入れかわった男

第二十一章

Chapter 21 3,824 words Public domain Markdown

ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーは見たところすこしも警戒心を抱かせるような人物ではなかった。彼は執事の私用の居間で丁重きわまりないもてなしを受け、その歓待ぶりに充分満足しているようだった。ドミニーが入り口にあらわれると、彼は立ちあがって不動の姿勢を取った。軍人らしい挙措がいくつか眼についたが、それがなければ非常に社会的地位のある、隠退した商人としてどこでも通用しただろう。 「あなたがサー・エヴェラード・ドミニーですか?」 ドミニーは頷いた。「そうです。以前、お会いしたことがありますか?」 男は首を横に振った。「わたしはドクター・シュミットの従兄弟です。あなたがお帰りになったあと、ローデシアから植民地に行ったのです」 「先生はお元気ですか?」 「従兄弟は相変わらず忙しいのですが、たいへん元気にやっております。あなたによろしく伝えてくれとのことでした。それからこの手紙も」 男は多少気取った手つきで封筒を取り出した。そこには

英国ノーフォーク州ドミニー邸 サー・エヴェラード・ドミニー男爵様

とあった。 ドミニーが封を切っているとき、シーマンが入ってきた。 「東アフリカで知り合ったドクター・シュミットから伝言を持ってきてくれたんだ。ミスタ・シーマンはわたしと一緒に南アフリカから帰国したのです」 二人の男は互いの目をじっと見つめ合った。ドミニーは興味をそそられ彼らを見ていた。どちらもまったくの無表情で、まばたき一つしなかった。しかしその瞬間、直感的に危機の到来を感じ取り、ドミニーの感覚は極限まで研ぎ澄まされた。口にもそぶりにも出さなかったが、二人がお互いの正体を見て取ったことが分かった。ありきたりの挨拶が取り交わされた。ドミニーは数行からなる手紙を読み、ふと別の世界に連れ戻されたような気がした。

親愛なる閣下 慎んでご挨拶を申しあげます。こちらのその後の様子につきましては、別途、お聞き及びになることもございましょう。

閣下にはわたしの従兄弟で、この手紙の持参者であるミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーをご紹介いたしたく存じます。従兄弟は閣下にご承知置き願いたいある事情を説明することになっております。従兄弟にはどのようなことでもお話しください。あらゆる点で信頼のできる人物です。 カール・シュミット(署名)

「あなたの従兄弟はちょっと謎めいた言い方をしていますね」ドミニーは手紙をシーマンに渡した。「それである事情というのは何のことですか?」 ルードヴィッヒ・ミラーは小部屋を見回し、それからシーマンを見た。ドミニーは彼の躊躇をわざと誤解した振りをした。 「こちらの友人は何でも知っています。わたしに対してと同じように話してください」 男は物語を語るように話し出した。 「わたしがこちらに来たのは、あなたに警告を与えるためです。ブルー・リバーの川岸、ビッグ・ベンドであなたが殺したイギリス人が、アフリカの別の場所にいるという連絡がありました」 ドミニーは信じられないといったふうに頭を振った。「そんなことを伝えるために、わざわざここまでお出でになったんじゃないでしょうね。あの男は死んでいますよ」 「わたしの従兄弟もなかなか信じようとしませんでした。あの男は命を奪うに充分な量のウイスキーを持っていました。それを全部飲み乾すくらい喉はからからで、食料は何もありませんでしたから」 「わたしが彼を見つけたとき、付き添いに見捨てられ、譫言を言っていた。永遠に黙らせるのは赤子の首をひねるようなものだった」 「ところがそれが未遂に終わっていたのです。植民地の三つの場所から彼の消息が伝わってきました。必死で海岸方面に向かっていたそうです」 「自分の名を名乗っているのだろうか?」 「いいえ。しかし従兄弟からあなたに申しあげるよう念を押されたのですが、いずれにせよ、彼は本名を名乗ったりはしないでしょう。彼の行動はまともではありません。身体もひどく弱っています。気が狂いかけているのは間違いありません。それでも彼が植民地にいる、あるいは数ヶ月前にいたというのは事実です。海岸まで達したら、いつ彼がここに来て、あなたを驚かすかも知れません。わたしはあなたに必要な措置を取っていただき、彼があらわれても不利な立場に置かれないよう、警告を発するために送られてきたのです」 「妙な知らせを持ってきたものだね、ミラー」シーマンが考えこむように言った。 「この知らせにはドクター・シュミットもたいへん心配しています。彼は現地人を一人ひとり詰問しました。しかし彼らの話を覆すことはできませんでした」 「その話が本当で、あの男がこの国に向かっているとすれば、いつここにあらわれるかも分からないということだね」とシーマンが言った。 「わたしがここに来たのは、その可能性を警告するためです」 「君自身は現状をどこまで把握しているんだ?」 男は曖昧に頭を振った。 「何も存じません。わたしは数年前に東アフリカに行き、モザンビークでささやかな貿易業を営んできました。将校、病院、狩猟家に備品類を提供しているのです。ときどき仕入れのためにヨーロッパに戻らなければなりません。ドクター・シュミットはそれを知っていて、船出する直前に会いに来たのです。最初、彼は長い手紙を書くつもりだったようですが、気が変わったのでしょう。わたしがお持ちしたほんの短い手紙を書いただけで、あとのことは口頭でわたしに伝えられたのです」 「先生が話したことはみんな覚えていらっしいますか?」ドミニーが訊いた。 「今申しあげたことがすべてです」一瞬の間をおいて、そういう答えが返ってきた。「ドクター・シュミットはこの件を非常に気にかけています。これに関連して、訳の分からない、謎めいたことが起きていますから」 「それで君がここにあらわれたのか、ヨハン・ヴォルフ?」シーマンの口調が変わった。

