第十一章
年老いたカリスベリ主教が亡くなり、新しいカリスベリ主教が任命された。この人選は低教会派にいささか悔しい思いをさせた。というのは新主教のウイリス博士は確固たる信念を持つ高教会派だったからである。しかしその信心深さには定評があったし、キリスト教的寛容と相手を思いやる慈愛に満ちていることはじきに理解された。 ある日曜日、朝の礼拝が終わってミスタ・シャーノールがボランタリーを演奏していると、一人の少年聖歌隊員がこっそりと小さな螺旋階段を上がり、オルガンのある張り出しに姿をあらわした。ちょうど彼の先生が幾つかの音栓を引っ張り出し、ストレッタに入ろうとしているときだった。オルガン奏者は階段を上る少年の足音を聞かなかったので、突然白い法衣を目にして飛び上がるほどびっくりした。手も足も一瞬持ち場を離れ、危うく曲が止まってしまうところだった。しかしそれは一瞬のこと。彼は気を取り直し、フーガをその論理的帰結へと導いていった。 それから少年が口を開いて「参事会員パーキンさんから伝言です」とやりはじめたのだが、とたんに中断させられてしまった。オルガン奏者が彼に容赦のない平手打ちを見舞ったからである。「ボランタリーの演奏中にこっそり階段を上がってくるなと、何度言ったら分かるんだ。幽霊みたいに隅っこから出てくるから肝をつぶしたじゃないか」 「すみません、先生」少年はべそをかきながら言った。「そんなつもりじゃ――まさか――」 「まったくおまえは、まさかって真似をしてくれるよ」ミスタ・シャーノールは言った。「さあ、もうめそめそするな。若者の肩に分別ある頭は生えぬ、か。二度とやるんじゃないぞ。ほら、六ペンスやろう。伝言を聞かせてくれ」 六ペンスはカランの少年たちがめったに手にすることのない大金で、この贈り物はギレアデの香油よりもすみやかに少年を慰めた。 「参事会員パーキンさんから伝言です。聖具室でお話がしたいとのことです」 「すぐ行くよ。楽譜を片付けしだい、すぐ行くと伝えてくれ」 ミスタ・シャーノールは急がなかった。午後の演奏のために聖詩篇と典礼聖歌を机の上に開いておかなければならなかったし、朝の礼拝用のアンセム集をしまい、夕べの礼拝用のアンセム集を取り出す必要があったのだ。 かつてこの教会には優れた楽譜集を買う余裕があった。ボイ(註 十八世紀英国の作曲家)の初版申しこみリストには――その人数の少なさにボイ博士が猛烈な屈辱を感じるリストだが――「カラン大聖堂主任司祭兼創設会員(六部)」という記載が今でも見られる。ミスタ・シャーノールは硫酸紙で装丁され、最大限余白をたっぷり取った、偉大なボイの楽譜をこよなく愛した。ページをめくるときの乾いた音も大好きだったし、簡略譜のように一度に九つの五線が読める、古風な音部記号も大好きだった。彼は記憶を確かめるために、一週間の曲目一覧を見た――ワイズ作曲「わが栄えよ、醒めよ」。いや、これは第二巻じゃなくて第三巻に載っているやつだ。間違った巻を取り出したぞ――この楽譜集はよく知っているのに何をしているんだ。背表紙の子牛の粗革がぼろぼろだ!さびのような赤い革くずが彼の外套の袖にくっついていた。これでは人前には出られぬと、さらにしばらく時間をかけてそれを払い落とした。参事会員パーキンは聖具室で待たされていらいらし、ミスタ・シャーノールがあらわれるなり、とげとげしい口調で挨拶した。 「呼ばれたらもう少し早く来てもらいたいね。今は特に忙しいんだから。少なくとも十五分は待ったぞ」 それこそミスタ・シャーノールが意図していたことだった。彼は主任司祭のことばに少しも嫌な顔をせず、ただこう言った。 「失礼しました。十五分も経ってはいないと思いますが」 「ふん、無駄話はやめよう。きみに伝えたかったのは、カリスベリ主教が来月十八日の午後三時に、この大聖堂で堅礼式を行うことになったということだ。われわれは聖歌隊つきの礼拝を行わなければならない。きみにはだいたいでいいから演奏曲案を提出してもらいたい。わたしがいいかどうか点検するから。特に注意すべきことが一つある。主教が身廊を歩くとき、それにふさわしい行進曲をオルガンで演奏しなければならないが――わたしがよく文句を言っている古臭いやつじゃなくて、本当に堂々とした、メロディの判り易いのにしてもらいたい」 「ああ、それなら簡単ですよ」ミスタ・シャーノールはおもねるように言った。「ヘンデルの『見よ、英雄は還りぬ』ならぴったりでしょう。オッフェンバッハのオペラの中にも、手を加えれば使える曲がありますな。ちゃんと感情をこめれば実に耳に快い作品ですよ。フルオルガンで『死の舞踏』をゆっくり弾くこともできます」 「ああ、『マカベウスのユダ』の中の曲だね」主任司祭は思いがけず相手が自分の意見に従ったので、少しだけ機嫌を直した。「ふむ、わたしの意向を理解しているようだ。それじゃこの件はきみに任せるよ。ところで」と彼は聖具室を出るとき振り返って言った。「さっき礼拝の後で弾いていた曲、あれは何かね」 「ただのフーガですよ。カーンバーガーの」 「そのフーガというやつばかりを演奏しないでもらいたいね。学問的見地からはどれもすばらしいことに間違いないが、大多数の人にはただ混乱しているようにしか聞こえん。わたしと聖歌隊が威厳を持って退出しようとするとき、後押ししてくれるというより足かせになっている。