雲形紋章

第十八章

Chapter 18 13,556 words Public domain Markdown

二人は一瞬、真正面から顔を突き合わせた。明るい夕空のなかに浮かび上がる彼らの姿を見た人は、きっと従兄妹同士か、あるいは兄妹とすら思ったことだろう。どちらも黒い服に黒い髪、背の高さもほとんど同じだった。男は決して背は低くないのだが、娘のほうがすこぶる上背があったのだ。 アナスタシアが束の間ことばを失ったのは驚きのせいだった。つい先日まで、ドアを開けてブランダマー卿を迎えるのはごく自然なことであったのに、ベルヴュー・ロッジに来なくなって一ヶ月経ったことが状況を一変させていた。彼の前に立ちながら、彼女は胸の内を告白させられてしまったような気がした。つまり、ここ何週間か、ずっと彼のことばかりを考えていたこと、どうして来ないのだろうといぶかっていたこと、来てくれることをこい願っていたこと、そして今、こうして戻ってきてくれてどれほど自分の心に悦びが満ち溢れているかということを。彼はこうしたことすべてを見て取っただろうが、彼女のほうも自覚したことがある。それは彼への思いが自分の心の大部分を占めているということだ。この知識の木の実を食べて彼女は頬を染めた。なにしろ魂が目の前に裸にされてさらけ出されたのだ。彼の目にも同じように裸の姿が見えているのだろうか。結婚など思いもよらぬ相手にここまで惹きつけられている自分を知り、彼女は衝撃を受けた。自分のように卑しい者が太陽を見つめ、目を眩まされてしまったなどと相手に知られたら、自分はもう生きてはいけないと思った。 ブランダマー卿が黙っていたのは驚いたからではない。彼にはドアを開けるのがアナスタシアだと分かっていた。むしろそれは困難な仕事を請け負い、いざそれに取りかかろうというとき、人がしばしば躊躇するといった、そんなたぐいの沈黙だった。彼女は目を伏せて下を見た。彼は相手の全身を、それこそ頭のてっぺんからつま先までを見渡し、自分が果たしに来た用事を最後までやり遂げる強い決意を確認した。彼女が先に口を開いた。 「申し訳ありません、叔母は外出してますわ」右手を開けたドアの縁《へり》にかけていた彼女は、寄りかかるものがあって助かったと思った。ことばが口から出て来たとき、いつもの自分が、いつもの声で、いつもと変わらぬ調子で喋るのを知り、ほっと安堵した。 「いらっしゃらないのは残念です」と彼も彼女が聞き慣れた、低い、澄んだ、いつもの調子で喋った。「いらっしゃらないのは残念ですが、わたしが会いに来たのはあなたなのです」 彼女は何も言わなかった。胸の動悸が激しくて一言も発することができなかった。ドアの縁に手をかけたまま、身動き一つしなかった。手を離せば倒れそうな気がして怖かった。 「お話ししたいことがあるのです。入ってもよろしいですか」 彼女はためらったが、それは彼が予想していたことだった。そのあと中に入れてくれたが、それも彼が予想していた通りだった。彼は重い正面玄関のドアを閉めた。鍵をかけたり錠を差しこむよう注意することばは、どちらの口からも出なかった。泥棒がうろついていたらこの家は格好の標的だっただろう。 アナスタシアが先に立って歩いた。ミスタ・シャーノールの住んでいた部屋に行かなかったのは、作りかけの服が散らかっているということもあるが、以前二人がミスタ・ウエストレイの部屋で出会ったという、もっとロマンチックな理由もあった。二人は玄関ホールを抜け階段を登った。アナスタシアが先になり彼が後ろからついてきた。長い階段のおかげで一時的な余裕が生まれたのが彼女にとっては幸いだった。二人が部屋に入ると、また卿がドアを閉めた。火はなく窓は開いていたが、彼女は燃えさかる竈の中にいるように感じた。卿は彼女の取り乱した様子に気がついていたが、見て見ぬふりをし、自分のせいで緊張している彼女を気の毒に思った。今まで六ヶ月のあいだアナスタシアは自分の気持ちを上手に隠そうとしすぎて、かえって心の中を手に取るように読み取られていた。卿ははかりごとの進み具合を見て、誇りも成功の喜びも感じず、またあざけるように面白がったり、良心に呵責を覚えることもなかった。ただ、周囲の事情から身に帯びざるを得なかった役目を厭わしく思いながら、それでもみずから定めた道程を最後まで歩ききろうとする固い決意を持って事態の進展を見つめていた。彼は今、劇がどこまで進行したのかを正確に把握していた。そしてアナスタシアがどんな要求をも受け入れるだろうということも分かっていた。

