第二十章
ターニロフ王子と主人は腕を取り合って長々と続く樅の木立の裏の、雪に覆われた斜面を登っていった。二人がめざしていたのは小さな旗つきの棒だった。そこが彼らの立ち位置なのである。見渡す限り人影はなかった。他の撃ち手たちは傾斜のきつい、けれども回り道をしないですむ道筋を辿ることにしたのだ。 「フォン・ラガシュタイン、勝手だが名前で呼ばせていただく。知っていると思うが、わたしには一つ弱点がある。若かった頃は、そのせいで外交官を首になりそうになった。わたしはスパイというものがとにかく嫌いなのだ。それが必要な場合でもね。わたしには君の役割が滑稽に思える。ポツダムには個人的に電報を送って、その旨を伝えておいた」 「今までのところ、たいした働きもありませんが」 「いいかね、たいした働きがないというのは、正当化しうるような仕事がないからだよ。これからもそんなものはありはしない。あなたのここでの仕事には何のメリットもない。本当の名前や役割がばれてごらん。イギリス政府に恐ろしく悪い印象を与えるんだよ」 「わたしは盲目的に祖国に従うしもべです。どうかそのことを忘れないでください。命令に従っているだけなのです」 「それはたしかに認めるがね。しかし話をつづけよう。わたしがこの国に着任してからもうすぐ一年が経つ。それなりに成果をあげてきたと自負している。わたしが関係してきた閣僚メンバーからは、両国の相互理解をいっそう深めるよう、努力を促す声しか聞こえてこない」 「確かに今のところ万事順調にすすんでいます」ドミニーが同意した。 「ダウニング街にはドイツとの平和な関係を望む真摯な、根強い願望があると確信している。いつ議論しても、いつ譲歩を求めても、両国の友情を育みたいという心からの願いに出会うのだ。わたしは自分の仕事に誇りを感じている、フォン・ラガシュタイン。ボーア戦争の頃から比べると、ドイツとイギリスはずっと近しい間柄になったと思う」 「大使の個人的な人気と国民感情を混同なさってはいませんか?」 「その点は確信がある」大使は重々しく言った。「わたしがこの国で人気を得たのは、現在の世界政治をもっと健全なものにしたいという気持ちがあるからだよ。いま大いに楽しみながら自分の仕事の成果を回顧録に跡づけているところだ。いつか両国のあいだに平和がしっかりと築かれたとき、出版しようと思っている。そのなかに現政権が真剣に平和を望んでいる証拠を、知り得た範囲で挙げておいた」 「内々にその回顧録を読ませていただけるなら大変嬉しいのですが」 「いいだろう」彼は愛想よく返事した。「とりあえずあなたにはこちらでのご自分の役割を考え直していただきたい」 「わたしの役割は自発的なものではありません。命令に従って行動しているのです」 「その通りだ。しかし過去半年のあいだに情勢は大きく変わった。フランスの不興を買うことを承知で、イギリスはわが国のモロッコに対する要求に素晴らしく柔軟な姿勢を示している。重要課題を巡って両国が衝突する可能性は今やなにひとつ無くなったのだ」 ドミニーは考えこみながら言った。「戦争を仕掛けたいという欲求がダウニング街にではなくて、ポツダムのほうにあるとしたら話は別でしょう」 ターニロフは厳しく言い切った。「われわれがいただく主人は高潔なお方だ。わたしはその御本人から直接お気持ちをたまわったのだ。皇帝は平和と大いなる繁栄を望んでおられる。わが国はとっくにそれを享受する資格がある。産業も商業も国民性も才能も秀でているのだから。そしてそういうものがドイツを世界最大の大国にする武器なのだ。武器をふるうだけで不滅の栄光にたどり着いた帝国など、いまだかつて存在しない。撃ち場に着いたようだな。この狩り立てが終わったらわたしのところに来てくれ。今言ったことはほんの前口上に過ぎないのだ」 空気は乾燥しはじめ、雪は粉雪になった。女性たちの小隊は勢子が森を抜ける前に撃ち場に着いた。キャロラインとステファニーはどちらもドミニーの隣に並んだ。しかしキャロラインは数分後、ターニロフが銃を構えているところへ行ってしまった。