厳かな礼拝の最後にふさわしい悲哀と威厳のこもった曲がほしいのだが、同時に聖歌隊席を出て行くときに、足取りを合わせられる、リズムのはっきりしたやつがいい。こんなことを言っても気を悪くしないでくれたまえ。だがオルガンの実用的な側面が最近は非常になおざりにされている。ミスタ・ヌートが礼拝をするときはどうだっていいが、わたしのときは頼むからフーガはやめてくれ」 カリスベリ主教のカラン訪問は重大事件で、ある程度の事前の計画と準備を必要とした。 「主教にはもちろんわたしたちと昼食をしていただかなくては」ミセス・パーキンが夫に言った。「あなた、もちろん昼食にお誘いになるわね」 「ああ、当然じゃないか」と参事会員は答えた。「昨日、昼食のお誘いの手紙を書いたよ」 何食わぬふうを装うとしたが、あまりうまくいかなかった。それほど大切な用件を妻に相談もなく手紙に書いて出したのは、許しがたい無作法ではなかったかと心配になったからである。 「あらまあ、あなた」彼女は応じた――「あらまあ!少なくともことば遣いくらいはきちんとなさったでしょうね」 「ふん!」今度は彼がいささかいらだつ番だった。「主教に手紙を書いたことがないとでも思っているのかい」 「そんなことを言っているんじゃないわ。こういう招待というのは、妻が出すものと決まっているのです。主教が育ちのいい方なら、その家の奥方が書いたのじゃない昼食のお誘いにびっくり仰天なさるわ。少なくともそうするのがしきたりなのよ、育ちのいい方のあいだでは」 「育ちのいい」などという恐るべきことばを繰り返し強調するなど、主任司祭に口論する気があったなら宣戦布告のきっかけともなりかねなかったが、彼は平和を愛する男だった。 「おまえの言うとおりだね」と彼は穏やかに答えた。「ついうっかりしたよ。主教が大目に見てくれることを期待しよう。昨日の午後、主教が来ると公式の通達を受けて、大急ぎで書いたんだ。ほら、おまえは外出中だったし、わたしは手紙の集配に間に合わさなければならなかったから。人間は偉い人に取り入ろうとして何をするかわかったものじゃない。集配に間に合わなかったら、ずうずうしい他の誰かが先に主教を招待することだってありうるじゃないか。もちろん、このことはおまえに伝えるつもりだったのだが、つい失念してしまったのだよ」 「あらまあ」彼女は気持ちが半分しかおさまらず、舌鋒鋭く言った。「わたしたちの他に主教をお招きする人なんかいるかしら。司祭館を除いて、カランのどこでカリスベリ主教がお昼を召し上がるというの」この答えることのできない謎をかけて、ようやくくすぶっていた怒りの火が消えた。「きっとあなたはそうするのが一番いいと思ってなさったんでしょうね。それにずうずうしい俗物連中が大嫌いなのはわたしも同じ。ちょっとでも地位のある人を見つけると、つかまえようとするんですもの。さあ、主教にお会いしていただく方の人選をしましょう。少人数のほうがいいわね。少ないほうが敬意がこもっているように見えるから」 彼女は根っから他人の美点や知性を認めようとせず、恩恵が全員にゆきわたるくらいたっぷりあっても出し惜しみするという表面的で狭量な心の持ち主だった。だから主任司祭とミセス・パーキンの他には、かくも高貴な人物と交際するにふさわしい人間はほとんどいないということがはっきり示されるように、主教との面会に招かれる人は少人数でなければならなかったのだ。 「まったく賛成だ」主任司祭は主教を招待するというみずからの無分別が宥恕されたようだと、ほっと胸をなでおろした。「出席者は何よりも厳選されていなければならない。無論、少人数でいくしかないと思うね。主教との面会にお誘いできるような人間はもともと少ししかいないんだから」 「そうねえ」彼女は両手の指を使って名望家連を数え上げているようだった。「まずは――」彼女は突然あることを思いついてことばを切った。「そうだわ、もちろんブランダマー卿をお誘いしなければならないわ。教会のことにあれだけ強い関心をお示しですもの、きっと主教にお会いになりたがると思うわ」 「実にいい思い付きだ――言うことなしの名案だよ。教会に対する卿の関心を深めることになるだろうし、放浪したり、ボヘミアンみたいな暮らしの後で、正しい階層の人々とお付き合いするのは、あの方にとってもいいことだろう。卿についてはありとあらゆる奇怪な噂が流れているね。工事監督のミスタ・ウエストレイとか、あの方の地位にはまったくふさわしくない連中と仲よくしているという話だ。ミセス・フリントがたまたま裏通りの貧しい女性を訪問したんだが、あの方が教会事務員の家に一時間以上もいて、あまつさえそこで食事もしたと言っていたよ。食べたのは何と胃袋料理だっていうじゃないか」 「じゃあ、主教に会うのはあの方にとってきっといいことだわ」と夫人は言った。「それでわたしたちを入れて四人。あとはミセス・ブルティールをお呼びしてもいいわね。旦那のほうは誘うことないわ。がさつで見ていられないもの。それに主教はビールの醸造業者になんかお会いになりたくないでしょう。奥様一人だけを招待してもちっともおかしかないわ。昼間はお仕事の邪魔になるでしょうからって、決まり文句を使ってやればいいのよ」 「それで五人か。六人にしたほうがいいだろう。あの建築家とかミスタ・シャーノールを誘うのはまずいだろうな」 「あなた!