彼らは再び差しむかいに立っていた。娘には何もかもが夢のように思えた。自分が目覚めているのか眠っているのかすら判然としない。心が肉体の中にあるのか、肉体の外に出てしまったのかも分からない。すべてが夢のようだったが、それは嬉しい夢だった。もう過去や未来のことを考えたり心配したり気にすることはないのだ。ひたすらこの瞬間にのめりこみさえすればいい。この一ヶ月のあいだ、自分の心を占領していた人と一緒なのだ。彼は戻ってきてくれた。また会うことがあるだろうかと考える必要はない。今自分と一緒にいるのだから。彼がそこにいるのはよい目的のためなのか、悪い目的のためなのか、と心配する必要はない。目の前に立つ男の意志に自分をすっかり委ねてしまったのだから。彼女は彼の指輪の奴隷であり、その指輪の他の奴隷たちと同じように、奴隷であることをうれしがり、主人の命令に嬉々として従うのだった。

卿は自分が相手に引き起こした感情、相手の胸にかきたてた思慕の念、そして相手の顔に書かれた自分への愛を不憫に思った。彼は彼女の手を取り、彼女は触れられることでこの上ない満足を感じた。その手は相手の手の中に生気なく収まっているのでもなければ、相手のなすがままになっているのでもなく、彼の指の軽い圧力にそっと反応しているのだった。彼女にとってこの状況は人生で最高の瞬間だった。もっとも彼にとってはフランドルのステンドグラスに描かれた婚約の絵のように情熱を欠いていたのだが。 「アナスタシア」と彼は言った。「わたしが話さなければならないことが何か、あなたには分かりますね。わたしがあなたにお願いしなければならないことが何か、分かりますね」 彼女は彼が語りかけるのを聞いた。その声は楽しい夢の中の、楽しい音楽のようだった。何か頼まれることは分かっていた。そして自分が何も拒まないこと、頼まれたものすべてを与えるつもりでいることも知っていた。 「わたしを愛していますね」と彼はつづけたが、結婚の申しこみとしては言い方が逆だった。しかも他の人に言われたら我慢がならないような、思い上がった前提だった。「わたしがあなたをこよなく愛していることも分かっていますね」あなたを愛していることはとっくに御承知でしたよね、という台詞は、彼女の洞察力に対する正当な賞賛だったが、しかし彼は心の中で、知識とは、ときになんといういい加減な根拠をもとに組み立てられるものかと苦笑いしていたのだった。「あなたを心から愛しています。ここに来たのはわたしの妻になってくださいとお願いするためです」 彼の言うことは聞こえたし、理解もした。しかし彼が今頼んだことはまったく予想もしていなかった。驚きでわけが分からなくなり、喜びで頭がぼうっとなった。話すことも動くこともできない。力が抜けて声も出ない様子を見て、卿は彼女を引き寄せた。その仕草には衝動に駆られた恋人の性急な激しさはなかった。そっと引き寄せたのは、そうするのがその場にふさわしいと思ったからだ。彼女はしばらく彼の腕の中で下をむいて顔を隠していた。そのあいだ卿は彼女を見ていた、というより、彼女の頭を見ていた。彼の目はふさふさした暗褐色の髪の上をさまよった。ミセス・フリントはその髪を見て、あれは自然にウエーブしているのではなく、父親のばかばかしい主張に信憑性を与えるために、ブランダマー家の者らしく見せかけているのだと言った。彼は暗褐色の髪がウエーブし、絹のようなつややかさに光るのをじっと見つめていたが、やがて放心したように目を上げ、むかいの壁にかけられている大きな花の絵に視線を合わせた。

