入れかわった男

第八章

Chapter 8 5,200 words Public domain Markdown

「先祖代々のお屋敷が見えてきましたよ」車が草の生えた並木道の最初のカーブを曲がり、ドミニー邸が見えてきたときミスタ・マンガンが言った。「しかも実に立派なお屋敷だ!」 相手は返事をしなかった。ほんの少し前から嵐が吹きはじめ、彼はまるで寒気がするかのように、帽子を目深にかぶり、コートの襟を耳まで立てたのだった。屋敷がはっきりと見えてきた。正面玄関の両側には大きな主室の窓がある。エリザベス朝風の古めかしい赤煉瓦造りの壁は南の大庭園に面し、石の土台に支えられ、風雨に傷んださえない裏手は沼地と海に面していた。ミスタ・マンガンは愛想良く会話をつづけた。 「建物は、どうにかこうにか、雨風が吹き込まないよう管理してきました。木はそれほど減ったようにはお感じにならないと思います。できるだけ敷地の外縁から伐採しましたから」 「ブラック・ウッドからも切ったのかい?」ドミニーが振り向きもせず訊いた。 「いいえ、一本も。そりゃそうですよ。木こりが誰一人、森に近づこうとしないんですから」 「じゃあ、あの噂はまだ消えてないんだね?」 「村人たちは信じこんでいますよ。ロジャー・アンサンクの幽霊を見たという人間が少なくとも十人はいます。神様に誓って夜中に彼の叫び声を聞いた、というのが二十人以上」 「幽霊は今でも真夜中に庭園や外のテラスをうろつくのか?」 弁護士は躊躇した。 「幽霊は森から出てきて、ドミニー夫人の窓の下のテラスにたたずむようです。もちろん根も葉もない噂ですよ。でもお屋敷のどの召使いも門番も、雇われて一ヶ月以内に辞めてしまうのです。そうでなければとっくの昔にミセス・アンサンクを解雇するよう申しあげていたんですが」 「ということは、まだドミニー夫人にお仕えしているんだね?」 「他に誰もお屋敷にいつかないという、ただそれだけの理由なんですが。奥様はお屋敷を出ることをきっぱりと拒否なさっています。ここだけの話ですが、今のままではもういけないと思うんです。差し支えなければ、晩餐の後で話し合いませんか。ほら、庭園の木はそのまま残してあります」彼は満足そうに話しつづけた。「ここは春になるときれいですよ。実は五月にこちらに参りまして、一晩泊まったのですが、あんなキンポウゲは見たことがありませんでした。牛は牧草地で膝まで草に埋もれていましたし、お屋敷の森のブルーベルが見事に花を咲かせていました。今年の春、フランクニーの絵の愛好家たちが総出でやって来て、ここに散らばっていたんですよ」 「古い壁が何カ所か崩れ落ちているね」壁に囲われた家庭菜園を見ていたドミニーは顔をしかめた。 ミスタ・マンガンは一瞬驚いた。 「あの壁は確か二十年前から崩れていましたよ」 ドミニーは頷いた。「忘れていたよ」と彼はつぶやいた。 「実を言いますと、修復費用を捻出するために絵を一枚か二枚売ってはどうだろうと手紙に書いて送ったのですが、うまい具合にあなたからお返事がなかった!どう修理するかお決まりになったら、さっそく職人をここに呼びましょう。ただ残念ですが」ちょうど鉄の門扉をくぐり、屋敷正面すぐ手前のカーブにさしかかったとき、彼はこうつけ加えた。「お出迎えする召使いのなかに見知った顔はあまりないでしょうな。庭師のラヴィボンドがいますが、ほとんど覚えていらっしゃらないでしょう。それから猟場管理人のミドルトンくらいですかね。彼は猟に関してはまったくかけがえのない男ですよ。お屋敷のなかで働いている連中は新顔ばかりです。ミセス・アンサンクを除いて」 そのとき、車は巨大なポーチの前に停まった。歓迎する人の姿はどこにもなく、ベルを鳴らして、ようやく数日前に町から派遣された召使いにドアを開けてもらった。召使いの後ろには茶色い綿ビロードのコートをはおり、コール天のズボンとすね当てを着用した初老の男が立っていた。白い頬髭を生やし、羊皮紙のように浅黒い肌を見せ、長いトネリコの杖にずしりと体重をかけていた。六人ほどいる新米女中たちが、さらにその後ろに控えていた。別の男があらわれ、荷物を手に取った。ミスタ・マンガンがその場を仕切ることになった。 「ミドルトン」と彼は老人の肩に手を置いて言った。「こちらがお戻りになったご主人だよ。サー・エヴェラードは、君がここにいると聞いてとても喜んでいらっしゃる。それから君もだ、ラヴィボンド」 老人はドミニーが伸ばした手を両手で握り締めた。 「お戻りになって、嬉しゅうございます、旦那様」彼は奇妙なくらいじろじろと相手を見つめた。「ところが、歓迎の言葉が喉に引っ掛かって、すらすらと出てこんのです」 「そんなふうに思っているとは残念だな、ミドルトン」ドミニーは快活に言った。