第二十一章
南東の基柱の補強に当たっていた石工頭が次の日の九時にウエストレイに会いに来た。人夫たちが夜明け直後に塔へ行ってみると、夜のうちに新たに動いた形跡が見つかったので、建築家に急いで聖堂に来てもらおうと思ったのだ。しかしウエストレイは外出していた。朝一番の汽車でカランを離れロンドンにむかったのだ。
同じ日の午前十時頃、建築家はウエストミンスターの小さな画商の店にいた。花と毛虫の絵の画布がちょうど額縁から取り出され、勘定台の上に載せられたところだった。 「いいや」と画商が言った。「この額縁には紙もはさまっちゃいないし、何の裏張りもないね――ほら裏はただの木だよ。裏張りはめったにないんだが、しかしたまにそういうのもあることはある」――彼は弛んだ額縁のまわりをこつこつと叩いていった。「これは値の張る額だな。丁寧に作ってあるし、金めっきも上等だ。この落書きの下に立派な絵があったとしても驚かないね。たいしたことのない絵ならこんな額縁にはめることはないだろうから」 「下の絵を傷つけないで上の部分をきれいに取り去ることはできますか」 「もちろんさ」と男は言った。「これより難しいやつを何度もやってきたんだ。二日ほどうちに預けてくれれば、なんとかしてみるがね」 「もっと早くできませんか」とウエストレイが訊いた。「ちょっと急いでいるんですよ。ロンドンまで出てくるのは大変だし、それに取り除く作業を最初から見ていたいんです」 「そう心配なさることはない」と相手は言った。「わたしを信じて任せなさい。こういうことは慣れているから」 ウエストレイはまだ不満そうだった。画商は店の中を見回した。「そうだなあ」と彼は言った。「今朝は客があまり来ないようだから、それほどお急ぎとあれば、今ちょっとだけ作業してもいいよ。奥の間のテーブルに置こうかね。店に客が来ても分かるように」 「顔のあたりから始めてください」とウエストレイは言った。「誰の肖像画なのか、つきとめましょう」 「だめだめ」と画商は言った。「顔は大事を取って後回し。あまり重要でないところから試していこう。絵の具の剥げ具合を見て、重要な部分をどうするか方針を立てるのさ。そら、机の表面と毛虫から始めるよ。この毛虫はいたずら者が顔を描き加えただけじゃなく、なんだか変なところがある。わたしはどうも毛虫ってのが苦手でね。こりゃあ、なんだか、もとの絵がここからのぞいているみたいだな。もっとも毛虫がどうすりゃ肖像画に紛れこむのか、見当もつかんが」画商は人差し指の爪を軽く絵の表面に走らせた。「ここだけ引っこんでいるようだな。落書きの絵の具が縁にそって盛り上がっているのが分かる」 彼の言う通りだった。緑の毛虫は確かに下の絵の一部をなしているようだった。男は瓶を取り出し、刷毛で絵の上に溶液を塗った。「乾くまで待つんだ。泡が出て表面がちりちりに縮れるから。そいつを上から布でそっとぬぐえば下の絵が見えるってわけさ」 「この机を描いたやつ、べたべたに絵の具を塗りやがったな」と半時間後、画商は言った。「そのほうがわれわれには都合がいいんだが。それ、皮みたいに剥がれてきただろう」彼は柔らかいネルの布を使ってやさしく絵の具をぬぐった。「ほう、こりゃあ、たまげた」と彼は言った。「上の方にも毛虫がいるぞ。いや、毛虫じゃないね。しかし毛虫でないなら何だろう」 なるほど確かに別の緑の線が波うっていた。ウエストレイはそれを見るなりすぐさまその正体に気がついた。「気をつけて」と彼は言った。「それは毛虫じゃありません。紋章の一部なんです――紋章の盾に描かれている横棒みたいな線です。下の方にそれより短い線がもう一本出てくるはずです」 彼の言う通り、一分もすると雲形紋章の銀色の地と、三本の海緑色の横線が輝くようにあらわれた。その下にはブランダマー・ウインドウのいちばん上の仕切りに輝いているのと同じ座右銘「ファインズにあらざれば死」が見えてきた。ソフィアが毛虫に変えてしまったのは真ん中の横線で、単なるいたずら心から、他の部分はわざと塗りつぶしたのに、ここだけ元の絵がのぞくように残したておいたのだった。ウエストレイは興奮が抑えきれなくなった――じっとしていられなくなった。一方の足に体重を乗せたかと思うと、次の瞬間には逆の足に体重を乗せかえ、ドラムを鳴らすようにテーブルを指で叩いた。
