雲形紋章

第二十章

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ウエストレイはアナスタシアにひかれ、あるいは好意を抱き、一時はその感情を愛だと思いこもうとしたが、それも消えてなくなった。心の平静を完全に回復し、結婚の申しこみを拒否された恥辱については、申しこんだときにすでに娘の心は決まっていたのだ、と割り引いて考えることにしていた。いずれにしろブランダマー卿がとてつもない競争相手であることは認めるにやぶさかでないが、同じスタート地点から競争を始めていたなら、彼にも勝ち目は十分あったと思っていた。ライバルには社会的地位と富があるが、こっちには疑いもなく若さと安定した人生と専門的な技術がある。しかしすでに他の男のものである心を自分のものにしようとするのは、水車にむかって槍を繰り出すようなものだ。こんなふうに不快な思いを次第に鎮め、仕事に集中して打ちこむようになった。

冬の日暮れが訪れる頃、彼は南袖廊の端にある巨大な窓の紋章を解明するという、性にあった暇つぶしを見つけた。そこに輝くさまざまな紋章をスケッチし、郷土史とドクタ・エニファーが貸してくれた小冊子を頼りに紋章の各部分に示される姻戚関係をほとんど突き止めることに成功した。すべてがブランダマー家の結婚に関係していた。ガラス画家ヴァン・リンジは第三代ブランダマー卿までの家系を窓いっぱいにガラスで描き、海緑色と銀色の雲形紋章は窓の上部に大きく出ているだけでなく、何度も繰り返し用いられていたのである。この調査に当たってマーチン・ジョウリフの書類が手元にあったのはありがたかった。建築家の調べ物に関連した情報が満載されていたのだ。なにしろマーチンは出版されたブランダマー家の家系図を入手し、手をつくして結婚と傍系親族のことを調べ上げ、それに補足訂正を施していたのである。 マーチンの妄想の話を聞き、少年たちに「雲形じいさん」と呼ばれていた、もうろくした老人というイメージがウエストレイの頭の中にでき上がっていたため、はじめて書類をひっくり返したとき、そこにあるのはせいぜい狂人のたわごとでしかないだろうと思っていた。しかしその多くがどれほど連関性のないばらばらのものに見えても、マーチンのメモは極めて興味深く、多かれ少なかれ一つの目的によって貫かれた一貫性のあるものであることが次第に判明してきたのである。果てしなくつづく家系図と、本から書き抜いた一族の歴史の断片、その他にマーチンが旅をしながら得たありとあらゆる個人的印象と経験も記録されていた。しかしこのすべての調査探索はたった一つの目的しか持っていない、と彼は明言している――つまり父の名を突き止めることだ。もっともどんな記録を見つけようとしていたのか、どこで、どんなふうに見つけようとしていたのか、文書、戸籍簿、銘刻、いずれの形で見つかると考えていたのかはどこにも書かれていないけれども。

