第九章
こうした注目すべき出来事のあった翌朝、郵便屋がベルヴュー・ロッジに配達した手紙の中に、恐ろしいほど興味をそそる封筒が一通混じっていた。垂れ蓋の上に宝冠模様が黒く小さく押され、表には「カラン、ベルヴューロッジ、エドワード・ウエストレイ様」と太い読みやすい字で書かれていた。それだけではない。左下の隅には「ブランダマー」という署名がはいっていたのだ。たった一語ではあるが、それはあまりにも神秘的な意味に満ち、アナスタシアは胸をときめかせながら手紙を叔母に渡し、建築家の朝食と一緒に上の階へ持って行ってもらった。 「お手紙ですわ、ブランダマー卿から」ミス・ジョウリフは盆をテーブルに置きながら言った。 しかし建築家はただうなっただけで、定規とコンパスを使って忙しく製図に取り組みつづけた。ミス・ジョウリフがかくのごとき重要な書状の内容に燃えるような好奇心を感じなかったとしたら、彼女は女性を超越した存在だっただろう。それに貴人からの手紙をテーブルの上に放っておくのは、彼女にしてみれば、ほとんど神を冒涜するにも等しかった。
朝食を並べるのにそのときほど時間がかかったことはなかったが、それでも例の手紙はつつましい燻製ニシンを覆うブリキ蓋の横に置いてあった(栄光がいかに無価値なものと隣り合っていることか)。哀れなミス・ジョウリフはウエストレイにことの重大さを正しく認識させようと部屋を出る前に最後の努力をした。 「お手紙が来てますよ。ブランダマー卿からだと思いますわ」 「ええ、ええ」建築家は突っ慳貪に言った。「すぐ読みますよ」 こうして彼女は打ちのめされて引き下がった。 ウエストレイの無関心は一部は見せかけでしかなかった。彼は他人はどうあれ、自分は階級という人工的な身分差など意に介さない、農民に感銘を受けないように貴族にも感銘を受けない、そういうところを見せたかったのである。この超然とした無関心はミス・ジョウリフが部屋を出たあともつづいた。彼は人生を真面目に生きようとし、自分に対する義務は少なくとも隣人に対する義務と同じくらい大切だと思っていた。決意は二杯目のお茶まで持続し、そこで彼は封を切った。
拝啓(と手紙は始まっていた) 昨日のお話ではカラン大聖堂の南袖廊(註 原文では北袖廊)の修復に7800ポンドかかるということでした。この費用はわたしが負担しますので、すでに寄付として集めたお金は別の修復目的に回していただきたいと思います。また建物全体を根本的に修復するのに必要な追加費用もすべて差し出す用意があります。サー・ジョージ・ファークワーに連絡を取っていただき、以上の事情を考慮の上、修復計画を見直すようお取りはからい願えないでしょうか。次の土曜日にカランへ参ります。午後五時頃、お宅に伺いますので、そのあと聖堂を見せていただければ幸いです。
敬白 ブランダマー
ウエストレイは手紙を一気に斜め読みした。平凡に一つ一つ字句を追って理解したというより、直感的に内容を感じ取ったのだった。また、小説では普通、重要な手紙は読み返すことになっているのだが、彼はそれもしなかった。ただ手紙を手に持ち、考えごとをしながら思わずそれをくしゃっと丸めこんでしまった。彼は驚き、喜んだ――ブランダマー卿の申し出によって活動の幅がいちだんと広がり、また自分がこのように重要な通知の伝達役に選ばれたことを喜んだ。要するに彼はうれしさと当惑の入りまじった興奮、思いもよらぬ幸運が訪れたとき、よほど強い心の持ち主でないかぎり見舞われる精神的陶酔を感じ、くしゃくしゃの手紙を握り締めたまま、ミスタ・シャーノールの部屋へ降りていったのである。燻製ニシンはおいしそうな匂いをいたずらに朝の空気にまき散らした。 「たった今、びっくりするようなニュースが届いたんですよ」彼はドアを開けながら言った。 ミスタ・シャーノールは不意を打たれることはなかった。ミスタ・ウエストレイ宛にブランダマー卿から手紙が来たことをミス・ジョウリフから聞いていたので、彼は「ほう!」と言っただけだった。その口調には、いとも簡単に平常心を失うウエストレイの落ち着きのなさを哀れむような響きがあった。そしてこの世のいかなる大災難も、彼、ミスタ・シャーノールを驚かすことはないのだと宣言するように「で、どうしたのかね」と付け加えた。しかし興奮したウエストレイは冷や水を浴びせられてもそれをはじき返し、喜悦満面、大声で手紙を読み上げた。 「ふうむ」とオルガン奏者は言った。「別にどうということでもあるまい。七千ポンドくらい、あいつにとっちゃ、はした金だ。それになすべきことをなしたるとき、われらは無益なる僕なり、さ(註 ルカ伝から)」 「七千ポンドだけじゃありませんよ。修復のためならいくらでも出すと言っているんですよ。三万ポンド、四万ポンド、いや、もっと出すかも知れない」 「その金を自分の懐に、なんて思わないかい」とオルガン奏者は言い、眉をつり上げ、ウインクをして見せた。 ウエストレイはいらいらした。 「まったく、あの人がすることに皮肉しか言わないなんて、了見が狭すぎますよ。昨日はけちんぼと言ってけなしました。今日はそれが間違いだったと潔く認めましょう」彼は純粋だが、はなはだしく世間知らずで、そうした人間に特有の過度に几帳面な良心にさいなまれ、後悔の念にかられていたのだ。「とにかくわたしは間違っていました。袖廊の修復費用の話をしたとき、彼が躊躇した意味を完全に誤解していたんです」 「きみの騎士道的精神は大いに賞賛されるべきだ」とオルガン奏者は言った。「意見をころりと変えることができるなんてすごいじゃないか。