雲形紋章

第二章

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扉を開けると建物の中に外気が勢いよく流れこんだ。雨脚はいまだに激しかったが、強く吹き出した風が清々しい潮の香りを含み、聖堂内の息苦しい、朽ち果てた雰囲気とは際だった対照をなした。 オルガン奏者は深呼吸した。 「ああ、外に出るとせいせいするな――連中の小うるさい文句から解放されて。もったいぶったろくでなしの主任司祭や、偽善者のジョウリフや、知ったかぶりのお医者様から解放されて!地下納骨所をセメントで固めるなんて、どうして無駄なことに金を使いたがるのだ?病原菌をほじくり返すだけのことじゃないか。おまけにパイプオルガンには一銭も使おうとしない。ファーザー・スミス(註 十七世紀のオルガン制作者)のオルガンには一ペニーも金をかけようとしない。渓流のように清らかで美しい音を出すというのに。まったくひどすぎる!白鍵は痛々しいほどすり減っているし、鍵盤のあいだに溝ができて木肌が見えているんだ。足鍵盤は短すぎてぼろぼろ。いやはや、あのパイプオルガンはわたしにそっくりさ。年老いて、無視され、くたびれきっている。死んだほうがましだよ」彼は半ば独り言のようにしゃべっていたが、ふとウエストレイのほうを振りむいて言った。「不平を並べて悪かったね。あんたもわたしの歳になれば不平を鳴らすようになる。少なくとも、その歳になってわたしくらい貧乏で、ひとりぼっちで、未来に希望がなければ。さあ、こっちだ」 彼らは暗闇の中に足を踏み出し――とっくに夜の闇が降りていた――水を撥ね散らかしながら、暗い芝生の上を流れる、白い小川のような、輝く板石敷きの道を進んだ。 「近道しよう。街灯のない小径なんだけど」境内を離れるときオルガン奏者が言った。「そのほうが早く着くし、雨に当たらずにすむ」彼は急に左に曲がって路地に入りこんだが、そこがあまりに狭くて暗いものだから、ウエストレイは彼についていくことができず、闇の中を不安そうに手探りした。小男が戻ってきて彼の腕を取った。 「先導してあげよう。この道はよく知っているんだ。まっすぐ歩きたまえ。段差はないから」 家々には人の気配もなければ灯りもついていなかった。曲がり角に街灯がぽつんと一灯、わずかに揺らめく光りを投げかけていたのだが、そこまで来たとき、ようやくウエストレイは窓にガラスがはまっておらず、どの家も空き家であることに気がついた。 「ここは旧市街さ」オルガン奏者が言った。「もうどの家にも誰も住んじゃいない。時流に流されやすいわれわれは、みんなこの先のほうへ移ってしまった。川から吹いてくる風は湿っぽいし、波止場の風紀はそりゃあ悪いからね」 彼らは狭い路地を離れ、川沿いに長く延びた波止場らしき場所に出た。右側には使われていない倉庫が四角い正面をむけて、巨大な荷箱のように一列に並んでいる。左側からは係船柱のあいだを流れる川水の音や、岸壁を舐める波の音が聞こえ、東風が川面にさざ波を立てていた。昔の馬車鉄道の線路が今も波止場を貫くように残っていて、二人はつまずかないよう注意して歩きながら、とうとう右側の大倉庫の列が一軒の低い建物によって途切れるところまでやってきた。それは教会か礼拝堂らしく、石の狭間飾りに、縦仕切りで仕切られた窓があり、西の端には鐘塔が建っていた。しかし何よりも目をひいたのは、道路に面した壁面を支える重量感あふれる控え壁だった。煉瓦造りで、地面とそれが支える壁とで三角形を形成している。建物の下には濃い影が落ちていたが、控え壁のあいだのくぼみが他のどこよりも黒々としていた。ウエストレイは同伴者の手が腕を強く握りしめるのを感じた。 