのなかに消えているようだった。茨にかかっている雪が所々こぼれ落ちていた。小径があるようには見えない。かつてはあったのかもしれないが、長年ほったらかしにされ跡形もなく消えていた。羊歯、茨、灌木、藪が乱雑に育っていたのだが、それらがこんぐらがっていっそう密な下生えを形成していたのである。木はまだたくさん生えていたが、多くのものが風に倒され、朽ちるがままに放置されていた。あたりは沈黙が支配し、聞こえるのは垂れさがった葉からゆっくりと落ちる雪の音だけ。慎重にもう一歩足を踏み出すと、地面が柔らかく沈みこむのが感じられた。足の下から雪を通して真っ黒い泥がしみ出してきた。泥に埋まってしまう前に、彼はかろうじて足を引き抜いた。細心の注意を払い、歩くところを選びながら、彼は時間をかけて森の外周を調べはじめた。

一時間ほどのち、管理人見習いのヘッグスは、もう一度銃架を確かめ、空のケースをこつこつと叩いて、ミドルトンのほうを振り向いた。彼は暖炉の前の椅子に座って、パイプをくゆらしていた。 「旦那様の二番の銃が見つかりません、ミスタ・ミドルトン。なくなってます」 「もう一度見てごらん」年老いた管理人はパイプを口から離して言った。「旦那様は昨日、あの銃をお使いだった。銃架の隅っこにばらばらに置いてあるやつを調べてみろ。どこかにあるはずだ」 「それがないんですよ」若者は譲らなかった。

急にドアが開いて、ドミニーがなくなった銃を抱えて入ってきた。ミドルトンはすぐさま立ちあがって、パイプを置いた。驚きのあまりすぐには口がきけなかった。 「ちょっと一緒に来てくれ」主人が命令した。

管理人は帽子と杖を取りあげ、あとに従った。ドミニーは足跡の行き着く先、ロザモンドの窓の外の砂利道まで彼を連れて行くと、ブラック・ウッドの方を指さした。 「これをどう思う?」 ミドルトンは躊躇しなかった。彼は重々しく首を振った。 「昨日の晩、何かお聞きになりましたか?」 「この窓の下で地獄のような叫び声がした」 「そりゃ、ロジャー・アンサンクの亡霊ですよ。間違いない」ミドルトンは身震いした。「森から出てくると、呼びかけるんで」 「亡霊はあんな跡を残さないよ」 ミドルトンは考えこんだ。 「地元の人の話なんですがね、ロジャー・アンサンクの亡霊は何かでっかい動物に取り憑いていて、餌をもらうためにときどきここにやって来るんだそうです」 「誰から餌をもらうんだね?」ドミニーは辛抱強く尋ねた。 「そりゃミセス・アンサンクでさあ」 「ミセス・アンサンクはもう何ヶ月もこの屋敷にいない。彼女が出て行ってから昨日の晩まで、わたしの知る限り、この幽霊だか獣だかの声は一度も聞いたことがなかった」 「確かにおかしなことです」 ドミニーは森のほうまで目で足跡を追い、また逆にたどり直した。 「ミドルトン、亡霊のことがだんだん分かってきたよ。やつらは足跡を残すだけでなく、餌も必要なんだな。そういうことなら、弾丸を食らわすこともできるかもしれない」 老人はじわじわとこみあげてくる恐怖にしばらく凍りついたようになっていた。 「あいつを撃ったりなさらないでしょうな、旦那様」 「今朝もチャンスさえあれば、そうしていただろうよ。天気がもう少しからっとしてきたら、森のなかに入ってみるよ、ミドルトン。銃を持ってね」 「そんなことをなさったら、絶対に戻ってこられなくなりますよ、旦那様!」彼は真顔で答えた。 「やってみるさ。アフリカでは怪しげな場所も藪をたたき切りながら進んだんだ」 「こんな森は世界中どこにもありゃしません」老人はしつこく食いさがった。「下は隅から隅まで腐っています。上はどこもかしこも毒を放っています。鳥は木の上で死ぬし、トカゲや気味の悪い生き物がうじゃうじゃはっているんです。五十センチもある緑や紫のきのこが生えていて、においを嗅いだだけで毒にあたるんです。森に入るなんて墓に入るようなものです」 「それでも早急に解明してやるよ、この夜の訪問者の謎は」ドミニーは強い口調で言った。