何を考えているの。絶対だめです。そんな人を呼ぶなんてとんでもありません」 主任司祭がこの叱責にすっかりしゅんとなって縮こまったものだから、妻の態度は少し軟化した。 「お誘いになるのは結構よ。でもそんな席に呼ばれても、ばつの悪い思いをするだけでしょう。人数を偶数にしたいならヌートを呼ぶのはどうかしら。あの人は紳士だし、礼拝堂つき牧師で通用するし、お祈りを唱えることもできるわ」 このようにして参加者は決まった。ブランダマー卿は招待を受け入れ、ミセス・ブルティールも招待を受け入れた。牧師補はわざわざ招待するには及ばなかった――彼はただ昼食に来いと命じられただけだった。しかしそこまでは順調に進んだのに、予期せぬ事態が発生した――主教が昼食に来られないと言うのである。彼は参事会員パーキンに丁重な歓迎を受けることができず残念だと言った。しかし用事があって、カランで過ごす時間はすべてそれに当てなければならない。実はほかの人と昼食の約束をしたのである。司祭館には礼拝開始の三十分前に行くつもりだ、とこう連絡してきたのだ。
主任司祭と妻は「書斎」に座っていた。司祭館北側の暗い部屋で、窓外のしめったガマズミの低木と、室内のお粗末な鳥の剥製がいっそう不吉な印象を与えていた。二人の前のテーブルにはブラッドショー鉄道案内が置かれていた。 「カリスベリから馬車で来るはずがないわ」ミセス・パーキンが言った。「ウイリス博士は前任者のような厩舎をお持ちじゃないもの。ミセス・フリントがカリスベリで毎年恒例の共励会に出たとき、ウイリス博士は、主教たるもの、教会の仕事に絶対必要と認められるもの以外、乗り物に贅を凝らしてはいけないというお考えだって聞いたそうよ。彼女自身、主教の馬車とすれ違ったんだけど、御者は服装もみすぼらしくて、馬は二頭ともどうしようもない駄馬だったんですって」 「同じことをわたしも聞いたよ」と主任司祭は相槌を打った。「馬車に自分の紋章を描かせないということだね。何もせずそのままで充分ということらしい。カリスベリからここまで馬で来ることはあり得ないな。たっぷり二十マイルあるから」 「馬車じゃないとすれば、十二時十五分の汽車で来るしかないわ。それだと礼拝まで二時間十五分の余裕がある。カランで用事だなんていったい何かしら。どこでお昼を召し上がるのかしら。二時間十五分も何をなさるっていうのかしら」 ここにもう一つの謎があらわれたわけだが、これに答えられるのはカランにただ一人しかいなかっただろう。それはミスタ・シャーノールである。ちょうどその日、一通の手紙がオルガン奏者のもとに届いた。
カリスベリ、主教公邸 親愛なるシャーノール (もう少しで「親愛なるニック」と書きそうだったよ。あれから四十年がたち、わたしのペンも少しこわばってしまったが、この次は「親愛なるニック」と書けるよう、きっと正式な許可をくれたまえよ)わたしの筆跡は忘れたかもしれないが、わたしのことは忘れていないだろう。新しい主教となったのが、このわたし、ウイリスだということを知っているかい。きみがわたしのすぐそばにいることを知ったのはほんの二週間前のことだ。
何と喜ばしきことだろう 輝ける友情を再び蘇らせることは――
さっそくなんだが、わたしはきみに昼飯をたかろうと思っている。わたしは堅信礼のために今日から二週間後、十二時四十五分にカランに行き、二時三十分に司祭館に着かねばならない。しかしそのあいだ、わが友ニコラス・シャーノールよ、わたしに食べ物と避難所を与えてくれないか。言い訳は無用。そんなもの認めないからね。ただ確実に義務を遂行する旨知らせてくれたらいい。 いつも変わらぬきみの友 ジョン・カラム
この手紙を読んだとき、ミスタ・シャーノールの耄碌した身体の中で何かが不思議とざわめいた――いろいろな思いが入り乱れた。大人の心の中に隠れた子供の心が声をあげ、希望に満ちた若い自分が絶望的な年寄りの自分に語りかけた。肘掛椅子に座り目を閉じると、大学の小さな礼拝堂の、オルガンの置かれた二階の張り出しがよみがえってきた。長い長い練習、そして彼が演奏をつづけるあいだ、ずっと満足そうにそばに立って聞き入っていたウイリス。ウイリスは、脇で音栓をひっぱったくらいで音楽ができると思いこみ、嬉しそうにしていた。ウイリスは音楽などちっとも分かっていなかった。しかし趣味がよくて、フーガが大好きだった。
田舎を歩き回って聖堂めぐりをしたこと、そして「ゴシック建築入門」を手に、初期イギリス様式の刳形とイギリスゴシック建築様式の刳形の違いを説明しようとするウイリスの姿が思い浮かんできた。日が落ちて何時間経っても、北の空が澄み切った黄色に染まったままの、かぎりなく長い夏の夕べ。しっとり露にぬれた広い乗馬道が脇を走る、埃っぽい白い道。暗くて神秘的なストウウッドの森。ベックリイの小道に生えたハシドイの香り。チャーウエルの谷に立ち籠める白い霞。それから寮に帰って食べた夕食――記憶は強力な錬金術師で、夕映えだけでなく夕食までも変質させてしまう。なんという夕食だったろう!ルリチシャの浮かぶ林檎酒、ミントソースをかけた冷めた子羊の肉、ミズガラシ、三角形のスティルトンチーズ。そういや、スティルトンチーズは四十年も食べていないぞ! そう、ウイリスは音楽の知識がなかったが、フーガは大好きだった。ああ、フーガとなるとウイリスは聞き入っていたな!そのときひとつの声がミスタ・シャーノールの記憶によみがえった。「わたしのときは頼むからフーガはやめてくれ」「フーガはやめてくれ《ノー・モア・フーグ》」――その言い回しには「海も亦なきなり《ノー・モア・シー》」という黙示録的光景と同じくらい、妥協を許さない断定的な響きがあった。ミスタ・シャーノールは苦々しく笑い、夢想から目覚め、現実に還った。