画商は建築家の腕に手を置いた。「頼むから静かに!」と彼は言った。「興奮しなさんな。金鉱を見つけたわけじゃないんだから。これは一万ギニーのヴァンダイクじゃないよ。どういう絵なのかまだ分からんが、二十ポンドもしないことは賭けてもいい」 ウエストレイはもどかしくて仕方がなかった。ようやく肖像画の頭まで作業が進んだのは、午後も相当遅くなってからのことだった。邪魔が入ることはほとんどなく、画商は一度ならず、今は客足の少ない時期でね、などと言い訳する必要を感じたくらいだった。彼はいかにもこの仕事に興味をひかれた様子で、熱心に作業をつづけ、とうとう外は日が暮れはじめた。「大丈夫だよ」と彼は言った。「ランプを持ってくる。ここまで来たんだ、もうちょいやってしまおう」 数分後、それは正面をむいた肖像画であることが分かった。ランプを持つウエストレイは、若々しいしわのない顔があらわれてくるに従い、不思議な戦慄が身体に走るのを感じた。この広い額には見覚えがある――これはアナスタシアの額だ。その上にはアナスタシアの黒く波うつ髪がある。「ありゃ、やっぱり女か」と画商は言った。「いや、違うな。女が茶色いビロードの上着に胴着を着るわけがないからな。巻き毛の若い男だね」 ウエストレイは何も言わなかった。彼は口がきけないくらい興奮していた。それというのも、靄のなかから二つの目が彼を見つめていたからである。靄は画商の布の下で消え、目は驚くほどの輝きを放った。それは澄み切った、鋭い、明るい灰色の目で、彼を金縛りにし、心の奥底まで見通してしまった。アナスタシアは消えた。絵の中から彼を見ているのはブランダマー卿だった。
今と変わらない、謎めいた、油断のないブランダマー卿の目だったが、そこにはまだ若さの輝きがあった。顔に中年の翳りはなく、絵が中年になる数年前に描かれたものであることを示していた。今こうして蘇った顔に目を据えたまま、ウエストレイはテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。目は彼を追いかけ、逃れることは不可能だった。絵の隅に配された雲形紋章を一瞥することさえできない。心の中にはまだ答の見つからない疑問が渦を巻いていた。この肖像画が手がかりになるかも知れないある謎が存在しているのだ。彼は恐るべき真相に到達しかけていた。この絵と関連のありそうな事件をことごとく思い起こしたが、それらをつなぐ糸が見つからない。この顔はブランダマー卿が若いときに描かれたものだ、それは間違いない。しかしソフィア・フラネリイがこの絵を見たなどということがありうるだろうか。ミス・ユーフィミアが思い出すかぎり、この絵は花と机と毛虫の絵でしかなかった。その期間は六十年になる。しかしブランダマー卿は四十をいくつか超えた年齢でしかない。ウエストレイは顔を見つめているうちに、若者が中年に移行したというだけでは説明できない小さな差異に幾つも気がつきはじめた。そこで彼は、これは彼の知っているブランダマー卿ではなく、先代のブランダマー卿――三年前に八十代で死に、ソフィア・フラネリイと結婚したあの紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズなのだと推測した。 「一級品じゃないが」と画商は言った。「しかし悪くないですな。ローレンスの作だとしてもおかしくはない。ともかく花よりはずっとましだね。