雲形紋章

第十五章

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検死審問ではウエストレイと医者の証言以外に重要な証拠は提出されなかった。しかし実のところ、それ以外の証拠は必要なかったのだ。ドクタ・エニファーが死体を解剖し、直接の死因が頭部への打撲であることを突き止めた。しかし内臓は飲酒癖の痕跡を示し、心臓に疾患のあることは明らかだった。おそらくミスタ・シャーノールはオルガン椅子から立ち上がったとき失神し、後ろむきに倒れて足鍵盤に頭をぶつけたのではないか。きっと勢いよく倒れたせいで、鈍器で殴られたような重い傷がついたのだ。

検死審問がほぼ終わろうとするとき、まるで本能に促されたように、突然ウエストレイが質問を発した。 「つまり傷はハンマーのようなものによってつけられたのですね」 医者は驚いた様子をし、陪審員と数少ない傍聴人たちは目をむいたが、ウエストレイの質問にいちばん驚いていたのはウエストレイ本人だった。 「あなたに提訴権はないのですよ」と検死官が厳しく言った。「このような質問は通常許されていません。医師に返答を許可するのは特別の計らいと心得てください」 「そうですな」とドクタ・エニファーはもったいぶって言った。その口調には、愚かな人々が聴きたがるどうでもいい質問にいちいち答えるためにここにいるわけではない、という気持ちがこめられていた。「そうですな。ハンマー、あるいは他の鈍器で暴力的につけられたような傷です」 「重い杖ということもあり得ますか」ウエストレイが示唆した。

医者は威厳のある沈黙を守り、検死官は口をはさんだ。 「あなたは時間を無駄にしていると言わざるを得ませんね、ミスタ・ウエストレイ。もっともな疑問であれば決して無視したりしませんが、しかしこの事件に疑問の余地はないのです。この気の毒な男は勢いよく転倒し、木製の足鍵盤に頭をしたたか打ちつけて死んだ、それに間違いないんです」 「本当に間違いありませんか」ウエストレイは訊いた。「ドクタ・エニファーはあの傷が転んだだけでできたと確信を持ってお考えですか。わたしはドクタ・エニファーが確信しているのかどうかを知りたいだけです」 検死官は無用の手間ばかり取らせて申し訳ないという陳謝と、こんな質問は権威ある一言でけりをつけていただけるとありがたいといった期待をこめた目で医者を見た。 「ええ、確信を持っていますよ」と医者は返答した。「さよう」――彼はほんの一瞬躊躇した――「さよう、転倒によってあのような傷がつき得るという点は間違いありません」 「ただですね」とウエストレイ。「彼がその上に倒れた鍵盤はある程度へこみますよね。忘れちゃいけないのは、あれがへこむってことですよ、はじめてぶつかったときは」 「その通りです」と医者。「そのことも考慮しましたし、あれだけ重い傷がついたというのはちょっと驚きであるということも認めます。しかしもちろんあの傷はそういうふうにしてついたのです。なぜなら他に説明のしようがないから。まさか殺人をほのめかしているわけではないでしょうね。確かに事故でなければ殺人と言うことになりますが」 「いえいえ、わたしは何もほのめかしてなんかいません」 検死官は眉をつり上げた。彼は疲れていて、このような時間の無駄遣いを理解できなかった。しかしおかしなことに、医者は前よりも中断を大目に見るような態度に変わってきていた。 「傷跡の検査には慎重を期しました」と彼は言った。「そして熟考の末、木の鍵盤によって生じたに違いないと結論したのです。さらに健康状態が悪化していたために打撲の効果が増幅されただろうという点も忘れてはいけません。故人の思い出を汚したり、お友達だったあなたに、ミスタ・ウエストレイ、苦痛を与えるようなことは言いたくないのですが、しかし、検死の結果、慢性的なアルコール中毒の痕跡が見つかったのです。わたしたちはそれを考慮しなければなりません」 「この男は常習的な飲んだくれだった」と検死官は言った。彼はカリスベリに住んでいて、カランもそこの住人のことも知らなかったから、平気で露骨なしゃべり方をした。おまけに建築家の差し出口にいらいらしていた。「あなたが言うのは、この男が常習的な飲んだくれだったということでしょう」と彼は繰り返した。 「そんなこと、ありませんよ」ウエストレイはかっとなって言った。「限度を超えた飲み方をしなかった、とは言いませんが、決していつも飲んだくれていたわけじゃない」 「あなたの意見など聞いていません」と検死官は言い返した。「われわれは素人の憶測なんか聞きたくはない。どう思います、ミスタ・エニファー」 今度は外科医がむっとした。いつも使われるドクタという肩書きで呼ばれなかったからだが、法的にはその肩書きを使う権利がないことを知っていただけにかえって腹立ちも大きかった(註 英国では内科医はドクタと呼ばれるが、外科医はミスタ、ミズで呼ばれる)。現在かかっている患者、またこれからかかるかも知れない患者の前で「ミスタ」と呼ばれることは、彼の名誉を傷つけるものである。医者はさっそく反発するように言った。 「いいえ、誤解なさってますよ、検死官。わたしはわれわれの気の毒な友人が常習的な飲酒家だったと言ったわけではありません。実際、酒で乱れたところは見たことがありません」 「それではどういう意味だったのですか。死体にはアルコール中毒の痕跡があったと言いながら、飲酒家じゃなかったというのは」 「亡くなった晩のミスタ・シャーノールの状態について何か証言はないのですか」と陪審員の一人が尋ねた。公平な立場から肝心な問題点を指摘したと思って内心にんまりしながら。 「ええ、重要な証言があります」と検死官が言った。「チャールズ・ホワイトを呼べ」 赤ら顔の小男が目をしばたたかせながら進み出た。名前はチャールズ・ホワイトといい、酒場メリーマウスの主人だった。故人は問題の晩にわたしの店にやってきました。故人とは顔見知りじゃありませんでしたが、あとで誰か知りました。天気の悪い晩で、故人はずぶ濡れでした。それでお酒を召し上がったんです。かなり飲みましたよ。でも紳士としてのたしなみを忘れるほどじゃありませんでした。お帰りになるときは、酔っておいでじゃありませんでした。 「トップコートを忘れるくらい酔っていたんじゃないのかね」と検死官は訊いた。「彼が帰ったあと、このコートを見つけたんじゃないのかね」彼は主人をなくした哀れな外套を指さした。椅子の背に引っかけられたそれは、今までにもまして汚い緑色をし、ぼろぼろにいたんで見えた。 「ええ、確かに故人はコートを置いていきましたが、酔ってはいませんでした」 「皆さん、酔っぱらいの基準にもさまざまあるものですな」検死官は本物の裁判官の説得力に満ちた口調を一生懸命おもしろおかしく真似して言った。「どうやらメリーマウスの基準は他のところより進んでいるようだ。わたしは」――彼はあざけるようにウエストレイを見た――「わたしはこのような質問をつづける必要があるとは思いません。ここに酒飲みがいます。ミスタ・エニファーが言うように常習的な飲酒家ではないにしろ、完全に病的な状態に陥るほど酒を飲みつづけていた。この男が安酒場に一晩居座って深酒し、帰るころにはへべれけになり外套を忘れていってしまう。外は大雨が降っていたというのに外套を置いていったのです。彼は酔っぱらってオルガンのある張り出しに行き、椅子に座ろうとして足を滑らせ、激しく後頭部を木片にぶつけた。そして、数時間後、慎重にして疑う余地なき証人により」――ここで彼は軽くフンと鼻を鳴らした――「死体として発見される。この木片の上に頭を載せたままね。この点に注意してください――彼が発見されたとき、頭は致命傷を与えたまさにそのペダルの上にあったのです。皆さん、これ以上の証拠は何も必要ないでしょう。皆さんがなさるべきことは実に明白です」 確かにすべては実に明白だった。事故死という全員一致の評決がミスタ・シャーノールの哀しい人生に奥付を付し、彼の人生を荒廃させた、まさにその弱点が、とうとう彼に飲んだくれとしての死をもたらしたのだと裁定された。 ウエストレイは寂しげなおんぼろトップコートを腕に抱えて神の手に歩いて帰った。検死官はもっともらしいことを言って外套を彼に押しつけたのだ。どうやらきみは故人と親しかったようだから衣類の始末を引き受けてくれないか。建築家は気を取られていて、この発言に伴う嘲笑に憤る余裕はなかった。彼は悲しみと不吉な予感に胸をふさがれその場を去った。 こうした変死というものはカランでは殺人の次に酒場での話の種となる。一時代前に木材商のミスタ・レヴェリットがブランダマー・アームズの女給を撃ち殺して以来、カランを舞台にこれほど劇的な事件が起きたことはなかった。浮浪者たちは市場の角で歩道に唾を吐き捨てるとき、ありとあらゆる形でその事件をののしりことばの中に取り入れた。ローズ・アンド・ストーリー一般服地店の売り場監督ミスタ・スマイルズは、枝編み細工の高椅子に腰かけるご婦人方と、カウンター越しに上品な口調でその事件を噂した。 ドクタ・エニファーはひげをあたってもらっている最中に迂闊にもくだらない会話に巻きこまれ、顎を切ってしまった。ミスタ・ジョウリフはソーセージ一ポンドにつき無料で教訓的意見を一包み添え、かわいそうな友人をあまりにも突然に連れ去ってしまった飲酒の罪に白目をむいてみせた。大勢の人が棺桶の後ろからその最後の安らぎの場所までついていった。悲劇の翌日の日曜日の朝、聖堂はいつになく人であふれかえった。人々は参事会員パーキンが説教壇からこの事件について何ごとかを語るだろうと思ったのだ。さらにそれに付随して葬送行進曲の演奏という出し物もあったし、素人オルガン奏者がアンセムの途中で立ち往生する可能性もあった。 こういう不純な動機から教会へ行った者は当然ながら失望を味わわされた。参事会員パーキンは煽情主義におもねるつもりはないと言い、説教の中で事件のことには一切触れず、またこのようにまことに不愉快な状況のもとでは葬送行進曲などまともに演奏できないと考えた。新しいオルガン奏者によるサーヴィスの演奏は最後まで腹が立つほど退屈・凡庸で、会衆は権利をだまし取られた人々のようにがっかりして聖セパルカ大聖堂から出て来たのだった。