主教選出のニュースをはじめて聞いたとき、それが昔の友人であることはもちろん分かった。そのウイリスが会いに来てくれるとは嬉しいじゃないか。ウイリスはあの騒動のことをみんな知っている。わたしがオクスフォードを退学しなければならなくなった事情も。うん、しかし主教は心の広い寛大な男だから、いまさらあんなことをとやかく言わないだろう。ウイリスはわたしが貧しい、尾羽打ち枯らした老人に過ぎないことをよく知っているはずだ。それでもわたしのところに昼飯を食べに来るといっている。しかしウイリスはわたしが今も――。彼は考えつづけるのをやめ、鏡を見てネクタイを直し、外套の第一ボタンを留めると、震える手で左右の頭髪を後ろに撫で付けた。いや、ウイリスはそこまでは知らないし、知られてはならない。悔い改めるに遅すぎることはないのだ。
彼は戸棚のほうにむかい、酒瓶とタンブラーを取り出した。アルコールはほんの少ししか残っていなかったが、彼はそれをタンブラーに残らず注いだ。束の間彼は躊躇した。気弱になった意志が負けるなとみずからを励ました一瞬だった。どうやら彼はこの高価な酒を一滴たりとも無駄にするまいとしているらしかった。彼は酒瓶を慎重にひっくり返し、最後の小さな一滴が瓶を離れ、タンブラーに落ちるのを見た。いいや、わたしの意志の力はまだ完全に麻痺してはいないぞ――まだな。そして彼はタンブラーの中身を火にぶちまけた。淡い青色の炎がぼっと大きく燃え立ち、小さな爆風が窓ガラスを鳴らした。しかし英雄的行為はなされた。彼は心の中で幾つものトランペットが鳴り、「自己に打ち勝った者」(註 ケンピスの「キリストにならいて」から)と叫ぶ賞賛の声を聞いた。ウイリスに知られてはならない、わたしが今も――なぜならわたしは金輪際酒とは縁を切るつもりなのだから。
彼は呼び鈴を鳴らした。ミス・ユーフィミアがそれに応じて出てみると、彼はほとんど跳ね回るように元気よく部屋の中を行ったり来たりしていた。彼女が入ってくると、彼は立ち止まり、踵を合わせて深々とお辞儀をした。 「これはうるわしき城主様。どうぞ従者に跳ね橋を下ろし、鬼戸を上げよとお命じくだされ。肉詰めのパイ、塩漬けの魚、葡萄酒の大樽をご注文なさり、大広間はわがカリスベリ主教をお迎えするにふさわしく飾り立ててくだされ。主教はこのお城で中食をお召し上がりになり、馬に馬草を与えるおつもりですぞ」 ミス・ジョウリフは目を丸くした。テーブルの上に酒瓶とタンブラーがあり、ウイスキーの臭いが芬々と漂っていた。彼女の考えていることが分かると、ミスタ・シャーノールの顔からはしゃいだ表情が消えた。 「いや、違うよ」と彼は言った。「今回は違うんだ。わたしはまったくしらふだよ。ただ興奮しているのさ。主教が昼食を食べにここに来るんだ。あなたはブランダマー卿《ロード》とお茶を飲んだら興奮するだろう――たかが安っぽい、世俗的な貴族だが。しかし、それなら神聖な、本物の主教《ロード》が訪ねて来るとき、わたしが興奮していけないことがあるかね。聞け、女よ!わたしはカリスベリ主教から手紙で頼まれたんだ。わたしのほうから彼に頼んだんじゃないよ。彼のほうからわたしに昼飯を食べようと言ってきたんだ。主教がベルヴュー・ロッジでお昼を召し上がるんだよ」 「まあ、ミスター・シャーノール。分かりやすくお話してくださいな。わたしは年をとってぼけちゃっているから、あなたが冗談を言っているのか、真面目なのか区別がつかないのですよ」 そこで彼は心の高揚を抑え、彼女に事実を語った。 「でも、旦那様、いったい昼食に何を差し上げるおつもりですの」とミス・ジョウリフは言った。彼女は常に敬意を示す「旦那様」を適当な回数だけさしはさむように気をつけていた。自分の家柄を誇りにし、生まれに関するかぎり、カランのどんな上流婦人にも引けをとらない自信があったが、訳あって下宿の女主人となった今は、その地位をまっとうするのがキリスト教徒の勤めと思っていた。「いったい昼食に何を差し上げるおつもりですの。聖職者の方にお食事を用意するのは、いつも面倒でほとほと困ってしまいます。美味しいものをあんまりたくさんお出しすると、あの方たちの神聖な天職を充分わきまえていないみたいに思われますでしょう。まるでマルタみたいじゃありませんか、聖職者とのお付き合いからありったけの精神的利益を引き出そうとして、やたら食べ物を差し出そうとあくせくしたり、心配したり、頭を悩ましたりするなんて(註 ルカ伝より)。でも、もちろん、どんな精神的なお方だって肉体を養わないわけには行きませんわ。さもなければ善を施すこともできなくなってしまいますから。ただ、お食事の用意を控えめにすると、ときどき聖職者の方が全部召し上がってしまい、もう食べ物がないと分かると、お気の毒にがっかりなさるのです。そうそう、ミセス・シャープが教区民を招いて、教会伝道集会のあと『代表者』と顔合わせなさったときがそうだった。揚げ物料理が『代表者』の到着前になくなってしまいましたの。おかわいそうでしたわ、長い演説をなさった後で、とても疲れていらしたので、食べ物がないと分かるととてもイライラなさって。もちろんそれはほんの一瞬のことです。でもわたしはあの方が、名前は忘れたけど誰かにこう言うのを聞いたんです。これなら駅の軽食堂でハム・サンドイッチを頼んでおいたほうがずっとよかったって。
