第十四章
ウエストレイは夜の汽車でカランに帰ってきた。十時ころ、夕食を終えようとしているときにドアがノックされ、ミス・ユーフィミア・ジョウリフが入ってきた。 「お邪魔してごめんなさいね、旦那様」と彼女は言った。「ミスタ・シャーノールのことがちょっと気にかかって。お茶の時間にいらっしゃらなかったし、そのあとも戻ってないんですよ。もしかしたらどこにいるかご存じじゃないかと思って。こんなに遅くまで外出するなんて、何年もなかったことですから」 「あの人の居場所なんて見当もつきません」ウエストレイはやや突っ慳貪に言った。一日中働きずくめで疲れていたのだ。「夕ご飯を食べに外に出たんでしょう」 「ミスタ・シャーノールを誘う人なんていませんわ。夕食のために外に行ったとは思えないんです」 「まあ、そのうちあらわれるでしょう。戻ってきたらお休みになる前に知らせてください」彼はもう一杯お茶を注いだ。彼は淡泊な、婆さんじみた人間の一人で、お茶には他の飲み物にはない特別の効用があるとまで考えていた。なぜみんなお茶を飲まないのか理解できないと彼は言った。他の飲み物よりもずっと元気が回復するし――お茶を飲んだ後は仕事もはかどるのに。
彼は引っ張り鉄の断面図の計算をまたやりはじめた。サー・ジョージ・ファークワーは引っ張り鉄で塔の南側を補強することにとうとう同意したのだ。彼は時間の経つのを忘れたが、そのとき再びいらだたしいノックが聞こえ、女主人がまたあらわれた。 「もうすぐ十二時ですわ」と彼女は言った。「なのにミスタ・シャーノールは影も形も見えません。わたし、とても心配なんですよ!お邪魔して本当に申し訳ないんですけど、ミスタ・ウエストレイ、でも姪もわたしも心配でたまらないんです」 「わたしにどうしろと言うんです」ウエストレイは顔を上げて言った。「ブランダマー卿と外出したってことは考えられませんか。ブランダマー卿が彼をフォーデングに招待したってことは」 「ブランダマー卿は今日の午後こちらにいらっしゃいました」ミス・ジョウリフは答えた。「でもミスタ・シャーノールにはお会いになりませんでした。ミスタ・シャーノールがいなかったものですから」 「へえ、ブランダマー卿が来たんですか」ウエストレイが訊いた。「わたしに言付けでもありませんでしたか」 「あなたがいらっしゃるかとはお尋ねになりましたが、言付けはありませんでした。わたしたちと一緒にお茶をお飲みになったんです。ただの友達づきあいでいらっしゃったんじゃないかしら」 ミス・ジョウリフはちょっともったいぶって言った。「わたしとお茶を飲もうとしてお出でになったのだと思います。残念ながらわたしはドルカス会に出てたんですけど、わたしが戻ると一緒にお茶を飲んでくださいましたの」 「変ですね。卿はいつも土曜の午後に来るみたいですね」とウエストレイは言った。「土曜の午後は必ずドルカス会に行くんですか」 「ええ」とミス・ジョウリフは言った。「土曜日の午後は必ず会に出席します」 一分間ほど沈黙があった――ウエストレイもミス・ジョウリフも考えこんでいた。 「まあ、何にせよ」とウエストレイが言った。「わたしはもう少し仕事していますから、ミスタ・シャーノールが帰ってきたら中に入れてやりますよ。でもフォーディングで一泊するように招待されたような気がしますがね。ともかく安心して寝てください、ミス・ジョウリフ。いつもの就寝時間をとっくに過ぎているじゃないですか」 ミス・ユーフィミアは床に就き、ウエストレイは一人残された。数分後十五分置きに鳴る四つの鐘が鳴り、それから低音鐘が十二時を打ち、次に全部の鐘が夜も昼も三時間ごとに奏でる曲を鳴らしはじめた。聖セパルカ大聖堂の近隣に住む人々は鐘の音など聞きはしない。耳が慣れてしまい、十五分置き、一時間置きの鐘の音は、人々に意識されることなく鳴った。もしもよそ者が大聖堂の近くに泊まったなら、その騒音は最初の晩こそ彼らの眠りを破るが、その後は何も聞こえなくなる。ウエストレイも夜な夜な遅くまで仕事をしていたが、鐘が鳴ったかどうか分からなかった。鐘が聞こえるのは注意力が目覚めているようなときのみである。しかしこの夜は鐘が聞こえ、「エフライム山」の穏やかなメロディに聴き入っていた。
