Category: Novels

下宿人

ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。 この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく心地よい一場面を見出しただろう。深々とした革の肘掛け椅子にもたれていたバンティングはきれいにひげを剃って、こざっぱりした身なりをしている。その風采にはむかし長年にわたって勤めあげた「誇り高き使用人」の...

Summary

ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。 この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく心地よい一場面を見出しただろう。深々とした革の肘掛け椅子にもたれていたバンティングはきれいにひげを剃って、こざっぱりした身なりをしている。その風采にはむかし長年にわたって勤めあげた「誇り高き使用人」のおもかげが今も残っていた。

Chapters

19. 第十九章

警察の友人が戻ってきたとき、ミセス・バンティングはずいぶん長いことそこに座っていたような気がした。実際は十五分程度であったのだけれど。 「さあ、行きましょう」と彼はささやいた。「もうすぐはじまります」 彼女は彼について廊下に出、急な石の階段をのぼり、検死法廷に入っていった。

20. 第二十章

審問は定刻にはじまったから今からでも遅くはないのだが、ミセス・バンティングはどんなに強制されてもイーリングに行く気力はないと思った。すっかりくたびれはて、何も考えることができないくらいだった。

12. 第十二章

「デイジーが行かなくってどうするの。当たり前じゃない。いつも思う通りになるとは限らないのよ――少なくともこの世の中では」 夫もまま娘も同じ部屋にいたのだが、ミセス・バンティングは特にどちらかにむかって話しているようには見えなかった。彼女はテーブルのそばに立ってまっすぐ前をむき、しゃべっているときはバンティングからもデイジーからも視線をそらしていた。その...

1. 第一章

ロバート・バンティングと妻のエレンは、弱々しく燃える埋み火のまえに座っていた。 この部屋は、彼らの家が不衛生とまでは言わないまでも、すすけたロンドンの通りに面していることを考えると、ことのほか清潔で手入れが行き届いていた。ふらりと訪れた客、特にバンティング夫婦より上の階級に属する客は、その居間のドアを開けるやいなや、二人の姿に安らかな結婚生活の、暖かく...

2. 第二章

ミセス・バンティングはぎくりとして立ちあがり、暗闇のなかで耳をすました。ドアの下から差しこむ光が闇をいっそう濃くしている。ドアのむこうではバンティングが座って新聞を読んでいる。 その時、ふたたびあのびくびくとした、自信なさげなノックが大きく二回響いた。いいことを知らせるノックじゃないわ、と彼女は思った。下宿を探している人なら鋭く、間をおかず、大胆に、自...

23. 第二十三章

午後はずっと雪が降りつづいた。三人は座ったまま耳をすまし、待っていた。バンティングと妻は何を待っているのか分からなかった。デイジーはジョー・チャンドラーの来訪を告げるノックの音を待っていた。

6. 第六章

朝食の仕度はすっかりできていたけれど、ミセス・バンティングは彼が下宿人になってからはじめて呼び出しにすぐに応じなかった。しかしもう避けられない二回目の鈴の音がしたときは――その古風な家に電気のベルは取り付けられていなかった――決心して二階へあがった。

16. 第十六章

バンティングはそわそわと部屋のなかを歩きはじめた。窓のところへ行ってしばらく急ぎ足の人々を眺め、それから煖炉のほうへ戻ってきて椅子に座った。 しかし長くはそこにじっと座っていられなかった。新聞をちらりと見て、椅子から立ち上がり、またもや窓辺へ寄った。 「もうちょっと静かにしてほしいわ」と、妻がとうとうそう言った。それから数分後には「あなた、帽子とコート...

11. 第十一章

何のことはない、ジョーが訪ねてきただけだった。なぜかバンティングさえ今では彼のことを「ジョー」と呼んでいた。昔はほとんど「チャンドラー」だったのだけれども。 ミセス・バンティングは玄関のドアを細めに開けて見た。見知らぬ人間に強引になかに入られたくなかったのだ。

9. 第九章

大きなアーチ型の入り口をくぐり抜け、巧妙化した犯罪に戦いを挑む偉大な組織、ニュー・スコットランド・ヤードの心臓部に入り込んだとき、デイジー・バンティングはロマンスの王国に自由に出入りできるようになったのだと思った。三人を乗せてあっという間に上の階に連れていってしまうエレベーターも彼女にとっては新しい、胸のときめく体験だった。デイジーは今までずっと|伯母...

5. 第五章

それからの数日はどれほど静かに、どれほど平穏無事に、どれほど楽しく過ぎていっただろう。すでに日々の生活に一定のリズムが生まれつつあった。ミスタ・スルースのお世話はミセス・バンティングが疲れることなく、余裕を持ってすることができるちょうどいい仕事だった。

13. 第十三章

デイジーの父親とまま母は玄関に並んで、娘とチャンドラー青年が闇のなかへと歩み去るのを見送った。

22. 第二十二章

バンティングは驚くほど気分が楽になった。ほとんど自分が何をしているのか分からないような状態で、彼はコンロに火をつけ、妻のために朝の紅茶を淹れたのだった。 その最中に突然彼女の声が聞えた。 「バンティング!」彼女は弱々しく叫んだ。「バンティング!」呼びかけに応じて彼女のところへ飛んで行き、「なんだい」と言った。「どうしたんだ。お茶はすぐできるよ」彼はやや...