「わたしが戻ると何が困るんだね?」 「困るなんてとんでもねえ、旦那様。お帰りになったのは、嬉しいんです――少なくともわたしらにとっては。ただ、旦那様にとってはどんなもんなんでしょうか。そこが引っ掛かるんで」 ドミニーは今まで以上に胸を張り、小集団に向かって威厳をみなぎらせた。 「一日か二日、一緒にキジ狩りにでもいけば考えも変わるだろう、ミドルトン」彼はなだめるように言った。「君はあまり変わっていないね、ラヴィボンド」彼は後ろに隠れるようにしていた男に向かって言った。晴れ着を着て、ひどく窮屈そうな、落ちつかなげな様子だった。 「おかげさまで、旦那様」彼は少しもじもじしながらそう言い、手を額に持っていった。「しかし旦那様には、お変わりないとは申せませんなあ。外国にいらして、肉がついて、お顔がきびしくおなりだ。こんなことを言っちゃあなんですが、旦那様とは分かりませんでしたよ」 「こちらはパーキンス」ミスタ・マンガンが再びしゃしゃり出てきて紹介をつづけた。「ロンドンで雇った執事です。それから――」 突然、奇妙な沈黙が訪れた。新しい主人の風貌をひそひそと噂していた女中の一団は急に口がきけなくなった。すべての目が同じ方向を向いていた。玄関ホールの片隅からいつの間にか出てきたのであろう、一人の女が不意に彼らの前に立った。痩せこけた身体、簡素な黒い服、髪をひっつめにし、首のまわりには白いカラーすらつけていない。面立ちはほっそりと長く、顔の造作は異様に大きい。目は怒りに満ちていた。話し方はごくゆっくりだったが、北部独特の抑揚がいくらか混じっていた。 「このお屋敷にあなたの居場所はありませんよ、エヴェラード・ドミニー」彼女は行く手を塞ぐかのように彼の前に立った。「昨日の晩、思いとどまるよう、手紙を書きましたが、いやに急いでお出でになりましたのね。ここは人殺しが来るようなところではありません。お引き取りください、もとの隠れ家に」 「何を言うんだね!」マンガンが喘ぐように言った。「許し難いことだ!」 「弁護士様と言い争うために来たのではありません」女が言い返した。「わたしは彼に話をしに来たのです。わたしの顔を見ることができますか、エヴェラード・ドミニー。あなたはわたしの息子を殺し、奥様を狂人に変えてしまった」 弁護士がそれに答えようとしたが、ドミニーが手を振って押しとどめた。 「ミセス・アンサンク、ただちに仕事にお戻りなさい。それからよく覚えておくことだ、ここはわたしの家なのだから、わたしが好きなときに出入りできるということを」 彼女はしばらく口がきけなかった。相手の断固とした口調にあっけにとられたのだ。 「家はあなたのものかもしれません、サー・エヴェラード・ドミニー」彼女は脅すように言った。「でも一カ所、あなたも怖くて入れない場所がある」 「何を言っているのか、分かっているのかね」彼は冷たく答えた。「さあ、すぐ妻のところへ戻って、わたしが到着したことを伝えたまえ。お部屋に伺う許可をひたすらお待ちしていると」 女は不快な、耳障りな笑い声をあげた。その目はいぶかしげにドミニーを見据えている。 「お勇ましいこと。肝が据わってお帰りになったようね。お顔を見せてくださいな」 彼女は光がよく当たっているほうへ一、二歩移動した。額にゆっくりと皺が寄っていった。見れば見るほど自信がなくなった。 「あなたの顔には何かが欠けている」彼女はつぶやいた。 ミスタ・マンガンはここぞとばかりに口を挟んだ。 「そんなことはどうでもよろしい、ミセス・アンサンク」彼は怒気をこめて言った。「一言忠告させてもらうが、ご主人には敬意をもって応対したまえ」 女はまた激高した。 「敬意!息子を殺した男にどんな敬意を抱けというのです?敬意とはね!わたしの言いつけに逆らってここに留まるつもりなら、きっと奥様から敬意の意味を思い知らされることになるでしょうよ」 彼女は踵を返して姿を消した。誰もが一斉に荷物のまわりで忙しく立ち回り、しゃべりはじめた。ミスタ・マンガンは依頼主の腕を取って玄関ホールを抜けた。 「サー・エヴェラード」と彼は心配そうに言った。「こんなことになって本当に残念です。あの女の無愛想なことは予想していましたが、これほど不埒な振る舞いに出るとは思いも寄らなかった」 「妻がそばにいることを許しているのは、今でも彼女だけなんだね?」ドミニーはため息をつきながら尋ねた。 「そのようです。しかし、明日の朝、医者のハリソン先生に相談しましょう。ここにいたいなら、態度をすっかり改めること、それをきちんと理解させなければなりません。あんな非常識な言葉は聞いたことがない。