わたしは最初の意見に固執するよ。口から出まかせを言っているだけさ。金を払う気なんかないか、さもなきゃ何か魂胆があるんだ。わたしはあいつの金なんか船竿の先でつつくのも嫌だね」 「ええ、そうでしょうとも」ウエストレイは小学生のように大げさな皮肉っぽい口調で言った。「オルガンを直すのに千ポンド出すと言っても、あなたは一銭も受け取らないんでしょうね」 「千ポンド出すなんてまだ言ってないぞ、あいつは。もしもそう言ってきたら嫌味を言って追い返してやる」 「そいつは寄付を考えている人には心強い話だ」ウエストレイはあざ笑った。「意地ずくで寄付を申し出なくちゃならないでしょうね」 「さて、わたしはもうちょっと楽譜を写さないとな」オルガン奏者は素っ気なく言い、ウエストレイは燻製ニシンのもとへと引き返した。 このようにミスタ・シャーノールは気前のよい申し出に対して情けないほど感謝の意をあらわさなかったが、カランの他の人々はその例に追従するそぶりも見せなかった。ウエストレイはうれしさのあまり素晴らしい知らせを打ち明けずにはいられなかった。また秘密にしなければならないいかなる理由もなかった。彼は石工頭、教会事務員のミスタ・ジャナウエイ、牧師補のミスタ・ヌートにこのことを告げ、主任司祭の参事会員パーキンにはいちばん最後に話をした。もっとも彼にこそ、いちばん最初にニュースを伝えるべきであったことは言うまでもないけれど。そういうわけで聖セパルカ大聖堂の組み鐘がその日の午後三時に「新しい安息日」を演奏する頃には、町中の人がブランダマー卿の帰還と、大聖堂修復工事費用負担の約束を知ったのだった。大聖堂は誰にとっても大きな誇りであったが、自分の懐から寄付金を出すという、疎ましいことを考える必要がないとき、その誇りはいやがうえにも高まった。
参事会員パーキンは腹を立てていた。彼が午後一時にお昼を食べに帰ってきたとき、ミセス・パーキンはそのことに気がついたが、賢明な女性である彼女は、すぐさま不機嫌の理由を問いただそうとせず、経験の示すところ彼の気持ちをもっともなだめる話題へと会話を誘導しようとした。その中でもサー・ジョージ・ファークワーの歴史的訪問と、主任司祭の提案に対して彼が敬意を示した話は主要な位置を占めていた。ところがこの偉大な建築家の名前を出すと、それを合図に夫は新たな怒りを顔にみなぎらせるのだった。 「サー・ジョージ・ファークワーにはもう少しご本人みずから聖堂工事を監督してもらいたいものだ。彼の代理の、ミスタ、ええと、ミスタ・ウエストレイは、経験不足もはなはだしい。建築の知識も足りないし、恐ろしくうぬぼれた若造で、身の程をわきまえずいつもしゃしゃり出てくる。彼は今朝、実に奇っ怪な手紙を持ってやってきた。なんとブランダマー卿からの手紙だよ」 ミセス・パーキンはナイフとフォークを置いた。 「ブランダマー卿からの手紙ですって」彼女は驚きを隠そうともしなかった。「ブランダマー卿からミスタ・ウエストレイに手紙ですって!」 「そうだよ」主任司祭はつづけた。自分のことばが大きな衝撃を与えたことに満足し、不愉快な気分はいくらか薄らいだ。「その手紙で卿はまず南袖廊(註 原文では北袖廊)修復の費用を負担すると言い、それから建物の他の部分も修復の必要があるなら、その費用の不足分を提供すると申し出たのだ。むろんわたしは上院議員がすることに疑問をさしはさむような真似はしないよ。しかし同時に今回の話の進め方は極めて異例だと言わざるを得ない。このような手紙を主任司祭で、神聖な建物の正式な管理人にではなく、たかが工事監督に送るなんて、失礼きわまりないではないか。わたしとしては全面的に反対し、この申し出をお断りしたいくらいだ」 彼の顔は崇高な義憤の色を帯び、妻にむかって公開の会合で話すようにしゃべった。たとえ天が落ちようとも正義は行わしめよ。参事会員パーキンは厳格なる礼節の道から一歩たりともはずれるわけにはいかぬ。心の奥底では、差し出された贈り物を断るなど、到底不可能なことは分かっていたが、しかし自分のことばのあまりの勇ましさに、初期キリスト教徒がライオンから身を守るための、ひとつまみの香料を風に吹き飛ばしたように、ついみずからの手でブランダマー卿の金を床にたたきつけるさまを思い描いたのだった。 「この申し出はお断りしなければならんと思う」彼は繰り返した。 ミセス・パーキンは夫をよく理解していたし――恐らく彼が自分のことを知る以上に深く理解していた――おまけにこの議論が単に形式的なものに過ぎないことも見抜いていた。どれほど本気で申し出を断るような素振りを見せても、実は彼女がそれを決して許さないことを確信しながら言っているのだ。しかし彼女は相手に合わせて、真剣に賛成するふりをした。 「あなたがためらうのも無理はないわ。あなたを知る人なら誰でも、ためらうのが当然だと思うでしょう。そんな大切な申し出を、あの厚かましい若者から伝えられるなんて、侮辱以外の何ものでもない。それにブランダマー卿自身、いかがわしい評判のある方ですからね、神聖な目的のためとはいえ、彼から何かを受け取ることがどの程度望ましいことなのか分かりはしません。この申し出はお断りするのが正しいのかも知れませんわ。少なくとも時間をかけて考えるべきよ」 主任司祭はこっそりと妻を見た。あっさりと自分の意見が受け入れられたので、やや慌てていたのである。彼は妻ががっかりすることを望んでいた――そして自分の高邁な決意を良識ある議論で揺さぶって欲しかったのだ。 「うむ、それでふと思い出したよ、断るのを難しくしているいちばん厄介な理由を。