自分こそフォーディングの正当な所有者であるという持論はオクスフォード時代に思いついて以来、彼に取り憑き、その後どんな目に遭おうとも払いのけることができなかったのは明らかだった。二親の片一方ははっきりと分かっている。母親は小地主のジョウリフと結婚し、有名な花と毛虫の絵を描き、そのほかいろいろ名誉になるとはいえないことをやらかしたソフィア・フラネリイだ。しかし父親は不透明なヴェールをかぶっていて、マーチンは生涯をかけてそれを引きはがそうとしたのだ。ウエストレイはこんな話を教会事務員のジャナウエイから十回以上も聞いていた。小地主のジョウリフがソフィアと教会に行ったとき、彼女は前の結婚でできた四歳の男の子を連れていた。前の「結婚」で、という点をマーチンはいつもそれが義務であるかのように強調した。それ以外の事情を考えることは自分自身の名誉を傷つけることだった。母親の名誉はどうでもいい。だいたい兵士や馬喰とくっついて自分の評判を無惨におとしめた母親の思い出など、守ったところで何になるというのだ?マーチンが必死になって事実関係を突き止めようとしたのは、この「前の結婚」だった。他の人々が頭を振って、そんな結婚は見つからない、ソフィアは妻でも未亡人でもなかったのだというものだから、なおさら必死だった。 メモの終わりのほうになると、まるで手がかりが見つかったような――何かの手がかりが見つかったか、見つかったと思っているような書き方になった。このスリッパ探し(註 隠されたスリッパを探し出す子供の遊び)のゲームで彼は目的のものにどんどん近づいていると思っていたのだが、土壇場で死が彼の裏をかいたのだった。ウエストレイは、もう少しで謎が解けるというときにマーチンに最後が訪れてしまった、とミスタ・シャーノールが一度ならず語っていたことを思い出した。シャーノールもあと少しで幻の正体を突き止めることができたのに、あの嵐の晩、運命に足をすくわれたのではなかったか。書類をめくりながらウエストレイの心に様々な思いが浮かび、彼よりも前にこれをめくった人々のことをいろいろ考えた。この書類を書くために無駄な日々を費やし、家庭も家族もなおざりにした、頭はいいけれどろくでなしのマーチン。興奮した手で書類を握り、驚くべき秘密を暴いて自分の人生という暗い舞台に華々しい光を当てようとした老オルガン奏者。読み進むにつれてウエストレイはますます興味をそそられ、もともとブランダマー・ウインドウの紋章を研究するため始めたことなのに、すっかりこちらの調査にのめりこんでしまった。彼はマーチンに取り憑き、オルガン奏者をあれほど興奮させた幻を理解しはじめた。長い間、彼らが求めていた秘密を暴くのは自分の役目であり、自らの手の中にこそ、この奇怪極まりない物語の鍵が握られているのだと考えはじめた。 ある晩、図面を手にし、マーチンの書類を脇テーブルの上に散らかしたまま椅子に座って暖炉にあたっていると、ドアをノックする音がして、ミス・ジョウリフが入ってきた。ベルヴュー・ロッジを出たにもかかわらず、二人は今でも親しい友達だった。下宿人を失ったことは残念で仕方なかったが、彼の取った行動は正しいし、そうするのが義務ですらあると彼女は思った。こうした場合の作法を守ってくれたことはありがたかった。あのまま下宿に住みつづけることは普通の感覚の持ち主には不可能だっただろう。アナスタシアの手を取ろうとして拒絶されたことは彼にとって精神的打撃だったが、彼女はそれにすっかり同情をしてしまい、犠牲者に対してなにくれとなく配慮を見せようとした。アンスティスがミスタ・ウエストレイを拒絶したことはきっと天がよかれと定めたもうたことに違いないが、ミス・ジョウリフは彼の結婚の申しこみに好感を抱いていたから、それが不首尾に終わったことを当時は悲しんでいたのである。そういうわけで二人のあいだには不思議な気持ちのつながり、拒否された恋人と、彼の申しこみを一所懸命に応援した女性とのあいだによく存在するような気持ちのつながりがあった。以来二人はかなり頻繁に会い、一年がたつとウエストレイの失望も鈍磨し、冷静にその話ができるようになった。彼はあのような不可解な拒絶の理由をミス・ジョウリフと議論したり、申しこむのがもう少し早いか、別のやり方をしていたなら受け入れられただろうか、などと考えることにもの悲しい喜びを感じていた。彼女にとってもそれは不快な話題ではなかった。どこをとっても不足のない最初の申しこみを断り、そのあとで桁違いに好条件の申しこみを受け取った姪を持ち、自分まで栄光に包まれたような気がしていた。 「申し訳ございません、旦那様《サー》――ごめんなさいね、ミスタ・ウエストレイ」彼女は二人の関係がもはや下宿の女主人と下宿人のそれではないことを思い出して、そう訂正した。「こんなに遅くお邪魔して相済みません。でも日中はなかなかお会いできませんから。最近ずっと気になっていたんですけど、ミスタ・シャーノールと一緒に買い取ってくれた花の絵をまだ持ちだしていらっしゃいませんでしたね。新居に落ち着くまでお待ちしていたんですけど、もう何もかも片付いただろうと思って、今晩お持ちしましたの」 彼女の服はもう擦り切れてはいなかったが、それでもごく質素な黒だった。以前は日曜日にしかつけなかった苔瑪瑙のブローチを毎日つけるようになっても、優しくて衝動的なところは少しも変わらぬミス・ジョウリフだった。 「座ってください」椅子を差し出しながら彼は言った。「絵を持ってきたとおっしゃいましたか」彼はまるで絵が彼女のポケットから取り出されるのを期待しているかのように相手を見つめた。 「ええ」と彼女は言った。「女中が今、上に運んできます」――「女中」ということばを使うときに、ほんのかすかな躊躇があった。人にかしずかれるという贅沢にまだ慣れていないことのあらわれだった。 ベルヴュー・ロッジに住みつづけ、召使いを一人雇えるようにと、アナスタシアが差し出す生活費を、彼女はさんざん説得されたあげく、渋々受け取ることにしたのだった。ブランダマー卿が婚約から一週間以内にマーチンの借金をきれいに支払ってくれたときは、どれほど安堵したか分からないが、同時にこのような寛大さは彼女の心をいくつもの心配で満たすことになった。ブランダマー卿は一緒にフォーデングの屋敷に住むことを望んでいたが、思いやりがあり、よく気のつく彼は、そのような変化を彼女が好まないことを見て取るや、無理に勧めることを止めた。そういうわけで彼女はカランにとどまり、今ようやくその存在に気づいた無数の友人たちの訪問を厳かに受け、また聖堂での礼拝や集会、教区の仕事や他の特権を心ゆくまで楽しみながら日々を送っていた。 「ご親切にありがとう、ミス・ジョウリフ」とウエストレイは言った。「絵のことを覚えていてくださるとは。でも」彼は絵のことを鮮明すぎるくらいはっきり思い出した。「あなたはいつもあの絵を大切になさっていましたね。それをベルヴュー・ロッジから奪ってしまうなんて、わたしにはできませんよ。共同所有者だったミスタ・シャーノールは亡くなって、わたしには半分しか権利がないんですけど、あれは贈り物としてあなたに差し上げます。いろいろ親切にしていただいた、ささやかなお礼のしるしです。実際、ひとかたならずお世話になりましたからね」彼はため息をついたが、それは結婚の申しこみの一件で、ミス・ジョウリフが好意を示してくれたことや、自分が悲しみにかきくれたことを相手に思い出させるためのものだった。 ミス・ジョウリフはとっさにその暗示を理解した。彼女の声は同情に満ちていた。「まあ、ミスタ・ウエストレイ、ご存じでしょうけど、わたしもあなたが望んだとおりに事が運べばいいのにって心から思っていましたのよ。でもこういうことは天の定めを理解するように努め、悲しみに耐えなければなりません。あの絵のことは、今回だけは、わたしの言う通りにしてくださいな。わたしたちが取り決めたように、そのうち遠からず絵をあなたから買い戻せる日が来ますわ。そのときは絵を返してくださると信じています。けど今はあなたのところになければなりません。それに、もし、わたしに何かがあったら、あれはあなたにしっかり保管しておいてほしいのです」 ウエストレイはあくまで彼女が持っているように主張するつもりだった。けばけばしい花と緑の毛虫には、もう二度とつきまとわれたくはなかった。ところが、彼にはおかしなくらいよくあることなのだが、彼女が喋っているあいだに急に気が変わったのである。どんなことがあっても絵を手放すな、と異様なくらいしつこくミスタ・シャーノールに頼まれていたことを思い出したのだ。今ミス・ジョウリフが絵を持ってきたのも、摩訶不思議な力が働いたせいではないかと思われ、絵を突き返すのはシャーノールの信頼を裏切ることになりそうな気がした。そこで意地を張るのを止め、「じゃあ、本当にそれでいいのでしたら、しばらく預かることにしましょう。いつでも好きなときに持っていって構いませんよ」と言った。彼が話しているとき外の階段から何かに躓くような足音と重いものを落としたようなごつんという音が聞こえてきた。 「あのそそっかし屋さん、またやっているわね」とミス・ジョウリフは言った。「躓いてばかりなんだから。彼女が来て六ヶ月のあいだに割った食器は、それまで六年間に割った数より多いと思うわ」 二人はドアのほうに行った。ウエストレイがドアを開けると大きな赤ら顔をにやにやさせたアン・ジャナウエイが、花と毛虫の華麗な絵を抱えて入ってきた。 「今までなにしてたの」彼女の主人が厳しく問いただした。 「すみませんです、奥様」と女中は言ったが、その謝罪のなかには幾分憤りがこめられていた。「このでっかい絵のせいでけつまずいたんですよ。傷ついてなきゃいいんだけど」――彼女は絵を床においてテーブルに立てかけた。 ミス・ジョウリフは皿のかすかな欠けを見つけ、ティーポットの毛の筋ほどの傷をも見逃さない鍛えられた目で絵をしげしげとながめた。 「あら、たいへん!」と彼女は言った。「素敵な額縁が台無しだわ。下の枠が外れそうになっているじゃない」 「まあまあ」ウエストレイはなだめるように言いながら絵を持ち上げ、テーブルに寝かせた。「それほどたいしたことじゃありませんよ」 額縁の下枠は確かに両端が浮いて、今にもとれそうになっていたが、手で押しこむと元通りに枠にはまり、ちょっと目には毀れたことなど少しも分からなかった。 「ほらね」と彼は言った。「見た目にはほとんど問題はありません。明日、膠をつければきれいに直ってしまいます。しかし女中さん、よくまあここまで運び上げたものですね――こんなに嵩があって重いっていうのに」 実を言えばミス・ジョウリフ自身、アンを手伝って絵を運んできたのである。しかしそれは闘牛のムレータのような赤い敷物を敷いた最後の踊り場までのこと。最後のひと登りは女中一人でも心配なかろうと思ったし、絵を運びながらウエストレイの前にあらわれるのは、働かなくても暮らしていけるくらい裕福になった今、自分の新しい威厳を損なうように思われたのだ。 「そうかっかなさらないで」とウエストレイは頼むようにいった。「ほら、天井下の壁から釘が出ているでしょう。もっといい場所が見つかるまで、当座のあいだ引っかけておくにはちょうどいい。この古い紐もぴったりの長さだ」彼が椅子の上に乗って絵をまっすぐにかけ、後ろに下がってほれぼれと眺めるような様子をすると、ミス・ジョウリフもだいぶ機嫌が直った。 ウエストレイはミス・ジョウリフが帰ったあとも遅くまで仕事をつづけた。それが片付いたとき、大きな音で時を刻むマントルピースの上の時計はほとんど十二時を指していた。それからしばらく消えかけた火の前で椅子に腰かけ、ミスタ・シャーノールの思い出にふけった。絵を見て彼のことを思い出したのだが、そのうち黒くなった燃えさしが彼に寝る時間だと注意した。椅子から立ち上がろうとしたとき、後ろで何かが落ちる音し、振り返って見ると一時的に元通りはめこんであった額縁の下枠が、それ自身の重みでまた外れてしまい、床に落ちたのだった。今まで何度も思ったことだが、額縁は独特な帯状の模様が交錯している見事なものだった。こんな下手な絵が豪華な額に納まっているのは奇妙なことで、ときどき彼はソフィア・フラネリイが安売りでこの額縁を買い、あとでその中を埋めるために花の絵を塗りたくったのではないかと考えた。