夕食のあと、わたしが直々に彼女に言っておきます――この書斎ならくつろげるでしょう、サー・エヴェラード」ミスタ・マンガンは海側の豪奢な一室のドアを開けた。「目が覚めるような眺めですよ、窓の外は。木を何本か切りましたから。パーキンスがシェリーを用意してくれたようですな。こちらではまだカクテルを飲む習慣がないので、あなたがつくっていかなければならないでしょう。一つだけわたしに感謝していただけることがあるんですよ、サー・エヴェラード。お金に困ったことは一再ならずありましたが、地下のワインは一本も売らなかったのです」 ドミニーは弁護士がついだシェリーのグラスを受け取ったが、飲もうとはしなかった。しばらくのあいだ、物思いにふけっている様子だった。 「マンガン」と彼はやや唐突に言った。「このあたりでは、みんな、わたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか」 弁護士はデカンターを置いて咳払いした。 「正直に答えてくれたまえ」ドミニーが強く言った。 ミスタ・マンガンは相手に合わせることにした。依頼主のことが徐々に分かりはじめていた。 「この近辺でそう信じていない人は一人もいないと思います、サー・エヴェラード。争いが起きて、あなたが彼を打ちのめしたと」 「くどくどと質問をするようだが許してくれ。アフリカに逃亡して最初のうちは、それまでの人生のすべてを忘れ去ろうと必死になっていたんだ。本当にみんなそう信じているんだね?」 「その俗説はほぼ事実と合致してるようです」依頼主が思った以上に理性的に振る舞うのを見て、マンガンは再びデカンターを取りあげた。「不幸のはじまりとなってしまいましたが、あなたがこのお屋敷にお出でになった頃、ミス・フェルブリッグは牧師館で一人住まい同然の暮らしをしていらっしゃった。叔父様が急死なさいましたからね。一緒にいたのは家政婦のミセス・アンサンクだけでした。ロジャー・アンサンクが結婚前の奥様に夢中だったことは、近所に知れ渡っていて、ミス・フェルブリッグはたいそう迷惑に思っていました。ドミニー夫人はあの若者に気がある振りなど一度も見せなかったと思いますが」 「違う意見の人はいなかったのかい?」 「一人もいませんでした」彼は断言した。「でも、あなたがきて、ミス・フェルブリッグと恋をし、彼女をさらっていってしまったとき、誰もがこれはひともめあるぞと感じていたんです」 「ロジャー・アンサンクは頭が変だった」ドミニーは慎重にそう言った。「最初から狂人みたいに振る舞っていた」 「次第次第に狂気に陥っていく、ユージン・アラム(註 ブルワーリットンの小説の主人公)みたいな田舎教師ですね」マンガンは同意した。「そこまではみんなの意見は一致しています。謎めいてくるのは彼が休暇から帰ってきて、結婚の知らせを受け取った、そのあとのことです」 「それから起きたことは実に単純なんだよ。わたしたちはある晩、ブラック・ウッドの北の端で出くわした。彼は狂ったように襲いかかってきた。わたしのほうが少し力が勝っていたのだろうな。しかし屋敷に戻ってきたとき、腕が折れていて、血まみれで、意識を失いかけていた。残酷な運命のいたずらで、ほとんど真っ先に出遭った人間が妻だったのだ。彼女にはショックが強すぎた。彼女は気を失い――そして――」 「以来、正気を取り戻していらっしゃらない」と弁護士が話を結んだ。「おかわいそうに!」 ドミニーは窓の前に立ち、両手を後ろで組みながら言った。「なんとも辛いのは、その瞬間から妻がわたしに対して狂的な殺意を抱くようになったことだ――正当防衛以外の何物でもなかったのに。だからわたしは国を出たのだ、マンガン――ロジャー・アンサンク殺しで捕まるのが怖かったからじゃない。裁判があれば、いつでも出廷しただろう。わたしをズタズタにしたのは別のことなんだ」 「そうでしょうとも」マンガンは同情するようにつぶやいた。「実を言えば、逮捕など絶対にありえませんでしたがね。ロジャー・アンサンクの死体は今日に至るも発見されていないんですから」 「もしも発見されていたら――」 「謀殺ないし故殺罪で起訴されたでしょう」 ドミニーは窓のそばを離れ、シェリーのグラスに唇をつけた。思い出のなかの悲劇はもうどこかへ行ってしまったようだった。 「死体がなくなったから、ブラック・ウッドには今でも幽霊が出るなどという噂が生まれたんだな」 「その通りです。ご存じのように、もともと変な噂のある場所ですし。実際、暗くなってから庭園を横切って森の方に歩いていく村人はいないでしょうね」 ドミニーは時計を見て、マンガンを従え部屋を出た。 「晩餐のあとで西アフリカの迷信の話をしてあげよう。ここの噂が子供だましに思えるよ」