こんな立派な若者の上にあんな絵を塗りたくるとは、ひでえ野郎もあったもんだ」 次の日の晩、ウエストレイはカランに戻った。いろいろと考えることがあったものだから、つい下宿の女主人に帰ることを伝え忘れ、雑役婦が言うことをきかない火を熾そうとやっきになっているあいだ、苦虫をかみつぶしながら突っ立っていた。薪の枝は数が少なく湿っており、その下の新聞紙は濡れていて、いちばん上にはしけった石炭が重くのしかかっていた。よどんだ黄色い煙が煙突の前でたじろぎ、炉棚にかけられた梳毛糸製の房べりの下から冷え冷えとした部屋の中に渦を巻きつつ流れ出した。この不都合は、帰宅の予定を知らせなかったおのれのうかつさのせいだと思うと、ウエストレイはいっそう苛立ちをつのらせた。 「何だって火を焚いていないんだ」彼は咎めるように言った。「こんな寒い晩に火も入れず部屋にいられるわけがないじゃないか」不愉快な状況を際だたせるように、窓の合わせ目からすきま風がわびしくひゅーと音を立てた。 「あたしのせいじゃないわよ」腕の赤い、石炭で黒く汚れたお転婆娘が膝をついたまま顔を上げていった。「奥様のせいだわ。『この前、あの人、石炭代のことで文句言っていたわね。石炭入れ一杯六ペンスもするんだから、火を入れるのは止めておくわ。今晩帰るかどうかも分かりゃしないんだから』って言ったのよ」 「だがね、ちゃんと火がつくように用意をしておいてもよかっただろう」建築家は三度目のたきつけが失敗に終わったのを見ながら言った。 「一所懸命やってるわよ」彼女は哀れっぽい口調で言った。「でも何でもできるってわけじゃないですからね。他にも料理したり、掃除したり、伝言のために階段を上り下りしたり、一分おきに御前様が来るもんだから、そのたびに応対しなきゃならないのよ」 「ブランダマー卿がここに来たのかい」とウエストレイは訊いた。 「ああ、あんたに会いに昨日も来たし、今日も二回来たよ」と彼女は言った。「伝言を残していったわ。あれ」――彼女は炉棚の端を指さした。 ウエストレイは振りむいて黒い縁取りの封筒を見つけた。上書きの力強い大胆な筆致は見慣れていたが、今それは恐怖の戦慄にも似た何かを彼に与えた。 「もういいよ」彼は急いで小間使いに言った。「火がつかないのはきみのせいじゃない。きっともうすぐ燃え出すさ」 娘は素早く立ち上がり、火がつかず、再び真暗になった火床に呆然と目をむけ、部屋を出た。
一時間後、日が陰りはじめた頃、ウエストレイは闇に覆われていく寒い部屋の中で再び椅子に腰かけた。目の前のテーブルにはブランダマー卿の手紙が広げてあった。
親愛なるミスタ・ウエストレイ 昨日もお宅を訪問したのですが、あいにくお出かけのようでした。そこでこの伝言を残すことにします。ベルヴュー・ロッジのあなたの居間に、古い花の絵がかかっていましたが、わたしの妻があの絵に関心を示しています。彼女が愛着を覚えるのは、幼い頃の思い出があの絵に詰まっているからで、もちろん絵それ自体に価値があるからではありません。あれはミス・ジョウリフの所有物だと思っていたのですが、彼女に尋ねたところ、しばらく前にあなたに売ったため、今はあなたのものだということですね。あなたにとって特に価値のある絵とは思えませんし、慈善のおつもりでミス・ジョウリフからお買い取りになったのではないかと愚考します。もしもそうでしたら妻がこちらに飾りたいと思っていますので、引き取らせていただけるとありがたいのです。
塔がまたもや動いたと聞き、残念に思います。わたしたちの帰還を迎えてくれたピールが建物に損傷を与えたのだとしたら、わたしたちにとってこんなに悔やまれることはありません。しかしご承知の通り、すみやかに万全の補強をするためなら、いくら金がかかろうとも費用は出し惜しみしないつもりです。
誠実なるあなたの友 ブランダマー