8. 第八章

午餐を出すのが普段よりもだいぶ遅れたためだろう、二階でおいしいカレイの蒸し焼きを食べたミスタ・スルースの食欲は、一階でおいしい豚の焼き肉を食べた女主人のそれをはるかに上回った。 「お加減はよくおなりでしょうか、旦那様」ミセス・バンティングはお盆を持っていったとき恐る恐る聞いてみたのだった。

7. 第七章

ちょうど時計が十二時を打っているとき、四輪馬車が門の前に停まった。 デイジーを乗せてきたのだ――頬を染め、興奮し、眼元が笑っているデイジーを。その姿を見ればどんな父親も思わず相好を崩しただろう。 「|伯母さん《オールド・アーント》がね、天気が悪かったら馬車で行きなさいって言ったの」彼女は嬉しそうにはしゃいだ。

17. 第十七章

下宿人が彼女の台所で奇怪な実験をしたその次の夜、ミセス・バンティングはぐっすりと眠ることができた。疲れすぎてぐったりしていた彼女は、枕に頭をのせるやいなや眠りに落ちてしまった。 だからこそ次の日は、朝早く目を覚ましたのだろう。バンティングが持ってきてくれたお茶を飲む暇もなく、彼女は起き上がり身支度を調えた。

18. 第十八章

どんなに苦しい体験も二回目になると恐怖感は薄れ、勇気を持って対処できるようになる。さほど困難でなくても、まったく新しい経験をするときのほうがはるかに気骨が折れるものだ。 ミセス・バンティングはすでに一度死因審問に出席したことがあった。しかも証人としてである。それはどことなくぼやけた彼女の記憶のなかでもくっきりと鮮明に思い起こすことのできる数少ない出来事...

14. 第十四章

「ようやくお帰りだぞ。よかった、よかった、エレン。番犬だってうちにいれてやりたい夜だものな」 バンティングの声には安堵感が満ちていたが、そう言いながら振り返って妻を見ることはしなかった。かわりに手にした夕刊を読みつづけた。

24. 第二十四章

当然ながらバンティングはそれ以後、絶えずうずくような恐怖と緊張にさらされつづけた。 この不幸な男は悶々と悩んだ。いったいどうしたらいいのだろう。そのときどきの気分と心理状態によって彼は大きく異なる行動方針のあいだを揺れ動いた。

15. 第十五章

バンティング夫婦はその晩、早めに床についたが、ミセス・バンティングはずっと起きていようと決心していた。その夜何時に下宿人が台所に降りてきて実験を行うのか、突き止めるつもりだった。とりわけどのくらいのあいだ台所にいるのかを知ろうと思っていた。 しかしその日は長い、ひどく不安な一日だったので、彼女は間もなく眠り込んでしまった。

26. 第二十六章

それまでマダム・タッソーの蝋人形館はミセス・バンティングにとって楽しい思い出の場所だった。彼女とバンティングが付き合っていたとき、午後のデートをよくここで過ごしたものだった。

3. 第三章

しかし下にいるバンティングにすばらしい幸運が訪れたことを伝えられる言いしれぬ幸福感と喜びに比べれば、少々冷たくはねつけられたことくらい何だというのか。

10. 第十章

これこそ願ってもない幸運だった。夫とデイジーがチャンドラー青年といっしょに出かけているあいだ、ミセス・バンティングはほぼ一時間近くも一人で家にいることができたのだから。 ミスタ・スルースは昼間はほとんど外出しないのだが、この日の午後はお茶をすませて薄暗くなってきた頃に、急に新しい服が一そろいほしいと言いだした。女主人は買い物に出ると聞いて熱心に頷いた。

4. 第四章

ミセス・バンティングは翌日の朝、実に、実に、久しぶりに、幸せな気分で目を覚ました。 しばらくはどうしていつもとちがう気分でいるのか、わけが分からなかったが、次の瞬間、はっと思い出した。

21. 第二十一章

ひどく寒い夜だった――気温がぐんと下がり、強い風が吹き、雪もよいの、誰もができることなら外には出たくないと思うような夜だった。 しかしそのときバンティングは満足しきって仕事から家に帰る途中だった。すばらしい幸運が今晩、彼にふりかかったのだ。まったく思いも寄らぬ幸運だっただけになおさらうれしかった!彼は誕生パーティーで給仕の役を務めたのだが、パーティーの...

27. 第二十七章

ミスタ・ホプキンスはミセス・バンティングとかわいらしいまま娘に恐怖の部屋を見せようとしたが、むだだった。「まっすくうちに帰りましょう」とミスタ・スルースの女主人は断固として言った。デイジーはおとなしく同意した。どういうものか娘は混乱し、下宿人が突然姿を消したことにかすかな不安を感じていた。このいつにない気持ちはまま母の顔に浮んだ驚きと、苦痛の表情によっ...

25. 第二十五章

デイジーの十八回目の誕生日は何ごともなく朝を迎えた。父親は十八歳になったらプレゼントしようといつも約束していたものを与えた――時計である。かわいらしい小さな銀時計で、彼が幸せだった最後の日に中古で買ったものだ。それも今思うとずいぶん昔のような気がした。 ミセス・バンティングは銀時計など贅沢すぎるプレゼントだと思ったが、なにしろあまりにも気分が落ち込み、...