人の噂も七十五日で、ミスタ・シャーノールは中流階級の死者が沈んでいく大いなる忘却のかなたに消えていった。後任はすぐには任命されなかった。参事会員パーキンは音楽に造詣が深い、ミスタ・シャーノールの弟子、国民学校副校長を代替要員としてまわしてもらえるよう手配した。敬虔なエリザベス女王は主教の席が空になるとそのまま放っておいてその管区の歳入をせしめ、国王手元金を補充したが、それと同じように主任司祭はカラン大聖堂のオルガン奏者の地位を利用して私腹を肥やしたのである。おかげでこの役職にかかる卑しむべき報酬は大幅に削減され、一年経ったときには五ポンドが彼のポケットに入っていた。 しかしたとえ世間がどうあろうと、ウエストレイはミスタ・シャーノールを忘れなかった。建築家は社交好きな男だった。大学には共通の関心から生まれる絆と伝統があり、それほど強くはないにせよ、同じようなものが陸軍、海軍、パブリック・スクール、さまざまな職業にも存在する。それは所属する者同士を結びつけ、それぞれの刻印を押しつけるのだが、下宿者のあいだにもこの同業組合に入っていなければ理解できないような、ある種の秘儀と資格が存在する。

下宿生活はむさ苦しく、貧乏くさく、わびしいと言うかも知れないが、それを和らげ、埋め合わせるものがないわけではない。下宿生活はほとんどの場合、若者の生活である。ミスタ・シャーノールのような老齢の下宿人は比較的まれなのだ。それは素朴な必要と素朴な趣味の生活である。下宿することは芸術と違い、過度の趣味の洗練を好まないのだ。豊かな生活ではない。豊かな生活ができるようになったとたん、人はたいてい自分の家を持つものだからである。それは働きながら明るい未来を夢見る生活、人生の闘いに備え、財産の基礎を作る段階、あるいは極貧という名の落とし穴を掘り進む段階なのだ。そのような境遇はよき友情を生み、育む。下宿したことのある者は、誠意のこもった、私心のない友情を振り返ることができる。誰もが天を前に対等で、打ち解け、人間が作り出した身分の差を知らない――誰もが声をそろえて楽しく合唱しながら人生の第一段階を旅し、本街道が分岐して、成功と失敗の分かれ道が古い仲間を遠く引き離してしまう地点にはまだ達していないのだ。ああ、なんという同志愛であり、連帯感だろう。それは家計の窮迫によって堅固にされ、強欲な、怠慢な、あるいは専制的な女主人に耐える必要によって強められ、与える者の懐は痛まないが受ける者にとっては大きな価値のある親切と思いやりによって甘美な味わいをつけられている!一階の住人が軽い病気にかかったとき(下宿で重い病気が発生することはほとんどない)、二階の住人が夕方下に降りてきて看病をしないだろうか。二階の住人は長い一日の仕事に疲れているかも知れないし、つましい食事をすましてみると、外がすてきな晩であったり、地元の劇場で優れた一座の公演があるというビラに気を引かれるかも知れない。それでも彼は惜しみなく時間をさいて一階の住人のところへ降りて行き、椅子に腰かけ、その日起こったことを話したり、もしかしたらオレンジやいわしの缶詰を持っていったりもするのである。一方、終日部屋に閉じこもっていることにうんざりし、他にすることがないからと嫌になるほど本を読んでいた一階の住人は、二階の住人を見てどれほど喜ぶことだろう。そして彼とのおしゃべりが医者の薬よりどれほど元気の回復に役立つだろう! そののち花の展示会の日に女性が二階の住人を訪ねてきたときは、一階の住人は外出して居間を同宿人にすっかり明け渡し、食事のあと客がくつろぎ気分転換できるよう気を配らないだろうか。女性の訪問というのは恐れに満ちた喜びである。若い男に日曜日を一緒に過ごしましょうと親切に言ってくれた女性が、その上さらに親切を発揮して、いつかは男が意を決して申しこむ招待を、ありとあらゆる感謝とともに受け入れるときだ。この恐れに満ちた喜びがもてなす側に気もそぞろな準備を強いることは、国葬が紋章院総裁に強いるそれを上回る。あらゆるものがあたうかぎり最高の装いをしなければならず、実にさまざまな細部に注意を払い、実にさまざまな不足を隠さなければならない。しかしそのすべては結果によって報われるのではないか。小さな部屋とはいえ、そこには多くのものを補ってあまりある繊細さがあり、マントルピースの上の写真や銀のトディ・スプーン、さらには緑のテーブルクロスの染みを無造作に隠す「ロゼッティ詩集」と「享楽主義者マリウス」に至るまで、すべてが洗練された趣味に息づいていると若い男には思われないだろうか。そこへ親切な女性が微笑を浮かべてやって来る。彼女は相手の些細な不安やこまごました準備のことはすっかりお見通しなのだが、しかし何も知らないふりをして、彼の部屋や、取るに足りない宝物、料理、怪しげなワインをすらをも褒めてやり、ちょっとした不都合を巧みに興味深い珍奇な出来事に変えてしまうのだ。持ち家のある人々よ、あなた方は立派な人々である。一人前の男であり、智慧は汝らとともに死ぬであろう(註 ヨブ記から)。しかし下宿に住む者をあまり哀れまないことだ。彼らの知らない重荷を担うあなたは、反対に哀れまれ、心を千々にかき乱されてしまうから。彼らはあなたにこう言うだろう。種を蒔くときは収穫の時に勝るのだ、そしてさすらいの年月は主人となって一家を営む年月に勝るのだと。哀れみすぎてはいけない。孤独が必ずしも孤独なものではないことを知りたまえ。 ウエストレイは社交的な性格で、同宿者がいなくなったことを寂しく思った。偏屈な小男で苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、それでもその性格の中に同情を引き出すなにがしかの力と、なにがしかの魅力を備えていたに違いない。とげとげしいことばと気むずかしさの下に隠れていたけれど、しかしそうしたものがそこにあったことは間違いない。というのはウエストレイは自分でもまさかと思うほど彼の死を痛切に受け止めたからである。この一年間、オルガン奏者と彼は一日に二三度顔を突き合わせた。二人は、共にその中で仕事をし、共にこよなく愛する大聖堂のことを語り合った。そして雲形紋章、ブランダマー家、ミス・ユーフィミアのことを噂した。彼らが取り上げなかった話題は一つだけ――ミス・アナスタシア・ジョウリフのことだ。もっとも頭の中では二人とも頻繁に彼女のことを考えていたのだけれど。