ウエストレイは意欲的で感受性が強く、今も若者らしい高揚や失望に振り回されていた。いろいろな考えが、うろたえてしまうほどの速度で次から次へと浮かんできた。それこそ引きも切らずつながって浮かんでくるものだから、順番に整理するいとまもなかった。興奮のあまり頭がくらくらした。僕は法の代理人となることを要請されたのだろうか。神に代わって罰を下すよう選ばれてしまったのだろうか。僕の手は罪人にいかずちを投げつけねばならない手なのだろうか。謎の解決はまっすぐ僕のところへやって来た。テーブルの上に開かれたこの手紙こそ、その間接証拠でなければ何だというのか!部屋を満たす暗闇の中でもう文面はよく読み取れなくなっていたが、しかしそれは証拠を握っているものには明白な有罪のしるしだった。 フォーディングに君臨するこの男は他人の財産を享受する偽者、何も知らないアナスタシア・ジョウリフをためらいもなく娶り、そのように身を落とすことで己の詐欺的行為を隠蔽しようとする恥知らずの悪党なのだ。ブランダマー卿は存在しない。爵位などないのだ。そんなものはトランプで作った家みたいに一吹きで崩れ去る。しかしそれで何もかもおしまいなのか。他には何も残らないのか。
夜になった。ウエストレイは独り暗闇の中に座し、両肘をテーブルについて両手でじっと頭を抱えていた。暖炉に火はなく、灯りもついておらず、ただ遠くでかすかにちらつく街灯だけが暗さの感覚をもたらした。その青白く頼りない光が、別の晩のことを思い出させた。霧にぼやけた月明かりが聖セパルカ大聖堂の明かり層の窓から差しこんでいた晩のことだ。彼は再び幽霊の出そうな身廊を歩き、白い経帷子を着た巨人のような柱を通り過ぎ、塔を支える大アーチの下を進んでいくような気がした。もう一度螺旋階段の真暗闇を手探りし、もう一度オルガンのある張り出しにでて、袖廊の窓に輝く、不吉な銀と海緑色の雲形紋章を見た。張り出しの隅には悪霊たちがうごめき、シャーノールの薄い青ざめた影が両手をもみ合わせ、ハンマーを持った男に命乞いの叫びをあげた。するとそれまで彼に取り憑いていたおそろしい疑惑が事実となって暗闇から彼をじろりと見つめた。彼は寒さに震えながらはじかれたように立ち上がると蝋燭に火をつけた。
一時間、二時間、三時間が経って、ようやく彼は目の前の手紙に返事を書いた。そのあいだに彼の心には新たな変化が起こっていた。彼、ウエストレイは、復讐の道具に選ばれたのだ。手がかりは彼の手中にある。彼の口は有罪を宣告せねばならない口である。しかし卑怯な真似は一切するまい。不意を襲うような真似は決してするまい。ブランダマー卿には秘密を突き止めたことを話し、これ以上何かする前に警告を与えてやろう。そこで彼はこう書いた。 「御前様」。それから手紙が書き終わるまで、何枚もの紙が使われては捨てられた。そのうち二枚は書き慣れた「親愛なるブランダマー卿」という呼びかけが思わずウエストレイのペンから飛び出してしまったために握りつぶされた。今となってはもうこのことばは形式的な挨拶としてさえ使えない。そこで彼はこう書いた。
御前様 ミス・ジョウリフから買い上げた絵画の件に関するお手紙、ただいま落手いたしました。この絵は特別の事情がないとしても、お渡ししてよいものか確信がありません。絵そのものに価値がないことは明らかですが、わたしにとっては親友ミスタ・シャーノール、聖セパルカ大聖堂のオルガン奏者の思い出の品なのです。わたしたちは共同で絵を購入し、彼が死んだときはわたしが一人で所有することになっていました。彼が死んだ奇怪な状況はお忘れではないでしょうし、わたしも忘れてはいません。親友だったミスタ・シャーノールがこの絵に深い関心を寄せていたことは、彼を知る人のあいだでもよく知られていました。これは見かけ以上に重要なものであると信じ、わたしにむかってもその点を強調していました。確かあなたの前でも一度そう言ったことがあると思います。
