入れかわった男

第十章

Chapter 10 6,495 words Public domain Markdown

悪夢がゆっくりと現実の恐怖に変わっていった。その最初のもつれた瞬間に、ドミニーはアフリカに戻って、敵に喉元を押さえつけられている自分を見ていた。それから目覚めた記憶がどっとばかりに押し寄せてきた――広大な屋敷の静けさ、自分の身体が横たわる、黒い樫材の四柱式寝台、そのまわりで謎めいた衣擦れの音をたてる重い垂れ布、そして喉を軽く突き刺す命に関わる何か――そうしたものが非現実のカーテンを押しのけてきた。彼はほとんど呆然とするしかない自らの状況を鋭く、痛いほど理解した。彼は目を開けた。物怖じしない、冷ややかな心の男だったが、恐怖に動きを封じられ、麻痺したようにじっと横たわっていた。火を灯されたばかりの蝋燭の明かりが、喉元に突きつけられた千枚通しのような短剣を照らし出している。彼はぎらぎらする細い鋼鉄を魅入られたように見つめた。すでに皮膚は破れ、血が数滴パジャマの襟にしたたっていた。命を奪う凶器を持つ手――小さくて細い、ひどく女性的な手が、ベッドの垂れ幕の背後から湾曲しながらのびている――姿の見えない何者かの手。彼は枕の上に身体をずらそうとした。手は彼のあとを追い、柔らかな白い袖口がかいま見えた。彼はそのままの体勢で横たわっていた。右腕の筋肉が、その残忍な手に飛びかかろうと、緊張していた。すると声がした――ゆっくりした、女らしい、実に不思議な声だった。 「動いたら命はありません。じっとしていなさい」 ドミニーは完全に意識を取り戻し、脳は活発に動きはじめた。死を逃れようとする熟練ハンターのように狡智を振り絞って、彼は可能性を探った。しぶしぶ彼は観念せざるを得なかった。どれほどすばやく動こうとも、隠れた敵がその言葉通りのことをするなら、細い短剣が首に突き刺さることは避けられない。彼はおとなしく横になっていた。 「どうしてわたしを殺そうとするのだ?」緊張した声で彼は尋ねた。

返事はなかった。しかしなぜか相手がじっと見つめていることは分かった。腕の突き出た垂れ布のあたりが、ほんのわずか開いた。隙間を通して誰かが彼のほうを見ていた。助けを呼ぼうと思ったが、またもや見えない敵に心を読まれた。 「静かになさい」と声は言った――子どもが発したとしか思えないような声だった。「ささやき声より大きな声を出したら、命はないわ。顔を見せてちょうだい」 裂け目がさらに少しだけ広がった。彼は希望を感じはじめた。短剣を持つ手は震えだし、垂れ布の背後から荒い息づかいが聞こえた――驚いたか、あるいは恐怖したときの女の息づかいだった――そして次の瞬間、残酷な凶器を握った手は垂れ布の陰に引っこみ、女は笑い声をあげはじめた。あまりにも突然のことで、彼は動くことも、その状況を利用することもできなかった。最初は静かな笑い声だったが、やがて場違いな陽気な調子に、ややヒステリックな嗚咽が混じりだした。