今さらそんなことをしても手遅れなのだが、それでもウエストレイは毎日、このことをミスタ・シャーノールに話そう、とか、あのことについてミスタ・シャーノールの意見を聞こうと思い、そのたびに陰府《よみ》には知識のないことを思い出すのだった(註 伝道の書から)。陰鬱な神の手は一階の下宿人を失って前より十倍も陰鬱になった。夜中に石の階段を登る足音はいっそう虚ろに響き、ミス・ジョウリフとアナスタシアは早々に床に就いた。 「上に行きましょう、あなた」ミス・ユーフィミアは十時十五分前の鐘が鳴るといつもそう言った。「夜が長くなると、とっても寂しい感じがするわね。窓にちゃんと掛け金がかかっているか確認するのよ」それから彼らは玄関ホールを急いで抜け、一緒に並んで階段を上がった。まるで一段たりとも二人の間に距離を置くまいとするかのように。ウエストレイでさえ夜遅くこの洞穴のような大きな家に帰ってくると同じ感覚に襲われた。彼は急いで暗い玄関ホールの棚の上に手を伸ばした。その大理石の天板には自分用のマッチ箱が置いてあるのだ。そして蝋燭を灯してから、ときどき本能的にミスタ・シャーノールの部屋のドアを見た。そうした折によくあったように、ドアから年老いた顔が突き出し、彼を迎えてくれるのではないかと半ば期待しながら。ミス・ジョウリフは新しい下宿人を探そうとはしなかった。「空き部屋あり」の看板が窓のところにかけられることはなかった。また、ミスタ・シャーノールが所有していた人的財産は彼が残したままに置かれてあった。ただし、一つだけ動かされたものがある――マーチン・ジョウリフの書類の束で、ウエストレイはこれを上の自分の部屋に運びこんでいたのだ。

死者のポケットから見つかった鍵を使って故人の事務机を開け、遺言か書き置きが残されていないか調べてみると、一つの引き出しの中にウエストレイ宛のメモが発見された。死の二週間前の日付があり、ごく短いものだった。

「わたしがどこかへ行って連絡が途絶えたり、もしものことがあった場合は、すぐマーチン・ジョウリフの書類を押さえろ。自分の部屋に持って行って鍵をかけ、なくさないようにするんだ。わたしが望んだことだと言えば、ミス・ジョウリフが渡してくれるだろう。火事とかで焼失しないようよく注意するんだ。じっくり読んで自分の結論を下すがいい。赤い小さな手帳にはわたしのメモが書いてある」

建築家はこのことばを繰り返し読んだ。それはミスタ・シャーノールが一度ならず話していた例の妄想の産物に違いなかった――すなわち、敵が彼のあとをつけてくるという、オルガン奏者の最後の日々を暗くしていたあの妄想である。しかし当然のことながら、事件のあとにこのような書き物に接すると不思議な感慨が湧いてくる。あの偶然はあまりにも奇怪、恐ろしいまでに奇怪だった。ハンマーを持った男がつけてくる――それがオルガン奏者の妄想だった。襲撃者が後ろから忍び寄り、こっそりと恐るべき一撃をあびせ彼を死に追いやる。そして現実に起きたことは――予期せぬ突然の死、勢いよく倒れたがための後頭部強打。これは単なる偶然だろうか。あるいは何か説明のつかない予感があったのだろうか。それともそれら以上の何かだったのか。恨みを抱く誰かに襲われる、というオルガン奏者の思いには、実は根拠があったのではないだろうか。本当はあの晩、寂しい聖堂の中で忌まわしい光景が繰り広げられたのではないだろうか。オルガン奏者は不意打ちを食らったか、静けさの中に何かが動く物音を聞きつけ、振り返り、殺人者と二人きりであることに気づいたのではないか。もしもそれが殺人者であったなら、犠牲者が覗きこんだ顔は誰のものだったのか。ウエストレイは考えながら身震いした。それは人間の顔ではなく、何か戦慄を催させる存在、暗きを歩む邪悪なものが目に見える形に具現化したもののように思われた。 そこまで考えて、建築家は蜘蛛の巣を振り払うように愚かしい考えを頭から振り払った。くるりとむきを変えながら、誰がそんなことをしようと考えるものかと思った。故人はマーチンの書類が持ち去られないよう、誰を警戒しろと言ったのだろう。あの不吉な爵位を自分のものだと主張する、自分の知らない誰かがいるのだろうか。それとも――。ウエストレイは幾度となく心に浮かんだその考えを、悪意に満ちた根拠のない疑惑だと、断固としてしりぞけた。