早すぎる死が訪れなければ、偶然わたしが手に入れた秘密の真相を、彼もとっくの昔につかんでいたのではないでしょうか。花の絵はただ表面を覆うためのものに過ぎず、その下には紛れもなく先代のブランダマー卿の肖像画が隠されていたのです。そして画布の後ろからは彼に関する教会区記録登録証が見つかりました。それらをあなたにお渡しして、それで終わりとなればこんなに嬉しいことはありません。しかしこれらは過去の出来事を今までになかった角度から照らし出すものであり、わたしは義務としてこれらを保管し、いかなる個人にも引き渡すことができないのです。同時に絵と書類は、あなたがご覧になってみずからその重要性を判断なさりたいというのであれば、お見せしないわけにはいかないと感じます。わたしは上記の住所に住んでおり、来週の月曜日までならいつでもお会いすることができます。ただし月曜日を過ぎた場合は、この件に関しさらなる一歩を踏み出さなければならないと考えます。
ウエストレイの手紙がブランダマー卿のもとに届いたのは翌朝のことだった。それは朝食テーブルの手紙の山のいちばん下に横たわっていた。まるでギリシアのうらない壺から最後に振り出された不吉な籤のように(註 ホラティウス「歌集」から)、暗殺者のように、あるいは土壇場でトロイの征服者(註 アガメムノンのこと)の足をすくった、あの姦通者のように。彼は一目で中身を読み取った。書かれた文字を卑屈に一つ一つ追うのではなく、直感的に意味を把握したのである。地球の核は暗闇で、万物は塵芥に過ぎない(註 テニスンの「イン・メモリアム」から)と心の中では思ったかも知れないが、それは表情には少しもあらわれなかった。彼は快活に語り、ありったけの魅力を振りまいてもてなし役としての義務を果たし、その日の朝発つ二人の客にいつものように礼をつくして別れの挨拶をした。そのあと馬の用意を命じ、ブランダマー夫人には昼食に戻らないかも知れないと告げ、独り馬に乗ってゆっくりと屋敷の中を巡った。彼はときどきそんな気分になるようだった。狭い小径や馬道に馬を進め、帽子に手をやる男や、膝を曲げてお辞儀する女に、丁寧に挨拶することを忘れなかったが、しかしそのあいだじゅうずっと物思いにふけっていたのである。
手紙は二十年以上前、祖父と口論した、別の陰鬱な一日の記憶をたどらせた。オクスフォードに入学して二年目、学生として全世界に秩序を与えるのが自分の義務だとはじめて感じたときのことだった。フォーディングの地所のまずい管理運営に対しては、強い批判を抱いていた。学問を積み、広く世間を見てきた人間として、そのことを言わずにいることは怯懦であると考えた。森林は放置され、間引きも植樹も行われなかった。昔ながらの農家は修理されることなく荒廃し、しみったれたひさしのない建物に取って代わられた。庭園での放牧もずさんで、ダマジカやアカシカが羊や卑しい雑種の牛にこづき回されている。牛の問題には腹を据えかね、思わず祖父に激しく抗議した。二人のあいだに愛情などなかったが、それにしてもそのとき若者は、老人が奇妙なくらい改善を求める意見に反発することに気がついた。 「礼を言うよ」と老ブランダマー卿は言った。「言いたいことはみんな聞いてやったぞ。これでおまえも気が楽になって、心おきなくオクスフォードに戻れるだろう。わしは四十年間フォーディングを切り盛りしてきたし、これからさらに四十年間、誰の助けも借りずに切り盛りしていく自信がある。おまえが何を心配しているのやら、さっぱり分からん。余計なことに首を突っこむな」 「僕の心配が分からないですって」改革者はかっとなって言った。「余計なことに首を突っこむなですって。いいですか、今被っている被害を回復するには一生の時間がかかるんですよ」 後継者と仲が悪くなれば、道を譲る気などなくなってしまうものだ。