彼は催眠術にでもかけられたようにベッドに寝ていた。初めのうちは、悪い夢を見て金縛りにあったかのように手足が言うことをきかなかった。笑い声が絶え、壁をこするような音がし、蝋燭が不意に消された。それから彼の神経は元に戻りはじめ、手足が動かせるようになった。彼は垂れ布から離れるようにベッドの反対側へにじり寄り、拳銃と懐中電灯を置いた小テーブルの方へそっと移動した。それらをひっつかむと、右手に銃を構え、大きな部屋の暗闇に向かって電灯の小さな円い光りを当てた。再び恐怖のようなものが彼をつかんだ。ベッドの脇に立っていた人影は消えていた。見たところどこにも隠れる場所はない。強力な電灯が部屋の隅々を照らし出したが、彼以外、部屋には誰もいなかった。そのことに気がつくや、背筋がぞっとし、平静さを失った。しかし喉の傷のかすかな痛みは、この訪問が少しも超自然的なものではないことを示す、説得力のある証拠だった。部屋のあちこちに置かれた六つあまりの蝋燭に火をつけ、懐中電灯を置いた。彼は額から汗がしたたっていることを恥じた。 「秘密の通路だ、言うまでもない」彼はしばらく身をかがめて隣室と彼の部屋を隔てる鍵のかかった折りたたみ戸を調べた。「考え直してみると、不必要に危険を冒したのかもしれないな」 ドミニーが窓辺に立ち、北海の灰色のうねりを眺めていると、パーキンスが朝のお湯とお茶を持ってきた。彼はスリッパをつっかけ、部屋着に腕を通した。 「いちばん近いバスルームを探して風呂の用意をしてくれ、パーキンス。部屋の配置をすっかり忘れてしまったよ」 「かしこまりました、旦那様」 彼は主人のパジャマについた血を見て、一瞬動きを止めた。ドミニーは目を下に向け、部屋着をかき合わせて首を隠した。 「今朝ちょっとした事件が起きたんだ」彼は何気なく言った。「夜中に幽霊は出たかい?」 「何も聞いておりません、旦那様。ロンドンから来た若い女中ですが、わたしがこちらに来て最初の晩に聞いたものを彼らも聞いたなら、引き留めるのは難しいと思います」 「身の毛もよだつってやつかい?」ドミニーは笑いながらいった。 パーキンスは表情を変えなかった。しかしその口調は主人の不真面目を暗黙のうちに非難していた。 「あの叫び声くらい恐ろしいものは聞いたことがありません。わたしは神経質ではないのですが、あれにはひどく動揺させられました」 「人間かね、それとも動物?」 「両方が混じり合ったような声でした」 「アフリカの森のはずれで一夜を明かしてごらん。野生動物の交響楽だよ。どれも血が凍りそうな声だ」 「わたしはボーア戦争で南アフリカに行きました。そのあと、主人について猛獣狩りにも行きました。アフリカにもいないと思いますよ、一昨日の晩、わたしが聞いたような不気味な叫び声を出す動物は」 「調べる必要があるな」 「廊下の突き当たりのバスルームに、もうお風呂の用意ができています。よろしければご案内します」 一時間後、下に降りると、小さい方の食事室で弁護士が彼を待ち受けていた。その部屋は東向きで、海に面しており、天井が高く、大きな窓があった。壁のところどころに手入れの行き届いていないタペストリーが掛けられ、部屋のなかに色あせた栄光の面影を漂わせていた。ミスタ・マンガンは予想に反してぐっすり眠ったらしく、上機嫌だった。サイドボードに並ぶ銀皿の列が彼をいっそう朗らかな気持ちにさせた。 「昨晩は幽霊はお出ましにならなかったんですな?」そう言いながら彼はテーブルについた。「ロンドンに住んでいると、この水を打ったような静けさがすばらしく感じらられますね。実を言うと、枕に頭を載せてから、ついさっき目が覚めるまで物音一つ聞こえませんでした」 ドミニーは大盛りの皿を持ってサイドボードから戻ってきた。 「わたしもたっぷり休んだよ」 マンガンは片眼鏡をはめて、主人の喉元を見つめた。 「切ったのですか?」 「カミソリを持つ手が滑ったんだ。アフリカにいるあいだに使い方が下手になった」 「えらい傷になってますよ」ミスタ・マンガンは不思議そうに訊いた。 「パーキンスが新しい安全カミソリを持ってきてくれる。さて、今日の予定なんだが、君のほうで構わなければ、午後の二時半に出かけようと思って車の用意をしておいた。朝のうちは静かに屋敷のなかを見て回ろう。ミスタ・ジョンソンは近くの農家に泊まっている。途中で彼を拾っていこう。それから土地管理人のリーズに一緒に来るよう伝えておいた」 マンガンは頷いて賛意を示した。 「いや、まったく、修理やら何やら、彼らの要求をまじめに聞いてやれるのは嬉しいですな。ジョンソンのところがいちばんひどかったんですよ、可哀想に。ロンドンのわたしの事務所まで来てうるさく責め立てるのも一人二人いました」 「借地人にはもう不自由な思いはさせないつもりだ」 ミスタ・マンガンはおかわりをしようとサイドボードのほうへ向かった。 「ノーフォークの借地人を満足させることは不可能ですよ。でも、最近は、文句が出るのも当然というケースがあることは認めなければなりません。ウェルズの近くに八百エーカー近い土地を耕している男がいるんですが――」 話は中断した。ノックの音がしたのだ。普通のノックの音ではなく、規則的な、ゆっくりとしたノックで、それが三回くり返された。 「入りたまえ」ドミニーが大きな声で呼びかけた。 ミセス・アンサンクが入ってきた。朝の硬い光りのなかで前よりさらに峻厳な、人を寄せつけない姿に見えた。彼女はテーブルの端に来て、座っているドミニーに向かい合った。 「おはよう、ミセス・アンサンク」 彼女は挨拶を無視した。 「伝言がございます」 「聞かせてくれ」 「奥様が、今すぐお部屋に来ていただけないかとおっしゃっています」 ドミニーは椅子の背に凭れ、あからさまに敵意をむき出す女の顔にじっと視線を注いだ。彼女は長く伸びた朝の光のなかに立っていた。顔の皺、引き締められた口、冷たい、鋼鉄のような目が、どれもはっきりと浮かんで見えた。