訪問者は目に微かな驚きを浮かべただけで、一切顔色を変えなかった。 「ヨハン・ヴォルフですか」と彼は繰り返した。「それはわたしの名前ではありません。わたしはルードヴィッヒ・ミラーです。この件に関しては、お話した以外のことは何も知りません。わたしはただの伝令です」 「ウィーンで一度、クラクフで二度会っている」シーマンはもの柔らかに、しかし執拗に彼に思い出させようとした。 もう一人の男はゆっくりと頭を振った。「人違いではありませんか。何年も前に一度ウィーンに行ったことがありますが、クラクフには行ったことがありません」 「君は誰と話をしているのか、分からないのかね?」 「ヘア・シーマンというお名前でしたね」 「とてもいい名前だよ」シーマンは嘲るように言った。「これを見て考えてごらん」 彼はコートとチョッキのボタンをはずし、セーム革の無地のベストを見せた。その左側には文字と数字が記されたブロンズの飾りがついていた。ミラーは無表情にそれを見つめ、頭を振った。 「情報局、第十二執務室、合い言葉、時は迫れり」シーマンは声を落としてつづけた。

相手は何を言われているのか理解できない子供のように薄笑いを浮かべて頭を振った。 「こちらの紳士はわたしを他人と勘違いなさっていますね。何のお話やらさっぱり分かりませんが」 シーマンは腰をおろし、何も言わずに数分間、この頑固な訪問者をじろじろと見ていた。両手の指を合わせ、眉間に軽くしわを寄せた。差し向かいに立っていた男は身じろぎもせずこの注視に耐えていた。冷静沈着、まさにドイツの典型的なブルジョア商人だった。 「こちらに長くご滞在の予定ですか?」ドミニーが訊いた。 「一日か二日、もしかすると一週間くらいは」彼は何気ない調子で答えた。「ノリッジにおもちゃを製造している従兄弟がいます。わたしはイギリスの田舎が好きなんですよ。休暇はこちらで過ごそうと思っています」 「ほほう」シーマンが辛辣な声を出した。「雪の降り積もったイギリスの田舎が好きとはな!わたしにもう言うことはないのかね、ヨハン・ヴォルフ?」 「男爵への用向きはお伝えしました」彼は申し訳なさそうに返事した。「あなたの気分を害したことを残念に思います、ヘア・シーマン」 シーマンは立ちあがった。ドミニーはすでにドアの方を向いていた。 「もちろんうちで一泊なさるでしょうね、ミスタ・ミラー。ミスタ・シーマンは明日の朝、もう一度お話がしたいだろうと思うんですよ」 「泊めていただければこんなにうれしいことはありません、男爵。しかしながらお友達の興味をひくようなことは、もうこれ以上何もありません」 「君は大きな間違いを犯しているぞ、ヴォルフ」シーマンが怒った。「上司のわたしに対する君の態度は許し難い!」 「人違いだとお分かりいただけさえすれば!」咎められた男は懇願するように言った。 ドミニーと共に家の正面側に向かうあいだ、シーマンは険しい顔をしていた。友人の問いに答える声も険しかった。 「あの男と彼の訪問をどう思う?」 「どういうことか分からんが、分かっていることもたくさんある。あの男はスパイだ。外務省の切り札ともいうべき男で重大な事件が起きたときにしか起用されない。名前はヴォルフ、ヨハン・ヴォルフ」 「じゃ、彼の話は?」 「それは君が誰よりもいちばんよく判断できるはずだよ」 「その通りだ。わたしは間違いなくあの男の死体をブルー・リバーに投げこんだ。そして沈んでいくのを見た」 「つまり彼の話は嘘だってことだ。事情は分からないが、われわれはわれわれ自身のスパイ組織から疑いをかけられてしまったんだ」 広間に入ったとき、シーマンはアイダーシュトルム王女から緊急の呼び出しを受けた。ドミニーはしばらく姿が見えなかったが、やがて濡れた狩猟服を脱いで戻ってきた。彼のあとから召使いがやってきた。銀の盆にメモを載せている。 「ミスタ・パーキンスの部屋にいらっしゃるお客様から、ミスタ・シーマンに御伝言です」召使いは声をひそめていった。 ドミニーは小さく頷いて盆からメモを取りあげた。彼はお茶のテーブルから立ちあがろうとしている、客のなかでいちばん若くて、いちばんひょうきんな男のほうを振り向いた。 「玉突きで勝負だ、エディ。プールは得意中の得意なんだって?」 「相当な腕ですよ、わたしは」若者は満足そうに笑った。「スヌーカーで黒玉一個ハンディをあげましょう。どうです?」 ドミニーは彼の腕を取ってビリヤードルームに連れて行った。 「ハンディはいらない。用意したまえ。わたしがヨハネスブルグで二ヶ月間、どうやって生計を立てていたか見せてやろう」