「あきれた臆病者と思われるかも知れんが」とオルガン奏者は言った。「わたしは夜はこの道を通らないんだ。今夜もきみがいなければここには来なかっただろう。子供のときから控え壁のあいだの暗闇が怖くて、今だに恐怖感が克服できない。昔は、あの洞窟みたいな深みに悪魔や鬼がうろついていると思っていたが、今は悪者があの暗がりに隠れていて、道行く人に飛びかかり首を絞めようと待ちかまえているような気がするんだ。寂しい場所だからね、この古い波止場は。夜になると――」彼はことばを切ってウエストレイの腕をつかんだ。「ほら、いちばん端のくぼみに何かいるんじゃないか」 不意を突かれてウエストレイは思わず身震いし、一瞬、建築家は隅の控え壁の暗がりに男が立っているのを見たような気がした。しかし二三歩近寄ってみると、影を見間違えただけで誰もいないことが分かった。 「相当神経質になっているようですね」彼はオルガン奏者に言った。「誰もいませんよ。光りと影の具合で錯覚しただけです。これは何の建物なんですか」 「昔はフランシスコ修道会の寄進礼拝堂だったんだ」とミスタ・シャーノールは答えた。「その後、カランが本格的に港として賑わうようになると、ここで輸入品に物品税をかけていたのさ。今でも保税倉庫と呼ばれているくらいだ。しかしわたしが記憶するかぎりずっと閉まったままだがね。きみは物とか場所が人間の運命と固く結びついている、なんてことを考えるかい。どうもこのおんぼろ礼拝堂はわたしにとって命に関わる場所のような気がする」 ウエストレイはオルガン奏者の聖堂での振る舞いを思い出し、この人は頭がおかしいのではないのかと思いはじめた。相手はそれを察知して、非難するようにこう言った。 「とんでもない、わたしは狂ってなんかいないよ――愚かで、間抜けで、ひどく臆病なだけだ」 彼らはすでに波止場のはずれに達し、明らかに文明の世界に戻ろうとしていた。というのは音楽が聞こえてきたからである。小さなビヤホールから流れてきたのだが、そばを通るとき中から女の歌声が聞こえた。豊かなコントラルトで、オルガン奏者はしばらく足を止めて聞き入った。 「いい声をしている。歌の勉強をしていたらうまくなっていたのに。どうしてこんなところに来たのだろう」 ブラインドは下ろされていたが、窓の下には届ききっておらず、彼らは隙間を通して中を覗いた。雨の雫がガラスの外側をしたたり、ガラスの内側は結露していたため、はっきりとは見えなかったが、クレオールの女が部屋の隅の火のそばに座る酔っぱらいたちに歌を歌っていることは分かった。中年の女だったが、甘い歌声で、老人が竪琴で伴奏をしていた。

どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ かれらをここに連れてきて それがだめというのなら 荒れた海のむこうまで さまよう気力はとてもない

「かわいそうに!」とオルガン奏者は言った。「何か不幸に遭って、あんな浅ましい連中に歌を歌う羽目になったのだろう。さあ、行こう」 右に曲がって数分歩くと大きな通りに出た。二人の目の前に建っていたのは、かつては立派なたたずまいを見せていただろうと思われる家であった。柱に支えられたポーチがあり、その下には半円形の階段が両開きの戸口までつづいている。正面には街灯が立っていて、雨にきれいに洗われて異常なくらい輝かしい光りを放ち、夜でもその家の落魄した姿を浮かび上がらせていた。廃屋というわけではないが、ペンキのはげた窓枠や、何カ所か漆喰のはげたあら塗り仕上げの正面には「栄光は去れり」(註 サムエル記から)の文字が書き記されていた。