絵はミスター・シャーノールが亡くなったとき、ウエストレイに遺贈されたのだが、まだ持ち出されてはいなかった。ブランダマー卿の視線はじっとこの絵に注がれ、腕の中の娘のことよりも、けばけばしい花とのたくる毛虫のほうに気を取られているようだった。彼の心は目下の緊急問題へと戻ってきた。 「結婚してくれるかい、アナスタシア――一緒になってくれるかい、アンスティス」家族の使う呼び名がいとおしい気持ちを少しだけ付加したようだった。彼は慎重にそのことばを使った。「アンスティス、妻になってくれるね」 彼女は何も言わなかったが、両腕を彼の首に巻き付け、はじめてほんの少し顔を上げた。どんな男をも満足させるであろう同意のしるしだったが、ブランダマー卿には当然のことにすぎなかった。結婚の申しこみが受け入れられることを彼は片時も疑わなかったのだ。彼女がキスを求めて顔を上げたのだとしたら、その期待は満たされた。もちろん彼はキスをした。が、まるで舞台の上で男優が女優にするように軽く額にキスをしただけだった。その場に誰かが居合わせたなら、彼の目を見て、その心が肉体を遠く離れ、今取りかかっている行為よりももっと大切らしい人か物のことをしきりに考えていることに気づいただろう。だがアナスタシアには何も見えなかった。ただ結婚を申しこまれ、彼の腕の中にいることしか分からなかった。

彼はしばらく待っていた。まるで今の姿勢がいつまでつづくのだろう、次は何をすればいいのだろうと迷っているかのようだった。しかし緊張を最初にといたのは娘のほうだった。目も眩むような最初の驚きから次第に落ち着き、思考能力が戻ってくると、喜びに影を投げかける一点の黒雲のような疑念がきざしてきたのである。彼女は腕の中から逃れようとしたが、そうした場合の常のように腕は彼女を引き留めた。 「いけない」と彼女は言った――「いけないわ。わたしたち、軽率すぎました。あなたのお望みはよく分かりました。そのことは決して忘れませんし、そんなふうにおっしゃってくれたあなたを死ぬまでお慕いいたします。でも無理。わたしにお尋ねになる前に、知っておいてもらわなければならないことがあるのです。それを何もかもご存じだったら、先ほどのようなお申し出はなさらなかったでしょう」 そのときはじめて彼は少しだけ真剣になり、少しだけ生身の人間らしくなり、少しだけ台詞をそらんじているような感じがなくなった。これは計算に入れてなかった筋書き、台本に載っていない挿話で、その瞬間、彼は返事に窮してしまったのだ。もっとも劇の本筋になんら影響しないことは分かっていた。彼はかき口説き、もう一度手を取ろうとした。 「教えてください、何を気にしているんですか」と彼は言った。「今わたしが言ったことを、今わたしたちがしたことを、取り消すようなことなど、この天の下に何もあるはずがありません。あなたがわたしを愛しているという事実をわたしから奪うことなど誰にもできません。いったい何が気になるのです?」 「申し上げられません」と彼女は答えた。「申し上げられないようなことなのです。お尋ねにならないでください。お手紙にして書きますから。さあ、帰ってください――どうか帰ってください。ここにいらっしゃったことを誰にも知られてはいけません。わたしたちのあいだに起きたことを人に知られてはなりません」 ドルカス会から帰ってきたミス・ジョウリフは少々がっかりした様子で、しかも機嫌が悪かった。いつものように何事もなく活動を終えたというわけではなかったのだ。三週つづけて休んだというのに誰も彼女の健康を気遣ってくれなかった。軽いお世辞を言ったり、陽気に世間話をしても実に素っ気なく「うん」とか「いいや」がかえってくるだけ。のけ者にされているような不愉快な気分だった。高潔な道徳家ミセス・フリントは明らかな意図を持って椅子をずらし、この気の毒な老婦人から遠ざかった。ミス・ジョウリフはとうとうみんなから見放され、相手になってくれたのはミセス・パーリンという大工のおかみさんだけだった。この人はあきれるほど太っていて頭が鈍く、何も分からずただにこにこしていることしかできない人である。ミス・ジョウリフは傷ついたあまり、ついうっかり寸法を間違え、冷えを防ぐ当て布と樟脳を入れるポケットがついた傑作ともいうべきネルのペチコートをまるまる駄目にしてしまった。 しかしベルヴュー・ロッジに戻ると嫌な思いは消え、ひたすら姪のことを心配するのだった。 アンスティスの様子がおかしかった。アンスティスはひどく具合が悪そうで、顔を真赤にし、頭痛がするとこぼした。ミス・ジョウリフは三週つづけて土曜日に具合の悪いふりをし、外出しない言い訳としたけれど、この四週目の土曜日、アナスタシアは仮病を使う必要は少しもなかった。実は先ほどの出来事に呆然となって、自分のことしか考えることができず、叔母の質問にも支離滅裂な答しか返せない有様だったのだ。ミス・ジョウリフは玄関のベルを鳴らしたが応答がなく、ドアが開けっ放しであることに気がついた。そしてついにはアナスタシアが窓を開け放ったままミスタ・ウエストレイの部屋にぽつねんと座っているのを見つけたのだった。寒気がするというのでミス・ジョウリフはさっそく彼女をベッドに寝かせた。 ベッドは応急処置の授業もその価値を否定しない救急療法である。しかも極めて安価という点で貧しい者のための治療手段といえる。もちろん貧しいといってもベッドを買うくらいの金がなければならないが。アナスタシアがミス・ブルティールか、せめてミセス・パーキンや嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントであれば、ドクタ・エニファーがすぐに呼びにやられていただろう。しかし彼女はただのアナスタシアでしかなかったし、目の前には借金が幻のように浮かんできたから、とにかく医者を呼ぶ前に一晩寝て様子を見ようと叔母を何とかなだめすかした。そのあいだ、医者のなかでもかぎりなく治療に巧みで、かぎりなく安全なドクタ・ベッドが招じ入れられ、おまけに名医で名高い開業医ドクタ・ウエイト(註 ウエイトは「待つ」の意)が治療に参加してくれたのだった。暖かいネルの寝巻き、湯たんぽ、熱いミルク酒、寝室の暖炉の火といった療法が試みられ、九時にミス・ジョウリフが姪にキスをして就寝する頃には、突如原因不明の病に倒れたものの、患者は急速に回復するであろうと少しも案じられることはなかった。 アナスタシアは独りになった。また独りになれて彼女は心からほっとした。もっともそんな気持ちになるのは今出て行ったばかりの暖かい老人の思いやりに対して裏切りを働くことであり、恩知らずなことだと感じてはいた。老人の温かい心は彼女のことを深く気遣っているのだ。でも彼女はその心にむかって起きたことを打ち明けなかった!彼女は独りだった。ほんのしばらく安らかな気持ちで寝台の足もとの鉄柵のあいだから暖炉の火を見つめていた。この二年ほど寝室の暖炉に火を入れたことはなかったので、その珍しさにふさわしい喜びとともに彼女は贅沢を楽しんだ。眠くはなく、次第に落ち着きを取り戻し、書くと約束した手紙のことを考えることができるようになった。難しい手紙になりそうだったが、その中で克服不可能な障害を提出しなければならないと、彼女は闘志満々だった。ブランダマー卿のような地位の人でさえ、克服は絶望的と認めざるを得ないような障害を。そう、この手紙は素敵なロマンスの奥付、驚くべき悲劇のエピローグになるのだ。しかし実をいえば犠牲を要求していたのは彼女の良心であり、結局のところ一ポンドの肉が本当に切り取られることはないのだ、と心の底で分かっているからこそ、そんな手紙を書くのがいっそう楽しかったということなのである。

