第十七章
これほどいたましいものは見たことがないとドミニーは思った。それは広間の片隅、暖炉の前に立つ女が奇妙に疲れた眼から彼に注ぐ、半ば希望にあふれ半ば不安にさいなまれた真剣なまなざしだった。彼女の横には快活で人なつっこそうな制服姿の看護婦がいた。さらにその後ろには宝石箱を抱えた小間使いがいた。黒いベールをかきあげたロザモンドは片足を炉格子にかけて立っていた。ドミニーが腕を伸ばして急ぎ足に近づいてくると、彼女は表情をがらりと変えた。 「よく帰ってきたね。うれしいよ」 「うれしい?」彼女は喜びのあまり声がつまった。「本気で言っているの?」 気持ちを制している様子は微塵も見せず、彼は自分に差し向けられた唇に触れた。世話を任された見知らぬ子供にでもするような、優しく、敬意に満ちたキスだった。 「もちろん本気だとも」彼は朗らかに答えた。「しかし連絡もなしに帰ってくるなんて、どうしたんだい?何があったんだい、看護婦さん?」 「奥様は二晩ほどお眠りになっていないのです。お身体の具合がとてもよろしかったので、かえって病気がぶり返さないかと、わたしたちは心配しました。ですが婦長のクールソンが、奥様のお望み通り、おうちに帰ったほうがいいとだろう判断したのです。ご主人様に電報をさしあげればよかったのですが、残念なことにハリソン先生に出してしまいまして。先生はお出かけ中のようですね」 ロザモンドはドミニーの腕にしがみつきながら訊いた。「まずかったかしら?わたし、急に戻らなければならないような気がしたの。もう一度あなたに会いたくなったのよ。ファルマスではみんな優しく親切にしてくれたわ。とくにこちらのアリス看護婦は。でもやっぱりうちとは違うもの。あなたは怒ってないでしょう?ここに泊まっている人は気にしないわよね?」 「もちろんだよ」彼は上機嫌で請け合った。「彼らは君のお客さんだよ。明日は全員と友達になってもらわないと」 「とってもきれいな人がいたわ」彼女はおどおどと言った。「金髪の方で、ついさっきすれ違ったの。すごく怒っていたみたい。わたしが帰ってきたからじゃないでしょうね」 「そんなことあるものか。君にはここにいる権利がある。他の誰よりも当然の権利が」 彼女は長々と満足のため息をついた。 「ああ、素敵だわ!あなた――エヴェラードって呼んでもいいのよね?――あなたも元気そうね。わたしが願っていたとおりだわ。二階に連れて行ってくれる?看護婦さん、ついていらして」 彼女は彼の腕に体重をかけて寄りかかり、途中でわざとぐずぐずしさえした。しかし自分の部屋に近づくと、足取りは軽くなった。とうとう廊下にたどり着いたとき、彼女は腕を放して、子供のようにはしゃぎながら部屋のドアに向かって駆けだした。ドアを開け放ったとき、失望の声がもれた。数人の女中たちがなかなか火のつかない薪を相手に悪戦苦闘したり、家具の覆いを取り払っていたのだ。もうもうと煙のこもるその部屋は使えるような状態ではなかった。 「まあ、がっかりだわ。エヴェラード、どうしましょう?」 彼は自分の部屋のドアを開けた。暖炉の火はあかあかと燃え、部屋は暖かく、心地よかった。彼女は小さく喜びの声をあげると、暖炉の前の敷物の端に置かれた大きなソファに飛びこんだ。 「あなたがお休みになるときまでここにいてもいいでしょう、エヴェラード?戻ってきたら、ここに座ってお話してちょうだいね、誰がきているのか、どんな人たちなのか。わたしがどんなによくなったか分からないでしょうね。昔弾いていた音楽をみんな思い出したのよ。ブリッジの腕前も今まで以上にあがったって言われたわ。おもてなしのお手伝いなら喜んでするわよ」 女中が女主人のブーツの紐をゆっくりと解いていた。ロザモンドは足を持ちあげ、彼に触れさせた。 「冷たいでしょう。こすって暖めて。夕食はここで看護婦と取るわ。女中さん、誰か一人下に行って用意をさせてちょうだい。ずいぶん新しいものを買い入れたのね、エヴェラード!」彼女は部屋のなかを見回した。「あら、わたしの絵がテーブルの上に!客間に置いてあったのに」彼女の目が急に嬉しそうに光った。「あなたったら!どうしてあれを持ってきたの?」 「ここに置きたかったんだよ」 「わたし、もうあの絵みたいにきれいじゃないわ」彼女は切なそうにため息をもらした。 「そんなことはないさ。君は少しも変わってない。二、三ヶ月したらもっときれいになる」 彼女はほとんどはにかんだような、いたいけな視線を彼に送った。しかしそこには毅然とした光もあった。 「あなたのご希望通りになってあげる。あなたにはわたしを好きなように変える力があると思うわ。どうか優しくしてちょうだい」彼女は両腕を彼のほうに伸ばした。「病気が長かったせいだと思うけど、自分がすごく頼りなく感じられるの。わたし、あなたのたくましさが好き。