第十六章
それから一日か二日経って、ミス・ジョウリフはアナスタシアにこう尋ねた。 「今朝、ミスタ・ウエストレイから手紙を受け取ったわよね、あなた。お帰りのこと、何か言っていた?いつ帰るかって」 「いいえ、叔母さん、お帰りのことは何も。仕事の話がちょっと書いてあるだけ」 「あら、そう。それだけなの」姪の打ち解けない態度に少々傷ついた彼女は冷たくそう言った。 ミス・ジョウリフとしては、アナスタシアの考えることなどお見通しなのだから、隠し事をしてもむだよと言ってやりたいところだった。それに対してアナスタシアは、叔母さんは何でも知っているわ、いくつかの小さな秘密を除いてね、と答えていただろう。事実、一方が他方を知っていると言っても、恐らく老人が若者を知るようにしか知らなかったのである。「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(註 ミルトン「失楽園」から)この世の慰めの中で、このことが、つまり心というものはそれ自身一つの独自の世界であるということが最大の慰めである。心はどんな侵入者をもくい止める鉄壁の要塞、追われる者には昼も夜も開かれた聖域、夏の日照りのときでさえ木陰が元気を回復させる花園なのだ。幾人かの信頼する友人にはその迷路の道筋を教えるが、絹の糸玉一つでは短すぎて、自分以外の人がそこを通り抜けることは不可能である。陽光あふれる山頂があれば、汚れなき緑の芝地があり、花の匂いもかぐわしい小径、じめじめした絶望の土牢、あるいは罪の意識がこだまする、夜のように真暗な洞窟もある。ここを歩くときは一人だけ、決して手を引いて他人を連れて来ることはない。 ミス・ユーフィミア・ジョウリフはウエストレイの手紙を完全に無視して、もうそのことに触れようとは思わなかったのだが、しかし女にとって好奇心は誇りよりも強い。好奇心が彼女に手紙の話をもう一度持ち出させた。 「教えてくれてありがとう。わたしに言付けがあったら言ってちょうだい」 「なかったと思うわ」とアナスタシア。「そのうち持ってきて全部見せてあげる」そう言って手紙を取りに行くかのように部屋を出たのだが、実はその場をごまかそうとしたに過ぎなかった。ポケットの中ではウエストレイの手紙が取り出されるのを今か今かと待っていて、彼女はずっとその存在を意識していたからである。しかし彼女は返事を投函するまでそれを叔母に見せたくなかった。また部屋を出てしまえば、忘れてくれやしないかとも思っていた。ミス・ジョウリフは出て行こうとする姪に自分の立場をわきまえさせようと別れ際の一言を発した。 「わたしだったらミスタ・ウエストレイに手紙を書くよう水をむけたりしないわ。仕事の話しなら、あなたよりわたしに書いてよこすのが筋じゃないかしら」しかしアナスタシアは聞こえないふりをしてそのまま行ってしまった。
彼女はかつてはミスタ・シャーノールの住まいだった、今では気が滅入るくらいがらんとした寂しい部屋へ行き、筆記用具を見つけると、ウエストレイへの返事を書こうとして椅子に腰かけた。ウエストレイの手紙の内容はすべて頭に入っていて、ほとんどそらんじることができるくらいだったが、それでも机の上に広げて、難解きわまりない暗号ででもあるかのように何度も何度も読み返した。 「最愛なるアナスタシア」と手紙は始まっていたが、彼女は「最愛なる」という最初のことばを見て怒りを覚えた。いったいどんな権利があってわたしのことを「最愛なる」などと呼ぶのだろう。彼女はふと知り合った人に誰彼かまわず最上級を浴びせかけることをしない、不可解な女性の一人だった。今どきの基準から見ると、確かに冷淡、少なくとも想像力に乏しいと言えるに違いない。数少ない文通相手の中に「最愛の」と呼びかける人がいないのだから。叔母にだってそんなことばは使わない。ごくまれに家を離れてミス・ジョウリフに手紙を書くときは、「親愛なるユーフィミア叔母様」と呼びかけるのだ。