ポーチの柱は大理石に似せてペンキが塗られていたのだが、化粧漆喰がはげて薄汚れたまだら模様をつくり、そこから煉瓦の芯が覗いていた。 オルガン奏者がドアを開けると、そこは石床の玄関ホールになっていて、左右に黒ずんだドアがあった。幅の広い石造りの階段が浅い踏み段と鉄の手すりを備え、玄関から二階へと延びている。板石の上にはすり切れたマットがむこう端まで小道をつくり、さらに階段を登るようにつづいていた。 「ここがわたしの町屋敷さ」とミスタ・シャーノールが言った。「昔は乗り継ぎ用の馬を交換する宿で『神の手』と呼ばれていたんだ。でもその名前は決して口にしちゃいけないよ。今は個人の持ち家となって、ミス・ジョウリフがベルヴュー・ロッジと命名したんだから」 彼がしゃべっているときドアが開いて一人の娘が玄関ホールに出てきた。歳は十九歳くらい。背が高く、気品のある容姿の持ち主である。赤みがかった茶色の髪は真ん中で分けられ、あふれるようなそれを後ろで緩くまとめていた。整えているとも自然ともいえない一世代前の結い方だった。その顔は少女時代の丸みを帯びた輪郭を保ち、繊細な輝きも失っていなかったが、未熟さの印象を否定する何かを持っていて、彼女の人生が必ずしも苦難と無縁ではなかったことを暗示していた。彼女は身体にぴったりした黒のドレスを着て、淡い色の珊瑚の首飾りをつけていた。 「こんばんは、ミスタ・シャーノール。濡れてしまいましたわね。大したことなければいいけど」彼女はすばやく探るような視線をウエストレイに投げかけた。 オルガン奏者は彼女を見て不機嫌そうな顔をし、怒ったようにうなって「叔母さんはどこだね。話があると伝えてくれ」と言い、玄関につながる部屋の一つにウエストレイを引っぱっていった。 そこは大きな部屋で、片隅にアップライトピアノがあり、大量の本と手書きの楽譜が散らかっていた。中央のテーブルにはお茶の用意がしてあり、火格子の中では火が赤々と燃えている。その両脇には藺草で座部を張った肘掛椅子があった。 「座りなさい」と彼はウエストレイに言った。「ここがわたしの応接室だ。もうすぐミス・ジョウリフがきみのためにどういう手はずを整えてくれるか分かるだろう」彼は相手をちらと見て、「廊下で会ったのは彼女の姪さ」と付け加えたのだが、何気ない口調を装うとしすぎて意図していたのとは反対の効果を与えてしまった。ウエストレイは、あの若い女を人に見せたくない、何か理由でもあるのだろうかと思った。 しばらくして女主人があらわれた。六十になるこの女性は背が高くて痩せており、感じのいい、気品すらある顔立ちをしていた。彼女も古くてみすぼらしい黒のドレスを着ていたが、その外見は、痩せているのは生まれつきの体質というより、窮乏と自制が原因らしいことをそれとなく示していた。

入居の手はずは簡単に整った。問題を提起したのはかえってウエストレイのほうだった。彼はミス・ジョウリフの申し出た家賃が不当に安すぎるのではないかと気になったのである。彼ははっきりそう言うと、家賃を少しだけ割り増しすることを申し出た。それは短い逡巡のあと、ありがたく受け入れられた。 「貧乏しているくせに良心的すぎるぞ」オルガン奏者は噛みつくように言った。「今からそんなに几帳面じゃあ、修復工事でたんまりもうけたあかつきには、鼻持ちならん人間になっているわい」しかし彼はミス・ジョウリフに対するウエストレイの気遣いを明らかに喜んでいて、温かい口調でこう言い添えた。「一階のわたしの部屋で一緒に食事しよう。きみの部屋はこんな晩は氷室みたいになっている。すぐ降りてくるんだよ。さもないと亀のスープは冷えてしまうし、ほおじろの肉は焼けすぎて炭になってしまう。