第十四章
二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。ドミニーはそれこそ極端に無口になった。過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなかで、シーマンは席から身を乗り出した。 「里帰りだというのに憂鬱そうだな、フォン・ラガシュタイン」 「ドイツには二度と帰らないとずっと思っていたからね」 「いまも過去が忘れられないか」 「忘れたことなんかないさ」 列車はどこまでも続く葡萄の丘を走り抜け、平地に出たかと思うと、今度は松林に入った。そのなかほどの地点に開けた空間が広がっていて、窓を閉め切っていても、朽ち木が発する樹脂の匂いがコンパートメントに染み込んでくるようだった。やがて列車の速度が落ちた。シーマンは時計を見て立ちあがった。 「支度をしたまえ。もうすぐ下車する」 ドミニーは窓外を見た。 「しかし、ここはどこなんだ?」 「目的地から五分以内のところだ」 「でも家一軒見えないじゃないか」ドミニーは意外そうに言った。 「皇帝の専用列車が君を待っている。皇帝は今、幕僚たちと軍隊視察に回っていらっしゃる。われわれは光栄にもベルギー国境まで帰路を同伴することを許されたのだ」 列車はもう停まっていた。髭を生やした制服の鉄道職員がコンパートメントのドアを開け、彼らは切り出したばかりの松材で、最近建てたらしい小さな駅の、狭いプラットフォームに降り立った。列車は彼らが降りるとすぐさま走り去った。彼らの旅は終わったのだ。 シーマンと鉄道職員のあいだで短い会話が交わされるあいだ、ドミニーは興味深そうにあたりを見回した。駅の周りには、木立や灌木の陰に見え隠れしながら、兵士たちが隙なく非常線を張っていた。彼らは待避線に停まっている列車から、つい先ほど出てきたのだろう。その真ん中に一両だけ、黒地に金の派手な装飾を施し、中央にドイツ王家の紋章をあしらった特別優等客車があった。シーマンは会話がすむと、ドミニーの腕を取って、線路を越え、そちらの方へ彼を導いた。士官がデッキで彼らを迎え、ドミニーに堅苦しい礼をした。ドミニーはそれを面白そうに眺めた。 「皇帝は今すぐあなたにお会いになります。どうぞこちらへ」 彼らは列車に乗りこみ、贅沢なカーペット敷きの通路を進んだ。案内役が立ち止まり、小さな休憩室を指さした。そこには数人の男が椅子に腰掛けていた。 「ヘア・シーマンのお友達がこちらにいらっしゃいます。皇帝陛下はしばらくあとであなたにお会いになります。フォン・ラガシュタイン男爵はこちらへ」 ドミニーは貴賓車に連れて行かれた。案内役は入り口のところで待つように手で彼を押し止め、自分は数歩前進して、椅子に座っている人物の前で立ち止まり敬礼した。彼は地図の上に身をかがめていた。その地図は将軍の軍服を着た、いかめしい顔の男が広げたものだった。皇帝は足音を聞いて視線をあげ、将軍の耳に何事かをささやいた。将軍はカチリと軍靴のかかとを合わせ、引きさがった。皇帝はドミニーに進み出るよう手招きした。 「フォン・ラガシュタイン男爵をお連れしました、陛下」若い士官が言った。 ドミニーはさっと不動の姿勢を取り、ぎこちなく一礼した。皇帝はにっこりと笑った。 「ドイツ軍人が軍服を脱いでもじもじしているというのも、面白い見物だな。伯爵、行ってよろしい。フォン・ラガシュタイン男爵、座りたまえ」 「失礼いたします、陛下」ドミニーは威厳に満ちた主人の指さす椅子に腰をおろした。 「万事遺漏なく進展しているようだな。楽にしたまえ。アフリカでは立派な働きをしてくれたと報告を受けている」 「陛下のご意志を実現するために全力を尽くしました」 「君の仕事ぶりがあまりに素晴らしかったので、顧問官が異口同音に進言してきたのだ、間もなくわれわれにとって重大な関心事となる計画に引き戻すように、とな。