食べ物も厄介ですけど、飲み物はもっと厄介ですわ。聖職者の中にはワインを毛嫌いなさる方もいるし、かと思うとお話の前にぜひ一杯という方もいらっしゃいます。つい昨年のことですけど、ミセス・ブルティールが応接間集会を開いて、会合の前にシャンペンとビスケットをお出ししたの。そうしたらスティミイ博士は、酒飲み全員が自堕落だとは思わんが、しかしアルコールは獣の刻印であると考える、そして人々が応接間集会に来るのは、話を聞く前に酔っ払ってうつらうつらするためではないとはっきりおっしゃったの。それが主教ともなればもっと面倒なことになるわ。そういうわけですからねえ、いったいわたしたち何をお出ししたらいいのでしょう」 「そううろたえることはないよ」立てつづけに発せられたことばのあいだにようやく隙間を見つけてオルガン奏者は口をはさんだ。「主教が何を召し上がるのか、わたしは調べたんだ。ある小冊子に何もかも書いてある。ミント・ソース付きの冷めた子羊の肉――子羊のあばら肉だよ――ゆでじゃがいも、それからスティルトン・チーズだ」 「スティルトン?」ミス・ジョウリフはかなり動揺して尋ねた。「あれはとても高いものじゃないかしら」 おぼれる者が一瞬のうちに人生を振り返るように、彼女の心はとっさにウィドコウムの全盛期に、そのチーズ籠の中にあったチーズをことごとく思い浮かべた。あのころはハムとプラム・プディングが垂木から袋に入れて吊り下げられ、搾乳場にはクリーム、地下室にはビールがあった。ブルー・ビニー、グロスター・チーズのかけら、ダブル・ビザンツ(註 恐らくフェタチーズのことだろう)、ときには底にい草をつけたクリーム・チーズもあった。しかしスティルトンは見たことがない! 「とても高価なチーズだと思いますわ。カランで売っているところはないんじゃないかしら」 「残念だな」ミスタ・シャーノールが言った。「しかし何とか見つけにゃならん。主教のお昼にスティルトンはつきものなんだ。小冊子にそう書いてある。ミスタ・カスタンスに頼んで何とか手に入れてください。後で切り方を伝授しますよ。切り方にも決まりがあるんだ」 彼はくすくすと一人妙な笑い声をあげた。ミント・ソース付きの冷めた子羊の肉、その後にスティルトン・チーズ――彼らはオクスフォード式の昼食をするのだ。再びあの若かった穢れのない頃に戻るのだ。
主教の手紙がミスタ・シャーノールにもたらした刺激はすぐに薄らいだ。彼は気分屋で、その神経質な気質の中では欝状態が躁状態のすぐあとを追いかけていたのである。ウエストレイは友人が次の日から過度の飲酒にふけるようになったことに気づいた。目に見えて取り乱した奇妙なそぶりは、オルガン奏者が神経衰弱よりももっと深刻な何かに冒されているのではないかという恐れを抱かせた。 ある晩、仕事で夜更かししていると、建築家の部屋のドアが開いて、ミスタ・シャーノールが入ってきた。顔は青ざめ、眼は驚いたように見開かれている。ウエストレイは厭な感じがした。 「ちょっとわたしの部屋まで降りてきてくれないか」オルガン奏者は言った。「ピアノの位置を変えたいんだが、一人じゃ動かせないんだ」 「今日はもう遅いですよ」ウエストレイは時計を取り出しながら言った。そのとき聖セパルカ大聖堂の鐘が深みのある、美しい音色を悠然と響かせ、夢見る町と沈黙する塩沢に、真夜中まであとたった十五分しかないことを告げた。「明日の朝やったほうがいいんじゃありませんか」 「今晩はだめかね」オルガン奏者は訊いた。「すぐすむんだが」 ウエストレイはその声に落胆の響きを聞き取った。 「いいでしょう」彼は製図板を脇に押しやった。「この仕事はもう充分やりましたから。ピアノを移動しましょう」 彼らは一階に降りていった。 「ピアノのむきを百八十度変えたいんだ」とオルガン奏者は言った。「背面を部屋の中にむけ、鍵盤側を壁にむけるのさ――鍵盤を壁にうんと近づけて、わたしが座る分だけあけるんだ」 「おかしな置き方ですね」とウエストレイは言った。「音響的にそのほうがいいのですか」 「さあ、どうだろう。しかし一休みしたいときに壁に寄りかかれるからね」 配置変えはすぐに終わり、二人はしばらく暖炉の前の椅子に座っていた。 「ずいぶん景気よく火をたいていますね」ウエストレイが言った。「寝る時間だというのに」実際、石炭は山をなすほど放りこまれ、激しい勢いで燃えていた。 オルガン奏者はその石炭を一突きし、彼ら以外誰もいないことを確かめるようにまわりを見た。 「きみはわたしのことを馬鹿な男だと思っているだろう」と彼は言った。「まさにその通りだよ。きみはわたしが酒を飲んでいたと思っているだろう。まさにその通り。きみはわたしが今酔っぱらっていると思っているだろう。ところが違うんだ。聞きたまえ。わたしは酔っぱらっちゃいない。臆病なだけさ。きみとわたしがこの家まで一緒に歩いた最初の晩のことを覚えているかい。真暗で土砂降りだった。