入れかわった男

第十二章

Chapter 12 4,617 words Public domain Markdown

ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。帰宅した時間は遅かった。しかしドミニーは別世界の住人のように見えて、客に対するもてなしをおろそかにしなかった。ミスタ・ジョンソンと管理人のリースはワインのマグナム瓶が開けられるのを生まれて初めて見たようだった。ミスタ・ジョンソンは咳払いをして、グラスを掲げた。 「サー・エヴェラード、借地人を代表してあなたの健康に乾杯を唱えたいと思います。借地人のなかには苦労の絶えなかった者もいます。しかし白人らしく耐えてきました。彼らとわたしの気持ちをこめて乾杯させてください。これからもお元気な姿を見せてくださいますように」 ミスタ・リースもそれに和し、グラスはたちどころに乾され、また満たされた。 「ご承知でしょうが、サー・エヴェラード、今日お約束なさったことには一万から一万五千ポンドの費用がかかりますよ」と代理人が言った。 ドミニーは頷いた。 「今晩寝る前に、ウェルズにある君の銀行の不動産口座に二万ポンドの小切手を送る。そのための金はもう用意してあるのだ。そうだ、君に持って行ってもらおうか」 代理人と管理人は半時間後、大きな葉巻をくわえ、心地よいさざ波のような暖かさが血管を駆けめぐるのを感じながら、車の後部座席に寄りかかっていた。二人ともおとぎの国へでもさまよいこんだような気分だった。全く信じられないようなことが起きた、と彼らは思った。 「奇跡だね」ミスタ・リースは言った。 「現代の夢物語だよ」小説好きのミスタ・ジョンソンはつぶやいた。「おや、屋敷に客が来たようだね」一台の車が彼らの横を走り抜けたとき、彼はそうつけ加えた。 「しかも裕福そうな紳士だ」とミスタ・リースが言った。 「裕福そうな紳士」とはオットー・シーマンだった。彼は小さな旅行かばんを手にして大いに恐縮しながら屋敷にあらわれた。 「ノリッジに行っていたんだよ、サー・エヴェラード。そこでずっと商売をやっているんだが、お客さんの一人に対応する必要ができてね。早く片づいたし、ここが三十マイルしか離れていないことが分かると、居ても立ってもいられなくなった。泊まっちゃ都合が悪いというなら、遠慮無く――」 「とんでもない。部屋はいくらでも空いている。火を起こして、昔ながらのあんかを入れればいいだけさ。ミスタ・マンガンは覚えているかい?」 二人は握手し、シーマンは遠出で渇いた喉を潤すために飲み物を受け取った。晩餐前のベルが鳴っても、彼はしばらくその場に残っていた。 「彼はいつ帰る予定だ?」 「明日の朝、九時」 「じゃあ、それまで黙っていよう。あまり君につきまとっているように見られてもいけない――本当は来たくなかったのだが――緊急の用件があってね」 「マンガンには早めに寝てもらうか」 「わたし自身、早起き鳥なんだよ。昨日は徹夜したし。話は明日でいい」彼は疲れたように答えた。 その日の晩餐は楽しくなごやかなものになった。ミスタ・マンガンはとりわけ上機嫌だった。過去十五年間、ドミニー家に関係した話はことごとく貧窮の匂いを放っていた。実際、帳尻を合わせるために彼は一方ならぬ苦労をしいられたのである。怒鳴りこんできた借地人との不愉快な話し合い、不満を抱く抵当債権者との公式会見、そんな嫌な仕事をこなしても、歳の終わりに得る利益は目を剥くほど少なかった。新しい事態は至福境といってもいいくらいだ。そこに仕上げの一筆を加えたのが、パーキンスだった。彼はデカンターを二つテーブルに置きながらこんなふうに祝賀の言葉をささやいた。 「旦那様、五十一年もののコックバーンの大箱がありました」彼は弁護士にも聞こえるようにそっと耳打ちした。「味見なさりたいのではないかと思い、二本ほどお持ちしました。ミスタ・マンガンはなかなかの通でいらっしゃるようですし。コルクは申し分のない状態のようです」 「これからはペルメル街の堅苦しい高級クラブには行けなくなるな」ミスタ・マンガンはため息をついた。 シーマンはその晩、まだ宵のうちだというのに、ひどく眠いといって部屋に引き取り、屋敷の主人とマンガンが二人きりでポートワインを飲むことになった。ドミニーは主人役としてよく気のつくほうだったが、そのときはどことなくぼんやりした様子だった。観察力の鋭くないミスタ・マンガンでさえ、主人からある種の厳しさ、ほとんど傲慢といってもいい話し方や態度が、一時的に消えてしまったことに気づいた。