手がかりがあるとしたらあの書類の中に違いない。彼は与えられた指示を守り、書類を自室に持ちこんだ。ミス・ジョウリフにはメモを見せなかった。そんなことをすれば彼女の動揺を深めるだけだ。今でも強すぎるほどの衝撃を受けているというのに。彼はただミスタ・シャーノールの遺志で彼女の兄の書類を自分が一時的に預かるとのみ伝えた。彼女は書類に触らないよう懇願した。 「ミスタ・ウエストレイ」と彼女は言った。「あんなもの放っておいてください。関わり合いになるのは止めましょう。わたし、ミスタ・シャーノールにも手を付けて欲しくなかったんです、あんなものには。おかげでこんなことになってしまって。もしかしたら天罰なのかも知れませんわ」――彼女は声を潜めて「天罰」と言った。中世の人間のように天は報復的で怒りっぽいと信じこみ、インクスタンドをひっくり返すことから下宿人の死まで、何か不運があれば、そこにその徴《しるし》を読み取ったのだ。「天罰なのかも知れませんわ。首を突っこまなければ今でも生きていらっしゃったんじゃないかしら。マーチンの望んでいたことがすべて本当だと判ったとしても、それがわたしたちにとって何の役に立つでしょう。兄ったら、いつも自分はいつか『御前様』と呼ばれるようになると言っていました。兄が亡くなった今、アナスタシアしか残っていません。でも彼女はきっと『お嬢様』なんて呼ばれたくないと思います。ねえ、あなた、そんな権利があったとしても『お嬢様』なんて嫌よねえ」 アナスタシアは本から顔を上げて、止めてよというように笑みを見せたが、建築家が彼女にじっと視線をむけており、彼女の笑みに呼応するように笑みを浮かべるのを見たとき、それはいらだちの中に消えた。かすかに赤面し、若い男のまなざしが示す、彼女の一挙一動に対する関心が訳もなく腹立たしく思われ、急にまた本へと視線を戻した。わたしの問題なのに、何の権利があって心配そうな顔をしたりするのかしら。自分が本物の貴族だったら、昔レディ・クララがしたように、その高貴な生まれで彼を殺してやりたいくらい(註 テニソンの詩から)。彼女の面前でウエストレイがこのような関心のある目つき、関心を引こうとする目つきをすることに気づいたのは、つい最近のことだった。まさかわたしに恋している?そう思った瞬間、彼女の目に別の人の姿が浮かんだ。威圧的で、厳しく、不吉な感じさえするが、しかし圧倒的な強さを持ち、目の前で彼女のことばに耳を傾けている若者の、気の抜けたお愛想など色あせさせ、かき消してしまうような男の姿が。 ミスタ・ウエストレイがわたしに気があるだなんて。そんなこと、あり得ないわ。とはいうものの、目で彼女を追ったり、彼女に話しかけるときの、蜜のしたたり落ちそうな態度は、この可能性を強く主張した。彼女は最近何度かやったように、急いで二人の関係を点検した。わたしが悪いのかしら。好意と勘違いされるようなこと、あるいは感謝と取られかねないようなことすらしたことがあるだろうか。当たり前の親切や優しさがすっかり意味をねじ曲げられるなんてことがあるのだろうか。彼女はこの心の取り調べにおいて堂々と無罪を勝ち取り、その人品に一点の汚点もつけられることなく法廷をあとにした。気を持たせるような振る舞いはどんなに些細なものも何一つしていない。失礼なのは覚悟の上で、ああいう色目にははじめからきっぱりした態度を取らなければならない。不作法とまでは言わないが、彼女の行為にむける熱心な関心や、同情的な目つきが、不愉快この上ないことを教えてやらなければならない。もう二度と彼のほうなんか見るものか。彼の前ではいつもじっと目を伏せていよう。この賢明な決意を固めたとき、彼女は何気なく目を上げ、辛抱強い彼の視線がまたもや彼女にじっと注がれていることを知った。 「そこまでおっしゃることはないでしょう、ミス・ジョウリフ」と建築家は言った。「ミス・アナスタシアが爵位を受け継いだらみんな喜びますよ。それに」と彼は優しい声で言い添えた。「彼女くらい爵位の似合う人はいないと思います」 彼は堅苦しく「ミス」をつけるのを止め、単に「アナスタシア」と呼びたかった。数ヶ月前ならごく自然に、何も考えずそうできたかも知れないが、しかし彼女の態度の中にある何かが、最近彼にこの楽しみを控えさせていた。 そのとき貴婦人になるかも知れない娘は立ち上がって部屋を出た。 「ちょっとパンを見てくるわ」と彼女は言った。「もう焼けたんじゃないかしら」 ミス・ジョウリフの心配をようやく鎮め、ウエストレイは書類を保管することになった。一つには書類を調べなければ故人の遺志に甚だしく背くことになる――ミス・ジョウリフが属する人々のあいだでは故人の遺志は何よりも神聖と見なされていた――からであり、また一つには「占有は九分の強み」で建築家はすでに書類を自分の部屋に持ちこみ、鍵をかけてしまいこんでいたからである。しかしすぐにそれらに注意をむけるわけにはいかなかった。というのは人生の一大転機が近づいていたからで、ともすると他のことなど考える余裕がなかったのである。

彼はしばらく前からアナスタシア・ジョウリフに心を寄せていた。はじめてこの感情に気づいたときは、懸命になってそれを圧し殺そうとし、最初の内はその努力がある程度の成功を収めていた。ジョウリフ家と縁つづきになるなど自分の威厳をおとしめるものだと心の底から考えていたのである。両者の社会的地位の差は、敵対的な批判を引き起こさないまでも、十分に耳目を集めるだろうと思った。建築家は下宿の女主人の姪を嫁に選ぶという、不可解なまでに身分違いの結婚をしたと必ず噂されるだろう。それは紛れもなく社会的自殺行為だ。亡くなった父はメソジスト派の牧師で、まだ存命の母はこの気高い聖務に深い尊敬を抱き、子供の頃からウエストレイの心にその生まれの特権と責任を刻みこんできたのだ。このような反対理由の他にも、年若くして結婚すると必要以上に家庭の労苦に煩わされ、出世の妨げになるという問題もあった。これらはバランスの取れた心には熟慮すべき重要な問題である。幸いなことにウエストレイはひたすら意志の強さと理性の力であらゆる危険な心情をほどなく完全に消し去ることができた。 この幸せな、冷静な状況は長くはつづかなかった。恋心はただくすぶっていただけで、消えてはいなかったのだ。しかし風を送り、新たな炎を吹き上げさせたのは、アナスタシアの美しさと長所に絶えず思いを致していたからというより、まったく外的な影響力のせいだった。この外的な要素とはベルヴュー・ロッジの狭い人間関係の中にブランダマー卿が闖入してきたことである。ウエストレイはこの頃、ブランダマー卿の訪問の真意に疑いを抱くようになり、聖堂や修復やウエストレイ自身を表むきの理由に使ってベルヴュー・ロッジに一時的に入りこみ、何か他の計画を遂行しようとしているのではないかと、密かに考えていた。建築家と気前のいい資金提供者が今も交わす長い会話や、図面の検討や、細部の議論は、どことなく昔のような楽しさがなかった。ウエストレイは必死になって自分の疑惑にいわれのないことを納得しようとした。ブランダマー卿が修復費用として大金を寄付し、あるいは寄付を約束したという事実は、単に聖堂が彼にとっての一番の関心事であるということを示すにすぎないと、繰り返し自分にむかって指摘し、主張してきた。いくら裕福だといっても、ベルヴュー・ロッジに入りこむために何千ポンドも使うということは考えられない。さらにブランダマー卿がアナスタシアと結婚するということも考えられない――そんな取り合わせの身分差は自分の場合よりもさらに大きいとウエストレイは考えた。それでもブランダマー卿はしばしばアナスタシアのことを考えていると、彼は信じていた。なるほどウエストレイがいるとき、フォーディングの館の主ははっきりと気のある素振りを見せたことがない。たまたま彼女が座に加わったときも、特にアナスタシアに注目したり、彼女にばかり話しかけたりはしなかった。ときには彼女から顔を背け、わざと存在を無視するようなふうさえあった。 しかしウエストレイはそこに真実が隠されていると感じた。