つまり、その、神聖な目的という点なんだ、自分の判断に疑いを抱いてしまうのは。この贈り物をわたしが断ることで聖堂が損害を被るとしたら、これは考えるのもつらい。断るのはもしかしたら自分自身のいらだちや個人的な動機に屈服するということなのかも知れないね。より尊い義務のためには自分の誇りを捨てなければならない」 彼は最上の説教檀的態度で締めくくり、茶番はすぐに終わった。贈り物は受け取らなければならないこと、ミスタ・ウエストレイについては、ブランダマー卿がかくも不適切な伝達経路を用いたのは彼の仕組んだことに違いないから、しかるべき方法でそのおこがましさを罰すること、そして主任司祭はやんごとなき寄付者に直接感謝の手紙を書くことが合意された。かくして昼食後、参事会員パーキンは「書斎」に引きこもって、そうした場合にふさわしい、大げさな言い回しの手紙を書きあげた。その中で彼はありとあらゆる高潔な動機や美質をブランダマー卿に付与し、きざったらしいことこの上ない祝福を彼の頭に浴びせかけた。お茶の時間にこの手紙はミセス・パーキンによって目を通され添削された。彼女は仕上げに独自のことばを付け加えた。特に前口上には、参事会員パーキンが現場監督から聞いたところによると、ブランダマー卿はある申し出をするために参事会員パーキンに手紙を書きたいとおっしゃったが、まずそのような申し出が参事会員パーキンの意にかなうかどうか、現場監督にお尋ねになったそうですね、という文言を加え、また結語には、この次カランにお出での際は司祭館でおもてなしを受けてくださいますように、と書き添えた。
手紙がフォーディングのブランダマー卿のもとに届いたのは、翌日の朝、遅い朝食を取りながらテーブルの上のコーヒーカップの横にウェルギリウスを開いているときだった。彼はにこりともせず主任司祭の堅苦しい美文を読み、すぐに格別丁重な返事を書こうと思った。それから注意深く手紙をポケットに入れ、暗記しようとしていた農耕詩第一巻の「われらが父祖の神よ、祖国の神々よ、ロムルスよ」に戻った。招待のことはすっかり頭から追い出され、次の週、カランに着くまで思い出されることはなかった。 ブランダマー卿の訪問と聖堂修復に対する申し出は、一週間のあいだ、カランの人が寄ると触ると噂する、お決まりの話題となった。幸運にも彼を見たり、話をした人は、その人となりを議論し意見を交換した。外見から声から物腰まで、どんな些細な点も彼らは逃すことがなかった。この関心は感染力があり、卿をまったく見たことのない人までもが興奮のあまり、卿に通りで呼び止められ、建築家の下宿へ行く道を聞かれたと言い出す始末で、卿があまりにも多くの印象的、かつ信用すべき発言をしているものだから、あの晩、彼がベルヴュー・ロッジにたどり着いたのが不思議なくらいだった。教会事務員ジャナウエイは重要人物との会話の機会を逃し、悔しがることしきりだったが、見知らぬ男の灰色の目が彼をナイフのように刺し貫くのを感じたとか、自分は御前様が聖歌隊席に入るのを止める振りをしただけで、相手の堂々たる要求態度を見て、自分の直感が正しいことを確かめたかったのだ、などと強調した。ほかでもねえ、ブランダマー卿とお話しているこたあ、しょっぱなから分かっていたのさ、と彼は言った。 ウエストレイはこの一件の重要性にかんがみ、ロンドン行きを決意した。ブランダマー卿の寄付によって可能になった修復計画変更について、サー・ジョージ・ファークワーと相談をするためである。しかしミスタ・シャーノールは下宿に残って、ミス・ジョウリフの追想や憶測や賞賛を聞いていた。 はじめてこのニュースに接したときは無関心を装ったにもかかわらず、オルガン奏者は誰かが来ると驚くくらいみずから進んでこの話題を取り上げた。ミス・ジョウリフに対しても彼女がブランダマー卿のことを話しているかぎり、いつものようないらいらした様子は微塵も見せなかった。彼はそのこと以外話ができないのではないかと、アナスタシアは思った。沈黙したり話題を変えて、彼の話をさえぎろうとすればするほど、いっそう辛辣な攻撃が卿に対して再開されるのだった。
聖堂修復のために寄付をし、しきたりを踏みはずしてしまったこの不幸な貴族に何の関心も示さない唯一の人間はアナスタシアその人だった。心の広いミス・ジョウリフでさえ、このときばかりは姪の冷淡さを咎めずにはいられなかった。 「ねえ、あなた。立派なすぐれた行いをそんなふうに無視するなんて、若い人であろうと年寄りであろうと、いけないことじゃないかしら。ミスタ・シャーノールは神様の思し召した境涯に不満を持っているみたいだから、褒めるべきものを褒めないことがあったとしても驚かないわ。でも若い人はそうはいかない。わたしが若いときに誰かがウィドコウム大聖堂の修復費用を寄付したら――特に貴族が寄付したら――きっとその――新しい服を買ってもらったみたいな喜びを、それに近いものを感じると思うわ」彼女は「きっとその方がわたしに新しい服を買ってくれたみたいな」と言いそうになったのを別の表現に変えたのだった。いくら説明に過ぎないとはいえ、貴族が自分に新しい服を買ってくれるなど、大それた不適切なことのように思われたのだ。 「わたしなら有頂天になったと思うわ。でもねえ、あの当時はみんな先見の明がなくて、修復なんて考えもしなかった。わたしたちは日曜日ごとにとっても座り心地のいい椅子に座っていたものよ。クッションと膝布団がついていて、通路は板石敷き――表面がすり減った普通の板石敷きで、陶磁のタイルなんか全然使っていないの。