ステファニーとドミニーは図書館での波乱に満ちた対面以来、初めて二人きりになった。 「モーリスがあなたに話しかけてきた?」やや唐突に彼女は尋ねた。 「実を言うと、大使と非常に興味深い話をしている最中なんです」 「わたしのことはしゃべったかしら?」 「お名前はまだ出てきていませんね」 彼女はちょっと顔をしかめた。豪華な毛皮にロシア風のターバン・ハットをかぶった姿は雪を背景にくっきりと際立っていた。 「わたしの名前が出てこないのに興味深い会話とはね!」彼女は皮肉をこめて相手の言葉をくり返した。 「もうすぐあなたのことが話題になると思います。大使は、今までの話は前口上に過ぎない、もっと重要な用件があるとおっしゃいましたから」 ステファニーは笑った。 「モーリスは本当に遠回しね。最初にきっとお小言があるわよ、あなたのひどい仕打ちのことで」 猟がはじまったため会話はしばらく中断した。ドミニーは忠実なミドルトンをそばに呼んで弾薬の補給を頼んだ。ステファニーは勢子たちが森から出てくるまで待った。 「あなたの仕打ちは、ひどいなんて生やさしいものじゃないわ。レオポルド、はっきり言えば、わたしの心をずたずたにしたのよ。誇りさえ傷つけた」 「女性としての観点からしか物事を見ないからですよ」 彼女は声を低くした。「あなたはどうなの。昔は誰よりも優しくて情熱的だった人が、今は政治という観点からしか物事を見ないじゃない。お国のことをたいそう大事になさっているわね、レオポルド。わたしのことなんかどうでもよくなった?」 「エヴェラード・ドミニーにとってはどうでもいいことです。時が至れば、レオポルド・フォン・ラガシュタインは、彼が権利を持つすべてのものを手に入れることができるでしょう。信じてください。冷たくされたとか決断が遅いといって不平を鳴らす必要はまったくありません。彼はただ一つのことを考え、ただ一つのことを望んでいるのです。それはこの離別の苦しい歳月にできるだけ早く決着をつけることです」 彼女の顔から強ばった表情がなくなり、話し方がずっと自然になった。 「あなた、待つ必要はないのよ。皇帝がお許しになったのですもの。あなたの政治的指導者はそれを支持するどころか、それ以上の気持ちをお持ちなのよ」 「わたしは危険にさらされています。わたしには何がいちばん安全で賢明であるか、分かっています。二つの男性の役を同時に平然とこなすなど、とてもできやしない。しかし王子はまだ何もおっしゃっていません。まずは王子のお話をうけたまわりましょう」 ステファニーはやや横柄に顔を背けた。 「わたしに哀願させようという気なの!今晩、お互いをしっかり理解する必要があるようね」 小隊は全員そろって別の鳥の隠れ場所に向かった。ロザモンドが一行に加わり、嬉しそうにドミニーの腕にしがみついた。庭園を急ぎ足で歩いてきたので頬が紅潮していた。彼女の歩き方には健康な女が持つ自由な、力強い美しさがあった。ややあって彼女がそばを離れターニロフのそばへ行こうとしたとき、ドミニーは複雑な思いに震えながら彼女を見ている自分に気がついた。ふと誰かが彼の腕を触った。狩猟隊の一人と一緒にそばを通りかかったステファニーが立ち止まって彼の耳にささやいた。 「演技しすぎると、もっと大きな危険に見舞われるかもしれないわよ。用心深いあなたでさえうっかり見逃してしまうような危険に!」 ドミニーは次の撃ち場に行く途中でキャロラインに捕まった。彼女は狩猟ステッキをつきながら彼のそばを離れず、容赦なく非難を浴びせはじめた。 「ねえ、エヴェラード、放蕩者が悔い改めた例としてあなたはわたしが知る最高の例のひとつだわ!立派な社会的地位まで手に入れて。お願いだから、わたしたちみんなを失望させないでちょうだい!」 「どうもわたしは失望させるのが得意のようですね」ドミニーはやや憂鬱そうに言った。 「ねえ、あなたは他人の言いなりになることはないのよ。分かりやすく言えばね、ステファニーといっしょになって馬鹿な真似はしないでほしいの」 「そんなことしようなんてちっとも思っていませんよ」 「でも、彼女はその気よ!わたしの言うことをよくお聞き、エヴェラード。