彼は立ち上がり、窓を開け、外を眺めた。嵐は去っていた。数時間後に満月となる月が蒼い天空に清らかに昇り、その下には白いまだら模様の雲が長々とたなびいていた。雲の縁が虹のような琥珀色に輝いていた。ウエストレイはびっしり並ぶ町の屋根や煙突を見渡した。市場から立ち昇る光は、目で確認することはできないけれども、ランプがまだ灯されていることを示していた。その後光は次第に弱くなり、ついには消えてしまった。真夜中を過ぎたので明かりが消されたのだろう。月の光はまだ濡れている屋根屋根の上で輝き、そのすべてを見下ろすように聖セパルカ大聖堂の中央塔が真黒いかたまりとなって聳えていた。
建築家は奇妙に身体が緊張するのを感じた。興奮しているのだが、その理由は分からなかった。床に就いてもこれでは眠れないだろう。シャーノールが帰ってこないのは確かにおかしい。シャーノールはフォーディングに行ったに違いない。はっきり聞いたわけではないが、フォーディングに招待されたというようなことをしゃべっていた。しかしそうだとしたら一泊するために用意をして行ったはずだ。だのに、何も持ち出していない。持ち出していればミス・ユーフィミアがそう言っただろう。待てよ、シャーノールの部屋に降りていって、荷物を持ち出した跡がないか、調べてみようか。ひょっとしたら不在の理由を説明する書き置きでも残されているかも知れない。彼は蝋燭に火をつけ、足もとで石の踏み段がこだまする巨大な井戸のような階段を下りた。てっぺんの天窓から一条の月明かりが射しこみ、屋根裏部屋から聞こえる物音はミス・ジョウリフがまだ寝ていないことを彼に告げた。オルガン奏者の部屋には、彼の不在を説明するようなものは何もなかった。蝋燭の光がピアノの側面に反射し、数週間前に友人と交わした会話や、ハンマーを持った男が後ろからつけてくるというミスタ・シャーノールの奇妙な妄想を思い出し、ウエストレイは思わず身震いした。もしや友人は病気になって今まで人事不省のままじっと寝ていたのではないかとふと不安を覚え、寝室をのぞきこんだが誰もいない――ベッドは乱れていなかった。そこで彼は上の自分の部屋に戻ったのだが、夜はしんしんと冷え、もう窓を開けていられなかった。閉める前に窓枠に手をついて、中央塔が町全体を威圧し、圧倒している様を眺めた。この岩のようなかたまりがぐらつくなど、まったくあり得ない話だ。このようなよろめく巨人を支えるには、自分が今その断面図を描いている引っ張り鉄など、あまりにも弱々しく不十分だ。彼はオルガンのある張り出しから見た南袖廊のアーチの上の亀裂を頭に浮かべ、その発見のために「シャーノール変ニ長調」を途中までしか聴かなかったことを思い出した。そうだ、ミスタ・シャーノールは聖堂にいるのかも知れない。練習に行って閉じこめられたのではないか。鍵が折れたかして、出られなくなったのだ。彼はどうしてもっと前に聖堂のことを考えなかったのだろうと思った。 さっそく聖堂に行くことにした。駐在建築家である彼はどこのドアでも開けることのできるマスターキーを持っていた。寝る前に行方不明のオルガン奏者を探してこよう。彼は人気のない通りを足早に進んだ。街灯のランプはみな消えていた。カランでは満月のときはガスを節約するのである。動いているものは何もなく、足音が歩道に響き、壁と壁のあいだをこだました。波止場のそばの近道を通り、数分後には旧保税倉庫までやってきた。
壁を支えるため波止場の方向に突き出した煉瓦造りの控え壁のあいだには黒いビロードのような影が落ちていた。オルガン奏者が神経を昂ぶらせ、暗い壁のへこみに誰かが潜んでいるとか、建物と人間の運命のあいだには何かしらつながりがあると妄想したりしたことを思い出し、一人微笑んだ。しかしその微笑みが無理に作られたものであることは自分にも分かっていた。孤独感や半ば廃墟と化した建物のわびしさやごぼごぼという川の囁きに終始押しつぶされそうな気分だった。彼は本能的に足を速めた。そこを通り抜けたときはほっとして、その晩二度目であったが、後ろを振り返った。すると光と闇の不思議な効果が最後の控え壁の暗がりに誰かが立っているような印象を生み出していた。長い緩やかなケープを風にはためかせている男の姿が錯覚とは思えないくらいはっきり見えるような気がした。
錬鉄製の門をくぐり、墓地までやって来たとき、彼ははじめて柔らかく低い単調な連続音が周囲の空気を満たしていることに気がついた。束の間足を止めて聞き耳を立てた。あれは何だ?どこから聞こえてくるのだろう。敷石の小道を北の扉口へ歩いていくと、音はいっそうはっきりと聞こえてきた。間違いない。聖堂の中から聞こえてくる。いったい何の音だろう。夜中のこんな時間に聖堂で何をしているのだろう。