タイルは見栄えはするけど、いつも滑りそうな気がしてねえ。あんなのはないほうがいいわ。固すぎるし、ぴかぴかしすぎ。あの頃教会にあったのはとても時代遅れなものばかりよ。みんながまわりの壁に血縁の銘板をかけたり、黒大理石の石版の上に白い小箱を載せたものとか、壺とか、天使の頭像とかを置いてるの。わたしの席の真向かいには、名前は忘れたけど、柳の木の下で泣いている可哀想な貴婦人の絵がかかっていたわ。去年の冬に町の会館で若い男の方が『教会を美しくするために』っていう講演をして、その中で言っていたけど、確かにああしたものは神聖な場所にふさわしくないわね。あの方は『壁面の火ぶくれ』と呼んでいたわ。でもわたしの若い頃はそれを取っ払おうなんて誰も言わなかった。そのためのお金を出す人がいなかったからだと思うわ。それが、ほら、ご親切にもまだお若いブランダマー卿が気前よく寄付をしてくださって。きっとカラン大聖堂はもうすぐ見違えるようになるでしょう。あの講演者も言っていたけど、わたしたち礼拝のときはしなだれるような姿勢をしちゃだめなのよ。あの方は『しなだれる』ってことばを使っていた。ベーズと膝布団は取り払われるでしょうねえ。でもちょっとでいいから何かを席に残しておいて欲しいわ。むき出しの木の上に座ると、ときどき身体が痛くなるんですもの。こんなこと、世界中であなたにしか言えないけど、でも本当にときどき身体が痛くなるのよ。それから通路に陶磁が敷かれたら、わたし、転ばないようにあなたの腕にすがりつくわ。ブランダマー卿がわたしたちのためにこうしたことをみんなしてくださるっていうのに、あなたときたらちっとも感謝してないんですもの。若い娘にあるまじき態度よ」 「叔母さん、わたしにどうしろというの。町の人に代わって、ありがとうございました、なんて、みんなの前で言うわけにもいかないじゃない。そっちのほうがよっぽどあるまじきことだわ。聖堂が叔母さんの言うようなひどいことにならなければいいわね。わたしは古い記念の品が大好きよ。それに椅子は木がむき出しになっているより、『しなだれる』ことのできるほうがいいわ」 そう言って彼女は笑い飛ばした。しかしブランダマー卿の話をさせることはできなかったものの、彼女が彼を思い浮かべることはもっと増えたのであり、あの重大な土曜日の午後のあらゆる出来事が昼夜を問わず夢の中で何度も何度も上演されていたのである。彼が気取らず直裁にブランダマー卿その人であることを打ち明ける序曲から、彼が振り返る終幕の瞬間――彼女はブラインドの背後に隠れていて、そこにいることは分かるはずがないのに、その彼女の眼をとらえるように彼が視線を投げかけてきたあの瞬間まで。 ウエストレイは状況の変化に伴って練り直され拡充された修復計画と、ブランダマー卿宛の手紙を手に、ロンドンから戻った。手紙の中でサー・ジョージ・ファークワーは気前のいい献金者に面会の日取りを指定してもらえないだろうかと書いていた。サー・ジョージはカランまで出むいて卿に挨拶をし、この件に関して直接相談しようと思っていたのである。ウエストレイは一週間のあいだブランダマー卿との土曜日午後五時の約束を楽しみにし、聖堂をどのような道順で案内しようかと慎重に思案をめぐらせていた。ところが五時十五分前にベルヴュー・ロッジに戻ると、訪問者はすでに彼を待っていた。ミス・ジョウリフはいつものように土曜日の会合に出ていたが、アナスタシアがウエストレイに、ブランダマー卿が半時間以上もお待ちだと告げたのである。 「お待たせして申し訳ありません」ウエストレイは部屋に入りながら言った。「約束の時間を勘違いしたのかと思いましたが、でもお手紙には確かに五時と書いてありますよ」彼はポケットから封を切った手紙を取り出して差し出した。 「勘違いしたのはわたしのほうです」ブランダマー卿は自分の指示を読んで、笑みを浮かべながら認めた。「四時と言ったような気がしたんですがね。しかし手紙を一、二通書く暇ができて幸いでしたよ」 「聖堂に行く途中で投函できますよ。ちょうど郵便列車に間に合うでしょう」 「いや、明日にします。同封するものがあるのですが、今手元にないので」 彼らはそろって聖堂にむかった。ブランダマー卿は通りを渡るとき後ろを振り返った。 「とても風格のある建物ですね。ちょっと手を入れれば住み心地もよくなるんだろうけど。何かできることがあるか、代理人と話をしなければならないな。このままでは領主としての評判にかかわりますからね」 「ええ、面白い特徴がたくさんありますよ」ウエストレイが答えた。「この建物の来歴はもちろんご存じでしょうね――つまり以前は宿屋だったということですが」 彼は同伴者と一緒に家のほうを振り返ったが、一瞬何かがミスタ・シャーノールの部屋のブラインドの背後で動いたような気がした。しかしきっと目の錯覚に違いない。家にはアナスタシアしかいないし、彼女は台所にいる。彼は外に出るとき、お茶に遅れるかも知れないと大声で彼女に言ったのだった。 ウエストレイは聖堂のなかを案内したり説明したりしながら、陽の光りが落ちるまで一時間半あまりの時間を心ゆくまで楽しんだ。ブランダマー卿は見るものすべてに、婉曲語法でよく言われるところの「知的関心」を示し、極めて豊かな建築学的知識を、隠すでもなく、ひけらかすでもなく、ごく普通に口にした。ウエストレイは質問こそしなかったものの、どこでそんなことを覚えたのだろうといぶかった。視察が終わるころには、彼は技術的な問題に関して、素人にむかってではなく、対等な専門家に語るようにしゃべっていた。