冬のはじめの夜は火が消えるとさっそく寒気が押し寄せ、部屋の中は急にひえびえとしてきた。ドアの下から冷たいすきま風が吹きこみ、毀れた額縁の下に落ちていた何かをひらひらと動かした。ウエストレイが屈んで拾い上げると、それは折りたたんだ紙切れだった。 その紙に触れることは奇妙なくらいためらわれた。彼はおよそくだらないことで良心のとがめを感じることがしばしばあったが、そのときもそれに襲われたのだ。自分にはこの紙を調べる権利があるだろうか、と彼は自問した。手紙かも知れないし、どこから出て来たのかも、誰のものかも分からない。他人の手紙を開けるような罪深い真似はまっぴらである。伝説の幽霊捕鯨船フライング・ダッチマンによって手紙の束を甲板に置いて行かれた船長さながら、彼は厳粛な面持ちでそれをテーブルの上に置きさえした。しかし数分後にはその馬鹿馬鹿しさに気づき、注意しながら謎の紙を広げた。 それは古びて黄色くなった細長い紙で、一昔前から広げられぬままおかれていたため幾つもしわが寄っていた。印刷された文字もあれば手書きの文字もあった。それが結婚証明書であることは即座に分かった――法も予言者もしばしば判断の根幹にすえる、あの「結婚証明書」である(註 マタイ伝から)。印刷の細かな空白部分はことごとく書きこみで埋めつくされ、「千八百年三月十五日、セント・メダード・ウィジン教会にて、紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、独身者ホレイシオ・セバスチャン・ファインズ二十二歳は、商人ジェイムズ・フラネリイの娘、未亡人ソフィア・フラネリイ二十一歳と結婚」したことが証人たちの型通りの宣誓とともに記されていた。その下には乱れた読みにくい字で、今はもう黄色に変色したインクの書きこみがあった。「千八百一年一月二日夜十二時十分過ぎ、マーチン誕生」。彼は紙をテーブルに置き、平らに伸ばした。目の前にあるのはマーチンが一生涯かかって探し、見つけられなかった母親の最初の結婚(唯一の本当の結婚)の証明書だった。マーチンが死の直前につかみかけていた嫡出の正統性のあかし、シャーノールもやはりあと少しでつかめると思っていたのに死に襲われてしまった手がかりだった。

