Category: Historical Novels

雲形紋章

英国陸地測量部制作の地図ではカラン・ウォーフ、地元の人には単にカランと呼ばれている場所は、今でこそ海岸線から二マイルほど内陸部にあるが、かつてはもっと海寄りで、無敵艦隊との戦いに六隻の船を送り、その一世紀後にはオランダの攻撃を迎え撃つため四隻の船を送り出した由緒ある港として歴史に輝かしい名を残している。ところがやがてカル川の河口域は沈泥でふさがって港口には砂州ができ、海上貿易の船は他に港を探さざるを得なくなった。その後、カル川の流れはやせ細り、それまでのようにあちらこちらへ縦横に伸びるかわりに身を縮めておとなしい河川に変貌し、しかも河川としても決し...

Summary

英国陸地測量部制作の地図ではカラン・ウォーフ、地元の人には単にカランと呼ばれている場所は、今でこそ海岸線から二マイルほど内陸部にあるが、かつてはもっと海寄りで、無敵艦隊との戦いに六隻の船を送り、その一世紀後にはオランダの攻撃を迎え撃つため四隻の船を送り出した由緒ある港として歴史に輝かしい名を残している。ところがやがてカル川の河口域は沈泥でふさがって港口には砂州ができ、海上貿易の船は他に港を探さざるを得なくなった。その後、カル川の流れはやせ細り、それまでのようにあちらこちらへ縦横に伸びるかわりに身を縮めておとなしい河川に変貌し、しかも河川としても決して大きいほうの部類ではなかった。市民たちは港で生計が立てられないことを見て取ると、塩沢を埋め立てることでなにがしかの代償が得られるかも知れないと考え、海水を防ぐために石の堤防を築き、その真ん中にカル川の流れを海に放出する水路を造った。こうしてカラン・フラットと呼ばれる低地の牧草地ができあがり、自由市民はここで羊を放牧する権利を持ち、海峡のむこう、フランスのプレサレ羊にも負けない美味なマトンを生産するようになった。しかし海は無抵抗にその権利を明け渡したわけではない。南東風や大潮と共に波はときどき堤防を乗り越え、またときにはカル川がお行儀よく振る舞うことを忘れ、内陸部に大雨があったあとなど、昔日のごとく、あらゆる拘束を断ち切って暴れた。そんなとき、上の階の窓からカランの町を眺めた人々は、誰もがこの小さな場所が再び海岸線の方に移動したのではないかと考えた。牧草地は水浸しで、堤防は内陸の湖とそのむこうの海との境界線として、目につくほど幅...

Chapters

15. 第十五章

検死審問ではウエストレイと医者の証言以外に重要な証拠は提出されなかった。しかし実のところ、それ以外の証拠は必要なかったのだ。ドクタ・エニファーが死体を解剖し、直接の死因が頭部への打撲であることを突き止めた。しかし内臓は飲酒癖の痕跡を示し、心臓に疾患のあることは明らかだった。おそらくミスタ・シャーノールはオルガン椅子から立ち上がったとき失神し、後ろむきに...

22. 第二十二章

ウエストレイはつらく、落ちつかない一日を過ごした。気に染まない仕事に手をつけてしまい、その責任のあまりの重さに堪えきれなかったのである。彼をさいなむ不安は、医者から生きるか死ぬかの危険な手術が必要だと宣告された者が感じる不安と同じだった。こうした状況に雄々しく堪える能力は人によって差があるが、本質的に人間は誰でも臆病者である。外科医のメスがもうすぐ生死...

17. 第十七章

ウエストレイははねつけられた恋人の役をすこぶる良心的に演じた。結婚を申しこんで一蹴されるという一幕を厳密に型通り表現したのである。人生の灯は消えた、自分こそこの世でもっとも不幸な人間であると、自分にも母親にも言い聞かせた。「秋」と題する詩を書いたのはこの時期である。それは

9. 第九章

こうした注目すべき出来事のあった翌朝、郵便屋がベルヴュー・ロッジに配達した手紙の中に、恐ろしいほど興味をそそる封筒が一通混じっていた。垂れ蓋の上に宝冠模様が黒く小さく押され、表には「カラン、ベルヴューロッジ、エドワード・ウエストレイ様」と太い読みやすい字で書かれていた。それだけではない。左下の隅には「ブランダマー」という署名がはいっていたのだ。たった一...