夜会服を着てくることは免除してあげよう。大礼服を持っているなら話は別だが」 ウエストレイは喜んで招待を受け、一時間後に彼とオルガン奏者は暖炉をはさんで藺草張りの肘掛椅子に座っていた。ミス・ジョウリフがみずからテーブルを片付け、タンブラーとワイングラスを二つずつ、それに砂糖と水差しを持ってきた。まるでそれらがオルガン奏者の居間にあってしかるべきものだとでもいうように。 「教区委員のジョウリフには悪いことを言ってしまったな」ミスタ・シャーノールは心ゆくまで食事をしたあとの瞑想的な気分に浸って言った。「あそこのソーセージはなかなかうまい。もっと石炭をくべたまえ、ミスタ・ウエストレイ。九月に火を入れるなんて罪深い贅沢だ。石炭はトンあたり二十五シリングだしね。しかし修復工事の開始ときみの歓迎のために何かお祝いをしなければならない。煙草をパイプに詰めて、わたしに回してくれ」 「ありがとうございます。でも煙草はやらないので」とウエストレイは言った。実際彼は煙草を吸うようには見えなかった。彼の顔には根っからの禁酒家が持つかすかな冷淡さがあり、煙草を吸うなど自分にとっては犯罪に等しく、自分ほど気高い道徳規準を持たない人にあっては不作法を意味すると語っているかのようだった。 オルガン奏者はパイプに火をつけ、話をつづけた。 「ここは風通しのいい家だよ――衛生的でわれらが友人のお医者様も満足なさるだろう。どの窓にもひび割れ、隙間があって、換気には細心の注意を払っている。昔は古い宿屋だったんだよ、このあたりにもっと人がいた頃はね。正面が雨に濡れると今でもペンキを透かして『神の手』という字が読める。この外で市が開かれていたんだ。百年以上前だが、リンゴ売りの女がちょうどこの家のドアの前で青リンゴを客に売っていた。客は金を払ったと言うんだが、女は受け取っていないと言う。それで喧嘩になって、女は嘘をついていないことを証明するため天にむかって呼びかけたのさ。『神様、もしもわたしが客の金に手を触れていたら、どうぞ打ち殺してくだされ』とね。そのことば通り、彼女は絶命して小石の上に倒れた。手には銅貨が二枚握られていたよ。そんなもののために魂を失うとはね。人々は神の正義が示されたことをちゃんと後生に伝えるためには、宿を建てるのがいちばんだと、さっそくそう考えた。それで『神の手』が建てられ、カランが栄えていたときは栄え、カランがうらぶれるのと一緒にうらぶれたのだ。わたしが物心のつく頃からずっと空き家だったのだが、十五年前にミス・ジョウリフが買い取った。彼女がここを高級下宿屋ベルヴュー・ロッジに変え、あのけちんぼ地主のブランダマー老人が修繕費用として寄こしたなけなしの金をつぎこんで正面の『神の手』という文字をペンキで消したのだ。ここはカランに来たアメリカ人の保養施設になるはずだった。旅行案内を見るとピルグリム・ファーザーズの父親が何人かカランに埋葬されているということで、アメリカ人がカラン大聖堂までやって来るらしい。しかしアメリカ人なんて見たことがない。わたしの目につかないところにいるんだろう。子供のときから六十年ここに住んでいるが一ペニーだってアメリカ人がカラン大聖堂に寄付したり、ミス・ジョウリフのために使ってくれたって話は聞いたことがない。連中は誰もベルヴュー・ロッジにやって来ないし、高級下宿屋は高級すぎて下宿人がきみとわたしだけというありさまだ」彼は一息ついてから話をつづけた。「アメリカ人か。感心しないね、アメリカ人というのは。わたしから見るとずいぶん図々しい連中だよ。自分の楽しみのためには大金をつぎこみ、ときには大口の寄付をして格好いいところを見せるが、ちゃんとそのことが喧伝されるということを見越した上でやっているのさ。