我々は良心の犠牲者となり、厳格な社会的道徳通念に従うことを、どれほど心ゆくまで楽しむだろう、我々のことばを額面通りに受け取る嫌な人が誰もいない場合は!その贈り物は受け取れないと抗議したり、この金はすぐ返すなどと言えば、われわれはいとも簡単に道徳の高みに達することができる。ところが贈り物は結局いやがる我々の手に押しつけられ、借りた金は決して返済を迫られないのだ。アナスタシアについても同じようなことがいえる。彼女は、手紙で恋人に致命的な一撃を与えよと自分に語りかけ、もしかしたら本気でそれを信じていたのかも知れないが、パンドラの箱のようにその奥底には希望が隠されていたのである。ちょうど夢のなかで真に迫った危機に直面しても半覚醒状態の意識が、これは夢だ、と我々を支えることがあるようなものだ。 その後しばらくして、彼女は寝室の暖炉の前に腰かけて手紙を書き出した。寝室の暖炉には独特の魔力がある。それも、夜な夜な金持ちの寝室を温室のように暖める暖炉ではなく、年に一二度しか火の入らない暖炉には。石炭が柵のあいだで輝き、赤い炎が煤まみれの煉瓦をちらちらと照らし、ミルク酒が薬罐台の上で湯気を立てている!ミルクやお茶、ココアやコーヒー、何の変哲もないありきたりの飲み物が寝室の火によって純化され、頭痛を治すネペンテス(註 昔ギリシア人が飲んだという薬)になり、恋の媚薬にならないだろうか。ああ、夢に満ちた瞬間よ。そのとき若者は明日の征服を思い、中年は昨日が永遠に過ぎ去ったことを忘れ、ぐちっぽい老人すら彼らなりの「名誉と奮闘」(註 テニスンの詩から)があると考えるのだ!