彼らは中央塔の下でしばらく立ち止まった。 「わたしがとりわけ感謝しているのは」とウエストレイが言った。「寛大にも全てをわたしたちの自由裁量に任せてくださったことです。これで塔に手をつけることができます。この上の部分が大丈夫とはとても思えません。アーチは建造当時のものとしては異常に幅広で、厚みがないんですよ。お笑いになるかも知れないけど、わたしはときどきアーチが直してくれって叫んでいるような気がするんです。特に南側のアーチ、上の方の壁にぎざぎざの割れ目ができているやつは。たまに聖堂や塔のなかにひとりでいると、アーチのことばが聞き取れるような気がします。『アーチは決して眠らない』って言っているんですよ。『われわれは決して眠らない』って」 「ロマンチックですね」とブランダマー卿は言った。「建築はことばが石に変じたものだ、という昔の格言がありますね。きっとあなたは相当な詩人なんでしょう」 彼はしゃべりながら禁酒家の痩せてやや青ざめた顔と高い頬骨を見た。ブランダマー卿は冗談を言わず、めったに笑うこともないと思われていたが、もしもその場にウエストレイ以外の人間がいたなら、卿のことばのいたずらっぽい調子と、目尻に浮かぶ面白がるような表情に気がついたかも知れない。しかし建築家は何も気づかず、少し赤くなりながらこう話しつづけた。 「ああ、そうかもしれませんね。建築はたしかに人に霊感を与えますね。わたしがはじめて書いた詩、というか、少なくともはじめて活字になった詩はチュークスベリ修道院の後陣を謳ったものです。グロスター・ヘラルド紙に掲載されました。いつかこのアーチのことも何か書きたいですね」 「是非そうしてください」とブランダマー卿は言った。「そしてわたしに一部送ってください。この場所には詩人が必要です。それにアーチのことを詩に書くほうがアーチ形の眉毛について詩を書くよりずっと無難ですものね」 ウエストレイはまた赤くなって胸ポケットに手を入れた。うっかり書きかけの詩を机の上に置いたままにして、ブランダマー卿や他の誰かに見られたのだろうか。いや、大丈夫だ。彼は通常の手紙とは異なる、縦方向に折った紙の、鋭い角を指先に感じた。 「よろしかったら時間もあるようですし、屋根の部分をご覧にいれましょうか」彼は話題を変えて言った。「袖廊の交差穹窿の頂点を見ていただいて、今取りかかっている作業の説明をしたいんです。あそこはいつ行っても薄暗いんですが、カンテラがあると思います」 「もちろん喜んで」彼らは北東の基柱内部に造られた螺旋階段を登った。
教会事務員のジャナウエイは視察する彼らから安全な距離を置いたところをうろうろしていた。彼は聖堂が閉まる前に、日曜日の「準備」をしておくという名目のもとに忙しく立ち働いていたのだ。一週間前、ブランダマー卿の行く手に立ちはだかったことを思い出して、できるだけ目につかないようにしていたが、その実、彼はあたかも偶然であるかのように卿に出会い、あんな振る舞いに及んだのは何も知らなかったからだと言い訳がしたくてたまらなかったのである。だがそんな言い訳の機会は都合よく訪れなかった。二人は天井に登り、教会事務員は扉口に鍵をかけようとしていた――ウエストレイは自分用の鍵を持っていたのだ――するとそのとき、誰かが身廊をこちらへやって来る音が聞こえた。
脇に楽譜をどっさり抱えたミスタ・シャーノールだった。 「やあ、あんたか!」彼は教会事務員に言った。「ずいぶん遅くまでいるんだな。自分で鍵を開けて入らにゃならんと思っていたのに。一時間前に帰ったんじゃなかったのかい」 「今晩は片付けにいつもより手間どってね」彼は急に話をやめた。頭上の足場のどこかから微かな音が聞こえてきたのだ。彼は声をひそめて話しつづけた。「ミスタ・ウエストレイが卿を案内してるんでさあ。今屋根のところですよ。聞こえるでしょう」 「卿だって?どこの卿かね。あのブランダマーの野郎のことか」 「ええ、そう。でも野郎なんて言っていいんですかい。あの方は卿ですからね。だからわたしは卿とお呼びして野郎なんて言いませんよ。そんなに敵意をむき出しにして、あの方が何をしたって言うんです?どうしてここであの方を待ってパイプオルガンのことを話さないんです?もしかしたら太っ腹な気分になっていてパイプオルガンを修理するとか、あんたがしきりに話しているちっこい送風器を買ってくれるかもしれんじゃねえですか。どうしていつも歯をむき出すんですかねえ――いや、見せようにも、あんたには本物の歯がたくさん残っちゃいないから、こりゃあもののたとえっちゅうもんだがね――たまには他の人と同じようにしちゃあどうです?わたしが思うには、あんたは年寄りなのに若者ぶろうとしている。貧乏なのに金持ちぶろうとしている。そこがいけない。そのせいであんたはみじめな気分になり、酒でまぎらせようとする。わたしの忠告を聞いて、他の人みたいに振る舞いなさいよ。わたしはあんたより二十も年寄りだが、二十歳の時より遙かに人生を楽しんどるよ。今はお隣さんも連中の癖もわたしを楽しませてくれるし、パイプの味もよくなった。若いときゃさんざん馬鹿なまねをしでかすが、年をとりゃ、そんなこともない。あんたはわたしに遠慮なくしゃべるから、わたしもあんたに遠慮なくしゃべるよ。わたしは遠慮のない人間だし、誰もおそれるこたあないんだ。卿だろうが、野郎だろうが、オルガン弾きだろうがね。まあ、この老いぼれの忠告を聞くんだね。明るく構えて卿にお仕えし、新しいパイプオルガンを買ってもらいなさいよ」 「くだらない!」