千八百年三月十五日、ソフィア・フラネリイは結婚特別許可により紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズと結婚、千八百一年一月二日夜十二時十分にマーチンが生まれた。ホレイシオ・セバスチャン――この名前をウエストレイは何度も耳にした。この紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、ホレイシオ・セバスチャン・ファインズとは誰だろう。彼の自問は形だけのものだった。答はちゃんと分かっていたのだ。目の前のこの書類は法的な証明とはならないかも知れないが、キリスト教国の法律家が束になっても、ソフィア・フラネリイが結婚した「紳士」が三年前に八十代でなくなったブランダマー卿に他ならないという彼の確信、直感を変えることはできなかっただろう。彼の目には黄ばんだ紙に揺るぎない権威が備わっているように見えたし、下の隅にのたくるような筆跡で書き留められたマーチンの出生日は、彼が得た情報ともぴたりと一致した。彼は寒さの中、再び椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて頭を抱え、この命題に付随するいくつかの結論を引き出した。もしも先代のブランダマー卿が千八百年三月十五日にソフィア・フラネリイと結婚していたのなら、彼の二回目の結婚は無効ということになる。なぜならソフィアはそれ以後もずっと存命だったのだし、離婚手続きは取られなかったのだから。しかし二回目の結婚が無効であるなら、カラン湾で溺れ死んだ息子のブランダマー卿は非嫡出子であり、その孫で現在フォーディングという玉座に座っているブランダマー卿も非嫡出ということだ。マーチンの夢は正しかったのだ。わがままで、浪費家で、怠け者で、子供たちに「雲形じいさん」と呼ばれていたマーチンは結局気が狂っていたのではなく、本当にブランダマー卿だったのだ。 すべてがこの紙切れに、この青天の霹靂に、どこからともなくあらわれたこのメッセージにかかっている。いったいどこから出て来たのだ?ミス・ジョウリフが落としたのだろうか。いや、そんなはずはない。マーチンの書類の錯綜した謎を解こうと、彼が何ヶ月も努力していることを知っているから、こういう情報があれば必ず彼に報告したはずなのだ。きっと絵の後ろに隠されていて、下枠が外れたときに落ちたに違いない。