不思議なことにこの「最愛なる」という同じことばがウエストレイをもひどく考えこませ、悩ませたのだった。「最愛なるアナスタシア」と呼びかけるべきだろうか、それとも「親愛なるミス・ジョウリフ」がいいだろうか。最初のは馴れ馴れしすぎるし、二つ目はよそよそしすぎる。このこと、および他の細々した点についても母親と協議し、とうとう「最愛の」でいくことになった。そう呼びかけても、せいぜい「先回りしすぎ」と批判されるくらいのものでしかないだろう、と思われた。この呼びかけはアナスタシアが結婚の申しこみを受け入れしだい、さっそく正当化されるはずだったからだ。
「最愛なるアナスタシア――こう呼ぶのはあなたが今もこれからも、わたしにとって最愛の人であるからです――これから言おうとすることは、あなたの心もわたしの心と同じように望んでいることでしょう。そして重要な一歩を踏み出さなければならない今、あなたの優しさがわたしを支えてくれるであろうことを確信しています」
誰も見ていなかったけれど、アナスタシアはあきれたように頭を振った。ウエストレイのことばには必要以上に運命的な響き、苦しい自分の立場に同情を求めているようなところがあり、耐え難いほど不愉快だった。
「あなたと知り合ってから一年が経ちました。今やわたしの幸せはあなたを中心に回っています。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました。わたしはあなたの目が送っていたメッセージを正しく読み取ったと思います。
今宵わたしは町いちばんの幸せ者か 町いちばんのみじめな男 神よ お示しあれ あのハシバミのような茶色の目が訴えるもの それをわたしが正しく読み取ったことを」
アナスタシアは腹を立てながらも思わず笑ってしまった。ただ微笑を浮かべたのではなく、声に出して、一人静かに笑ったのである。男がよくやる含み笑いというやつだ。わたしの目はハシバミのような茶色どころか、茶色ですらない。でも町《タウン》と韻を合わせるために茶色《ブラウン》を使ったのね。それにどうせこの詩はどこかから引っ張ってきたものだわ。特にわたしのことを書いたわけじゃない。彼女はもう一度読み返した。「あなたと知り合ってから一年が経ちました。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました」。ウエストレイは詩的な繰り返しがロマンチックな雰囲気を醸し出すと考え、文に釣り合いを持たせたのだった。しかしアナスタシアには陳腐な文句の反復としか思えなかった。彼が彼女と知り合って一年が経ったなら、彼女も彼と知り合って一年が経ったことになる。女性の心にとって前提から導き出される結論はそこで終わりだ。
「わたしはあなたのメッセージを正しく受け取ったでしょうか、最愛の人よ。あなたの心はわたしのものでしょうか」
メッセージですって?いったい何のメッセージのことかしら。わたしがあの人なんかにどんなメッセージを目で伝えようとしたと思ってるのかしら。この何週間か、あの人は絶えずわたしをじろじろ見ていた。ときどき視線がかち合ったとしたら、それは避けられなかったという、ただそれのことだ。もっともたまにはわざと見つめ返すことがあった。恋に落ちた男の間抜け面を見るのが面白かったのだ。
「どうぞそうだと言ってください。あなたの心はわたしのものだと」
(この懇願は批評を差しはさむことさえ憚られるような非常識に思えた)
「わたしはあなたの現状を心配しながら見守っています。あなたが何も知らない危険に、今、この瞬間もさらされているのではないかとときどき危ぶむのです。また不幸や死があなたの叔母さんを襲った場合、どれほど先の読み解き得ない未来が訪れるか、不安になることもあるのです。わたしに未来という謎を読む手伝いをさせてください。あなたの盾となり、未来の支えとなることを許してください。わたしの妻になり、わたしにあなたの庇護者となる権利を与えてください。もうしばらく仕事でロンドンに滞在しなければなりません。しかしあなたのお返事をこちらで首を長くしてお待ちしています。いえ、こう言ってよければ、希望を抱きつつお待ちしています。
あなたをひたむきに深く愛する エドワード・ウエストレイ」