彼らには温かい心ってものがない。アメリカ人なんて気に入らないね。でもきみ、アメリカ人に知り合いがいるのなら、わたしは金次第でころっと意見を変える人間だからね。誰かわたしのオルガンを直してくれたら、アメリカ人みんなを褒め称えるよ。ついでに送風器として小さいウオーター・エンジンもつけてくれなければいけないよ。カリスベリ大聖堂でオルガンを弾いているシャターは最近ウオーター・エンジンを取りつけてもらってね。カランにも新しい水道ができたんだから、われわれだって使えるはずなんだ」 ウエストレイは興味がなかったので、話題を戻した。 「ミス・ジョウリフは生活が苦しいんですか。昔は裕福だった感じですが」 「苦しいなんてものじゃない。飢え死に寸前だよ。いったいどうやって生計を立てているのやら。助けたいのは山々なんだが、こっちも懐中無一文だし、金があったとしても彼女はプライドが高いから受け取りゃせん」 彼は部屋の奥のくぼみに据え付けられた棚のところへ行き、ずんぐりした黒い瓶を取り出した。 「貧乏というのは寒気のする主題《テーマ》だね。変奏《ヴァリエーション》に入る前に一杯やって暖まろう」 彼は瓶を友人のほうに押しやった。ウエストレイはつい手を出しかけたが、先頃固く決意した節制の誓いが彼を引き留め、丁寧なことばで誘惑を退けた。 「困った男だな」とオルガン奏者は言った。「どうしろというのだ。酒は飲まん、煙草も吸わん。そのくせ貧乏について話をしたがる。これは弁護士のマーテレットがくれたブランデーだよ。娘の結婚式にウエディングマーチを演奏したお礼だ。『ウエディングマーチはオルガン奏者ミスタ・ジョン・シャーノールによって華麗に奏せられた』まるでオルガン・ソナタ第四番のごとくにね。こいつはきっと関税を払っていないぞ。物品税を払った酒を六本も人にやるようなやつじゃないからな」 彼はウエストレイが思っていたよりはるかにたっぷりと酒を注ぎ、相手の驚きに感づくと、たしなめるようにこう言った。「きみが上物を厭がって飲まないから、わたしが二人分の義務を果たさなければならない。教会の窓のてっぺんまで注げ、これが原則だ」彼はさらに注ぎ足して、タンブラーの上半分についている刻み目のいちばん上まで満たしてしまった。しばらく沈黙がつづき、そのあいだ彼は怒ったようにパイプをふかしていたが、タンブラーの酒をしこたまあおると、苦虫は溶けて消え、再び話しはじめた。 「わたしはかけがいのない生活苦を味わってきたが、ミス・ジョウリフの苦労はもっと深刻だ。それにわたしの場合は運の悪さに感謝すればいいだけだが、彼女の苦労は他人のせいだからね。まずお父さんが死んだ。お父さんはウィドコウムに農場を持っていて、裕福な暮らしをしていると思われていたが、資産を整理すると、債権者に金を払ったらきれいになくなる程度でしかなかった。それでミス・ユーフィミアは家を手放し、カランに来たのだ。こんなやたらとあちこちに張り出した家を選んだのは、賃貸料が年に二十ポンドと安かったからだよ。姪には(さっき見た娘だ)実を与えて自分は皮を食べるといったその日暮らし、いやかつかつの生活をしていた。そうしたら一年前、兄のマーチンが無一文のうえに、身体に麻痺を抱えて戻ってきた。ずぼらな糞ったれさ。おいおい、予言者のうちなるサウル(註 サムエル記から。本章末尾註も参照)を見るみたいな、そんな顔はしないでくれ。あいつはわたしと違って酒を飲まなかったよ。飲んでいればもっとましな人間になっていたかも知れんがね」オルガン奏者はまたずんぐりした瓶に手を伸ばした。「酒を飲んでいたら彼女に迷惑をかけることも減っていただろう。