彼らは並んで屋敷に戻った。なかに入る直前にドミニーは同伴者のほうに向き直った。 「ミドルトン、君は今でも昔みたいにときどきドミニーズ・アームズに行って軽く一杯やるのかい?」 「ほとんど毎晩ですよ、旦那様。八時から九時のあいだです。わたしは規則正しい人間なんで。一日の仕事をつつがなく終えたあとは、人間誰しものんびりする権利がありますからな」 「そうだね、ジョン。今度あそこに行ったら、わたしが森を探索する予定だと話しておいてくれ。噂を広めてほしいんだ。いいかい?」 「連中、度肝を抜かれますよ」賛成しかねるといった返事だった。「でも伝えておきますよ、旦那様。きっとえらい評判になるでしょう」 ドミニーは銃を渡して部屋に帰った。風呂に入って着替えたあと、朝食を食べに下に降りた。彼が入っていくと、急に話し声が途絶えた。それはドミニーも覚悟していたことだった。全員がその日の狩りの見こみについて話しはじめた。ドミニーはサイドボードから食べ物をよそうと、テーブルに座った。 「最新式の幽霊に眠りを妨げられた人はいないでしょうね」 「どうやら全員が同じものを聞いたようですよ」閣僚が好奇心もあらわに言った。「身の毛もよだつ、この世のものとは思えない叫び声でした。最近、心霊協会というやつに片っ端から入りまくりましてね。面白い研究ですな」 ドミニーはコーヒーを淹れながら言った。「調査をなさりたいなら、拳銃持参で一晩一緒にあたりをうろつきましょう。わたしがイートンに入学する以前の子供の頃から、アフリカに行く頃までは、とても上品で品行方正な幽霊がいたもので、それが家門の誇りでもあり、自慢の種でもあったんですがね。しかしこの最新型のお化けは常軌を逸している」 「いわれでもあるのですか?」ミスタ・ワトソンが心をひかれて尋ねた。 「あれは以前この辺に住んでいた教師の霊で、彼が命を失ったのは、どうもわたしの責任ということになっているらしいのです。そんなお化けはわたしたち一族にとって誉れにも慰めにもなりません」 主人があまりにも素っ気なく喋るものだから、誰もがこの魅力に満ちた話題から奇妙なくらい離れる気になれなかった。しかしそれとなくその話に触れようとしたのはターニロフただ一人だった。 「森で狩り出しをやるのはどうだろう」 「森の様子はそこに住んでいる幽霊よりも興味深いんじゃないかと思いますね。昨日、勢子たちが、森のなかに入ると聞いただけで震えあがったのを覚えているでしょう?代々あそこは不浄の地とされてきたんです。確かに非常に危険な場所です。今朝、森の外側で膝まで埋まってしまったんですよ。十時半に銃器室に集合しましょう」 シーマンは主人のあとを追って部屋を出た。 「君、地元の些細な問題にあまり首を突っこんではいけないよ。もちろん今はのんびり過ごしてもいいんだが。しかしね、君は王女のことを考えてやらないとならない。結局のところ、われわれは彼女のご機嫌を損ねるわけにいかないんだ。ダウニング街にちょっとでも噂が流れてみろ、たちどころにおじゃんだ!」 ドミニーは親友の腕を取った。 「いいかい、シーマン、王女のことを考えろと言うのは簡単だよ。しかしこれ以上どうやって彼女に状況を分からせたらいいんだい?ドミニー夫人とは最善の関係を保たなければならないし、王女と人目につくような真似は決してできない」 「君とドミニー夫人の関係なんか、誰にとっても大したことじゃないのじゃないかな。王女は衝動的で情熱的な人間だが、同時に社会的な名声もあり、外交手腕もある。密かにロンドンで彼女と結婚しても問題はないと思う。まずはエヴェラード・ドミニーの名前で式を挙げておいて、あとで本名で式を挙げ直すのさ」 彼らは立ち止まって煙草に手を伸ばした。煙草は広間の丸テーブルの上に葉巻の小箱と並べて置かれていた。ドミニーは少し間をおいてから返事をした。 「王女が君にそうしたいと言ったのか?」 「そんなところだ」とシーマンは認めた。「もっとも彼女は君のほうからそういう提案を出してほしかったらしい」 「で、君はどうしたらいいと言うのだ?」 シーマンは軽く煙を吐き出した。 「君、わたしは王女のことが少々心配なんだ。君が彼女をどう思っているか、そんなことは訊かないよ。名誉を重んじる男として、君が遅かれ早かれ彼女に結婚を申しこむのは義務であると考えている。それで彼女が落ち着くというのなら、結婚を数ヶ月早めてもかまわないと思う。ターニロフが大使館で手はずと整えてくれるだろう。彼は王女のためなら何でもするし、そうすることで君と彼の関係も強化できる」 ドミニーは階段のほうに向きを変えた。 「出発の前にもう一度話し合おう」彼は憂鬱そうだった。 ドミニーは召使いによってただちに妻の居室に通された。