彼女はゆっくりと手紙をたたんで封筒の中に戻した。どれほどウエストレイが自分の目的を挫折させる手段を探し回ったとしても、この最後の段落くらいその目論見にかなったものは見いだせなかっただろう。それは男を拒むときにつきものの相手を思いやる気持ち、不快なものをできるだけ不快でなくしてやろうとする気持ちをほとんど奪ってしまった。彼の独善的な口調は腹にすえかねた。こっちが彼の言うことを聞くか聞かないか、それさえ分からぬうちから忠告してくるとはいったいどういうことか。彼女が今もさらされている危険とは何なのか。ミスタ・ウエストレイが彼女の盾となって守ると言っている危険とは。一応疑問を呈してみたものの、答は最初から分かっていた。彼女も最近心の中でそのことを何度も考えていたので、ウエストレイが言外にほのめかすことなど苦もなく理解できたのだ。嫉妬深い男がいるとすれば、それは嫉妬深い女より軽蔑されるべきもの。男のよりすぐれた力とは心の広さと寛大な態度にある。こういうものがないとき、その欠点は女の場合よりも目立つのである。アナスタシアはウエストレイが謎めいたことを言うのは嫉妬のせいだと考えた。しかし彼女は苦心惨憺書かれた手紙を滑稽だと思う強さを持つと同時に、からかいの対象とはいえ、男の興味をかき立てたことに女としての悦びを感じるという弱さも持っていた。
彼女はもう一度、一緒に謎を、それも読み解き得ない謎を読み解きましょうという誘いを見て笑った。彼女の将来に備えたいなどと言っているが、その熱心な願いに含まれる恩着せがましい態度は、彼女自身、将来に備えてしっかりした考えを持っていただけにいっそう嫌らしく思えた。自分が家を離れないのはただ叔母を愛しているからだ、と彼女は何度も自分に言い聞かせていた。ミス・ジョウリフに「何か」があったら、彼女はすぐ自分で生計を立てるつもりだった。そうした際に役立ちそうな自分のたしなみを彼女はしばしば数え上げた。彼女は優れた学校で――やや一貫性に欠け、途中で中断したとはいうものの――教育を受けている。本をむさぼるように読み、イギリス文学、とりわけ小説の大家については深い知識を持っている。ピアノとバイオリンの腕前はまあまあ。もっともミスタ・シャーノールは彼女の自己評価に条件をつけただろうけど。油絵や水彩画を描かせると悠然とした筆致があって、父親はそれを母親から受け継いだに違いない――花と毛虫の大作を描いた、あのソフィア・ジョウリから受け継いだに違いないと言った。また、生気溢れる彼女の似顔絵は学校の友達を大いに湧かしたものだ。自分の服は自分で作り、デザインや仕立ての趣味のよさには自信があった。腕をふるう機会さえ与えられれば、ぬきんでた実力を示すことができるはずだ。彼女は自分が子供好きで、子供をしつける才能が生まれつき備わっていると信じていた。もっともカランで子供の面倒を見たことなど一度もなかったけれども。自分にはこうした能力、といっても彼女だけでなく他の人も持っているに違いない能力なのだが、これをもってすれば家庭教師のいい口を探すのはきっと簡単だろう、あとはそういう人生を歩む決意をするだけのこと。彼女はときどき運命をなじりたくなった。運命のおかげで世界は今、こうした恩恵を享受できずにいるのだから。 しかし心の奥底では教育に人生を捧げることが本当に正しいかどうか疑問を感じていた。というのは自分の天命はもっと崇高な使命を果たすことではないか、口を使って教えるのではなく、ペンを使って教えることではないか、と思っていたのである。どの兵士も背嚢のなかに元帥杖を入れているように、どの十代の女の子も、大型衣装箪笥の奥には一流作家の衣冠束帯、そしてその地位を示す正式な記章が隠されていることを知っている。それを取り出し外気にさらさなければ、冠は使われないまま光を失い、怠惰という衣蛾に汚されることもあるだろう。しかしともかく正装一揃いはしまってあって、いつかそれに身を包み、驚き愕然とする世間の前に颯爽と登場するかも知れないのだ。ジェイン・オースチンとマリア・エッジワースは聳え立つ城のステンドグラスにその光輪を輝かすヒロインたちである。シャーロット・ブロンテもベルヴュー・ロッジと同じくらい鄙びたところで傑作をものしたのだ。アナスタシア・ジョウリフはいつの日か静かなカランの望楼から画期的な小説が勝利の行進をする様を遠く望み見たいものだと思っていた。 もちろんその本はペンネームで出版されなければならない。一人前の物書きになるまでは本名を使う気はなかった。筆名の選択はこの冒険にむけて彼女が踏み出した唯一明確な一歩だった。時代背景はまだ決まっていない。大きな銀の壺や脚の細いテーブルがあり、胸の高さでドレスを絞っている十八世紀にしようかと思うこともあれば、男爵たちが血まみれの戦闘のあと、全身鎧をまとったまま川を泳ぐバラ戦争のさなかにしようかと思ったり、あるいはヴァンダイクが弓形の眉やほっそりした手を描き、死の影があらゆるものを蔽っていた清教徒革命の頃にしようかとも思った。