彼は相手の反応を試すつもりでこう言った。「どんなものかな。今妻に会うことが望ましいとはとても思えないのだが」 使いの者を動揺させようとしてそう言ったのなら、結果は期待はずれだった。

彼女は軽蔑をこめた口調でこう言った。「心配はご無用と、奥様から特に強く申しあげるように言われました」 ドミニーは負けを認め、コーヒーをもう少し注いだ。他の二人は、どちらも彼の指が震えていることに気がつかなかった。 「それは優しい心遣いをいただいた。君の後からすぐ行くとお伝えしてくれ」 ドミニーはさっそく呼び出しに応じ、地味ながらも趣味の良い大部屋に招じ入れられた。色あせた白と山吹色の壁、つやつやと輝くシャンデリア、みすぼらしいが値のつけられないほど貴重なルイーズ・カーンズの家具。驚いたことに、ミセス・アンサンクはいつの間にか姿を消していた。彼は会いにきた女性と初めから二人きりにされたのだった。

彼女は長椅子に座って、彼が近づくのを見ていた。女?どう見てもまだ子どもだった。青白い頬、大きな不安そうな目、額から後ろに流した髪。自分は強い人間ではなかったのか、大いなる大義にこの身を捧げたのではなかったか。喉元におかしな感情がこみあげ、靄がかかったように目の前がぼやけた。彼女はあまりに脆く、どこまでも愛らしく、痛ましかった。一度見たら忘れられないその目には常に不思議な光りが宿っていた。いや、それともそれは光りの欠如だろうか。彼の口から挨拶の言葉は出てこなかった。 「わたしに会いにいらしたのね、エヴェラード」彼女は途切れ途切れに言った。「とても勇敢なのね」 彼は彼女の手を取った。数時間前には短剣を握りしめ、彼の首に突きつけていた手である。それから蝋のようなその指に口づけをした。それは命なきもののように彼女の脇にだらりと落ちた。彼女は手を持ちあげ、彼の唇が触れたあたりを軽くこすりはじめた。 「言いつけに従って来たよ。心を弾ませてね」 「心を弾ませて!」彼女はぞっとするような薄笑いを浮かべた。「言葉遣いが上手になったようね、エヴェラード。この屋敷でお休みになったのに、まだ生きていらっしゃる。わたしは約束を破りました。どうしてからしら?」 「あなたに命を狙われるほどの価値はない人間だから」 「おかしなことを言うわね」彼女は記憶を探った。「聖書のどこかになかったかしら。『命には命を』とか。あなたはロジャー・アンサンクを殺したわ」 「あれ以来、自分を守るために何人も人を殺したよ。殺すか殺されるか。ときどき男はそんな状況に追いこまれる。あれはロジャー・アンサンクが――」 「あの人のことはもう話したくありません」彼女はごく静かに断言した。「一昨日の晩、彼の霊が窓の下からわたしに語りかけたの。地獄に来い、そして一緒に暮らそうと。考えただけでもぞっとする」 「さあさあ、別の話をしよう。どんな贈り物を買ってあげたらいいのか、教えてほしいな。お金持ちになってアフリカから帰ってきたんだから」 「贈り物?」 彼女の顔はほんの一瞬、おもちゃを与えられた子どものように輝いた。期待を秘めた笑顔は愛くるしく、あの妙にうつろな表情が目から消えた。しかし彼が次の言葉を発する間もなく、すべてが元に戻ってしまった。 「聞いて。大事なことなの。あなたを呼んだのは、どうしてか分からないけど、昨日の晩、急にあなたを殺したいと思わなくなったからなの。あんなにかたく決心していたのに。今はその気持ちがすっかり消えてしまった。もう自分が何を考えているのか分からない。椅子をもっと引き寄せなさいな。いえ、わたしの隣に来たらいいわ。ほら、長椅子のこっち側へ」 彼女はスカートを寄せて、場所を空けた。座ると彼は手足におかしな震えが走るのを感じた。 「たぶん誓いを守ることはないわ。もう破ってしまったんですもの。あなた、お顔を見せて。変な気持ちだわ。あんなに長い月日が経ったのにまだ――夫がいるなんて」 ドミニーは毒々しいまでに甘く澱んだ空気を吸いこんでいるような気がした。何もかもが現実離れした感触を持っていた――部屋も、この子どものような女も、彼女の美しさも、ゆっくりとつかえながら話すさまも、彼女が語る異様なことどもも。 「わたしは変わったかな?」 「びっくりするくらい変わったわ。前より力があふれているし、ハンサムになったかもしれない。でも、お顔から何かがなくなっている。なくならないと思っていたものが」 「君はずっときれいになったよ、ロザモンド」彼は用心深く言った。