あの女のことは、わたし、ちゃんと分かっている。彼女は利口だし、素敵だし、いろいろ美点はあるでしょうけどね、どういうわけかあなたにご執心よ。可愛いロザモンドを、まるで生きている権利がないみたいににらんでいるのよ。あなた、被害者みたいな顔をしないで。きっとあなたが彼女をつけあがらせたに違いないわ」 ドミニーは黙っていた。幸いなことに、次の数分間は忙しさのあまり口をきく暇がなかった。従姉妹は辛抱強く射撃が止むのを待った。 「さあ、どういう言い訳をするのか、聞かせてもらいましょうか。わたしの見るところ、あなたは奥さんにとっても優しくしているし、彼女もあなたを慕っている。王女と浮気したいのなら、ここではじめるのはまずいわ。彼女にやきもちを焼かせたら、また病気がぶり返すわよ」 「ねえ、キャロライン、ステファニーとは何もないんですよ。安心してください」 「彼女が一方的にのぼせているってこと?」 「彼女の態度を大げさに取りすぎてますよ。かりにあなたが正しいとしても――」 「あら、むきになって反論することはないわ!」と彼女は彼をさえぎった。「あなたが彼女をたきつけたんだと言ってるわけじゃないの。そんなことはしないと信じているわ。わたしが言いたいのは、奥さんは全快まであとほんのすこしなんだから、よほど注意を払って行動しなさいってこと。ステファニーと睦言をささやきたいなら、ここじゃなくてベルグレイブ・スクエアでおやんなさい」 ドミニーはキジが旋回しながら落ちてくるのを見ていた。彼の左手がキャロラインの持つ弾薬袋に伸びた。弾薬を取る前に、彼は彼女の指をふとつかんだ。 「あなたはいい人ですね。わたしは何があろうと、ロザモンドを傷つけるようなことはしませんよ」 「昔の癖が抜けなくて浮気せずにいられないのなら、いつでもわたしがそばにいます。ロザモンドはわたしなら気にしない。薄茶の髪には白いものがちらほら混じってるんですもの。あら庭園の向こうから執事が来る。伝言でもあるんじゃないの。料理人さえ無事なら、わたし、どんな悪い知らせだって平気だけど」 ドミニーは憂い顔の執事が雪をかき分け近づいてくるのをじっと見つめていた。パーキンスは外を歩くような格好ではなかったし、少しもそれを楽しんでいる様子はなかった。義務を果たすために黙々と進んでくるのだが、奇妙なことにその姿を目にした瞬間から、ドミニーは彼がなんとなく運命の使者であるように感じられた。しかし彼が主人のそばにようやくたどり着いて伝えた内容は少しも警戒心を抱かせるようなものではなかった。 「旦那様、ノリッジからミラーというお客様がいらっしゃってます。外国の方で、最近この国に渡ってこられたようです。おっしゃることが分かりにくかったのですが、王女様の女中がドイツ語で話をしてくれました。どうやら旦那様がアフリカでお知り合いになったドクター・シュミットでいらっしゃるか、あるいはドクター・シュミットから言づけを預かってきた方のようです」 そのとき笛が吹き鳴らされ、ドミニーはくるりと振りむいて銃を構えた。その振る舞いに不自然なところは全くなかった。頭上を飛ぶ雌キジを一羽見逃して、射程距離ぎりぎりのヤマシギを撃ち落とした。パーキンスのほうを振り返る前に、彼は弾をこめ直した。 「その方は急いでいるのかな」 「いいえ。旦那様は三時か四時にお帰りになると申しあげましたところ、待つのは全然かまわないとおっしゃいました」 ドミニーは頷いた。 「それじゃ、君がもてなしてさしあげたまえ、パーキンス。今日は帰りが遅くならないだろう。たぶんミスタ・シーマンに戻ってもらって話をしてもらうことになる」 執事はうやうやしく帽子を持ちあげて、屋敷の方へ戻っていった。キャロラインは不思議そうに彼を見ていた。 「アフリカのお友達がよくここに来るの、エヴェラード?」 銃身を覗きこみながらドミニーは答えた。「シーマンは一緒に船で帰国したからちょっと違いますが、彼を除けばあの幸運の地から訪問者があったのはこれが初めてですよ。でも、そのうちわんさか来るでしょう。植民地にいた人間はおそろしく結束が固いから」