彼女の空想がいちばんよく赴く先は清教徒革命の時代で、鏡の前に座りながら自分の顔はヴァンダイク風ではないかと考えることがときどきあった。確かにそうだった。たとえ鏡が曇っていて、映りが悪く、古びていたとしても、たとえそこに映しだされるドレスが紫紺や琥珀のヴェルベットでないとしても、彼女にはどことなく主君とともに没落した王党派の娘を思わせる雰囲気があった。王室付きの肖像画家なら、この若くて愛らしい瓜実顔と小ぶりな口を喜んで絵にしただろうし、眉とまぶたの間隔も彼の好みだと感じただろう。
筋立てはまだぼんやりしていたが、登場人物たちは鎧や小枝模様の衣装を纏い、いつも彼女とともにあった。心はそれ自身一つの独自の世界、彼女は自分が造り出した小さな宮廷を持ち歩き、そこでは恐るべき悲劇が繰り広げられ、勇敢な行為があり、情熱的な若い愛が苦悩のあまり涙をこぼし、そしてたかが十八歳の小娘が比類ない決意と大胆さと美と天才と肉体の力を持っていつも事態を正し、最後に平和をもたらすのだ。 これだけの才能があるのだから、アナスタシアには未来が暗鬱なものとは見えなかったし、ミスタ・ウエストレイが考えるほど、その謎が解き難いとは思わなかった。彼女の将来に希望を与えようとするいかなる試みに対しても、彼女は未熟な人間の持つありったけの自信をこめて憤慨しただろう。実際ウエストレイの申し出は、彼女が寄る辺ない立場にあることをほのめかしたり、申し出を受け入れれば幸福になれるとか、いかにも低姿勢でお願いしているのだ、ということをやたら強調しているため、なおのことはらわたが煮えくりかえるのだった。
女性の中には結婚こそ人生の第一義と、常にそのことを中心に考え、条件のよい結婚、それがだめならそれなりの結婚を主要な目的とする人がいる。また結婚を偶然的なものと見なし、熱心に望みもしなければ避けることもせず、状況の善し悪しに従って受け入れたり拒んだりする人もいる。さらにまた、すでに若いときから結婚という考えを決然と捨て、心の中でこの問題を議論することさえみずからに禁ずる人もいる。男が結婚しないと言明しても、経験の示すところ、この決心はしばしば考え直されるものだ。しかし結婚しない女は違う。彼らはたいてい未婚のままである。なぜなら男というものは愛情問題に関してはへっぴり腰で、すげない態度を見せられると追いかけるのを止めてしまうからである。こうした女性もみずからの裁定を考え直したいと思うことがあるのかもしれないが、気がつくとすでに悔やんでもどうにもならない年齢に達しているのだ。しかし大体においてそうした事柄に対する女性の決心は男性のそれよりも堅固である。それというのも、女性にとっての結婚は男性の場合とは比較にならぬくらい重要な問題だからだ。 アナスタシアが属していたのは無関心派だった。立場の変化を求めもしなかったが、避けもしなかった。ただ結婚を偶然と見なし、それが身に降りかかれば前途に大きな変化があるかも知れないと思っていた。そうなればもちろん教育者としての人生は不可能になる。文学活動だって、妻や母としての仕事があるから、ある程度の束縛を受けるだろう(結婚するにしろ、しないにしろ、彼女は作家としての使命を全うするつもりでいた)。しかし結婚を困難からの逃避であるとか、生活という取るに足りない問題の解決方法であるなどとは決して考えたくなかった。