ロザモンドは灰色の毛皮で裏打ちされた、薄い青の愛らしいモーニング・ローブをまとい、ちょうど朝食を終えたところだった。彼女は嬉しそうに小さく歓迎の声をあげると両腕を彼に差し出した。 「来てくれてうれしいわ、エヴェラード!お出かけになる前にちょっと会いたかったの」 彼は彼女の指を唇まで持ちあげ、隣に座った。彼女は彼がいることに有頂天になっているようで、昨晩の出来事などなんとも思っていないことが直感的に分かった。 「よく眠れたかい?」 「ぐっすり寝たわ」 彼は勇気を出してその話題を取りあげた。どんな時でもひるむまいと決心していたのだ。 「じゃあ、夜の訪問者のことを考えて眠れなくなることはないんだね?」 「全然」彼女はさりげなく話しつづけた。「あなたが本当にエヴェラードだったら、わたし、震えていたわ。だってエヴェラードが帰ってきたら、ロジャー・アンサンクの霊が彼に悪さをするでしょうから」 「どうして?」 「もちろんあなたは知らないわね。ロジャー・アンサンクはわたしに恋をしていたの。もっともエヴェラードと結婚する前、彼とは一言も口をきいたことがなかったけど。そこまでは昨日話したわよね?わたしが結婚すると、あの人、可哀想に気が狂いそうになったわ。仕事を辞めて、ここの庭園をうろつくようになった。ある晩、エヴェラードが彼をつかまえて、喧嘩になったの。それから二度とロジャー・アンサンクを見た人はいないわ。近所の人なら誰でも話してくれるでしょうけど」彼女は少しだけ声を落としてつづけた。「エヴェラードはロジャーを殺してブラック・ウッドの近くの沼に捨てたのよ。死体は沈んで、もう絶対見つからないわ」 「まさかそんなことはしないだろうと思うよ」 「あら、どうかしら。エヴェラードってひどい癇癪持ちだったの。あの晩、家に帰ってきたときは血まみれだった。怖かったわ。わたしが病気になったのはあの晩からなの」 「辛い昔の話はもう止めよう。わたしたちのお客さんのことを忘れないようにと思って来たんだよ。いつ下で顔合わせしようか」 彼女は子供のように笑った。 「あなた今、『わたしたちの』って言ったわね。まるで本当の夫みたい」 「そんなこと、他の人に言ってはいけないよ」 彼女はすぐに同意した。 「分かっているわ。ちゃんと、ちゃんと気をつける。エヴェラード、あなたのお客さんはとっても頭がいい人たちね。わたしのエヴェラードのお客さんとは大違い。長いこと世間づきあいがなかったからお客さんとお話しできるか心配だわ。看護婦のアリスがお客さんのこと、しきりに感心していたのよ。わたし、テーブルの端に座るのが怖い。キャロラインは女主人役をはずされるのを嫌がるでしょうし。わたし、お茶の時間と晩餐後に降りていくわ。そしてだんだん慣れていく。まだ病気なんだって、簡単に言い訳できるでしょう。もちろん病気なんかとっくに治っているけど」 「君の好きなようにしていいんだよ」出ていきながら、彼はそう言った。 その日の午後、いささか疲れを見せながらも、運動と狩りの楽しさに顔を紅潮させて、狩猟隊がどやどやと広間に入ってきたとき、部屋の片隅、お茶が用意された大きな丸テーブルの後ろに、どちらかというと青白い顔色の、ひどく子供っぽい可憐な女性が、保護と同情を求めるような、愛らしい、大きな目を向けて、おどおどと立ちあがるのを見たのだった。ドミニーはすぐに彼女の横に行った。彼が紹介をはじめるや全員が周りに集まってきた。彼女は口数こそひどく少なかったものの、その言葉は素晴らしく自然で優雅だった。

彼女はキャロラインに言った。「夫のおもてなしをお手伝いいただいて感謝しています。だいぶ良くなったのですが、病気の期間が長すぎて、いろいろなことを忘れてしまい、女主人としてはあまりお役に立てないだろうと思います。でも皆さんにお茶を淹れさせてくださいね。キジを何羽撃ち落としたのかもお聞きしたいわ」 ターニロフは彼女の横の長椅子に腰掛けた。 「このややこしい作業はわたしがお手伝いしましょう。この角砂糖ばさみはお一人で持つには重すぎますからね」 彼女は陽気な笑い声をあげた。 「でも本当は、わたし、ちっとも身体は弱ってないんですよ。とても重い患いでしたけど、今はまた丈夫になりましたから」 「それじゃあ、ここに座る理由を別に考えないと。ご主人が撃ち落としたキジのことや、他の人がみんな当て損なったのに、ご主人だけしとめることができたヤマシギのことをお話しましょう」 「それは楽しみ。お砂糖はいくつ入れます?ホット・マフィンを王女様にさしあげてくださいな。それからそのベルを鳴らしてください。お湯がもっといりますね。みなさん、とっても喉が渇いているでしょう。お会いできてよかったわ」