あなたに守ってもらいたい。あなたの手もずいぶん冷たいのね」彼女は不安そうに言い足した。「それに顔色も悪いわ。病気じゃないでしょうね、エヴェラード?」 「何ともないよ」彼は声に動揺をあらわすまいと必死だった。「ゆっくり話せなくてわるいんだが、お客さんが来ているからね。ちょっと大事なお客さんなんだ。あしたはみんなと挨拶しなければならないよ」 「そしてあなたのお手伝いをするのね」 「そう、手伝ってほしい」 ドミニーは部屋を抜け出し、よろめくように廊下を歩いた。いちばん上の大きな四角い踊り場まで来ると、彼は立ち止まって、軽く目を閉じ、数秒のあいだ立ちつくしていた。下からは楽しそうな甲高い声や、遠くで鳴っているピアノの音や、ビリヤードの玉のぶつかる音が聞こえた。彼は気持ちが落ち着くのを待った。階段を降りようとしたとき、シーマンがあがってくるのが見えた。相手の押しとどめるような仕草に、彼はシーマンがあがってくるのを待った。それから相手の腕を取り、陰になった角の大きな長椅子に導いた。シーマンにはいつもの陽気さがなかった。唇に人当たりのいい微笑みは漂っていなかった。 「ドミニー夫人はどこにいる?」 「わたしの部屋だよ。彼女の部屋の用意ができるのを待っている」 シーマンの態度はいつになく重々しかった。 「よく分っているだろうが、わたしは君と重要な任務についているにもかかわらず、じつにいい加減な人間だ。おまけに、なんと、悪い癖が一つある。任務を離れているときのわたしは――女に目がないのさ」 「それで?」 「君の立場は確かに微妙で厄介なものだ。ドミニー夫人は君を愛しているらしい。二人のあいだにはいろいろな問題があったが、にもかかわらず、ドミニー夫人は間違いなく夫に対する愛を失っていない。君を怒らせるつもりはないが、しかし彼女の気持ちを助長させることは厳に慎んでくれたまえ」 ドミニーの目が光った。ほんの一瞬、怒りの言葉が唇の上に震えたように見えた。しかしシーマンの態度にはひどく思いやりがこもっていて、少しも不快感を与えなかった。 「他の女なら、君が今の立場を利用して何をしようと、わたしは肩をすくめて傍観している。しかしたわけ者のイギリス人が妻にした女性、いや、未亡人は、心を病んでいる。いまだに精神に異常をきたしている。きみに深い思いを抱いているのと同時にね。さっき君と廊下を歩いているのを見た。彼女は冷たい雨が長くつづいたあと太陽を求める花のように君に愛を求めている。フォン・ラガシュタイン、君は名誉を尊ぶ男だ。難しいかもしれないが、この場はなんとかうまく切り抜けてくれ」 ドミニーは心を乱す最初の波からすでに回復していた。相手の言葉に少しも腹を立てていなかった。それどころか今まで以上に思いやりをこめて相手を見ている自分に気がついた。 「君はわたしが板挟みになっていることを理解してくれているんだね。たしかに悩ましいことこの上ない。もう一つ、板挟みになっていることがあるんだ。アイダーシュトルム王女が皇帝から署名入りの手紙を持ってきた。彼女との結婚を命令する手紙だ」 シーマンは苦り切った顔で言った。「深刻な側面を無視して、上っ面だけ見れば、こいつはパレロアイヤルの笑劇にうってつけの状況だな。しかしひとまず君は下に行かなければならんね。わたしは言いたくてうずうずしていたことを言ってしまったし」 彼らはちょうどよいときに下に降りた。近隣から招いた客が帰宅の準備をしていたのだ。ドミニーは別れの挨拶に間に合った。彼らは口をそろえて、ドミニー夫人によろしく伝えてほしいと言った。またすぐ夫人を訪ねてまいります、健康を回復してお戻りになったと聞き喜んでおります。最後の車が行ってしまったとき、キャロラインが主人の腕を取って、奥の間へ引きこみ、大きな薪が燃える暖炉わきの椅子に座らせた。 「エヴェラード、あなたって本当にひどい人」 「どうしてですか?」 「わたしたち女性を深く愛してくれるのは嬉しいんだけど、みんなを相手にするっていうのは行き過ぎじゃないかしら。あなたがイギリスに戻ってきて、起るはずのないことが起きたわ。つまり、奥さんが正気に戻ったってこと。気性の激しいハンガリーの王女様は、あなたを追いかけてここまで来たというのに、今さっき、あなたが奥さんを迎えにしばらくそばを離れたものだから、すっかりおかんむりの体で部屋に入ってしまった。それからわたしとの悲しいささやかなアバンチュール。ああ、わたし、袖にされ、捨てられちゃったのね!エヴェラード、あなたって本当に悪い人」 「ひどい言われようだなあ。でも波瀾万丈の夜のあと、こうしていられるのはほっとしますね。ゼウスみたいに稲妻を投げつけてこない人が話し相手なんだから。ウイスキー・ソーダを飲んでもかまいませんか?」 「わたしにも一杯お願い。