彼女はもう一度ウエストレイの手紙を始めから終わりまで読み返したが、ますます退屈なものに思えてきた。この手紙は書き手の性格を表している。いつも夢のない男だと思っていたけど、今は耐えきれないくらい散文的で、うぬぼれていて、けちくさく、功利主義者に見える。妻になってくれですって!保母兼家庭教師として一生を過ごす方がましよ!あんな人が相談相手で伴侶だったら小説なんて書けるものですか。あの人はわたしに几帳面さを求めてくるわ。卵は新鮮なものをそろえろ、ふとんはよく日干ししろ、って。こんな具合に頭の中で自分を妻にしようとするこの企てに理詰めの非難を重ねた結果、ついに彼の申し出は忌むべき犯罪になってしまった。素っ気なく、無愛想に、いいえ、乱暴に返事を書いてやったって、当然の報いだわ。こんな愚劣な結婚の申しこみでわたしにばかばかしい思いをさせたんだもの。そういうわけで彼女はきっぱり決意を固めて筆箱を開けたのである。 それは擬革に覆われた小さな木箱で、蓋にはフランス語で「文箱」という金文字が押されていた。大して価値があるとは思っていなかったが、父親からの贈り物という意味で彼女には大切なものだった。実を言えば父親がくれた唯一の贈り物なのだ。トランペットで一大ファンファーレを奏でながら彼女をカリスベリのミセス・ハワードの学校へ送り出すとき、いつになく太っ腹な気分になった父親が、少なくとも半クラウンは奮発して買ったものだ。彼女は父親のことばをそっくり覚えている。「これを持っていきな」と彼は言った。「これから一流の学校に行くんだ。持ち物もそれにふさわしいものでなくっちゃな」そう言って筆箱をくれたのだった。足りないものは山ほどあったが、それで我慢しなければならなかった。アナスタシアはそれが新品のヘアブラシかハンカチ一ダースか、まともな一足の靴であったらよかったのにと嘆いた。 それでも筆箱は役に立った。それ以来手紙はすべてそれで書いてきたのである。しかも彼女の持ち物の中では唯一鍵のかかる入れ物だったので、彼女は女の子らしい宝物を入れる、ささやかな宝石箱にしていた。びっしり中身が詰まっていたので、開けるとそれらがあふれ出てきた。ロマンスを添えた手紙もあれば、楽しかったけれどあまりにも短すぎたカリスベリでの学校生活の思い出の品もあった。学期末の素敵なダンスパーティーで踊る相手の名前を乱雑に書きこんだプログラム。パーティーには他の女生徒の兄弟が厳選されて招待されていたのだ。そしてその歴史的な機会に胸につけた、誰かのくれたバラの押し花。他にも同じように貴重な記念品が詰まっていたが、どういうわけかそれらは以前ほどロマンチックだとも大事だとも思えず、今はたわいもないものをと苦笑したいくらいだった。その時小さな紙片がひらひらと机から床に落ちた。彼女は屈んで宝冠の絵と「フォーディング」の字を黒く印した封筒の垂れ蓋を拾い上げた。ある日ウエストレイのゴミ箱を空けようとして見つけたものだ。ごく単純な図案でしかなかったが、彼女に思考の糧を与えたに違いない。筆箱にしまいこみ、ウエストレイの手紙を書くまで少なくとも十分は目の前の机の上に置かれていたからである。
返事を書くのはなんら難しいことではなかった。ただ、しばらく思い出に浸っていたせいで、いらだちは収まり、敵意は和らいでいた。返事は無愛想でも乱暴でもなく、独創的と言うよりありきたりで、しかも結局こういう場合によく使われる常套句を用いることにした。何しろはじめて男が求婚し、はじめて女が断るのだ。彼女は自分に優しい関心を寄せてくれたことをミスタ・ウエストレイに謝し、自分に対して示してくれた気遣いを十分に理解していると書いた。残念ながら――誠に残念ながら――ご希望に添うことはできません。こんなふうに書くと思いやりがないと思われるかも知れませんが、わざと思いやりのないことばを書いているわけではないのです。はなはだ申し上げにくいことではあるけれど、ご希望には「決して」添うことができないと偽らずに言うことが本当の思いやりであると考えるのです。彼女はしばらく手を休めてこの最後の文の含むところを検討していたが、書き直す必要はないと判断した。求婚者の情熱が再燃することがないよう、彼女の決定が最終的なものであることを示したかった。ミスタ・ウエストレイに対する強い敬意はこれからも少しも変わりませんし、今回のことで二人の友情にひびが入るようなことは決してないと信じています。今までと同じようにお付き合いがつづくことを希望しつつ筆を擱きます。