彼女は寂しそうに笑った。 「きれいになっても何の意味もなかったわ、エヴェラード、あなたがわたしの粗末な家に来て、わたしを愛し、わたしにあたなを愛させ、陰気なロジャーからわたしを奪ってからは。学校の生徒たちがあの人のことを陰気なロジャーって綽名していたことを覚えている?でもそんなことはどうでもいい。エヴェラード、あなたがわたしを置き去りにしてから、わたし、お庭の外に出たことがないのよ。知ってる?」 「これからは違うよ、君が望むなら」ドミニーは急いで言った。「行きたいところに行けるようになるんだ。車を買って、町に別邸だって建ててあげる。うんと有能な医者を連れてきて、君をもう一度丈夫にしてもらう」 彼女は大きな目をあげて、哀れみを乞うように彼を見つめた。 「でもどうしてここを離れられるというの?」彼女は悲しそうに尋ねた。「毎週一回、ときによるとそれ以上、彼がわたしに呼びかけてくるというのに。わたしが行ってしまったら、彼の霊がここを飛び出して、わたしを追いかけてくる。わたしはここにいて、手を振ってやらなければならないの。そうしたら彼は向こうへ行ってしまうから」 ドミニーはまたもや例の奇妙な、予想もしていなかった感情がこみあげてくるのを意識した。もう自分の気持ちすら分からなくなっていた。今まで胸がこんなふうにときめいたことはなかった。眼までかっと熱くなった。彼は新奇なものを探して世界中を旅したが、結局この異様な、色あせた部屋のなかで、心を病む女と並んで座っているときにそれを見いだしたに過ぎなかった。それでも彼は静かにこう言った。 「もっと親切な人がいる、楽しいところへ君を送らなければならないな。きっと音楽や美しい絵を見るのは好きだろうね。君が考えこまないように気をつけないといけないな」 彼女は途方に暮れたようにため息をついた。 「あなたを殺したいなんていう気持ちが、血のなかから消えてしまえばいい。そうしたらすぐにでもあなたに受け入れてもらえるのに。他の夫婦は憎み合いながらも一緒に暮らしている。どうしてわたしたちもそうできないの?わたしたち、もしかしたら憎むことすら忘れてしまうかもしれない」 ドミニーはふらつく足で立ちあがり、窓のほうへ歩み寄って、それを開け放ち、しばらく外に身を乗り出していた。新たにつけ加わったこの要素は彼にショックを与えた。そのあいだ、彼女は平然と彼を見ていた。 「どうなの?」彼女は得体のしれない薄笑いを浮かべた。「おっしゃって。昨日の晩、あなたを震えあがらせた手を、妻の手として握ってくださる?」 彼女は柔らかな温かい手を差し出した。彼が指に力をこめると、彼女の指も力がこもった。彼女は楽しそうに彼を見、彼は再び見知らぬ国にさまよいこんで、方角が分からくなった男のように感じた。 「君にはうんと幸せになってほしい」彼の声はかすれていた。「でもまだ身体が丈夫になってないね、ロザモンド。焦って決めることはないさ」 「わたしがあなたに優しくしようとするから驚いているのね。でもそうしちゃいけない理由がある?急に心変わりしたわけは分からないでしょうけど――でも変わったのよ。この短い時間のあいだに、本当のことが見えたの。あなたを殺しちゃいけない理由があるの、エヴェラード」 「どんな理由だい?」 彼女は秘密を隠している子どものように、嬉しそうに頭を振った。 「あなたは頭がいいから、自分で考えてご覧なさい。どきどきしてきたわ。しばらく座をはずしてくれないかしら。ミセス・アンサンクを呼んでちょうだい」 解放されることになって、彼は不思議な安堵を感じた。しかし、さらに不思議なことに、そこには残念に思う気持ちも含まれていた。彼は彼女の手を放さずにいた。 「今晩も寝ながら歩き回るつもりなら、短剣は置いてきてほしいな」 「言ったじゃない」彼女は驚いたように言った。「わたしは気が変わったの。あなたは殺さない。寝ながら歩き回ったとしても――ときどき夜がとても長いことがあるわ――わたしが求めるのはあなたの死ではないのよ」