彼は絵に近づいた。けばけばしい、へたくそな花を生けた花瓶、机の上をのたくる緑の毛虫、しかし下の部分には今まで見たことのなかった何かがあった。枠が毀れてとれてしまった部分に細い筋となって別の絵がのぞいていた。花の絵は別の絵の上に塗り重ねられたようだった。まるでソフィア・フラネリイは画布を取り出しもせず、額縁の端まで稚拙な絵を描きこんだように思われた。この花がもっとできのいい絵を隠していることは疑う余地がなかった。それはきっと肖像画なのだろう。底の部分には茶色いビロードの上着と、茶色いビロードの胴着の真鍮のボタンすら見て取ることができた。彼は蝋燭を近くにかざして幾分なりとも輪郭がたどれはしまいか、背後に描かれているものの形が見定められはしまいかと花の絵をじっと見た。しかし絵の具は容赦なく塗りたくられ、覆いを見透かすことは難しかった。緑の毛虫さえ彼をあざ笑っているようだった。というのはよく見ると、ソフィアは微妙に色づかいを変えて頭の部分に二つの目とにやりと笑った口を茶目っ気たっぷりに描きこんでいたのだ。

彼はもう一度、証明書が広げられたままのテーブルに座った。このマーチンの誕生日はソフィア・フラネリイが書きこんだものに違いない。浮気者で責任感がなく、みずからが描いた花のように見てくれだけで、みずからが描いた毛虫の顔のように人を小馬鹿にしたソフィア・フラネリイが。

物音一つしない静寂、真夜中過ぎの田舎を包む完全な沈黙があたりを蔽っていた。大きな音で時を刻むマントルピースの時計だけが時間の経過を告げていたが、とうとう聖セパルカ大聖堂の組み鐘が「新しき安息日」をかなで沈黙を破った。三時だった。部屋の中はすっかり冷え切っていたが、その程度の寒気は胸の中にはい上ってくる寒気に比べれば何ほどのものでもない。今こそ真相を突き止めた、と彼は思った――アナスタシアの結婚の秘密、そしてシャーノールとマーチンの死の秘密を知ったのだ。