部屋着の代わりに着ていた青いおんぼろケープは大急ぎで手紙を書いている最中にずり落ちてきて、その下の白いナイトガウンをのぞかせた。下を見ると真鍮の炉格子にかけたはだかの足が火に照らされ、熱さのあまりつま先を丸め、上を見ると火明かりは豊満な曲線を照らし出していた。彼女の身体はふっくらとして娘盛りの色香があった。移ろいやすく、かけがえのない、真似しようとしても無惨なほど滑稽な失敗にしかならない、あの青春の盛りである。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントをねたませた豊かな黒髪は黒いリボンでまとめられ、椅子の背にだらりと垂れていた。書いたり、書き直したり、消したり、塗りつぶしたり、破ったりしていると、夜も深々と更けてきて、苦労が実るよりも先に文箱の中の数少ない紙がつきてしまうのではないかと不安になった。

手紙はようやく書き終わった。やや形式張ったというか、大げさというか、気取った文面だったとしても、人生の大事なときなのだからある種の堅苦しさがあるのは当然ではなかろうか。誰が主教の職を「喜んで」お受けする、などと書くだろう。誰が国王の謁見式に麦わら帽子で行くだろう。

親愛なるブランダマー卿(と手紙は始まった) 人生経験のとぼしいわたしには、あなたへの手紙をどう書けばいいのかよく分かりません。あなたがおっしゃってくれたことには心から感謝申し上げます。あのことを思うと喜びがあふれ、今後も思い出すたびに喜びを感じるでしょう。わたしとの結婚など、考えてはいけない大きな理由がきっとたくさんあると思うのですが、あったとしても、それをわたしなどより十分承知の上で、無視なさったのですね。でもあなたの知るはずのない、結婚できない理由が一つあるのです。知るはずのないというのは、そのことを知っている人がほとんどいないからです。このことは親類縁者以外には知られたくありません。もしかしたらそもそも書くべきではないのかも知れません。しかしわたしには相談にする相手がいないのです。正しいことをしようと思っているのですが、もし間違ったことをしているなら、どうかお許しください。そして読み終わったときにこの手紙を焼き捨ててください。 わたしにはいま呼ばれている名を名乗る権利がないのです。市場に住んでいる従兄弟は別の名を名乗るべきだと考えていますが、わたしたちには本当の名前すら分からないのです。わたしの祖母がミスタ・ジョウリフと結婚したとき、彼女にはすでに二歳か三歳になる男の子がいました。この息子がわたしの父で、ミスタ・ジョウリフは彼を養子にしたのです。しかし祖母には結婚前の姓を名乗る権利しかありませんでした。それが何という姓なのかは分かりません。わたしの父はそれを生涯かけて調べだそうとし、もう少しで判明するというときに最後の病に倒れて亡くなりました。父は自分の血筋についておかしなことをよく語っていましたから、頭がどうかしていたに違いないと思います。たぶん、名前がないというこの不名誉が、わたしにとってもしばしばそうであるように、父にとっても苦痛だったのでしょう。けれどもそれがこんなにわたしを苦しめることになるとは思ってもいませんでした。

叔母にはあなたがおっしゃったことを話していませんし、誰にも聞かせるつもりはありません。でもわたしは人生でいちばん甘美な思い出として、あのときのことを忘れることはないでしょう。