それから旧保税倉庫のそばを通るとき、わたしが怯えていたことを覚えているかい。ああ、あの頃から始まって、今はずっとひどくなっている。あの頃でさえ、いつも何かにつけられているという恐ろしい考えに取り憑かれていた――それもすぐ後ろをつけてくるんだ。そいつが何かは知らんが――とにかく何かがすぐ後ろにいることは知っていた」 彼の態度と外見にウエストレイは危惧を抱いた。オルガン奏者の顔はひどく青ざめ、まぶたが奇妙につりあがって瞳の上の白目がむき出しになり、突然恐ろしい光景に直面して眼を見開いたような様子をしていた。敵に追いかけられるという幻想が狂気の初期に最もよく見られる兆候のひとつであることを思い出し、ウエストレイはオルガン奏者の腕にそっと自分の手を置いた。 「興奮しちゃいけません」と彼は言った。「そんなの、みんなナンセンスですよ。こんな夜遅くに興奮するのはよくないですよ」 ミスタ・シャーノールは手を払いのけた。 「そんな気がするのは外に出たときだけだったのだが、今は家の中にいてもしばしば感じる――この部屋にいるときさえ。以前は何があとをつけてくるのか分からなかった――何かがつけてくるとしか分からなかった。でも今はそれが何か分ったよ。それは男なんだ――ハンマーを持った男なんだ。笑っちゃいかん。本当は笑いたくないんだろう。笑えばわたしの気が静まると思っているだけで。しかしその手は食わんぞ。そいつはハンマーを持った男だと思う。顔はまだ見たことがない。しかしそのうち拝ませてもらうことになるだろう。わたしに分っているのは、それが邪悪な顔だということだけだ――悪魔の絵とか、あの手のおどろおどろしい顔じゃない。もっと不吉な顔だ――一見まともに見えるが実は仮面をかぶっているぞっとするような変装した顔だよ。やつは絶えずわたしのあとをつけてくる。わたしはそのハンマーがわたしの脳天を打ち砕くんじゃないかと、いつもそんな気がしているんだ」 「そんなはずあるものですか」ウエストレイはいわゆるなだめすかすような口調で言った。「話題を変えましょう。さもなきゃもう寝ましょうよ。ピアノの位置はこんなものでいいんですか」 オルガン奏者はにやりとした。 「どうしてこんなふうに位置を変えたのか、本当の理由が分かるかい」と彼は言った。「それはわたしが臆病者だからだよ。壁を背にすれば、後ろにまわられることはないからね。夜更けに怖いのを必死に我慢してかろうじてここに座っているということが何回あったことか。そんなにびくびくするくらいなら、さっさと寝ればいいんだが、ただわたしはこんなふうに自分に言い聞かせるんだ。『ニック』――子供の頃は家でそう呼ばれていたんだ――『ニック、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかないぞ。まさか幽霊におびえて部屋を出て行ったりはしまいな』それからわたしは頑張って演奏をつづけるんだが、上の空でやっていることもしょっちゅうなのさ。こうなっちゃあ、人間も哀れなものだね」ウエストレイは返すことばがなかった。 「聖堂にいるときも」とミスタ・シャーノールはつづけた。「夜中に一人で練習するのはあまり気が進まない。カットロウが送風器で風を送ってくれていたときは大丈夫だったんだ。あいつは頓珍漢だが、それでも話し相手になる。しかしウオーター・エンジンがつけられてからは、あそこにいると心細くてね、以前ほど行く気がしなくなったのだ。何となくブランダマー卿にもらしたんだ、ウオーター・エンジンのおかげでびくびくせにゃならなくなったと。そうしたらときどき二階の張り出しに行ってお付き合いしましょうと言ってくれたよ」 「それなら今度練習したいときは、早速わたしに知らせてください」とウエストレイは言った。「わたしも行って張り出しに座っていますよ。身体に気をつけてくださいね。なあに、そんな気の迷いなんかすぐにどこかへ消し飛んで、わたしみたいに笑い飛ばすようになりますよ」そう言って彼は微笑むふりをした。しかし夜更けということもあり、彼自身も緊張し神経質になっていた。しかもミスタ・シャーノールの精神状態がこれほどまでに不安定に陥っているという事実は彼を憂鬱にさせた。
主教が堅信礼の日にミスタ・シャーノールと昼食をするという噂はすぐにカランに広まった。ミス・ジョウリフは従兄弟で豚肉屋のミスタ・ジョウリフに話をし、ミスタ・ジョウリフは教区委員として参事会員パーキンに話をした。たった数週間のうちに二度も重要なニュースが人伝に主任司祭に伝わってきたのだ。しかし今回はブランダマー卿がウエストレイを通じて修復工事に大金を差し出したときのような悔しさはほとんど感じなかった。彼はミスタ・シャーノールに憤りを感じなかったのである。この一件はあまりに厳粛重要であって、個人的なつまらない感情の割りこむ余地はなかったのだ。いかなる主教の、いかなる行いもすべからく神の行いであり、この神の定めに憤慨するのは船の難破や地震に腹を立てるのと同じくらい場違いなことだったろう。カリスベリ主教をもてなす役に選ばれ、主任司祭の目にはミスタ・シャーノールがただならぬ人物に見えてきた。これは単に知性があるとか、技術が優れているとか、骨の折れる単調な仕事にまじめに取り組んできたとか、そうしたことだけでは決して得られない評価であった。オルガン奏者は事実上、端倪すべからざる人物となったのである。