書き終わって安堵のため息をつき、慎重に読み返しながら適当な箇所にコンマやセミコロンやコロンを付け加えた。句読点を厳守することは楽しかった。文学的な文体を志し、ペンで生計を立てようとする者なら当たり前の配慮であると彼女は思った。結婚の申しこみに自分で返事を書いたのはこれがはじめてだったけれど、似たような境遇に陥ったヒロインのために手紙を書いてやったことがあったので、まんざらこの手の経験がないわけでもないのだ。同時に彼女の書き方はミス・ユーフィミアの蔵書の一冊、ぼろぼろの子牛革で装丁された「若者のための手紙大全、および人生の様々な場面における返事の書き方指南」にいつの間にか影響されていたかも知れない。
手紙にしっかり封をし、投函し、そこではじめて叔母に何があったかを報告した。「ミスタ・ウエストレイの手紙よ」と彼女は言った。「お読みになりたければどうぞ」と、男が己の運命を託した白い一片の紙きれをミス・ジョウリフに手渡した。 ミス・ジョウリフはさりげなく受け取ろうとしたがうまくいかなかった。結婚の申しこみというものは独特な雰囲気を発散していて、どれほどぼんやりした人にもその重要性が分ってしまうものである。彼女は読むのが遅く、眼鏡を拭いてかけ直し、椅子に腰かけてから、目の前のものをじっくり焦らず検分していこうとした。 しかし最初に判読した「最愛」という文字に平静を奪われ、いつもにも似ない大急ぎで手紙を読み進んだ。読みながら口を丸くすぼめ、ときどき気持ちを吐き出すように「まあ」とか「まあ、アナスタシア」とか「まあ、あなた」と、ため息をついた。 アナスタシアは傍らに立って、そらでも言える文面を追いながら、ページをめくる人より十倍も速く読める人のようにいらいらしていた。 ミス・ジョウリフの心は相矛盾する感情で一杯だった。姪の前に開けた、より確かな未来の展望を喜ぶとともに、なぜもっと早くに打ち明けてくれなかったのかと気分を害したのだ。アナスタシアは彼に求婚されることをきっと知っていたに違いない。目と鼻の先で行われていた求愛活動を見逃すとはうかつだった。そして結婚が、自分の子供のような相手と別れることを意味することに思い当たり当惑した。
長い老い先を一人で歩いていくのはなんと憂鬱なことだろう!「緩慢な暗闇の時間が始まる」(註 クリスチナ・ロセッティの詩から)とき、頼りにするつもりでいた愛しい腕を奪われるのはどんなにつらいことだろう!しかしそれは自分勝手な考え方だと頭の中から追い払い、そんなことを考えた後悔の気持ちから、しわが寄り、酷使されて肌の荒れた手をそっとアナスタシアの手の中に忍びこませた。 「あなた」と彼女は言った。「いい運に恵まれてわたしもとても嬉しいわ。よかったじゃないの」アナスタシアが結婚の申しこみを受け、ともかくも一安心という気持ちが不安を沈黙させたのだった。
諾否を求める結婚の申しこみは、よいものであれ、悪いものであれ、どうでもいいものであれ、受け手にある種の自己満足を与える。軽くあしらってもいいし、不興をかこってもいいし、アナスタシアのように腹を立ててもいい。しかしその心の奥底には、一人の男の完全な賞賛を勝ち取ったといううぬぼれが潜んでいるものだ。たとえ相手が絶対に結婚したくないような男であっても、馬鹿であっても、けちであっても、悪党であっても、とにかく男であって、彼女は彼を虜にしたのだ。彼女の親族も同じようにご満悦である。申しこみが受諾されるなら、それまではたぶん先行き不確かだった者に未来が開かれることになる。拒絶した場合は、金の力に屈しなかったとか、不釣り合いな相手と運命を結びあわせなかったとか言って、血族の女の優れた判断、しっかりした分別を祝うのである。 「よかったじゃないの」ミス・ジョウリフは繰り返した。「おまえが幸せになることを願っているよ、アナスタシア。この婚約に神様の祝福がありますように」 「叔母さん」と姪は遮った。「そんなこと言わないで。わたし、もちろん、断ったわ。どうしてわたしがミスタ・ウエストレイと結婚するなんて思うの。あの人とそんなことになるなんて考えたこともない。こんな手紙を書いてよこすなんて思ってもいなかったわ」 「断ったですって?」