11. 第十一章

年老いたカリスベリ主教が亡くなり、新しいカリスベリ主教が任命された。この人選は低教会派にいささか悔しい思いをさせた。というのは新主教のウイリス博士は確固たる信念を持つ高教会派だったからである。しかしその信心深さには定評があったし、キリスト教的寛容と相手を思いやる慈愛に満ちていることはじきに理解された。 ある日曜日、朝の礼拝が終わってミスタ・シャーノール...

4. 第四章

広場に面したカラン大聖堂の北面はまだ日陰だったが、中に入ると南窓から太陽が射しこみ、建物全体が素晴らしく柔らかな光の洪水に包まれていた。確かにイギリスには聖セパルカより大きな教会はあるし、この聖堂は同じ規模の修道院建築と比べ、屋根が低いために均整がとれていないという欠陥があるが、しかしそれにもかかわらずこれほど真に威厳があり、堂々とした建造物がかつてあ...

13. 第十三章

オルガンが沈黙させられることも、礼拝が一時中止されることもなかった。サー・ジョージはカランまで来てアーチを点検し、部下の不安をからかった。その不安には根拠がないと判断したのだ。そうだな。アーチの上の壁は確かに少し動いたが、今やっている穹窿天井の修理で動くと想定される範囲内だ。古い壁が落ち着くべき場所に落ち着いただけさ――実際動かなかったとしたら、そのほ...

18. 第十八章

二人は一瞬、真正面から顔を突き合わせた。明るい夕空のなかに浮かび上がる彼らの姿を見た人は、きっと従兄妹同士か、あるいは兄妹とすら思ったことだろう。どちらも黒い服に黒い髪、背の高さもほとんど同じだった。男は決して背は低くないのだが、娘のほうがすこぶる上背があったのだ。 アナスタシアが束の間ことばを失ったのは驚きのせいだった。つい先日まで、ドアを開けてブラ...

21. 第二十一章

南東の基柱の補強に当たっていた石工頭が次の日の九時にウエストレイに会いに来た。人夫たちが夜明け直後に塔へ行ってみると、夜のうちに新たに動いた形跡が見つかったので、建築家に急いで聖堂に来てもらおうと思ったのだ。しかしウエストレイは外出していた。朝一番の汽車でカランを離れロンドンにむかったのだ。

7. 第七章

ミス・ユーフィミア・ジョウリフは土曜の午後を聖セパルカ大聖堂のドルカス会の活動に充てていた。会合は国民女学校の教室で開かれ、献身的な女たちが毎週集まって貧しい人々のために服を作った。カランには少数ながらもぼろ服をまとった紳士諸君がおり、また大勢の中流階級が生活《たつき》にあえいでいたけれど、幸いなことに大都市におけるような正真正銘の極貧はほとんど見られ...

16. 第十六章

それから一日か二日経って、ミス・ジョウリフはアナスタシアにこう尋ねた。 「今朝、ミスタ・ウエストレイから手紙を受け取ったわよね、あなた。お帰りのこと、何か言っていた?いつ帰るかって」 「いいえ、叔母さん、お帰りのことは何も。仕事の話がちょっと書いてあるだけ」 「あら、そう。それだけなの」姪の打ち解けない態度に少々傷ついた彼女は冷たくそう言った。 ミス・...

2. 第二章

扉を開けると建物の中に外気が勢いよく流れこんだ。雨脚はいまだに激しかったが、強く吹き出した風が清々しい潮の香りを含み、聖堂内の息苦しい、朽ち果てた雰囲気とは際だった対照をなした。 オルガン奏者は深呼吸した。 「ああ、外に出るとせいせいするな――連中の小うるさい文句から解放されて。もったいぶったろくでなしの主任司祭や、偽善者のジョウリフや、知ったかぶりの...

10. 第十章

ブランダマー卿の惜しみない支援のおかげで修復工事は拡充し、ウエストレイは一度ならずロンドンのサー・ジョージ・ファークワーのもとへ相談に出むかなければならなかった。ある土曜日の晩、そんな訪問からカランに帰ってきたとき、彼は自分の食事がミスタ・シャーノールの部屋に用意されていることを知った。 「夕ご飯を一緒に食べてくれるだろうと思ったんだよ」とミスタ・シャ...