司祭館は憶測を巡らしては議論し、議論しては憶測を巡らせた。主教がミスタ・シャーノールと昼食を共にするなど、いったいどうすればそんなことになるのか、どうしてそんなことが起きうるのか、どうしてそんなことをしようという気になるのか、どうしてそうでなければならないのか。主教はミスタ・シャーノールが小料理屋でも開いていると思ったのか。それとも主教はミスタ・シャーノールしか作り方を知らない特殊なものを食べるのか。主教はミスタ・シャーノールを専用礼拝堂のオルガン弾きとして迎えようとしているのか。たしか主教座聖堂に空きはなかったはずだ。憶測は謎というめくら壁に総攻撃をしかけ、痛手を受けて退却した。何時間もそのことばかりを話し合ったあげく、ミセス・パーキンは、もうどうでもいいと投げ出した。 「どういう事情なのか、わたしなんかに分るわけないんですけどね」彼女は例の確信のこもった、断罪するような口吻で言った。つまり、口にこそ出さないが、自分には分かっている、この謎は解決したとしても、どうせ二人の当事者の間にうさんくさい関係があることを明らかにするだけだろう、というようなことを暗示する口吻である。 「どうなんだろうねえ、おまえ」と主任司祭は妻に言った。「ミスタ・シャーノールは主教をしかるべく歓迎できるのかな」 「しかるべく、ですって!」ミセス・パーキンが言った。「しかるべく!今回の一件は最初から最後までしかるべき手順を踏んでいないと思いますわ。あなたがおっしゃっるのは、ミスタ・シャーノールにしかるべき食事を買う金があるかってことかしら。もちろんないに決まっているわ。それともしかるべき皿やフォークやスプーン、しかるべき食事部屋があるかってこと?あるわけないじゃない。それとも彼にしかるべく料理が作れるかってこと?誰が料理をするのよ。あの役立たずのミス・ジョウリフと生意気な姪しかいないじゃない」 参事会員は妻のことばが喚起する快適とは言えない光景に大いに当惑した。 「主教のためにできるだけ便宜をお図りするべきだよ。お困りにならないよう、あらゆる手をつくすべきだと思う。どうかね、多少の不都合は我慢してシャーノールに主教を連れてきてもらい、彼も昼食会に加えるっていうのは。彼だって主教を下宿屋でもてなすなど、前代未聞だってことくらい重々承知しているだろう。ヌートの代わりに彼を六人目に据えればいい。ヌートにお役ご免を言い渡すのは簡単だし」 「シャーノールはろくでもない評判の男よ」とミセス・パーキンが答えた。「きっと酔っぱらって来るわ。そうでなくたって『育ち』も教育もないんですからね。上品な会話についてこられないわよ」 「おまえ、主教はもうミスタ・シャーノールとお昼の約束をなさっているんだから、二人を引き合わせてもとやかく言われることはないんだよ。それにシャーノールはちょっとした学問を身につけている――どこで身につけたのか想像もできんが。だがね、一度やつが短いラテン語をすらすら理解するのを見たことがある。ブランダマー家の座右銘『ファインズにあらざれば死』(本章末尾の註参照)というやつだ。他の人から聞いたのかもしれないが、しかしラテン語が分かるような様子だった。もちろんラテン語の本当の知識は『大学』教育を受けなければ得られないが」――主任司祭はネクタイとカラーを直した――「しかし薬屋とかあの手の連中は門前の小僧で生かじりの知識を持っているからね」 「それにしたって、昼食のあいだじゅうラテン語を話すことはないでしょう」妻が遮った。「あの人を呼ぶ呼ばないはあなたのご自由にどうぞ」 ぞんざいな言い方ではあったが、とにかく許可を得たことに主任司祭は満足し、そのあとしばらくしてシャーノールの部屋を訪ねた。 「堅礼式の日なんだが、是非ともうちへ昼食にきてほしいと、ミセス・パーキンが切望している。妻は主教の同意を待って、きみに招待状を送るつもりだったんだ。しかし聞くところによると」彼は怪訝そうに、ためらいながら言った――「聞くところによると、主教はきみとお昼を食べるかもしれないんだってね」 参事会員パーキンの口の端がぴくりと動いた。主教が安下宿でミスタ・シャーノールとお昼を共にするというのは、滑稽きわまりない図で、彼は吹き出しそうになるのを必死にこらえていた。 ミスタ・シャーノールはその通りと頷いた。 「ミセス・パーキンはね、主教をおもてなしするのに必要なものが、きみの宿にあるかどうか心配していたよ」 「その点はお任せください」とミスタ・シャーノールが言った。「今は少々みすぼらしく見えますがね。椅子という椅子をみんな椅子張り職人に出しているので。金箔の剥げを直してもらっているんですよ。もちろんカーテンも新調するし、ここの女主人は一番いい銀器を磨きはじめています」 「これはミセス・パーキンの思いつきなんだが」と主任司祭はつづけた。彼は言うべきことを言おうとするあまり、オルガン奏者のことばにはほとんど注意を払わなかった――「ミセス・パーキンの思いつきなんだが、お昼は主教を司祭館にお連れしたほうがよくはないかね。準備の手間が省けるし、もちろんきみも一緒にお昼を食べたらいい。われわれのほうに不都合なことはないんだ。ミセス・パーキンはきみがお昼に加わってくれたら喜ぶだろう」 ミスタ・シャーノールは頷いたが、今度は不賛成の頷きだった。 