老婦人は驚いて強い口調になった。また自分勝手な考えが頭をよぎった――やっぱり二人を別れさせてはいけない――そしてまたそれを断固として退けた。彼女は姪にそのような結論を出させた反対理由を思いつくかぎり頭の中に浮かべてみた。宗教はミス・ジョウリフの人生の基本で、彼女の心は磁石の針が北をむくように宗教へむかう。そのときもそこに理由を求めようとした。アナスタシアにとって障害となったのは何か宗教的な事柄だったに違いない。 「あの人がメソジストだっていう点は少しも気にする必要がないと思うわ」彼女は問題のありかを突き止めたと強く確信し、また自分の洞察力の鋭さを多少誇りに思いながら言った。「お父さんはしばらく前にお亡くなりだと言うし、お母様はご存命だけど、一緒に暮らすことはないのよ。お母様はあなたにメソジストになって欲しいなんて思いやしないでしょう。ミスタ・ウエストレイは、いいえ、今やあなたのミスタ・ウエストレイよね」そう言って彼女はその場にふさわしいいたずらっぽい表情を浮かべた。「あの人は立派な教会の信者だわ。日曜にはきちんと大聖堂に行くし、建築家だから平日だって聖堂に行っている。国教会の礼拝のほうが他の派の礼拝より心にしっくりくるんでしょうね。もちろんメソジストの悪口なんか一言も言うつもりはないわ。あの人たちは本物のプロテスタントよ。もっと重大な過ちからわたしたちを守ってくれる土塁のような人たちだわ。あなたの恋人が小さいときの躾のおかげで典礼尊重主義に陥っていないことは喜ばしいことよ」 「叔母さんたら」とアナスタシアは口をはさみ、その本気で非難する口調に叔母は驚いた。「お願いだからそんなふうに言うのは止めてちょうだい。ミスタ・ウエストレイをわたしの恋人だなんて呼ばないで。言ったでしょう、あの人とはこれからも何の関係もないんだって」 ミス・ジョウリフの思いは大きく弧を描いて動いた。結婚の申しこみが断られ、縁談は破談というなりゆきに直面し、それがもたらすはずの利点が急にくっきりと見えてきたのである。興味津々のドラマが始まったと思ったらさっそく幕が閉まり、よきものをつかんだと思ったら、とたんに指のあいだからこぼれ落ちてしまう。これではあまりにも残念だと思った。数分前に彼女を悩ました孤独な老後の恐れなど今は考えようともしなかった。彼女が見ていたのはアナスタシアがわがままにも犠牲にしようとしつつある将来への備え、それだけだった。手はいつの間にか握りしめられ、持っていた縦長の紙片をくしゃくしゃにしてしまった。それはたかが牛乳屋の請求書に過ぎなかったけれども、もしかしたらそれが無意識のうちに彼女の考え方を実利主義的な色合いに染めていたのかも知れない。 「せっかく差し出していただいた良いものを断ったりするものではありません」彼女は少々改まって言った。「よくよく考えて、そうするのが正しいというのでなければ。わたしに何かあったら、アナスタシア、あなたはいったいどうなるの」 「それこそ彼が言っていることよ。彼がつけこんでいるのはまさにその点なのよ。どうして悪いほうにばかり考えるの?何かが起きたら、それはいつも悪いことなの?いいことがあるって期待しましょうよ。別の人からもっといい申しこみがあるって」彼女は笑い、それから考えこむようにこう付け加えた。「ミスタ・ウエストレイはこの下宿に戻ってくるつもりかしら。帰ってこなければいいけど」 そのことばを口にしたとたん、彼女は後悔した。ミス・ジョウリフの顔に悲しげな色がさっと広がるのを見たのだ。 「叔母さん」と彼女は叫んだ。「ごめんなさい。そんなこと言うつもりじゃなかったの。分っているわ、わたしたちがどんなに困るか。最後の下宿人をなくすわけにはいかないわね。わたし、戻ってきてくれたらいいと思う。家計の足しになるなら、あの人と結婚すること以外、何でもするわ。自分でお金を稼ごうと思っているの。わたし、書くわ」 「何て言って書くんだい?誰に宛てて書くんだい?」ミス・ジョウリフはそう言って、虚ろな表情をいっそう虚ろにし、ハンカチを取り出した。「わたしたちを助けてくれる人なんていないのよ。わたしたちのことを気にかけてくれるような人はとうの昔に死んでしまった。もう手紙を書く相手なんて誰もいないのよ」