ミスタ・シャーノールはジャナウエイの態度に慣れてしまっていて、腹も立てなければ注意も払わなかった。「くだらない!ブランダマーなんてどいつもこいつも大嫌いさ。ドードー鳥みたいに絶滅すりゃいいんだ。絶滅してないって保証はないんだけどね。いいかい、あの気取って歩くクジャク野郎は、あんたやわたしと同じくらいブランダマーを名乗る権利を持ってないんだ。この富というやつにはまったくむかつくな。今じゃあ教会や博物館や病院を建てることができない人間は価値がないと思われている。『みづからを厚うするがゆゑに人々なんぢをほむる』(註 詩篇から)金を持ってりゃひたすら賞賛され、なければ鼻も引っかけられん。ブランダマーなど全員墓に埋められてしまえばいい」彼は細いしゃがれ声をまたもや頭上の穹窿天井に響かせた。「経帷子の代わりに雲形紋章を巻き付けてな。あいつらの忌々しい紋章なんかにゃ石をぶつけてやりたいよ」彼は袖廊の窓高くに描かれた海緑色と銀色の盾を指さした。「日の照るときも、月明かりの差すときも、あれはいつもあそこにある。ここで満月の夜、コウモリに演奏を聴かせるのが楽しみだったんだ、あれがいつも張り出しをのぞきこんでいて、わたしから離れようとしないことに気づくまでは」 彼はどさりと楽譜の山を座席に置くと聖堂を飛び出した。どうやら酒を飲んでいたらしい。教会事務員も同時にその場を抜け出した。大声で発せられた意見を屋根の上の二人に聞かれ、彼もそれに同調していると思われることを恐れたのだ。 ブランダマー卿は聖堂扉口でウエストレイに別れを告げた。彼は仕事の都合でフォーディングに戻らなければならないと、お茶の誘いを断った。 「別の日の午後、また聖堂を見せてください。よろしければ手紙で日取りをお知らせします。たぶんまた土曜になるでしょう。平日は今のところ用事が詰まっていますので」
教会事務員ジャナウエイは聖堂からさほど離れていないガヴァナーズ通りにすんでいた。この名の由来は誰も知らなかったが、ドクタ・エニファーは革命が起きて、カランが議会派によって守られていたとき、この近所に軍司令官《ガヴァナー》が宿舎を構えたからではないかと考えていた。この通りは静かな二本の裏道をつなぐ通路の役割を果たしていたが、どちらの裏道よりも静かで、それでいてある種の快適さと安らぎが漂っていた。通りの両端には昔の大砲が据えつけられているため馬車は通ることができない。大砲は砲尾を地面に埋められ、砲口を天にむけ、がっしりした鉄の柱のように突っ立っていた。茶色い小石を敷き詰めた道は、この通りの中央を走る浅い石の溝にむかって緩やかに傾斜していた。家々はピンク色の塗料を塗るのがしきたりになっていて、そのあたりの特徴である鎧戸は、オランダの町を彷彿とさせる明るい色に輝いていた。
鎧戸のペンキ塗りはもちろんガヴァナーズ通りではちょっとした大行事である。そこの住人のうち、少なからぬ人々が船乗りか、または漁業用小型帆船の持ち主で、幸運の女神が微笑んで無事に引退し、もはやペンキを塗るべき船がなくなると、今度は鎧戸やドアや窓枠がそれに取って代わることになる。割れ目から染み出す松ヤニや火ぶくれしたワニスの生暖かいにおいがガヴァナース通りに夏の再来をはじめて知らせる晴れた朝には、六十代、七十代、なかには達者に八十代を迎えた人々がペンキ入れと刷毛を手に、自分の住まいの木造部分に新たな装いを施す姿が見られるだろう。
彼らは気だてがよくて、開けっぴろげで、生き生きとして、腰が大きく、真鍮ボタンの紺色のピージャケットを身につけている。無敵の喫煙家、つきることのない物語の紡ぎ手である彼らはジャナウエイを快く仲間うちに迎え入れて久しかった――彼らの考えでは、教会事務員と墓堀は見えざるものを知る専門家みたいなもので、近い将来最後の航海に出る際、いや、なかにはすでに船首に出航旗を掲げている人もいるのだが、この航海の際には、水先案内人を勤めてくれるのだから、なおのこと彼は歓迎されたのだ。 ごろ石のあいだから生えている銀梅花が家の並びの真ん中に立つ小屋の正面に丹念に這わせられていて、ドアに掛かる真鍮の板は旅人と何も知らない人のために「T・ジャナウエイ、寺男」が中に住んでいることを教えてくれた。ブランダマー卿とウエストレイが別れてから二時間ほどあとの土曜日午後八時頃、正面を銀梅花に覆われた小屋のドアが開けられ、教会事務員が敷居に立ってパイプをふかしはじめた。中からは陽気な赤みを帯びた光があふれ、料理のにおいがぷんと漂いだした。ミセス・ジャナウエイが夕食の支度をしていたのである。 「トム」と彼女は呼びかけた。「ドアを閉めてご飯にしましょう」 「ああ」と彼は答えた。「すぐ行くよ。でもちょっとだけ待ってくれ。こっちに歩いてくるのが誰だか、確かめたいんだ」 よそ者と一目で分かる男がむこう端から通りに入りこんでいた。半月が出て、その明かりで男が家を探しているのが分かった。男は道を左右に横切りながら、ドアに記されている番号をのぞきこんでいた。近づくにつれ、教会事務員は男が痩せていることや、ゆったりしたコートかケープを羽織っていること、それが夕方の海風にひらひらとはためいていることに気づいた。次の瞬間ジャナウエイはよそ者がブランダマー卿であることを知り、じゃまにならぬように本能的に一歩退いた。しかし開いたドアがとっくに通行者の注意を引いていた。彼は立ち止まり、朗らかにその家の主に挨拶した。 「すてきな夜だね。でも空気が冷たくて、お宅のぽかぽかした暖かい部屋がとても心地よさそうに見えるよ」彼はしゃべりながら教会事務員の顔を思い出し、こうつづけた。