老人は晩年になってからいっそうはなはだしくなったいつものかんしゃくを起こした。 「出しゃばるな」と彼は言った。「フォーディングのことで悩むことはない。わしのまずい切り盛りの被害者を気取ることもないぞ。この地所をおまえに任すとは決まっていないのだからな」 今度は若者が怒る番だった。「脅しても無駄ですよ」と彼は鋭く言った。「もう子供じゃないんですから、呶鳴ったって怖じ気づいたりしません。その脅しは他の人のためにとって置いたらいいでしょう。財産を爵位から切り離したりしたら、あなたは一族に恥をかかせ、自分自身に恥をかかせることになりますよ」 「それなら安心しろ」と相手は言った。「財産は爵位を持つものに渡す。出て行け。もうごちゃごちゃぬかすな。さもないと財産も爵位も失うことになるぞ」 こともなげに発せられたことばだった。恐らく若造に咎めだてられ、いささかむっとしたのか、あるいは痛風のいらだたしい不快感に襲われ、思わず口をついて出て来たのだろう。しかしそこには苦い響きがあり、若者の心に深く突き刺さる何かがあった。他にも跡継ぎがいるのだ、などと脅されたのははじめてだったが、そのことをまったく知らなかったわけではない。これに類したことを以前聞いたような気がした。どこでだったかは覚えていないが、物心がついてから、爵位が本当に自分のものになるのだろうかという漠然としたとらえどころのない疑惑がフォーディングにはずっと漂っていたように思えた。 ブランダマー卿はウエストレイの手紙を胸ポケットに入れて、馬にブナの葉のあいだを歩ませながら、こうしたことを事細かに思い出していた。祖父にそんなことを言われ悲しい顔をして出て行ったこと。祖母が彼の心中を見抜いたこと。どうして祖母には分かったのだろう。もしかするとあの手の脅しをそれまでに何度も聞かされていたので、原因をすぐ突き止められたのかも知れない。しかし祖母は無理矢理彼に何があったのか白状させたものの、彼にかけてやるべき慰めのことばを知らなかった。
今でも彼女の姿を瞼に浮かべることができた。冷たい青い目をした、威厳のある女性で、六十近いというのに容貌は衰えていなかった。 「この際ですから」と彼女はぞっとするような落ち着きを見せて言った。「何もかも話してしまいましょう。知っていることをみんな教えてあげる。といっても大した話ではないけれど。あなたのお祖父さんはずいぶん前に、今さっきあなたを脅したのと同じように、わたしを脅したことがありました。あのことは今でも忘れていないし許してもいません」彼女は椅子に座り直し、頬をわずかに紅潮させた。「あなたのお父さんが生まれた頃のことです。それまでもわたしたちは喧嘩することがありましたけど、深刻な喧嘩はあれが最初で最後でした。あなたのお父さんはわたしとも、あなたとも、気性が違っていたわね。決して喧嘩をしない人で、この話も知らなかった。わたしは黙っているのが自分の責任だと思っていました。そうするのがいちばん賢明だったのよ」話しながら彼女の顔は見たことがないくらい険しくなった。「それ以上のことはなにも見聞きしていません。お祖父さんの意向は心配しないでいいと思う。あの人は名声にこだわりを持っているから、全財産をあなたに残すでしょう。あなたにはあらゆる相続の権利があるもの。その、法的な問題がなければだけど。もう一つ前から気になっていることがあるの。お父さんが生まれてすぐに、陳列室からお祖父さんの肖像画が盗まれたことは聞いていますか。特に誰かが疑われたわけじゃありません。まあ、後の祭りなんだけれど、そのあと戸締まりが厳重になってね、しばらくはフォーディングに夜間警備員がいたのよ。でもほとんど騒ぎにはならなかったわ。お祖父さんは警察の手に委ねようともしなかった。悪質ないたずらだ、誰がやったのか知らないが、わざわざ肖像画を取り戻そうと手間をかけるほどのことはない、自分の肖像画だったから、また描かせればいい、などと言っていました。 