誰かに強い好意を持つ者は、そのまわりにかすかな愛を発散させる。表情は注意深く監視され、ことばは本心を悟られないよう選ばれているかも知れないが、しかし溢れ出す愛の気配は濃密で、嫉妬に研ぎ澄まされた感覚にはその正体を見抜かれてしまうのである。 ときどき建築家は自分が誤っていると思いこもうとした。疑い深い自分の性格を、心の狭さを咎めようとした。ところがそう思ったとたんに小さな出来事、まったく不可解な小事件が起き、冷静な判断を粉々にし、言うに言われぬ嫉妬にかられるのだった。たとえば彼はブランダマー卿が会見の時間にいつも土曜日を選ぶことを思い出す。ブランダマー卿の説明だと、平日は忙しいからということだが、しかし卿は土曜日が半ドンの小学生ではないのだ。いったいどんな仕事をしていたら平日はずっと忙しく、土曜日は時間が空くのだろう。それだけでも十分不思議だが、ミス・ユーフィミア・ジョウリフがその日の午後、決まってドルカス会に出ているという事実、さらにブランダマー卿とウエストレイのあいだに、会見の約束の時間に関して説明のつかない誤解があったという事実、つまり建築家が五時に帰宅すると一度ならずブランダマー卿が会う時間を四時と思いこんで、既に一時間もベルヴュー・ロッジで彼を待っていたという事実を考え合わせると、不思議さの度合いはいちだんと深まるのである。

気の毒なミスタ・シャーノールも死ぬ二週間ほど前、そんなことをウエストレイにほのめかしていたから、やはり何かが起きていると勘づいていたに違いない。ウエストレイはブランダマー卿の気持ちがよく分からなかった。明白な目的を持ってアナスタシアの興味を惹こうとしているようだが、それでいて愛情を外にあらわさない。きっと結婚が目的ではないのだろう。しかし結婚でないなら何なのだ?普通の場合、答は簡単である。しかしウエストレイはそう考えることをためらった。莫大な富と高い地位を持つこの厳格な男、世界を放浪し、さまざまな人間と風俗を知るこの男が野卑な誘惑に屈するとは考えがたかった。だがウエストレイは次第にその考え方に傾き、アナスタシアを思う気持ちは、あらゆる下劣な目論見から彼女を騎士のように守ろうとする気高い決意に高められた。

人間の最も深い愛がさらに深まる、などということがあるだろうか。あるとすれば、それは必ずや、自分が相手を愛するのみならず、守護する者でもあると気づくことによってである。自分は純潔を救おうとしているのだ――みずからの力で。どれほど謙虚な者も、このような思いはその心を高揚させる。実際、それは建築家の血管を満たす動きの鈍い薄い血を燃え立たせたのだった。

彼はある晩、長い一日の仕事に疲れて聖堂から帰り、暖炉のそばでうとうとしながら中央塔の亀裂のことや、オルガンのある張り出しで起きた悲劇、そしてアナスタシアのことを次々と考えるともなく考えていた。すると年上のほうのミス・ジョウリフが部屋に入ってきた。 「あらまあ、旦那様」と彼女は言った。「お帰りだったとは知りませんでした!火が燃えているか見に来ただけなんですよ。お茶になさいますか。今晩は特に何か用意しましょうか。とてもお疲れのようなんですもの。きっと根を詰めすぎているんですよ。梯子や足場の上を動き回るのは大変なんでしょうね。わたしみたいな者が意見するのもなんですが、旦那様、休暇をお取りになるべきですわ。ここに下宿するようになってから一日も休んだことがないじゃありませんか」 「ミス・ジョウリフ、近々ご忠告通りにさせていただくかも知れませんよ。そのうち休暇を取るかも知れません」 その答には異様な重々しさがあった。自分には極めて重要と考えられる問題について密かに思いを巡らしているとき、他人からどうでもいいような質問をされると、人はよく答えに異様な重々しさをこめることがある。わたしが死と愛について考察していることなど、この平凡な女に分るはずがない。優しく接し、邪魔したことを許してやらなければ。そうだ、運命は確かにわたしに休暇を取らせるかも知れない。彼はほとんどアナスタシアにプロポーズする腹を決めていた。即座に受け入れられることは疑いの余地がないが、しかしその場しのぎがあってはならないし、優柔不断は我慢できないし、愛情をもてあそぶ真似はお断りだった。完全に、無条件に、即刻受け入れるか、さもなければ結婚の申しこみを撤回するか、いずれかだ。後者の場合、そして拒絶というまったくあり得ない事態が起きた場合は、直ちにベルヴュー・ロッジを出る。 「ええ、その通りですよ。近々休暇を取らなければならないかも知れません」 己を抑えた返事の仕方が彼の口調に静かな威厳を与えた。ミス・ジョウリフはそのことばとともにふと漏れたため息を聞き逃さなかった。彼女にはこの話し方が謎めいて不吉に聞こえた。ひどく漠然とした言い回しには不気味な秘密めいたところがあった。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。どういう意味なのだろう。この若者は友人のミスタ・シャーノールを失いすっかり気落ちしてしまったのだろうか。それとも人知れず恐るべき疾患の種を抱えているのか。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。この人が言うのはただの休暇じゃないわ――もっと深刻なことを意味している。思い詰めた悲しそうな様子は、かなり長い不在を意味するとしか思えない。もしかしたらカランを離れるつもりなのだろうか。

彼がいなくなることは、ミス・ジョウリフにとって物質的な観点から大問題だった。彼は最後の頼みの綱、ベルヴュー・ロッジが破産へと漂い出すのを食い止める最後の錨だった。ミスタ・シャーノールが亡くなり、彼とともにこの家の維持費として彼が払っていたなけなしの金もなくなった。それにカランでは下宿人はごくまれにしか見つからない。ミス・ジョウリフはこうしたことを思い出してもよかったのだが、そうはしなかった。彼女の心をよぎった唯一の思いは、もしもミスタ・ウエストレイが出て行ったら、彼女はまた一人友人を失う、ということだった。物質的な観点からこの問題をとらえようとはせず、彼女は彼を友達とのみ考えていたのだ。金を生む機械ではなく、あらゆる宝物の中で最も貴重なもの――最後の友人とのみ見なしていたのだ。 「しばらくここを出るかも知れません」と彼はまた言った。同じ不吉な重々しさをこめて。 「そうならないことを願っていますわ」と彼女は口をはさんだ。まるで強くそう願うことで迫り来る災いを回避しようとするかのように――「そうならないことを願っていますわ。あなたがいなくなったらとても寂しくなりますもの、ミスタ・ウエストレイ。ミスタ・シャーノールもいなくなってしまったことですし。家の中に男の方がいなくなったら、わたしたち、どうしましょう。一晩でもいらっしゃらないと、心細くてたまりませんわ。わたしは年寄りですから、どうだっていいのですけど、アナスタシアはあの恐ろしい事故があってから夜中にとても神経質になっているんです」 ウエストレイの顔はアナスタシアの名前を聞いて明るくなった。そう、彼の愛情はよほど深いに違いない、彼女の名前が出ただけでこんなふうに悦ぶのだから。そうか、彼女は僕を頼っているのか。僕のことを守護者と思っているのだ。太くもない二の腕の筋肉が外套の袖の下ではち切れんばかりに盛り上がった。この二本の腕が愛する人をあらゆる悪から守るのだ。ペルセウス、サー・ギャラハド、コフェチュア王の姿が目の前をよぎった。彼はもう少しでミス・ユーフィミアに大声でこう言いそうになった。「ご心配には及びません。わたしはあなたの姪御さんを愛しています。わたしは身を屈め、彼女をわたしの王座につけてさしあげます。彼女に触れようとする者は、まずわたしを倒さなければならないでしょう」と。しかし躊躇する良識が彼の袖を引っ張った。この重大な一歩を踏み出す前に母親と相談しなければならない。