ところがいつも借金してトラブルに巻きこまれ、避難場所に帰るように妹のところへ帰ってくる。彼女に愛されていることを知っていたのだな。彼は頭がよかった。今風にいえば切れる男だった。しかし水みたいに落ち着きがなく、辛抱がきかないのだ。彼は妹にたかるつもりはなかったと思う。たかっていることに気がついてもいなかっただろう。しかしやっていることはそういうことだったのさ。彼は何度も旅に出た。どこに行くのか誰も知らない。もっとも何を探しているのかはよく知っていたがね。あるときは二ヶ月、あるときは二年間いなくなった。そのあいだ、ずっとミス・ジョウリフがアナスタシア――つまり姪――を養い、夏のあいだだけでも下宿人ができたりして、ようやく苦労から抜け出せそうだと思ったら、マーチンが舞い戻り、借金返済のために金をせびったり彼女の貯えを食いつぶすのだ。わたしは何回もその光景を見たし、彼らのことを思って何度も胸を痛めた。しかしわたしに何ができるというのだ?こっちも素寒貧だというのに。一年前、最後に彼が戻ってきたとき、顔に死相が浮かんでいたよ。それを見てわたしは喜び、彼らに心配をかけるのもこれで終わりだと思った。けれどもそれは麻痺だったのだ。それに彼は丈夫な男で、馬鹿のエニファーが彼を殺すのにえらく手間取った。彼が死んだのはほんの二ヶ月前さ。あの世ではもっと幸せに暮らしていることを願って乾杯しよう」 オルガン奏者は不作法にならない程度に酒をしたたかあおった。 「そんな陰気な顔はよしてくれ。いつもこんなにひどい訳じゃない。元手がないんでね。マーテレットから毎日ブランデーがもらえるわけでもないし」 過度の不節制に思わず顔をしかめていたウエストレイは、非難がましい表情を打ち消すと、次のような質問をしてミスタ・シャーノールの舌を再び滑らかにした。 「ジョウリフは何のために旅に出たんですか」 「ああ、そいつは長い話だ。またもや雲形紋章さ。教会で話しただろう――銀色と海緑色が彼を狂わせたのだ。自分はジョウリフ家の者ではない、ブランダマー家の一員だ、そしてフォーディングの正当な後継者だ、彼はそう思いこんだのだ。子供のときはカラン・グラマー・スクールに通い、成績は優秀、オックスフォードでは奨学金をもらった。大学ではさらに優秀な成績を収め、世の中に出て出世街道をまっしぐらというときに、この雲形紋章が熱病のように彼をつかまえ、彼の心に取り憑いてしまった。後年、彼の身体をじわじわと侵していった麻痺みたいにね」 「よく分からないのですが」とウエストレイは言った。「なぜ彼はブランダマー家の人間だと思ったのですか。父親が誰か、知らなかったのですか」 「彼は十五年前に死んだ小地主、マイケル・ジョウリフの倅として育てられた。だがね、マイケルの結婚相手は自称未亡人で、三歳になる男の連れ子がいたんだな。その子がマーチンなんだ。マイケルは彼を自分の子供として引き取り、彼の頭のよさを自慢にし、大学にやり、遺産をすべて彼に残した。オックスフォードでうぬぼれ出すまで、ジョウリフ家の人間じゃないんだ、などという話はしていなかったのだが、突然この気まぐれな考えに取り憑かれ、残りの人生を父親探しについやしたというわけだ。荒野をさまようこと四十年。あれやこれやの手がかりを見つけ、ついにピスガ山に登り約束の地を眺め見ることができると思ったのだが、しかし彼はその景色を、いや、その蜃気楼だな、それを見るだけで満足しなければならなかった。そして乳と蜜を味わう前に死んでしまったのさ」 「彼は雲形紋章とどういう関係があったんです?どうしてブランダマー家の一員だと思いこんだのですか」 「ああ、今はその話はしたくないよ」オルガン奏者は言った。