彼は一杯目のワインを飲みながら言った。「サー・エヴェラード、由緒ある一族が、いわば再興を遂げることになり、わたしがどれだけ嬉しく思っているか、とても言葉にできません。しかしこう言っては何ですが、最後の締めくくりに一つだけやることが残っていますな」 「何だい、それは?」ドミニーはぼんやりした声で尋ねた。 「ドミニー夫人の健康を回復することです。覚えておいででしょうか。わたしはあなたが結婚なさったとき、奥様とお近づきになる特権を得た、数少ない人間の一人なんですよ」 「今朝、結婚以来、ずっと彼女を診ている医者に会ってきたよ。彼もわたしと同意見で、妻が完全に治る見こみがないわけじゃないと話していた」 「では、勝手ながら、その希望に乾杯させてください、サー・エヴェラード」 二つのグラスはきれいに乾されてテーブルに置かれた。ただドミニーのグラスは脚が二つに折れてしまった。ミスタ・マンガンは気遣いを示して残念そうに言った。 「こういう古いグラスは非常にもろくなりますな」彼は感心しながら自分のグラスを見つめていた。 ドミニーは返事をしなかった。脳裏に奇妙な幻が浮かんでいたのだ。彼は部屋の陰からステファニー・アイダーシュトルムが両腕を伸し、昔の誓いを果たすように呼びかけているのが見えたような気がした。そしてその後ろには―― 「君は人を愛したことがあるかい、マンガン」 「わたしですか?さあ、どうでしょう」世間を知り尽くした男も突然の質問にいささか驚いた。「愛なんて今どき流行らないんじゃないでしょうかね」 ドミニーは思いに沈んだ。 「そうだろうね」と彼は言った。 その夜、荒涼とした灰色の海のかなたから嵐が吹き出した。その到来を告げる風がごうごうと沼地を渡り、ドミニー邸の格子窓を揺るがし、煙突のあいだや、いくつもある屋敷の角で悲鳴をあげ、泣き叫んだ。黒雲が陸地に垂れこめ、土砂降りの雨ががたつく窓枠と窓ガラスを叩いた。ドミニーは寝室の大きな蝋燭に火を灯し、部屋着をしっかりまとうと、安楽椅子に腰をおろし、横にある読書灯の向きを調節して、本を読もうとした。ほどなく本が彼の指から滑り落ちた。彼は急に緊張し、油断なく注意を払った。ベッドの左側の羽目板を一つ一つ目で数えた。聞き覚えのあるカチリという音が二回くり返された。とたんに暗い空間があらわれた。それから女が身体を低くかがめながら部屋のなかに入ってきた。蛾が蝋燭の半円形の光に惹かれるように、彼女はゆっくりと彼のほうに向かってきた。髪は少女のように後ろに垂らしている。彼女をふわりと包む白い半透明の部屋着は、ふとボンド・ストリートの一流商店街を思い起こさせた。 「怖くはないでしょう?」彼女は案じるように尋ねた。「ほら、手には何も持ってないのよ。もうあんな気持ちには二度とならないと思うわ。昨日の晩、わたしが持っていた短剣を覚えている?今日、井戸に捨てちゃったの。ミセス・アンサンクがとても怒っていたわ」 「怖くはないさ。ただ――」 「まあ、わたしを叱るつもりじゃないでしょうね。わたし、嵐が怖いの」 彼は背の低い椅子を一つ、小さな光の輪のなかに持ってきてクッションを置いた。彼女はそこに沈みこみながら、不意に彼のほうを見上げて微笑んだ。得も言われぬ愛らしい、こぼれるような笑みだった。ドミニーは一瞬、心臓をナイフでひと突きされたような気がした。 「ここで休んだらいい。何も怖がることはない」 「わたし、ちゃんとわかっている。この嵐はわたしたちの生活の一部なのね。私たちが生まれるとともにやってきて、わたしたちが死につかまるときは世界を揺さぶるんだわ。怖がってはいけない。