誠実なるあなたの友 アナスタシア・ジョウリフ

とうとう書き終わった。彼女はあらゆる希望を抹殺し、愛を抹殺した。彼は二度と彼女を娶ろうとはしないだろうし、近寄ることもないだろう。しかし彼女は秘密という重荷を肩から下ろしたのだ。その秘密を打ち明けずに彼と結婚することはできなかっただろう。再び床にもぐりこんだのは三時だった。火が消えて、ひどく寒くなったので、ベッドに戻るのは嬉しかった。自然の女神の手助けで、彼女は優しい眠りへといざなわれた。夢を見たとすれば、それはドレスや馬や馬車や召使いや小間使いやブランダマー夫人が住むフォーディングの大邸宅やブランダマー夫人の夫の夢だった。 ブランダマー卿もその晩は夜更かしをした。やはり寝室の暖炉の前で、実に規則正しく本のページをめくりながら。葉巻の火は一度も絶えることなく、注意力が途切れる様子もなければ、気にかかることがあるような様子もなかった。彼はエウゲニドゥの「アリステイア」を読んでいた。ホノリウス帝政下に迫害された異教徒に関する記述を読み、その日の午後の出来事などなかったかのように、アナスタシア・ジョウリフという人間などこの世に存在しないかのように、冷静にその議論の是非を検討していた。 アナスタシアの手紙は次の日の昼時に届いたが、彼は封を切るよりも先に昼食を済ませた。しかし封筒の垂れ蓋には赤くて太い「ベルヴュー・ロッジ」という文字が打ち出されていたから、どこから来たのものかは分かっていたはずである。マーチン・ジョウリフは何年も前に刻印の入った便箋と封筒を注文したことがあった。家系調査で質問状を送るとき、ただの便箋より刻印入りのほうが注意をひきやすい――これは立派な人物であることの証しなのだ、というのである。カランの人はこれを彼のろくでもない贅沢の一例と考えていた。レターヘッドのある便箋を使ってもおかしくないのはミセス・ブルティールと参事会員パーキンだけである。しかも司祭でさえレターヘッドは印刷するのであって浮き出しにはしない。マーチンはとっくの昔に手持ちの便箋と封筒を使い切っていたが、最初の注文の支払いが済んでいなかったので、二束目を注文することはなかった。しかしアナスタシアはこの運命的な封筒を六通ほど取っておいたのだ。学校に行っていた頃くすねたのだが、彼女にとっては今でも大切なよき家柄の名残であり、また多くの人がぼろ着を隠すためにその上に羽織りたいと思うパリューム(註 古代ギリシア・ローマの外衣)なのである。彼女がこの重大な機会にその一通を使用したのは、フォーディング宛の手紙を入れるのにふさわしく、便箋に使ったわら紙から注意を逸らしてくれるかも知れないと思ったからだ。 ブランダマー卿は「ベルヴュー・ロッジ」の文字を見、浮き出し模様のいわくを推測し、それを使ったアナスタシアの意図を見抜いたが、それでも食事が終わるまで手紙に手をつけなかった。あとで目を通したときも、あかの他人の文章を批評するようにその手紙を批評し、あまり興味のない文書であるかのように扱った。しかしこの手紙を書くために娘が苦心惨憺したことはよく分かったし、そのことばに感動し、ある種の強い同情すら感じた。だが何よりも彼の心に重くのしかかっていたのは、奇怪な運命の詐術、ソフォクレスの劇にも似た人間の立場の複雑さであって、その謎を解く鍵を握っているのはただ彼一人しかいないのだった。

彼は馬を用意させカランにむかって発とうとしたが、最初の門番小屋を通り過ぎようとしたとき代理人があらわれ、庭園の端の植樹についてさらに指示を仰ぎたいと言われた。そこでむきを変えて植樹が行われている広いブナの並木道へ駆けつけたのだが、そこでの用事が長引き夕暮れになってしまったので、町に行くのは断念せざるを得なかった。並み足でフォーディングに帰る途中、わざと遠回りをして秋の森に落ちる夕日を楽しんだ。アナスタシアには手紙を書いて、訪問を次の日に延期するつもりだった。

彼の場合は、前の晩、アナスタシアの努力に伴ったような大量の反故の発生はなかった。手紙は一枚の便箋に書きはじめられ、その一枚で事足りた。要した時間は十五分、簡潔に言いたいことをまとめた。すらすらと文章を書きつづったが、その程度のことはオデュセウスが重い石を軽々とパエアキア人より遠くへ投げ飛ばしたように造作もないことだった。

愛しい人へ あなたの手紙を待ちわびて、どれほどつらく不安な時間を過ごしたか、申し上げるまでもないでしょう。その時間に終止符が打たれ、あたりは一面、曇り空のあとのように陽の光に包まれています。あなたの住所を記した封筒を見て、どれほど胸が高鳴り、どれほど勇んでわたしの指が封を切ったか、お話しせずとも分かっていただけると思います。今は幸せでいっぱいです。お手紙をいただいたこと、幾重にも幾重にも感謝します。率直さと優しさと真実に満ちた、あなたらしい手紙でした。心配なさらないでください。打ち明けていただいたことには羽毛ほどの重みもありません。過去の名前のことで悩むのはおやめください。これから新しい名前を持つのですから。わたしたちのあいだに横たわる障害物に目をつぶってくださったのはわたしではなく、あなたです。あなたはわたしたちの年の差を無視してくださったではありませんか。もうこの手紙を書く時間がありません。舌足らずの点はお許しいただき、これで意をつくしたものとお考えください。明日の朝、お目にかかるつもりです。 あなたに献身的な愛を捧げる ブランダマー