「ご親切にありがとうございます。ミセス・パーキンのお心遣いにも心から感謝します。しかし主教はこの家でお昼をいただくとおっしゃってますからな。主教のお望みに異を唱えるわけにはいきません」 「主教はきみの友達なのかい」と主任司祭が訊いた。 「友達とはいえません。四十年会っていないんですから」 主任司祭には何が何やらさっぱり分らなかった。 「ひょっとして主教は勘違いしているのかもしれないね。この下宿が今でも宿屋だと――つまり神の手だと思っているのかもしれないね」 「かもしれませんな」とオルガン奏者は言った。短い間があった。 「考え直してくれるとありがたいね。わたしがミセス・パーキンにこう伝えちゃまずいかな、主教にはきみから司祭館でお昼を食べるように要請すると――いや、もちろん、きみも一緒に」――彼はいやいや最後のことばを発した。主教を主教とは釣り合いのとれない男と一緒にしたり、限られた歓待のドアをミスタ・シャーノールに開くのは胸のうずく思いであったが――「きみも一緒にお昼を食べ来ると伝えては」 「残念ですが」とオルガン奏者は言った。「残念ですがやめておきましょう。特別な礼拝ですから準備が大変なんです。司祭が聖堂に入場するとき『見よ、英雄は還りぬ』を演奏するなら、練習時間も必要です。ご存じでしょうが、ああいう曲は多少指を慣らしておかなければなりませんので」 「最高の演奏を期待しているよ」攻略は不首尾に終り主任司祭は兵を引き上げた。 ミスタ・シャーノールの妄想、とりわけ誰かが後をつけてくるという妄想は、ウエストレイに好ましからざる印象を与えた。彼は同宿人の身を案じ、そのような状態にある人間はみずからに危害を与えることもあると、思いやりのある目で彼を監視しようとした。夕方になるとたいていミスタ・シャーノールの部屋に降りてゆき、あるいはオルガン奏者を上の自分の部屋に招いた。高齢者の一人暮らしにつきまとう孤独が妄想を生み出す大きな原因に違いないと考えたのである。ミスタ・シャーノールは夜になると、かつてマーチン・ジョウリフの持ち物だった書類の整理と閲読に没頭した。書類は生涯をかけて集めただけに膨大だった。中身はメモの切れ端とか登記簿からの書き抜きとか系図がびっしり書きこまれた写本とか、それに類したものだった。最初、これらを分類あるいは破棄する目的で調べはじめたとき、彼はこの仕事に乗り気でないことをありありと示していた。理由さえあれば喜んで仕事を中断したり、ウエストレイの援助を請うた。一方建築家はもともと考古学や系譜学を好み、かりにミスタ・シャーノールが彼に書類全部の閲読を任せたとしても不快には思わなかっただろう。彼は一人の男の全人生を無駄にさせたキメラの由って来たるところを突き止めたかった――マーチンがそもそもブランダマー家の爵位継承権を持つと信ずるに至った、その原因を探り出したかった。はっきり意識はしていなかったが、アナスタシア・ジョウリフに惹かれはじめていたことがさらなる動機となっていたのかもしれない。この調査によって彼女の運命が左右される可能性もあったからである。 ところが書類に対するオルガン奏者の態度がほどなく変化したことにウエストレイは気がついた。ミスタ・シャーノールはこれ以上建築家が書類を調査することを厭がった。そしてみずからその研究に多大の時間と注意をむけるようになり、用心深く鍵をかけてそれらを保管した。ウエストレイは性格的に人に疑われるような真似を嫌った。彼は早速その問題に首をつっこむのをやめ、ミスタ・シャーノールに対して、書類にはもはや何の関心もないようなふりをした。 アナスタシアはあんな妄想に根拠があるわけがないと大笑いした。彼女はミスタ・シャーノールを笑い、ウエストレイを冷やかし、お二人とも雲形紋章を探して旅に出ることになるわ、と言った。しかしミス・ユーフィミアにとっては笑い事でなかった。 「ねえ、あなた」と彼女は姪に言った。「富や財産を求める旅というのは、どんなものであれ神様の御心にかなったものじゃないのよ。ものを探し当てようなんてすることは」――彼女は女性らしく「もの」ということばに重々しい包括的意味をこめた――「たいてい人間によくない影響を与えるの。私たちにとって貴族であり金持ちであることがよいことなら、神様はきっとわたしたちをそういう境遇につけてくださるわ。でも自分が貴族であることを証明するなんて、白昼夢にふけったり易を見てもらうようなものよ。偶像崇拝は罪深い魔術みたいなものね。そこに神様の祝福はないわ。わたし、マーチンの書類をミスタ・シャーノールに渡したことを、これからずっと後悔する。自分で調べるなんてとても耐えられそうになかったし、もしかしたら小切手みたいな貴重なものが混じっているかもしれないと思って渡したんだけど。さっさと燃やしてしまえばよかった。ミスタ・シャーノールは全部読み終わるまで捨てるつもりはないと言っている。あんなもの、マーチンにとって祝福でも何でもなかった。あのお二人も魔力に惑わされなければいいけど」
(註 「ファインズにあらざれば死」の原文は Aut Fynes, aut finis。finis には「境界、領土、限界、目標、終わり、末端、最後」などの複数の意味がある。また、この座右銘がつくられた当時の発音から考えると、Fynes は finis の複数形 fines ととることも可能である)