どうやって絵を盗んだのか知りませんが、お祖父さんはきっとその行方についてなにか知っていたのだと思います。あの絵は今でもあるのかしら。あれは盗みだったのかしら。それともあの人が盗まれないように隠してしまったのかしら。盗んだ人たちがどういう連中なのか、皆目見当がつかないわ。なにせ誰にでも家のなかを見せていますからね」彼女は背筋を伸ばして両手を膝の上にそろえた。白い指に大きな指輪が光っているのが見えた。「わたしが知っているのはそれだけよ」と彼女は話しを終えた。「わたしたちのどちらかが新しい発見でもしないかぎり、もうこの話はしないことにしましょう。相続権の要求なんて、とっくに失効してるか、示談になっているか、もともとなかったか、分かりゃしませんよ。とにかくお祖父さんが生きているあいだはなにも起きないものと考えていいのじゃないかしら。わたしの忠告は、あの人と喧嘩しないこと。長期休暇がきたら、フォーディングを遠く離れたところで過ごしなさい。オクスフォードを卒業したら旅行に出たらいいわ」 こういうわけで若者はフォーディングを離れ、イスラエル人が荒野をさまよった、その半分ほどの期間をさまよい歩いたのである。家に帰るとしてもごくたまに、束の間、滞在するだけだった。しかし手紙は祖母が生きているあいだ定期的に送りつづけた。たった一度だけ、それも最後に受け取った手紙の中で、彼女は昔の不愉快な話題について言及していた。「今までのところなにも新しいことは見つかっていません。事実無根であったという期待はまだ捨てなくてもいいようです」 家族の名誉を守るために、国外追放に耐えているのだ、雲形紋章に泥を塗るような誘惑から祖父を遠ざけるために家を離れているのだ、と長いあいだ彼は考え、自分を慰めていた。家門を盲目的に尊ぶのはブランダマー家の伝統であり、青春の夢とともに旅に出た跡継ぎはテンプル騎士団員のように「仕え、守る」ことを誓い、雲形紋章に命を捧げたのである。
年老いた卿はついに他界した。相続権を奪うという脅しは実行されず、遺言を残さず亡くなったために、孫がその継ぐべき地位を継いだ。戻ってきた新しいブランダマー卿はもはや若くなかった。命知らずの旅を幾年もつづけて顔つきは険しくなり、他人に頼らぬ強固な意志を備えていた。しかし出て行ったときと同じように、戻ってきたときも、彼のまわりにはロマンスが漂っていた。自然の女神は男でも女でも、いったんその人にロマンスを授けることにしたら、その人が一生を終えて死ぬまで、ふんだんにロマンスを与えるものである。病気だろうと健康だろうと、貧しかろうと豊かだろうと、中年だろうと老年だろうと、髪が抜け歯がなくなろうと、顔にしわが寄り手足が痛風に悩まされようと、烏の足跡ができ、二重顎になろうと、はたまた少しもロマンチックではない、人生でもっとも浅ましい境遇に陥ろうと、ロマンスは最後までつづくのだ。その価値はなにものにも代え難い。それは持てる者からなくなることはなく、持たざる者はいくら金を積んでも、どれほど必死の努力をしても、手に入れることができない――いや、それどころか、ロマンスというものをごくおぼろげに理解することすらできないのである。
新しい卿はすばらしい決意を胸にいっぱい秘めてフォーディングに帰ってきた。放浪には飽き、結婚してこの地に住み着き、財産を享受しようと思っていた。人々のためになることをし、自分が持つ広大な地所を地主たちの模範にしてやろうと思っていた。ところが三週間も経たぬうちに、王位を狙う者がいること、カランには自分こそがブランダマー卿であると主張する夢想家がいることを知った。彼は一度だけこの負け犬の姿を通りで教えてもらったことがある――ブランダマー家の紋章を泥のなかをはいずり回ってまで追い回し、子供たちから雲形じいさんと呼ばれている老いぼれだった。