でも、わたしはずっと悪い病気にかかっていたのよ、エヴェラード。今もエヴェラードって呼んでいいかしら?」 「もちろんだよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」 「だってあなたは、ちっともエヴェラードらしくないんですもの。何かがなくなって、何かがつけ加わったわ。同じあなたじゃない。何なのかしら?アフリカで辛い目にあったの?向こうで人生がどういうものか、学んだのかしら?」 彼は椅子に凭れて、しばらく彼女を見ていた。椅子はわずかに暗闇のなかへ押しやられていた。彼女の髪は鮮やかな光沢を放ち、そのせいで彼女の肌は今までになく白く、きめ細かく見えた。目は輝いていたが、訴えるような、子供が傷つけられることを恐れるような表情があった。長いあいだ邪な情熱に振り回されていたとはとても思えないほど彼女はひどく幼く、ひどく華奢だった。 「向こうでいろいろなことを学んだんだ、ロザモンド」彼は静かに言った。「正しい行いと悪い行いの区別も少しは学んだ。人生の情熱は、ただ一つをのぞいて、いつかは燃えつきるということも」 彼女は部屋着の飾り帯をひとしきり指で弄んでいた。彼が今語ったことは、彼女の理解と興味の外にあるかのようだった。 「わたしのことはもう恐れることはないのよ、エヴェラード」そういう彼女はどこか哀れだった。 「ちっとも恐れてなんかいないさ」 「じゃあ、どうして椅子をもっと引き寄せて、わたしの近くに来ないの?」彼女は目をあげて尋ねた。「風の音が聞こえる?わたしたちに向かって猛り狂っている。怖いわ!」 彼は彼女の横に移動し、その手を優しく取った。指に力を入れると、彼女の指もすぐに反応した。彼が語りかけたとき、その声はほとんど自分のものとは思えなかった。かすれた、押し殺されたような声だった。 「あんな風に君を傷つけさせたりはしない。いや、他の何ものにも手を出させはしない。君を護るためにわたしは帰ってきたのだから」 彼女はため息をつき、疲れた子供のように微笑んだ。頭をクッションのなかにさらに沈めると、同時に彼女は目を閉じた。 「そのままでいてちょうだい。何かとっても新しいことがわたしに起ころうとしている。安らかだわ。今までこんなに甘い、安らかな気持は感じたことがない。どこにも行かないで、エヴェラード。手を放さないでね、このまま」 蝋燭は蝋燭立てのなかで燃えつき、風はいっそう猛々しく唸りをあげた。嵐の雲を割って朝日が差しはじめる頃、風はようやく収まった。いつの間にか青白い光りが部屋のなかに入ってきていた。女はまだ寝入っていたが、その指は相変わらず彼の指をしっかりとつかんでいるようだった。寝息は変わることなく微かで、規則正しかった。絹のような黒いまつげは白い頬の上でじっとしている。唇は――完璧な形の唇は――静かな線を描いて休らっていた。彼は、なぜか分からないが、この眠りのなかに新しいものが存在していることに気がついた。目はしょぼつき、手足は痛んだが、彼は座ったまま夜を過ごした。タペストリーで飾られた壁を小さな背景として、夢が次から次へと立ちあらわれては消えていった。彼女が目を開けて彼を見たとき、眠りについたときに見せた、あの同じ微笑みが彼女の唇をほころばせた。 「とってもくつろいだ気分。気持ちがいいわ。わたし、夢を見たのよ。素敵な夢」 火は消えていて、部屋は寒かった。 「さあ、部屋に戻らないと」 彼女はごくゆっくりと指を放し、腕を差しあげた。 「抱いていって。まだ半分眠っているの。もう一回寝たいわ」 彼は彼女を持ちあげた。彼女の指が首の回りにまといつき、彼女の頭は満足のため息とともに後ろにのけぞった。彼は折りたたみ戸を開けることができず、彼女を抱いていったん廊下に出てから、彼女の部屋に入った。そして乱れていないベッドの上に彼女を横たえた。 「寝心地はいいかい?」 「とっても」彼女は眠そうにささやいた。「キスして、エヴェラード」 彼女の手は彼の顔を引き寄せた。彼は唇を額に押しつけた。それから毛布をかけてやると、逃げるように部屋を出た。