「おや、わたしたちはすでにお会いした仲ですね。一週間前、聖堂でお目にかかりましたよね」 ミスタ・ジャナウエイは予期せぬ出会いに少々たじろぎ、しどろもどろの挨拶をした。ブランダマー卿を聖歌隊席に入れまいとした、あの出来事はまだ記憶に新しく、彼は泡を食って弁解しようとした。 ブランダマー卿はにっこりと好意的な笑みを浮かべた。 「私を止めようとしたのは当然です。そうしなければ職務怠慢ですからね。礼拝が進行中とは思わなかったのです。さもなければ入ったりしなかったでしょう。あのことは気になさらないでください。これからもカラン大聖堂に行ったときは、席に案内してくださいよ」 「あなたの席は探す必要がありませんや、御前様。参事会員パーキンと同じように、ちゃあんと決まってるんで。裏側に紋章がくっきりと描かれとります。ご心配には及びません。みんな内務規定に定めてあるんです。御前様が席にお着きになるときは、主教様のときと同じ敬礼をいたします。『二回腰をかがめること。職杖は右手に持ち、左手を添えること』これ以上丁寧にはできねえんですよ。というのは三回礼をするのは皇族に対してだけなんで。わたしが勤めているあいだ、皇族なんて一人も聖堂に来たことがありませんがね――それだけじゃないんです。覚えていらっしゃらねえでしょうが、先代のブランダマー卿もあなたのお父様とお母様が埋葬された日から、お出でになったことがございません」 ミセス・ジャナウエイは夕食テーブルを拳でたたいた。彼女は夕ご飯ができたと言ったのに、戸口に立っておしゃべりをつづける夫にあきれていた。しかし会話を聞いているうちに、しだいに見知らぬ男の正体が明らかになり、カランの誰もがその名を口にする人物を見たいという気持ちを抑えることができなくなった。彼女は戸口へいってお辞儀をした。 ブランダマー卿はコートに重ねたはためくケープを左肩越しに後ろへ放った。教会事務員にはその仕草が外国人ぽく思われ、日曜の夜、なめるように見ている雑誌、イラストレイティド・ロンドン・ニュースのイタリア・オペラの板目木版画を頭に浮かべた。 「もう行かなければ」訪問者は身震いして言った。「あなた方をここに立たせておくわけにはいきません。今夜はやけに冷えますからね」 そのときミセス・ジャナウエイは急にむこう見ずな気分におそわれた。 「中に入ってしばらく暖まっていかれてはどうです」と彼女は口をはさんだ。「料理の匂いさえお気になさらなければ、火も燃えていますから」 教会事務員は妻の大胆さに一瞬震え上がったが、ブランダマー卿はさっそく招待を受け入れた。 「ありがとうございます。列車が出るまでしばらく休ませてもらえるととても助かります。料理の匂いがするからといって謝ることはありませんよ。すごく食欲をそそるじゃありませんか。特に夕食の時間には」 彼はまるで夜の食事はいつも質素で、豪華な晩餐など生まれてこのかた聞いたこともないというような話し方をした。五分後、彼はジャナウエイ夫婦とテーブルに着いた。テーブルクロスは荒い手織り布だったが清潔だった。ナイフとフォークは古い緑の柄がついており、主料理は牛の胃だったが、客は食事を大いに楽しんだ。 「人によっちゃあハチノスやセンマイがうまいなんて思っているのもいますがね」教会事務員は空になった皿を見ながら思いにふけるように言った。「しかしわたしの好みから言えば、ミノにはかないませんな」彼が大胆にも料理に対する私見を披露したのは、客が目の前のごちそうを心ゆくまで食したとき、天の邪鬼でもないかぎり、どんな主人も感じる満足感に促されてのことだった。 「そうですとも」とブランダマー卿は言った。「何と言ったってミノが最高ですよ」 「胃袋そのものも大事ですけど、料理法も同じくらい大事なんですよ」ミセス・ジャナウエイは自分の腕前を無視されたと思い、腹を立てて言った。「最高の胃袋があっても料理が下手じゃどうにもなりません。作り方はいろいろあるんですが、ミルク少々とネギで作るのがいちばんだと思います」 「それに勝るものはありませんね」ブランダマー卿は同意した――「それに勝るものはありません」――そしてそれとなくこうつづけた。「メースの小枝を入れたことはありますか」 ミセス・ジャナウエイはそんな料理法は聞いたことがなかった。その点をつっこんで聞かれていたら、ブランダマー卿も知らないと言っていただろう。しかし彼女はこの次試してみると約束し、そのときはまたご一緒いただければ光栄なのですけれど、とこの尊敬すべき客人に言った。 「土曜日の晩だけなんですよ、ミノが手にはいるのは」彼女は話しつづけた。「それ以上頻繁に出回らないのは、かえってありがたいんです。お金がありませんから。トマスみたいにいい旦那が持てて、わたしくらい幸せな女はいませんわ。お金のかからない人なんです。飲むのはお茶だけなんですよ、御前様。でも土曜の夜は贅沢して、少しだけ胃袋料理を食べるんです。とても精がつきますし、夫は日曜日のおつとめがとても大変ですから、ちょうどいいんです。御前様が胃袋料理をお好みで、土曜日の晩またこちらにお出でになって、わたしたちに名誉をほどこしてくださるなら、いつだって準備してお待ちしていますわ」 「ご親切なお招き、とても感謝します」ブランダマー卿は言った。「おことばに甘えさせていただきますよ。カランに来るのは土曜日がいちばん多いのですよ、というか、最近はたまたまそうなんですけど」 「世の中にゃ貧乏で哀れな人間がおります」と教会事務員は考え深げに言った。