理性が彼を押しとどめたのは幸いだった。そんなことを宣言すればミス・ジョウリフは卒倒したであろうから。実は彼女は彼の顔から翳りが消えたのを見て、自分のおしゃべりが気晴らしになったのだと喜んでいたのである。しばらくおしゃべりの相手をしてあげれば元気になるだろう。彼女は他に面白い話題はないかと頭の中を探った。そうだわ、もちろん話題はあるわ。 「今日の午後、ブランダマー卿がいらっしゃったんですよ。他の人と同じように何気なくお出でになって、とても親切丁寧にわたしに面会をお求めになりましたの。ミスタ・シャーノールが亡くなって、わたしたち二人がひどいショックを受けているんじゃないかとご心配になったんです。ええ、そりゃ、大変な精神的打撃でしたわ。あの方はとっても思いやりがあって、一時間近く――時計を見たら四十七分だったんですけど――いらっしゃって、家族の一員みたいに台所で一緒にお茶をお飲みになったんです。こんなふうに親しくしていただけるなんて、思ってもいませんでしたわ。お帰りになるときは、ご丁寧にあなたに伝言を残していったんですよ、旦那様。家にいらっしゃらなかったのは残念ですが、また近いうちにお寄りしたいと思います、ですって」 ウエストレイの顔に翳りが戻った。小説の主人公なら夜のように暗い顔つきになったというところだが、実際はぶすっとふくれ面をしたにすぎない。 「今晩ロンドンに行きます」ミス・ジョウリフのことばに応えることなく、彼はこわばった口調で言った。「明日は戻らないでしょう。数日間出かけることになるかも知れません。いつ戻るかは手紙でお知らせします」 ミス・ジョウリフは電気に打たれたようにびくっとした。 「ロンドンに、今晩」と彼女は言った――「これからですか」 「そうです」ウエストレイは口にこそ出さないものの、話はこれで終わりだということをおのずと示すような素っ気なさで言った。「さて、一人にしてくれませんか。出かける前に書かなければならない手紙が何通かあるんです」 そういうわけでミス・ユーフィミアは階段を上り、建築家の仮定では自分の強靱な腕に寄りかかっているはずの乙女に、この奇妙なニュースを伝えた。 「どう思う、アナスタシア」と彼女は言った。「ミスタ・ウエストレイは今晩ロンドンに発つそうよ。数日間戻らないかも知れないんですって」 「そう」姪はそう答えただけだった。しかしそこには、建築家が聞いたらその愛情を沸点から血温にまで引き下げたかもしれないくらいの気怠さと無関心がこもっていた。 ウエストレイは女主人が出て行ったあと、しばらくむっつりと椅子に座っていた。生まれてはじめて煙草が吸いたいと思った。パイプを口にくわえ、シャーノールが不機嫌なときにやっていたように、煙を吸いこんだり吐き出したりできたらいいのにと思った。落ち着きなく心があれこれ考えているあいだ、身体も落ち着きなく何かをしていたかった。けむる想念に炎を上げさせたのは、まさにその日の午後もあったという、ブランダマー卿の来訪だった。ウエストレイの知るかぎり、おもてだった用むきもないのにベルヴュー・ロッジにやって来たのはこれがはじめてだった。ありとあらゆる困難にもかかわらず、信じたいと思うことを信じようとする痛々しい努力。折り合いのつかないものに折り合いをつけ、そうすることでなんとか幽霊を追い払い、受け入れがたい疑惑を鎮めることができはしまいかという盲目的で、よろめきかけた、頼りない希望。そうした努力をし、希望を持って、建築家はブランダマー卿がしげしげとベルヴュー・ロッジを訪れる理由を、修復工事の進捗状況を把握し、彼が惜しみなく供出している資金の用途を確認するためだと、これまでずっと信じこもうとしてきた。ウエストレイとしては、ブランダマー卿の動機にうしろめたいところは少しもないと思いたかった。才能豊かな若き専門家との交際、そのことに当然ながら魅力を感じているに違いないと思っていたのだ。聡明な建築家と建築について語り合ったり、四方山話をすることは(ウエストレイは一つの話題ばかり不要にくどくど話すことを避けた)田舎で単調な独身生活を送っているブランダマー卿にはいいうさ晴らしになるに違いない。そう考えていたウエストレイにとって、卿のベルヴュー・ロッジ訪問は仕事の次に重要な、いや、ときには仕事以上に重要なことだった。

最近、さまざまな事情のせいで、この動機の妥当性に対して異論が首をもたげはじめたけれども、ウエストレイは心の中でそれを認めようとはしなかった。不安を感じたとしても、そんな不安は事実無根と絶えず自分に言い聞かせた。しかし今、迷いは消えた。ブランダマー卿はいわば自分のためにベルヴュー・ロッジを訪れたのだ。ウエストレイに会うという口実をきっぱりと捨てたのだ。彼はミス・ジョウリフとお茶を飲み、台所で一時間を過ごした、ミス・ジョウリフと――アナスタシアも交えて。それが意味することは一つしかない。ウエストレイは決心した。 せいぜい控えめな望ましさしか持たなかったものが、競争者があらわれたことにより、とびきり価値のあるものに変わった。嫉妬が愛を活性化し、義務と良心が仕掛けられた罠から彼女を救えと言い張った。大いなる犠牲が払われなければならない。彼、ウエストレイは自分より身分の低い娘を娶らなければならないのだ。しかしその前に事情を母親に打ち明けておこうと思った。もっともペルセウスがアンドロメダの鎖を断ち切る前にそんな相談を持ちかけたという記録はないのだけれども。 それまで一刻の猶予もならない。今晩さっそく発つことにしよう。ロンドン行きの最終列車はもう出たけれど、カラン街道駅まで歩けば、夜行の郵便列車に間に合うはずだ。歩くのは好きだし荷物はいらない。母親の家に使えるものがあったのだ。決断を下したのは七時、その一時間後に彼はカランの町の最後の家を後にして夜の徒歩旅行に乗り出していた。 カラウナ(カリスベリ)からその港クルルヌム(カラン)に至る街道はローマ人によって敷かれた。それは今日でも近代的道路に沿って、この二つの場所をへだてる十六マイルあまりの距離をほぼ直線状に延びている。その中間あたりでグレートサザン鉄道の幹線が街道と直角に交わり、ここにカラン街道駅があった。最初の半分の道のりはマロリー・ヒースと呼ばれる平坦な砂地を通る。わずかに広がる緑の芝生が街道際に迫っているが、その他は西を見ても東を見ても北を見ても果てしなく荒れ地がつづき、ところどころにハリエニシダやシダ、あるいは風に吹かれてやせ細った松や赤松が枝を絡ませ小さな木立を作っているだけだった。暗黄色の砂地の道は夜になるとたどりにくく、道端には旅人の目印となるように間隔を置いて標柱が立てられていた。標柱は星のない夜空を背景にしたときは白く浮き出し、たまに荒れ地を銀の毛布で覆う雪を背景にしたときは黒く見えた。