指令を受けて君はさっそく行動に移ったようだ。イギリスの男爵になりすますことに成功したと聞いているが?」 「今までのところ順調に進んでいます」 「アフリカでの仕事も大切だったが、今の任務はそれよりはるかに重要だ。これからしばらく腹蔵なく君と話がしたい。しかしその前にまず乾杯しようじゃないか」 皇帝は脇にあるマホガニー製の小テーブルから首の長いモーゼルワインの瓶を取り出し、美しいグラスを二つ満たすと、一方を相手に渡し、他方を高く掲げた。 「祖国のために!」と彼は言った。 「祖国のために!」ドミニーは唱和した。
二人は空のグラスを置いた。皇帝は羽織っていた灰色の軍用マントを後ろに押しやった。幾つもの勲章と飾りがあらわれた。皇帝の指はまだワイングラスの脚をもてあそんでいる。しばらく物思いにふけっているような様子だった。厳格で、どこか冷酷な口元は、固く引き締められ、額にはかすかにしわが寄っていた。座っていても背筋は伸び、安楽椅子のクッションに寄りかかることはない。目はややつりあがり、顔の表情がいっそう重々しさを増した。たっぷりと五分は完全な沈黙がつづいた。重大な用件をひとまず横に置いて、全神経をドミニーの計画に集中しているかのようだった。 「フォン・ラガシュタイン」皇帝はようやく切り出した。「君を呼んだのは君のイギリス滞留について話があったからだ。任務の内容を、わたしから直接聞いてもらおうと思ったのだ」 「光栄に存じます」 「君はわがスパイ組織の制限、権威、義務から完全に切り離されていると考えてもらいたい。君に期待しているのは別のことだからだ。なりすます相手になりきってもらいたい。典型的なイギリスの地方郷紳として労働問題やアイルランド問題、国民兵役計画の進展、そしてそのうち連絡が行くだろうが、その他の社会運動について研究してもらいたいのだ。どうやらイギリスはわが国に疑いの目を向けはじめているようだが、論評や小説の形で、そうした疑惑をあおり立てている物書きたちのリストを作ってもらいたい。これはどれも君の本来の任務からすると周辺的なものに過ぎない。そのことはわれわれの畏友シーマンからすでに聞いているだろう。これはターニロフ王子と友情を結ぶためのもの、いや、できれば親交を深めるためのものだ」 皇帝はいったん言葉を切って、再び窓の外に広がる風景に目を転じた。彼の目は明らかに夢想家の目ではない。しかしそのときは思い悩むような色に満ちていた。 「大使はわたしをあたたかく歓迎してくれました」 「ターニロフは平和の鳩だ。オリーブの小枝を口にくわえて運んでいく。わが政治家と顧問官なら、もっと断固とした資質の大使をロンドンに送っただろう。しかしわたしは不賛成だった。ターニロフは愚か者を騙すにはうってつけの男だ。なぜなら彼自身が愚か者だからだよ。自国よりも強大で、文化も進み、よりすぐれた指導者をいただく国家が日一日と忍び寄って来るというのに、海の守りも陸の守りも固めようとしない国にはぴったりの大使だ」 「イギリスは海軍に全幅の信頼を置いているようです、陛下」ドミニーはためらいがちにそう言った。
相手の目が光った。唇が嘲るように歪んだ。 「たわけた連中だ!一旦この剣が鞘を離れ、カレーとブローニュ沿岸の町を押さえ、わが大砲がドーバー海峡を制したら、彼らの海軍など何になろう!島国が威張りくさっていた日々は終わったのだ。イギリスの傲慢な海上制覇が終わったのと同じくらい確実に」 皇帝は自分のグラスとドミニーのグラスを再び満たした。 「フォン・ラガシュタイン、数ヶ月後には、なぜターニロフの仲間になれと命令されたか、その理由が分かるだろう。今よりももう少しはっきり君は任務を理解する。その真の狙いは時期を待って明らかにされるだろう。