北のポーチに着いたとき、音の正体が分かった。オルガンの低音――ペダル音の一つだ。オルガン奏者がひどく誇らしげに説明してくれた、あのペダル音に違いないと彼はほぼ確信した。この音はミスタ・シャーノールが無事であること――聖堂で練習していることを保証するものだった。何か突拍子もない気まぐれから、こんな遅くに演奏をしているだけなのだ。あのサーヴィス「シャーノール変ニ長調」を練習しているのだ。 くぐり戸を開けようと鍵を取り出したが、すでに開いていることに気づき驚いた。オルガン奏者は中に入ると鍵をかける癖があることを知っていたからだ。聖堂の中に入る。奇妙なことに音楽は聞こえなかった。誰も演奏していない。ただたった一つのペダル音が絶えがたいほど単調な音を轟かせ、ときどきウオーター・エンジンが空になったふいごに空気を満たそうと、思い出したように動いては、かすかなどすんという音を立てるだけだった。 「シャーノール!」彼は叫んだ――「シャーノール、何をしているんです。何時だと思っているんですか」 彼は一呼吸置いた。最初、誰かが返事をしたような気がした――聖歌隊席で人々が囁き交わすのを聞いたような気がした。しかしそれは自分の声のこだまでしかなかった。自分の声が柱から柱、アーチからアーチへと投げ渡され、弱ってゆき、ランタンで「シャーノール!シャーノール!」というむせび泣きに変わったにすぎない。
夜中の聖堂ははじめてだった。身廊の円柱が月の光を浴び、経帷子を着た巨人のように列をなして白く立っている様を凝視しながら、しばらくその神秘に圧倒されて立ちつくしていた。もう一度ミスタ・シャーノールの名を呼んだが、またしても返事はなかった。そこで彼は身廊を抜け、例の小さなドアにむかった。オルガンのある張り出しに通じる、階段のドアである。 このドアも開いていたので、ミスタ・シャーノールはきっと張り出しにいないだろうと思われた。いるなら必ず鍵がかかっているはずだからだ。ペダル音は自鳴しているだけなのだろう。さもなければ、たぶん本のようなものがその上に落ちてペダルを押さえつけているのだ。張り出しに行く必要はないだろう。行くのは止めよう。振動する低音は前回の時と同じように彼を不快にさせた。彼は自分に何でもないと言い聞かせようとしたが、しかし何かがおかしい、それもひどくおかしいという不安な気持ちがますます強くなった。夜は更け、あらゆる生きとし生けるものから隔絶され、幽霊のような月明かりが暗闇をいちだんと暗くしている――完全な静寂にペダル音の陰鬱な響きが組み合わされて、彼はほとんど恐慌状態に陥った。幽霊が蠢いているような、聖セパルカ大聖堂の僧侶たちが墓石の下から蘇ったような、ほかにも不吉な顔があらわれ、じっと悪の所行を待ち受けているような、そんな気がした。彼は怯えに取り憑かれる前に、それを押し殺した。何が出て来ようとかまうものか。張り出しに行こう。彼は身廊から上へ行く階段に飛びこんだ。
既に述べたように、これは中心の小柱のまわりをぐるぐると回りながら登る螺旋階段で、長くはないが明るい昼間でも相当暗かった。しかし夜になるとインクで塗りつぶしたような闇に包まれ、ウエストレイはかなりの時間手探りで進み、ようやく月明かりが見えるところまでたどり着いた。それからついに張り出しに足を踏み入れたのだが、オルガン椅子には誰も座っていなかった。真正面には南袖廊の端にある大きな窓が光っていた。夜ではなく、昼ではないかと思われた――そのくらい窓の光は彼が後にした暗闇に比べて強烈だった。ステンドグラスが半透明に輝く狭間飾りは、鈍い光を放っている――紫水晶、黄玉、玉髄、碧玉と、神の都の土台のような十以上もの宝石たち。そしてその真ん中、中央の窓仕切りの上部で、みずからの内に秘めた光で他の何よりも輝いていたのがブランダマー家の紋章、海緑色と銀色の雲形紋章だった。 ウエストレイが張り出しに一歩踏みこむと、足が何かにぶつかり転びそうになった。ぶつかったのは柔らかくたわむ何か、触れただけで恐ろしい予感に満たされてしまう何かだった。身体をかがめて確認しようとすると白いものが目に飛びこんできた。白い顔が穹窿天井を見上げていた。彼はミスタ・シャーノールの身体につまずいたのだった。床に倒れ、後頭部を足鍵盤に載せていた。ウエストレイはかがみこんでオルガン奏者の目をのぞいたが、それらはじっと動かず生気がなかった。
死体の顔を照らす月明かりは、中央の窓仕切りの上部、いちばん明るいところから射してくるようだった。床にじっと横たわる男からまさしくその命を奪ったものは、まるで雲形紋章であるかのように思われた。