「もしかしたら、わたしはとっくにしゃべりすぎているのかも知れない。わたしが何か言ったなどと、ミス・ジョウリフに悟られないようにしてくれよ。彼女はマイケル・ジョウリフの実の子供だ――唯一の子供だ――しかし彼女は腹違いの兄をとても愛していて、彼のいかれた振る舞いを人にからかわれるのがいやなのさ。もちろんカランの口さがない連中は彼のことでいろいろな噂話をする。その都度、ますます髪が白くなり、狂気じみた表情になって彼が戻ってくると、連中は『雲形じいさん』と彼のことを呼び、ガキどもは道で彼に会うとお辞儀をし『お早うございます、ブランダマー卿』とやるんだ。彼の話はたっぷり聞く機会があるだろう。可哀想な妹にとっちゃあ、耐えられないくらいつらいことなんだよ、兄さんがからかわれ、笑いものにされているのを見るのは。そのあいだも兄貴は妹の貯金を食いつぶしているんだがね。しかしそんなことはみんな終わった。マーチンは雲形紋章なんか誰もつけないところへ行ってしまった」 「彼の妄想に根拠はなかったのですね」ウエストレイは訊いた。 「それはわたしより賢い人間に訊きたまえ」オルガン奏者は無関心そうに言った。「主任司祭か、医者か、誰か本当に利口な人にね」 彼は冷笑的な口調にかえっていたが、そのことばには、頭がおかしいのではないかという、先ほどの疑惑を思い出させる何かがあり、ふとウエストレイは、ジョウリフ家との付き合いが長すぎてミスタ・シャーノール自身にもマーチンの妄想がのりうつったのかも知れないと考えた。

話し相手はブランデーをさらにつぎ足し、建築家はお休みなさいといとまを告げた。 ウエストレイの部屋は上の階にあり、彼はさっそく寝室に入った。旅やら午後聖堂の中に長いこと立っていたせいでひどく疲れていたのである。荷物が解かれ、服が丁寧に引き出しに収められているのを見て彼は喜んだ。これは彼がなかなか味わえない贅沢であり、しかも染み一つない白いカーテンとベッドのシーツには溌剌とした暖炉の火影が揺れていた。 ミス・ジョウリフとアナスタシアは二人で鞄を抱えながら家の最下部から最上部まで大きな石の螺旋階段を登った。ちょっとした力仕事でしばしば息継ぎに立ち止まったり、痛んだ腕を休めるために鞄を下に置いたりした。ようやく上の階まで運び上げ、その革紐が解かれたときにミス・ユーフィミアは姪を部屋から追い出した。 「いけないわ。片付けはわたしがします。殿方の衣類を整理するなんて、若い娘がすることじゃありません。わたしもそんなことはしたくなかった頃があるけど、今はもうお婆ちゃんだから、あまり関係がないの」 彼女は話をしながら鏡を見て、キャップからはみ出した白髪を軽くかき上げ、蝶結びにした首飾りのリボンを直して、できるだけすり切れた部分が隠れるようにした。アナスタシア・ジョウリフは部屋を出るとき、年老いた顔のしわがいつもより少なく、しかも華やいだ表情を浮かべていると思い、叔母が結婚しなかったことを不思議に思った。若者は年老いた未婚女性を見ると、彼女が結婚しなかったのは男性から見むきもされなかったからだと考える。六十の衰えた容色の中に十六の美しさを読み取ることは難しい――はるか昔に熱烈な求愛を受け、それが涙によってかき消された記憶が老いの穏やかな表情の下に埋もれ、いまだに忘れ去られず残っているとはなかなか想像できないものだ。 ミス・ユーフィミアはすべてを注意深く整頓していった。建築家の持ち衣装はごくつつましいものではあったが、彼女にはよくそろっていて高価なもののようにさえ見えた。しかし彼女はウズラが逃げこんだ場所を見定める猟師のような目で、いろいろな穴やらほころびやらボタンがなくなっていることを見いだし、暇な折りにさっそくそれらを繕ってやろうと決心した。一定の歳を過ぎるとまともな女性はすべからく裁縫仕事をしたり、その仕上がりを思い浮かべることにまざまざと貴重な喜びを感じるようになるものだ。 「お気の毒にねえ」と彼女は独り言を言った。「ずっと着るものの面倒を見る人がいなかったんだわ」そして可哀想だと思うあまり、つい寝室に火を入れるという贅沢なもてなしにはしってしまった。