飲んだら、予定と違って、話の調子が全然狂っちゃうかもしれないけど、喉が渇いたわ。それからトルコ煙草もひとつかみ。何も気にせず、わたしのお相手をしてくれたらいいのよ。あなたのいちばん大切なお客さまは、大好きな仕事を見つけたようよ。ビリヤードルームの隅でヘンリーをつかまえて、あの人の信念を彼に植えつけようとしているわ。ドイツはイギリスに対してごく平和的な意図しか抱いていない、ですって。判事様はお休みになり、エディ・ペラムはミスタ・マンガンとビリヤード。みんな楽しくやっているわ。あなたはわたしの傷ついた虚栄心をなぐさめることに専念してくれたらいいの。もちろん失恋に痛む胸も忘れないで」 「いつもからかうんですからねえ」 「いつもじゃないわ」彼女はふと目をあげ、静かに言った。「あの恐ろしい悲劇が起こる前、あなたが最後にダンラッターに泊まっていたとき、あのときはからかったりしなかった」 「あのときのあなたは、今と違って、優しさそのものでした」 彼女は思い出にふけるようにため息をついた。 「素晴らしい一ヶ月だったわ。あのとき、初めてあなたのなかに、今のあなたになる可能性を見たんだと思う」 「つまりわたしは変わったということですか?」 彼女は相手をじっと見つめた。 「ときどき信じられなくなる、あなたが同じ人だなんて」 彼は顔を背けてウイスキー・ソーダに手を伸ばした。 「好奇心から訊くんですけど、その理由は何ですか?」 「まず第一に、言葉遣いが堅苦しくなった。昔はくだけた言い方もときどきしていたけど」 「他には?」 「昔は語末のgをはしょっていたわ」 「あきれた癖ですね。アフリカの奥地で朗読の練習をして直したんですよ。それから何があります?」 「動作がしゃちほこばっている。ときどき軍服を着ていないことに気づいてびっくりしているみたい」 「それはみんな些細なことですね。大きな変化はありますか?」 「大きな変化はとてもいい変化よ。以前はウイスキー・ソーダを四六時中あおって、晩餐の時はワインをがぶ飲みしていたわ。今はほとんど飲まないのね。如才なく主人役をこなすのに」 「ご婦人方がいないときに、どれだけポートワインを飲んでいるか見せたいですね。他にもいい変化がありますか?」 「あなたのいいところがみんな表に出てきたみたい。帰国して過去を清算しようとしているのは立派というしかないわ。ねえ、あの男の死体が発見されたら、あなたは殺人で起訴されるの?」 彼は頭を振った。「そうはならないでしょうね、キャロライン」 「エヴェラード」 「何です?」 「ロジャー・アンサンクを殺したの?」 燃えている薪の一部が暖炉のなかで崩れた。そして沈黙が訪れた。隣の部屋から玉突きの音が聞こえてきた。ドミニーはかがんで、小さな火箸を使い、燃えている薪をかき集めた。彼は突然手をつかまれた。 「エヴェラード。ごめんなさい。今晩は疲れているのに、わたしの相手をしてくれたんでしょう?同情してあげるべきなのに、わたしったらとんでもないことを訊いちゃった。どうか忘れてね。昔みたいに話してちょうだい。ロザモンドのお帰りのこととか。本当に治ったと思う?」 「ちょっと会っただけなのですが、間違いなく回復に向かっているようです。毎週、療養所からくる報告で、病状がぐんとよくなったことは知っていました。身体はひどく弱っていて、目はまだ落ち着きがないんですが、話すことは首尾一貫しています」 「あの嫌らしい女はどうなったの?」 「ミセス・アンサンクには年金を与えて辞めてもらいました。驚いたことに、今でも村に住んでいるそうです」 「幽霊のことは?」 「ロザモンドがいないときは叫び声一つたてません」 「もう一つ訊きたいことがあるの」キャロラインは言いにくそうに話し出した。 その「もう一つのこと」は永遠に口にされることはなかった。奇妙な、劇的といってもいい邪魔が入ったのである。広間の静寂を破って、正面ドアの巨大なベルが鳴り響いた。ドミニーはぎょっとして時計を見た。 「真夜中じゃないか。いったいこんな時間に誰が来たんだろう」 本能的に二人は立ちあがった。男の召使いが大きな鍵を回し、かんぬきを引き抜いて、苦労しながらドアを開けた。雪と冷たい風が玄関に吹きこみ、それにつづいて頭からつま先まで雪に覆われ、髪の毛を風に乱され、吹雪との闘いで誰とも見分けのつかなくなった男の姿があらわれた。 「ハリソン先生!」ドミニーは急いで一歩前に踏み出した。「こんな時間にどうなさったんです?」 医師はしばらく杖に寄りかかっていた。息が切れ、溶けた雪が服からオーク材の床にしたたっていた。彼らはコートを脱がせ、火の方に彼を誘った。 「こんな時間に申し訳ない」彼はドミニーが持たせてくれたタンブラーを握った。「ついさっきドミニー夫人の電報を受け取ったんだ。君に会わなければならなかったんだよ――すぐに」