封をする前に読み返すことすらしなかった。急いでエウゲニドゥの「アリステイア」をひもとき、ホノリウス帝政下に迫害された異教徒の記述に戻ろうとしていたのである。

二日後、ミス・ジョウリフは一週間の半ばだというのによそ行きのマントにボンネットという格好で市場へ行き、従兄弟の肉屋を訪ねた。彼女の服装はたちまち人目をひいた。そんな盛装をするのは教区で祝典かお祭りのあったときくらいなのだが、教区委員の家族が何も知らないところでそんなことが行われるはずがなかった。着ているものだけでなく、その着こなし方も実にしゃれていた。店の裏手の客間に入ると、椅子に腰かけていた肉屋のおかみと娘たちは、こんなに立派な服装の従姉妹は見たことがないと思った。彼女の晩年に翳りを与えていた、やつれて途方に暮れ、虐げられたような様子は払拭され、顔には落ち着きと満足が輝き、それが不思議なことに服装にまで伝わっていた。 「今日のユーフィミアは朝から貴婦人みたい」と年下の娘が年上の娘に囁いた。彼らはためつすがめつ彼女を眺め、変わったのはボンネットの藤色のリボンだけで、コートもドレスも今まで二年間日曜日ごとに見ていたものと同じだとようやく確認した。 「うなずいてみせたり、手招きしたり、満面の笑みに顔をほころばせたり」(註 ミルトンの詩から)しながら、ミス・ユーフィミアは腰を下ろした。「ちょっと寄ってみたの」と彼女は切り出したが、その文句にこめられた軽い、小生意気な調子に聞いている者はぎょっとした――「お知らせをしに、ちょっと寄っただけなの。あなたがたはいつもこの町でジョウリフを名乗る権利があるのはあなたがたのほうの家系だけだと口やかましく言っていたわね。否定はなさらないでしょう、マリア」と彼女は非難がましく教区委員の妻に言った。「いつもうちこそが本物のジョウリフだと言っていたじゃない。わたしとアンスティスだって使う権利があると思っていたのに、同じ名前を使うのを厭がっていたわよね。さあ、あなたの家族以外にジョウリフの名前を使う家が一つ減ったわよ。アンスティスがその名前を捨てますからね。ある方が彼女に別の名前を差し出してくださったの」 本物のジョウリフたちは視線を交わした。お相手は、自分の商品はカランのどの娘が着たときよりアナスタシア・ジョウリフが着たときにいちばん引き立つと言った服地店の共同経営者だろうか、とか、いやいや、ミス・ユーフィミアに卵を売るとき、必ず他の人より一ペニー安くしていた若い農夫だろうかと考えた。 「そうなの。アンスティスは名前が変わるの。これで苦情の種が一つなくなるってわけよね。ついでにもう一つ片をつけておきましょう、マリア。例の小さな銀の食器、あれは一族以外の者の手には渡らないわ。分かっているでしょう――あなたがずっと自分のものだと言っていたティーポットとJの字の入ったスプーンよ。わたしが天に召されるときが来たら、全部あんたに残してあげる。アンスティスがこれから行くところじゃ、あんな半端物は必要ないから」 本物のジョウリフたちはもう一度目と目を交わした。聖堂でクリスマスの飾り付けをしたとき、アナスタシアを手伝ってガスの枝つき燭台に飾りをつけていたブルティールの息子が相手だろうか。それともあの気取った声と貴婦人ぶった態度は、教区委員の娘二人がどちらも気をひこうと望みを持っていなかったわけでもない、結構ハンサムな面白い若者、ミスタ・ウエストレイを、結局のところ虜にしてしまったのだろうか。 ミス・ジョウリフは好奇心をかき立てられた彼らの様子を面白そうに見ていた。彼女はからかってやろうといういたずらっぽい気分になった。そんな気分になったのは実に三十年ぶりのことだった。 「そうなのよ」と彼女は言った。「わたしは間違ったら間違ったって、はっきり認めるほうなの。ほんと、わたし間違ってたわ。眼鏡をかけなきゃだめね。目の前で起きていることも見えないみたいなんですもの――教えてもらっても分からないんですから。わたしがわざわざお知らせに来たのはね、マリアに皆さん、ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジに来るのはアンスティスのためじゃないって教区委員に言ったこと、あれが全然間違いだったってことなのよ。御前様がいらっしゃったのはまさしく彼女に会うためだったみたいね。それが証拠に御前様は彼女と結婚なさるのよ。