5. 第五章

ためしに一週間住んでみたところウエストレはミス・ジョウリフの下宿の住み心地のよさに満足した。「神の手」は確かに聖堂からやや離れているが、町ではいちばんの高台にあり、建築家は食事にこだわるだけでなく、空気がさわやかで、低地でないことを極端に重視したのだ。家中どこも念入りに掃除されていることもよかったし、ミス・ジョウリフの料理も気に入った。凝ったものを作る...

1. 第一章

英国陸地測量部制作の地図ではカラン・ウォーフ、地元の人には単にカランと呼ばれている場所は、今でこそ海岸線から二マイルほど内陸部にあるが、かつてはもっと海寄りで、無敵艦隊との戦いに六隻の船を送り、その一世紀後にはオランダの攻撃を迎え撃つため四隻の船を送り出した由緒ある港として歴史に輝かしい名を残している。ところがやがてカル川の河口域は沈泥でふさがって港口...

6. 第六章

一ヶ月後、聖セパルカ大聖堂の修復工事は軌道に乗りはじめた。南袖廊には木の足場が支柱の上に高々と組まれて、石工が内部から穹窿天井に作業の手を加えることができるようになった。この天井が建物の中でもっとも修理の必要な部分であることは疑いを入れないが、ウエストレイは他にも放っておけない危険な箇所があるという事実に目をつぶることができず、サー・ジョージ・ファーク...

8. 第八章

ミス・ジョウリフはブランダマー卿とのおしゃべりに夢中になっているに違いない。台所で待ちながらアナスタシアは、叔母がもう降りてこないのではないかと思った。彼女は強い決意で「ノーサンガー・アベイ」に集中しようとしたが、目が活字の列を追ってもさっぱり頭に入らず、挙げ句の果てにふと気がつくと、ぱらぱらと騒々しくしきりにページをめくるばかりで、かえって空想の邪魔...

20. 第二十章

ウエストレイはアナスタシアにひかれ、あるいは好意を抱き、一時はその感情を愛だと思いこもうとしたが、それも消えてなくなった。心の平静を完全に回復し、結婚の申しこみを拒否された恥辱については、申しこんだときにすでに娘の心は決まっていたのだ、と割り引いて考えることにしていた。いずれにしろブランダマー卿がとてつもない競争相手であることは認めるにやぶさかでないが...

3. 第三章

「神の手」はこの自治郡の中でもいちばんの高台にあり、ウエストレイの部屋はその三階にあった。居間の窓からは家並とそのむこうのカラン・フラット、海と町をへだてる広大な塩水性の牧草地が見渡せた。前景には赤いかわら屋根が延々と並び、中景には聖セパルカ大聖堂の、高々とかかげられた塔と屋根の大棟《おおむね》が見え、その偉容はあたりの家を残らずその壁の内に呑みこむの...

19. 第十九章

結婚式はひっそりと行われた。当時カランにはそうしたニュースを伝える新聞がなかったため、町の人は「ホレイシオ・セバスチャン・ファインズすなわちブランダマー卿とカラン・ウオーフの故マーチン・ジョウリフの一人娘アナスタシアはセント・アガサズ・アット・ボウ教会にて挙式」という素っ気ない発表で好奇心を満足させるしかなかった。ミセス・ブルティールは自分の立ち会いが...

23. 第二十三章

同じ日の午後、ブランダマー卿はみずからカランにおもむき、長年フォーデング一族の事務弁護士を務めているミスタ・マーテレットを事務所に訪ね、一時間ほど主任と私室に引きこもった。

14. 第十四章

ウエストレイは夜の汽車でカランに帰ってきた。十時ころ、夕食を終えようとしているときにドアがノックされ、ミス・ユーフィミア・ジョウリフが入ってきた。 「お邪魔してごめんなさいね、旦那様」と彼女は言った。「ミスタ・シャーノールのことがちょっと気にかかって。お茶の時間にいらっしゃらなかったし、そのあとも戻ってないんですよ。もしかしたらどこにいるかご存じじゃな...

12. 第十二章

修復計画がブランダマー卿の寛大な寄付によってしかるべく修正され、作業も順調に進捗する段階に入ると、当初は細かい点までみずから厳しい監督の目を光らせていたウエストレイにも、ときには軽くくつろぐ余裕が生まれた。ミスタ・シャーノールは夕べの祈りのあと、半時間以上も演奏していることがしばしばあり、そんなときウエストレイは暇をとらえてオルガンのある張り出しにむか...