あんな男と土地や屋敷や爵位など、すべてをかけて戦うことになるのか。しかし戦いが現実のものとなる可能性はあった。まもなくこの男が、祖母の生涯と自分の生涯につきまとう実体のない影、つまり本当の跡継ぎであることを知ったのだ。しかもマーチンは欠けている証拠をいつ掴むとも分からない。そのとき死がマーチンの希望に終止符を打ち、ブランダマー卿は再び自由になった。 しかしそれも長くはつづかなかった。しばらくするとオルガン弾きの老人がマーチンの役を引き継いだと聞いたのだ――面倒のために面倒を起こして、漁夫の利を得ようとする干渉好きな出しゃばりめ。そんな卑しむべき人間に土地や爵位や紋章など何の関係があるのか。しかしこの男はカランでこっそり犯罪だとか、手がかりだとか、やがて訪れる天の報いについて話をしている。ところがそのとき死がシャーノールのおしゃべりに終止符を打ち、ブランダマー卿はまたもや自由になったのだった。
前よりも長くつづく自由、いや、ついに永遠の自由を手にしたはずだった。彼は結婚し、結婚は彼の安全を保証した。跡継ぎが生まれ、雲形紋章は安泰だった。ところが今、彼を邪魔する新たな異議申し立て者があらわれた。自分はうようよ群がる龍の子供たちと戦っているのだろうか。新たな敵があらわれ出る場所は――比喩をもてあそぶような気分ではなかったので、彼は考えるのを止めた。この若い建築家、その食べ物も、カランでの給料も、彼、ブランダマー卿が大聖堂の工事に必要と思って出した金の中から支払われているこの男が、本当に「復讐者」なのだろうか。みずからが作りだした者に裏切られ、切り裂かれるのか。彼は皮肉なことの成り行きに微笑し、過去のことをくよくよ考えるのを止めた。後悔のかけらがあったとしても、それを圧し殺してしまった。現在を見つめ、状況をはっきりと見極めるつもりだった。 ブランダマー卿は夕暮れ時にフォーディングに戻り、夕食の前に一時間ほど書斎に引きこもった。後回しにできない仕事上の手紙を何通か書いたが、夕食のあとは妻に本を読んで聞かせた。耳に快いよく訓練された声で、最近雑誌に掲載されはじめた「インゴルビーの逸話集」を朗読し、ブランダマー夫人を楽しませた。
彼が本を読むあいだアナスタシアは前のブランダマー夫人がやり残した壁掛けの制作に取り組んだ。先代の卿の妻はほとんど外出せず、庭の手入れや凝った刺繍をしてほとんどの時間を潰した。何年もかけてスチュアート王朝期に作られた、虫の食ったつづれ織りの断片を複製していたのだが、彼女の死によってそれらは未完成のまま残っていたのである。女中頭がこのやりかけの作品を見せて、それがどういうものか説明すると、アナスタシアはブランダマー卿に自分が制作をつづけてもよいだろうかと尋ねた。この思いつきは彼も気に入り、彼女は毎晩、心をこめてゆっくりと仕事を進め、ときどき最後のときが訪れるまで同じ手仕事にいそしんだ寂しい老婦人のことを思った。夫の祖母は、彼が親しく付き合った唯一の身内だったらしく、アナスタシアは画家のロレンスによって描かれ、細長い陳列室に飾られている娘時代の彼女の肖像画に強く興味をひかれた。この老婦人がもう一度仕事場に来ることがあるとしたら、きっと彼女はその後継者に満足しただろう。膝の上に着色した絹糸のかせを載せ、高い額の上に暗褐色の髪を波打たせたアナスタシアは凜とした姿で作業台に座っていたのである。深い山吹色のビロードのドレスは、ブランダマー家の昔の貴婦人が肖像画の額縁を抜け出してきたかのような印象を与えた。 その晩、夫が自制心を働かせたにもかかわらず、彼女は何かがおかしいと直感した。馬丁たちか狩猟場管理人たちか召使いたちのあいだに、何かひどく面倒なことが起きたに違いない。馬に乗って出かけたのはその問題を解決するためだったのだろう。きっと自分には話せないような性質の問題だったのだろう。