君はどんな時でもシーマンを信じたまえ」 ドミニーは一礼し、黙っていた。皇帝はまたもやひとしきり思い悩んだあと、こうつづけた。 「フォン・ラガシュタイン、わたしが君に追放を宣告したのは、公正な処置だった。国民の風紀を正すことは、彼らのためにより強大な帝国を築くという誓いと同じく、わたしの神聖な役目だ。君は第一に、同盟国のもっとも有力な貴族の妻を誘惑し、第二に、そのあとの決闘で彼を殺してしまった」 「あれは事故だったのです、陛下。王子を傷つける気はさらさらなかったのです」 皇帝は顔をしかめた。彼は言い訳を一切嫌っていた。 「逆の形で事故が起きればよかったのだ」と皇帝は鋭く言った。わたしはかけがえのない部下を失うべきだったのだ。しかし現実には君が生き延び、罰を受けた。それでも君のアフリカでの活躍はめざましく、落ち度もなかったという。わたしはこの一回だけ、君に名誉を回復するチャンスをやろうと思う。イギリスでの任務を見事にこなせば、今君が服している追放宣告を撤回しよう」 「ありがたいお言葉です。報われる希望がなかったとしても、この任務はそれだけで全力を尽くすに値します」 「よくぞ言った。わが帝国の息子たちは、すべからくその意気で未来を見つめなければならない。思うに彼らも、そしてとりわけ側近の者たちも、わたしに伝えられた神の言葉をそれなりに感じ取っているようだ。長年、わたしは国民のために平和の構築をめざしてきた。しかし天がわたしに示したもう一つの義務を果す時が近づいたのだ。忠誠なるドイツ人は必ずや、みな、わが剣を包む雷光にひれ伏し、それを振るう鉄の意志を共有するに違いない。さがってよいぞ、フォン・ラガシュタイン男爵。休憩室に供回りの者がいるから、そちらへ行たまえ。数分後に出発し、君らをベルギー国境に置いていくことになっている」 ドミニーは立ちあがり、強ばった一礼をしたあと、カーペット敷きの通路を引きさがった。皇帝はすでに地図の上に身をかがめていた。休憩室のドアの前に立っていたシーマンは、彼をなかに招き入れ、随行員たちを紹介した。一人、片眼鏡をはめ、顔に傷痕のある、操り人形のように奇妙な動きをする若者が、不思議そうに彼をみつめた。 「数年前にミュンヘンでお会いしましたね、男爵」 「この国の方とは誰ともお会いしたことがございません」ドミニーはきっぱりと言った。「わたしは皇帝のご命令に従い、過去の記憶と思い出を一切頭のなかから消し去ったのです」 若者の顔から疑わしげな表情が消えた。そばにいたシーマンはじっと眉をひそめていたのだが、彼を思いやるように頷いた。 「たいした役者ですね、男爵。ドイツ語まで何となくイギリス人訛りになっていますよ。座って一緒にビールを飲みましょう。もうすぐ昼食が出ます。汽車を降りるまでもう皇帝の御前に呼び出されることはありません」 ドミニーは慇懃に礼をして、他の人々に加わった。列車はすでに動き出していた。ドミニーは物思いにふけるように窓の外を眺めていた。謁見に呼び出されるのを待っていたシーマンは彼の腕を軽く叩いた。 「気持ちは分かる。ベルリンから離れていくんだもの、辛いだろうね。でも忘れてはいけない、追放の宣告が取り消される日は遠くないのだ。君は罪の償いにつとめてきた。いいかい、わたしは君の友人や同輩と肩を並べるような人間じゃないが、でも彼らのなかに皇帝と同じ意見の人は一人もいない」 黒地に白い縁取りをした制服の給仕が笑顔であらわれた。背の高いグラスにビールを注いで運んできたのだ。ドミニーの向かいに座っていた上級士官がグラスをあげて一礼した。 「フォン・ラガシュタイン男爵に乾杯しよう。もっと早くお知り合いになれなかったことが残念です。近い将来、戦友として、偉業に取り組む同志として、ご帰還のお祝いができることをお祈りします!万歳!」