上の階の準備が終わると彼女は下に降りてミスタ・ウエストレイの居間がきちんと整理されているか点検した。そこを見回っているとき、下の階からオルガン奏者が建築家に語りかける声が聞こえてきた。その声はひどく低くてしわがれており、彼女の足の裏に響くように思われた。彼女は暖炉の上の飾りに軽くはたきをかけた。それは段々になった置物で、鏡を取り囲むように意味もなく小さな棚やくぼみができていた。金物屋の未亡人ミセス・カイゼルがカランを離れるときに家財道具を売りに出し、そのときのオークションの目玉として出されたものをミス・ジョウリフが買い上げたのだ。 「これはオーバーマンテルよ」彼女はそれが家に持ってこられたとき、怪訝そうな顔をしていたアナスタシアに言った。「本当は買う気がなかったのだけど、朝からずっと何も買っていなかったし、競売人がわたしを睨むように見るから入札しなければならないような気がしたの。そうしたら他の人はみんな黙っているじゃない。それでここにあるわけ。でもこれがあるとお部屋の体裁がちょっとよくなると思うわ。もしかしたらこれを見て下宿人が来てくれるかも」 そのあと青いエナメル塗料で鮮やかに色を塗り直し、マーチンがあるとき放浪の旅の土産として持ってきたブルサシルクで花綵《はなづな》を作って横に飾り、水銀の剥げかかっている箇所が見えないようにした。ミス・ジョウリフは花綵をちょっとだけ前のほうに引っぱり、横のくぼみの一つに置いてある、半世紀前にビーコンヒルの定期市で買ったよい子のお茶碗セットを置き直した。模造の果物を入れたバスケットの、ドーム形のガラス蓋を拭き、暖炉からつきだした防火用ついたてのねじを締め、ステレオスコープの下に敷いたビーズマットのしわを伸ばし、最後に親切そうな顔に満足しきった笑みを浮かべて部屋を見回した。

一時間後ウエストレイは眠りにつき、ミス・ジョウリフはお祈りを唱えていた。彼女は自分の家にふさわしい、紳士的な下宿人を寄こしてくれた天の配慮に特別な感謝を捧げ、この屋根の下にいるあいだは彼が幸せでありますようにと、心をこめて祈りを捧げた。しかしお祈りはミスタ・シャーノールのピアノの音にさえぎられた。 「とっても素敵な演奏ね」彼女は蝋燭を消しながら姪に言った。「でも夜遅くに弾くのはやめてほしいわ。お祈りのとき、わたし、そのことをちゃんと強く念じていなかったみたい」 アナスタシア・ジョウリフは何も言わなかった。彼女はオルガン奏者が古いワルツを乱暴に演奏していたのが悲しかった。しかも演奏の仕方から彼が酔っていることを知っていたのだ。

(註 シャーノールの「予言者のうちなるサウルを見るみたいな、そんな顔」という台詞は「サムエル記」十九章二十~二十四節に言及している。サウルがダビデとサムエルのもとに使者を送るが、何度送っても使者は予言者の仲間入りをしてしまう。サウルは最後にみずから出むくが、彼も予言者の仲間入りをする。シャーノールはマーチンがろくでなしだと言うが、ウエストレイから見れば、奇妙な振る舞いをし、酒をあおるシャーノールもろくでなしの仲間でしかない。シャーノールは不思議なくらい鋭くウエストレイの心を読む)