三週間後には彼女はブランダマー夫人。お別れを言いたいなら、さっそく今からわたしの家へお茶に来たほうがいいわ。あの子はもう荷造りして明日ロンドンに発ちますからね。マーチンの生前、アンスティスが通っていたカリスベリの学校からハワード先生が来て、彼女のお世話と嫁入り道具の調達をしてくださるの。ブランダマー卿がみんな按配してくれたわ。式を挙げたら大陸を長期旅行する予定よ。まあ、他に行くところもないでしょうけど」 何もかも本当のことばかりだった。ブランダマー卿は一切を秘密にすることなく、カランに在住していた故マーチン・ジョウリフ氏《エスクワイア》の一人娘アナスタシアとの婚約はまもなくロンドンの新聞に発表された。ウエストレイが結婚を申しこむ前に逡巡と懸念を抱いたのは無理もないことである。家系や地位が有力とはいえない者に身分不相応な振る舞いはできず、こうした状況においては世間の意見が大きな役割を果たすものなのだ。自分よりも身分が下の者を娶るということは、自分を妻の身分までおとしめることになる。彼には妻を自分の地位まで引き上げる余力がないのである。ブランダマー卿の場合は違う。自分の力に絶大の自信を持ち、世間に挑戦状をたたきつけるような今回の結婚を、どちらかというと楽しんでいるようなふうがあった。 ベルヴュー・ロッジは注目の的になった。下宿の女主人の娘を軽蔑していたご婦人方は、貴族の婚約者のご機嫌を取りにそこを訪れた。彼らはこの変節の動機をみずからにごまかすことなく認め、他人に対しても言い訳したりしなかった。彼らはただ一斉に、実に見事に呼吸を合わせて回れ右をし、えさを運ぶ人間のあとを追う猫のように、そうすることに何のためらいも恥ずかしさも感じなかった。アナスタシアに会えずがっかりしたとはいうものの(彼女は婚約が発表された直後にロンドンに発った)、ミス・ユーフィミアがまことにこころよく事件をあらゆる角度から論じてくれたので、幾分かはその埋め合わせができた。ブランダマー卿の長靴のボタンからアナスタシアの指にはめられた婚約指輪に至るまで、ありとあらゆる細部が念入りに検証され詳述された。ミス・ジョウリフは指輪にはエメラルドがはめられていたと倦むことなく説明した――「とても大きなエメラルドで、まわりをダイヤが囲んでいるの。緑と白って、御前様の盾の色なのよ。ほら、雲形紋章っていうやつ」 さまざまな結婚祝いがベルヴュー・ロッジに届いた。「結婚とかお葬式とか、大変なことがあると本当にご近所さんからありがたい同情が寄せられるものなのね」無邪気にも人間は皆善良である、などと真剣に考えながら、ミス・ジョウリフは言った。「アンスティスが結婚するまで、こんなにカランに友達がいたなんて思っても見なかった」彼女は次々と来る訪問者に「贈り物」を見せ、訪問者のほうはそれらを津々たる興味をもって眺めた。彼らはそのほとんどをカランの店の陳列窓で見ていたので、知り合いがフォーデングのひいきを得るためにいくらくらいの出費を賢明と判断したかが分り、いっそう興味深かったのである。そこにはありとあらゆる無駄な醜さがあった――趣味という仮面をかぶった俗悪、寛大という見せかけを持ったけちくささ――ミス・ジョウリフは鼻高々とそれらをカランから送り出したが、ロンドンで受け取ったアナスタシアは心底恥ずかしい思いをした。 「過去のことは水に流さなくちゃ」ミセス・パーキンは真のキリスト教的寛容をこめて夫に言った。「あの若者の選んだ相手はわたしたちが望んでいたような人じゃないけど、何といっても彼はブランダマー卿ですもの。彼のためにもあの奥さんで我慢しなくちゃならないわ。贈り物が必要ね。主任司祭という立場で何もしないわけにはいかないでしょう。他の人はみんな何かあげているというし」 「高すぎるものはやめておきなさい」彼は新聞を置きながら言った。費用の問題となると黙ってはいられない。「高価すぎる贈り物はこういう機会にふさわしくないだろう。値打ちのあるものより、ブランダマー卿に親愛の情を表すもののほうがいい」 「もちろんよ、もちろんだわ。任せてちょうだい。変なものは選ばないから。ぴったりの品物に目をつけてあるの。ラヴェリックの店で素敵なスプーン付きの塩入れが四つセットになって売っているの。ふかふかのサテンの箱に入って。たったの三十三シリングなんだけど、三ポンドはしそうに見えるのよ」