「わたしら夫婦は貧乏だが幸せですよ。しかしミスタ・シャーノールは貧乏で不幸せです。『ミスタ・シャーノール』とわたしは言ってやるんです、『親父が十ペンスのビールを飲みながらよく言ったもんだ。排水口に押しこまれた貧乏と、そいつを踏みつける、木の義足の男に乾杯ってね。でもあんたは貧乏を排水口に詰めこまねえし、まして踏みつけもしない。いつも取り出して風にさらし、思い悩んで自分を悲しませている。あんたが悲しいのは貧乏だからじゃない。貧乏だと思ってそのことを口にしすぎるんだ。あんたはわたしらほど貧乏じゃない。ただやたらと不平が多いんのさ』ってね」 「ああ、オルガン奏者のことですね」ブランダマー卿は尋ねた。「今日の午後、あなたと聖堂でしゃべっていたのは彼ではないですか」 教会事務員はまたもやまごついた。ミスタ・シャーノールの暴言と、ブランダマー一族への呪詛が聖堂に響き渡ったことを思い出したのだ。 「そうなんで。かわいそうにオルガン弾きはちょっと興奮してしゃべっとりました。ときどきあんな具合になっちまうんです。不満やら、それを紛らすビールのせいで。そういうときは大声を出すんですよ。あいつの並べた世迷い言がお耳に入ってなけりゃいいんですが」 「ああ、とんでもない。ちょうど建築家と話しこんでいたんです」とブランダマー卿は言ったが、その口調からジャナウエイは、ミスタ・シャーノールの声が具合悪くも遠くまで届いていたことを知った。「何を言っているのかは分からなかったけど、ずいぶんいらだっているようですね。数日前に聖堂でおしゃべりをしましたよ。そのとき彼はわたしが誰か知らなかったんですけど。でもわたしの一族にあまりいい感情を抱いていないようでした」 ミセス・ジャナウエイはこういうときは思慮あることばをさしはさむべきだと思った。「御前様にむかっておこがましいことを言うようですが、あの人のことはほっておかれるといいですよ。あの人は夫にむかっても同じように悪口を言うんです。オルガンのことで頭が変になっていて、新しいやつを買うか、少なくともカリスベリにあるような水仕掛けの送風器を買ってもらうのが当然だと思っているんです。無視してください。ミスタ・シャーノールの言うことなんか、カランの人は誰も気にしやしません」 教会事務員は妻の分別に驚いたが、それが相手にどう取られるか不安だった。しかしブランダマー卿は優雅に頭を下げて、賢明な助言に感謝の意をあらわし、こうつづけた。 「カランにおかしな人がいませんでしたか。自分は権利を剥奪されているが、本来はわたしの地位にいるべきなのだと考えていた人が――つまり自分こそはブランダマー卿であると考えていた人が」 その質問はごくさりげなく発せられ、彼の顔は哀れむような笑みをかすかに浮かべていた。しかし教会事務員はミスタ・シャーノールの「気取って歩くクジャク野郎」とか、「本物のブランダマーなんてもういないんだ」などということばを思い出し、ひどくそわそわした。 「その通りで」彼は一瞬間をおいて答えた。「御前様の前じゃこんな話ははばかられますが、そんなおかしな考えに取り憑かれた老いぼれもいました。そういや、ミスタ・シャーノールもあいつと同じ下宿に住んどります。きっと左巻きがうつったんですな」 ブランダマー卿は無意識に煙草を取り出したが、女性がいることに気づいて箱に戻し話をつづけた。 「おや、ミスタ・シャーノールと同じ下宿ですか。その話はもっと聞きたいですね。言うまでもありませんが、興味がありますから。名前は何というんです」 「マーチン・ジョウリフですよ」教会事務員は間髪を入れず答えた。逸話を語るチャンスに、思わず熱心な口調になった。そしてウエストレイに語ったように、マーチンとマーチンの父、母、娘の物語を逐一ブランダマー卿に繰り返したのだった。
夜もずっと更けた頃になって物語はようやく終わった。地元の警官がガヴァナーズ通りを幾度か巡回したが、遅いにもかかわらず明かりがついている窓を見て驚き、ミスタ・ジャナウエイの家の前に来ると立ち止まった。ブランダマー卿は汽車で帰る予定を変えたのだろう。カラン駅の改札口は数時間前に閉ざされ、支線を走るおんぼろ列車は車庫でその蒸気缶《がま》を冷やしていた。 「おもしろい話ですね。それにあなたはお話が上手だ」彼はそう言って立ち上がり、コートを着た。「楽しいことには必ず終わりがあるのですが、お二人には近いうちにまたお会いしたいと思います」彼は夫婦と握手し、酒場から持ってきたビールのジョッキを、「排水口に詰めこまれた貧乏と、それを踏みつける義足の男に乾杯」と言って飲み干し、出て行った。 その一分後、もう一度見廻りに戻った警官は、ゆったりしたコートを着てケープを軽く左肩にかけた中背の男とすれ違った。見知らぬ男は小唄を口ずさみながら元気よく歩き、地上のことなどすっかり忘れてしまったかのように、顔を上げて星と風の吹く空を見ていた。真夜中のガヴァナーズ通りによそ者がいるというのは、窓に明かりが灯っていることよりさらに驚くべきことで、警官は呼び止め、用むきを確かめようかと思ったが、そこまで強く出ようと決心するまもなく、足音は遠くに消えようとしていた。
教会事務員は自己満足に浸り、話し手としての成功に得意になっていた。 「ありゃあ、賢い、話の分かる人だよ」彼はそう言って妻と一緒に床に就いた。「いい話がどういうものか、ちゃんと知っていなさる」 「いい気におなりじゃないよ、あんた」と彼女は返事した。「請け合ってもいいわ、御前様はあの話の中にあんたが話した以上のことを見て取っていらっしゃるんだから」