晴れた夜なら旅人は古い港町から一マイルも離れた頃、遠くにカラン街道駅の灯火を見ることができる。それは彼方の闇に浮かぶ細い一筋の光のようで、はじめは連続した線に見えるが、まっすぐな道をさらに進んでしばらくすると一つ一つのランプが別々に見えてくる。多くの疲れた旅人が遠くのほうで少しも変化しないこのランプを見て、その動きのなさにいらいらした。苔むした表に昔の数字でハイド・パーク・コーナーまでの距離を刻んだ里程標を幾つも通り過ぎたのに、ランプは少しも近づいてこないように見えるのだ。ただ次第に大きくなる列車の音だけが目標に近づいていることを教えてくれる。急行の突進する音が鈍い地響きからだんだんと耳を聾する騒音に変わっていくのである。すがすがしい冬の日は、列車は真白い綿をたなびかせ、夜中に竈の口を開けて雲に煌々たる輝きを放つときは火焔の蛇を従えた。しかし真夏のけだるい暑さの中では太陽が蒸気を干上がらせ、列車はひたすら疾走した。いったい何がそれを動かしているのか、示すものがないだけにいっそうすばらしい勢いがあった。 ウエストレイはこうしたものを何一つ目にしなかった。柔らかい白い霧があらゆるものを蔽っていたのだ。ほんの一分前まではすべてが静止していたのだが、それ自身の内なる力に突き動かされるように、霧は優雅に渦を巻きながら漂ってきた。服の表面にごく細かな粉のような水滴が幕を張り、指で触れると流れて重い粒になった。口髭、髪の毛、睫毛からもしずくが垂れた。前が見えなくなり、彼は息を詰めた。ミスタ・シャーノールが天に召された晩と同じく、それは海から渦を巻いてやって来た。ウエストレイは遠くの海峡でうなる霧笛の音を聞いた。カランの方を振り返り、ぼうっとした光が緑や赤に変わるのを見て、沖合の船が沿岸水先案内人に合図を送っていることが分かった。ゆっくりたゆまず歩きつづけ、ときどき芝地に踏みこんだときは、立ち止まって街道のほうに戻った。白い標柱の一つが正しい方向に進んでいることを確認してくれたときはほっとした。視界を奪う霧は奇妙に彼を孤立させた。彼は自然から切り離されていた。自然など何も見えなかったからである。彼は人間から切り離されていた。兵士の一団に囲まれていたとしても、それすら見えなかったからである。このように外からの刺激がなくなると、心はそれ自身に投げ返され、彼は内省へといざなわれた。彼は、これが百回目であったが、自分の立場を慎重に検討し、今まさに踏み出そうとしている重大な一歩が心の安らぎのために必要であるのか、正しいのか、賢明であるのか、考えはじめた。

結婚の申しこみはどんなに決断力のある人間をも躊躇させるだろうし、ウエストレイは決断力のあるほうではなかった。彼は頭がよく、想像力があり、頑固で、極端に几帳面だった。しかし経験を積むことによって身につくおおらかな人生観や、困難な状況で即座に決断を下し、また一度決断したらそれをやり抜く精神力と不屈の意志に欠けていた。そのため例の理性というやつが彼の決意に揺さぶりをかけ、六回ほども道の真中で足を止め、目的を断念してカランに帰ることを考えたのである。しかし六回とも彼は歩きつづけた。ゆっくりした足取りでじっと考えこみながら。これは正しい行動だろうか。僕は正しいことをしているのだろうか。霧はいっそう深くなり、ほとんど息ができないくらいだった。目の前に腕を伸ばしても、手を見ることができなかった。僕は正しいのだろうか。物事には正しいことと間違ったことが存在するのだろうか。実在するものなどあるのだろうか。一切は主観的――つまり自分の頭が作り出したものではないのか。僕は存在するのだろうか。僕は僕なのか。僕は肉体の中にあるのか、それとも外にあるのか。そのとき激しい動揺、闇と霧の恐怖が彼を襲った。両腕を伸ばし霧の中をまさぐる姿は、まるで誰かか何かをつかんでみずからの正体を確かめようとしているかのようだった。ついに彼は自制心を失い、くるりとむきを変えるとカランに戻りはじめた。 それはほんの一瞬のことだった。すぐに理性がその支配力を回復しはじめたのである。立ち止まって道端のヒースの上に腰を下ろした。どの枝も濡れてしずくがしたたっていたが、頓着せずに考えを集中した。心臓は悪夢から目覚めたばかりのときのように激しく動悸を打っていた。誰にも見られていなかったとはいえ、自分の弱さと精神的な混乱を今は恥じていた。いったいどうしたというのだ。なんという半狂乱ぶりだろう。数分後には再び方向転換し、しっかりきびきびした足取りで駅にむかって歩き出した。これは自分を取り戻したということの、彼にとっては満足すべき証拠であった。 そのあとは旅が終わるまで正しいだの間違っているだの、賢明だの無分別だのといった途方に暮れる問題を避け、自分がしようとしていることの正しさ、賢明さは自明であるとし、もっと物質的で家庭的な諸問題について忙しく思案を巡らせた。収入がいくらあればアナスタシアと家を維持していけるのかとその額を計算し、心の中で手持ちの資金を最大限に活用して、この見積額に近づけては楽しんだ。他の人が似たような状況に置かれたら、恐らく結婚の申しこみが受け入れられる見こみについてあれこれ考えるだろうが、ウエストレイはこの点に関しては疑問すら抱かなかった。求婚すればアナスタシアは受け入れるものと決めつけていたのである。彼女だってこの結婚が物質的な点においても、名門一族と縁つづきになるという点においても、得であることが分からないはずはない。彼は独りよがりな考え方しかしていなかった。彼のほうでアナスタシアが好きになり、結婚を申しこんでもいいと思いさえすれば、あとは彼女は彼を受け入れる一手と思いこんでいた。

確かに彼女がはっきりと好意を示した例はとっさにはあまり頭に浮かんでこないのだが、彼のことを憎からず思っていることは分かっていた。慎み深いがゆえに、普通なら報われる望みのない感情をあらわすことに消極的になっているに違いない。しかし控えめな、さりげないものではあったが、好ましい結果を保証するに足る十分な誘いを受けたことは間違いないのだ。彼は一緒にいるとき何度も何度も彼女と目が合ったことを思い出した。きっと僕の目に宿る優しさを読み取ってくれたのだろう。そして視線を返すことで、真の慎み深さが許しうる最大限の誘いをかけたのだ。その返事はなんと上品で、なんとかぎりなく優雅だったろう。まるでこっそりとのぞき見るみたいに僕のほうに目をむけ、僕の情熱的なまなざしにはっとなって恥ずかしそうに目を伏せることがどれほどあったことか。夢想にふけりながら彼は、ここ数週間のあいだ、彼女と同じ部屋にいるときはほとんど片時も彼女から目を離さなかった事実を考慮しなかった。これでときどき目が合わなかったとしたらそのほうが可笑しいというべきだろう。じっと見つめられると、ふとその視線のほうを振りむいてしまうという例の衝動に彼女はたまに従わざるを得なかったのだから。あの目は間違いなく僕を誘っていた、と彼は考えた。それにもらい物なんですと、何気なく言ってスズランの花束を渡したときは嬉しそうに受け取ってくれた。本当は彼女のためにカリスベリで特別に買ってきたのだけれど。しかしこれも彼女にとっては断りがたかったのだと考えるべきである。大体断ることなどできるだろうか。そんな状況で礼とともにスズランを受け取らない娘がいるだろうか。断ればお高くとまっていると思われるだろう。断ることで、親切からしてくれた行為に誤った、妙な意味合いを与えてしまうかも知れない。うん、スズランをあげたとき、彼女は僕を誘っていた。期待と違って胸に花を挿してくれなかったけれど、あれはきっと好意をはっきり示しすぎることを恐れたんだ。たちの悪い風邪にかかって、何日か家に閉じこもっていたとき、彼女が彼に示した関心には特に注目すべきものがあった。そして今晩、僕が一晩でもいなくなると彼女は寂しがると言っていたではないか。霧に隠れて見えなかったが、彼はそう考えてにんまりしたのだった。自分が家にいるかいないかで、美しい乙女の心の平安と身の安全が左右されるとしたら、男には悦にいる権利がいくばくかあるというものではないか。ミス・ジョウリフは、僕、ウエストレイがいないとき、アナスタシアは不安になると言った。アナスタシアが叔母にそのことを話して欲しいと、それとなくほのめかしたということも大いにあり得る。彼はまた霧の中でにんまりした。申しこみが拒絶される心配なんかこれっぽっちもありはしない。 こんな具合に心安まる思いに深くひたっていたため、彼はまわりの物や状況にはまったく注意をむけずにひたすら歩きつづけていたのだが、ふと気がつくと霧にかすんだ駅の灯火が見え、目的地に到着したことを知った。自分の懸念と変節のせいで道中ずいぶん遅れてしまい、今は真夜中すぎ、列車はもうすぐ到着するはずだった。プラットフォームにも狭い待合室にも他の旅行者の姿はなく、待合室の中では、火屋《ほや》の黒ずんだパラフィン・ランプが弱々しく霧と戦っていた。活気のある部屋とはいえなかった。彼は壁の掲示物やらテーブルの上の黴臭い水の瓶を眺めていたが、駅長と切符係と赤帽を兼ねた駅員が眠そうに入ってきて、人間の世界に呼び戻されたときは救われたような気がした。 「ロンドン行きの列車を待ってるんですか、旦那」彼は驚いたように尋ねた。それはカラン街道駅から夜行郵便列車に乗る人がほとんどいないことを示していた。「あと数分で着きますよ。切符はお持ちですか」 彼らは一緒に切符売り場に行った。駅長は彼に何等車を利用するかも訊かずに三等車券を手渡した。 「ああ、ありがとう」とウエストレイは言った。「でも今晩は一等車で行くよ。客室一つを自分専用にしたいな。他の客が出入りして邪魔されたくないんだ」 「畏まりました、旦那」駅長は一等車の客にふさわしい、はるかに尊敬のこもった声で言った――「畏まりました、旦那。それじゃさっきの券はお返し願えますか。新しいのを手書きしますので――一等の切符は用意していないんですよ。この駅で一等を使う人はめったにいませんので」 「そうだろうね」とウエストレイは言った。 「妙なことがあるものですなあ」駅長はペンを使っているとき言った。「一月前にも同じ列車に乗るっていう人がいて、切符を書きましたよ。この駅が開通して以来それまで、一枚も売ったことはなかったんですがね」 「ほう」ウエストレイは相手のことばにろくに注意を払わなかった。頭の中で一等車に乗ることの是非を新たに議論していたからである。現在彼が直面する人生の大事に当たって、精神がこの難しい状況にできるかぎり集中できるよう、肉体の疲労は避けなければならず、それゆえこの余計な出費は正当化しうると、ちょうどそんな判断に達したとき、駅長は次のように話をつづけた。 「ええ、一月も前じゃないですなあ、お客さんに書いたように、ブランダマー卿に切符を書いたのは。もしかしてブランダマー卿とお知り合いですか」彼は思いきってそう付け加えた。その声には、同じ一等車を使うからといって、必ずしもあのような偉い人と知り合いということにはならないでしょうがね、という含みがこめられていた。ブランダマー卿の名前はウエストレイの弛緩しきった注意力に電気のようなショックを与えた。 「もちろんだよ」と彼は言った。「ブランダマー卿とは知り合いだよ」 「おや、そうなんですか、旦那」――彼の敬意は対位法で許されるどんな跳躍進行よりももっと大きな跳躍を遂げた。「ええ、お客さんと同じ列車に乗るというので御前様に切符を書いて差し上げたんですよ。あれから一月も経っちゃいません。ありゃあ、ちょうどカランのオルガン弾きが亡くなった晩でした」 「そうなんですか」と無関心を装うウエストレイが言った。「ブランダマー卿はどこから来たんだい」 「それが分からないんですよ」と駅長は答えた――「さっぱり分からないんで、旦那」と無教育な人や愚鈍な人がよくやるように、いたずらに強調を加えて繰り返した。 「馬車に乗っていたかい」 「いいえ、お客さんもそうじゃないかと思いますが、歩いて駅にお出でになったんです。ちょいと失礼しますよ、旦那」彼は話を中断した。「来ましたよ」 遠くから列車の近づく音が響いてきた。ちょうどそのとき、プラットフォームの端にある踏切がまるで幽霊の手によって開けられたかのように静かに動き、その赤いランタンがカラン街道を遮った。

誰も降りず、ウエストレイ以外は誰も乗りこまなかった。霧の中で郵便袋が交換され、駅長兼切符係兼赤帽がランプを振ると、列車は煙をあげて走り去った。ウエストレイは洞窟のような車内にいて、布の座席は棺桶の内部のように冷たく湿っていた。外套の襟を立て、ナポレオンのように腕を組み、隅に寄りかかって考えた。おかしい――ひどくおかしい。ブランダマー卿はシャーノールの事故があった晩、早めに帰ったものと思っていた。ブランダマー卿はベルヴュー・ロッジを去るとき、午後の汽車に乗ると言っていた。ところが卿は真夜中に、ここカラン街道駅にあらわれた。カランから来たのでなければどこから来たのだろう。フォーディングから来たはずはない。フォーディングからなら、リチェット駅で汽車に乗ったはずだから。妙だぞ、と彼はそう思いながら眠りに落ちた。