下宿人

第十九章

Chapter 19 12,433 words Public domain Markdown

警察の友人が戻ってきたとき、ミセス・バンティングはずいぶん長いことそこに座っていたような気がした。実際は十五分程度であったのだけれど。 「さあ、行きましょう」と彼はささやいた。「もうすぐはじまります」 彼女は彼について廊下に出、急な石の階段をのぼり、検死法廷に入っていった。

法廷は大きな明るい部屋で、どことなく礼拝堂に似ていた。ギャラリーのようなものがぐるっと半円を描くようにもうけられていたのでなおさらその印象が強かった。これはどうやら一般大衆用の傍聴席であるらしい。というのは、すでにそこは収容可能な人数ぎりぎりまで人が詰まっていたからである。 ミセス・バンティングはびっしりとひしめき合う顔、顔、顔のほうにおどおどした視線をむけた。今彼女を案内している男に出会うという幸運がなければ、彼女はあそこに行かなければならなかったのだ。もちろん彼女などはじき出されていただろう。あの人たちはドアが開いたとたんに彼女にはとてもできないような押し合いと突き飛ばし合いを演じながら中に殺到してきたのだ。 そこには女性の姿もちらほらと見えた。一歩だって引くことを知らない、意志の強そうな女たちだ。その階級もさまざまのようだが、いずれも大事件の興奮に惹かれ、行きたいと思ったところにがむしゃらに突き進むその胆力に物を言わせてその場に割り込んできたのである。しかし何と言っても女性は少数派で、そこに立っている大多数は男性だった。やはりロンドンのいろいろな階級から集まってきているようだった。

法廷の中心はアリーナのようになっていた。まわりの傍聴席より二段か三段低くなっていたのである。陪審団の男たちがベンチに座っているだけで、今はまだ比較的人がいない状態だった。これらの男たちから少し離れたところに、信者席のようなものがあり、そこに七名の人間が寄り集まっていた。三人は女性で四人は男性だった。 「証人たちが見えるでしょう?」とそれらの人々を指さしながら警視がささやいた。彼は彼女がそのうちの一人と顔なじみだと思ったのだが、しかしそうだったとしても彼女は何の反応も示さなかった。

窓と窓のあいだに部屋全体とむかい合う形で小さなひな壇のようなものが設けてあった。その上には机と肘掛け椅子が置いてある。ミセス・バンティングが正しく推測したようにここが検死官の座る場所だった。台の左側には証人席があり、ここも陪審団より一段と高くなっている。 その様子ははるか昔の明るい四月に村の宿屋で行われた死因審問とは驚くほどちがうし、あれよりもはるかに厳格で畏怖の念を起こさせた。あのときの検死官は陪審団と同じ高さのところに座り、証人たちはただ一人一人進み出て、検死官のまえに立っただけだった。

恐る恐るまわりを見ながら、ミセス・バンティングはあの箱みたいな変な台に立たされたりしたら、自分はきっと死んでしまうと思い、ベンチに座る七人の証人に心の底から同情する視線を送った。 しかし彼女でさえ同情などまったくお門違いであることにじきに気がついた。証人のどの女もやる気満々、興奮して生き生きしていた。一般大衆の耳目を集め嬉しくてたまらないのである。彼らはこの胸躍るドラマに出演する女優、地味かもしれないが重要な女優であって、誰もがその役を楽しんでいることは明らかだった。しかもこのドラマは今やロンドンじゅう、いや、世界じゅうの注目を集めているといってもいい。

彼らを見ながら、ミセス・バンティングは、どの女がどの女なのだろうとぼんやり考えた。少々薄汚い格好をしたあの若い女だろうか、二重殺人の直後、十秒も経たないときに、確かに、いや、ほとんどまちがいなく復讐者の姿を見たと言うのは。犠牲者の一人が恐怖の悲鳴をあげ、それに目を覚まされて、窓辺に駆け寄ったところ、殺人者の影が霧のなかをすばやく歩き去るのを見たと言うのは。 もう一人いたはずだ、とミセス・バンティングは思い出した。復讐者がどんな外見をしていたか、詳細に語っていた女が。復讐者と彼女がすれちがうとき、実際に袖が触れ合ったらしい。

今眼のまえにいるこの二人の女は警察だけではなく、ロンドンのあらゆる新聞記者から何度も何度も質問を受けた。そして彼ら二人の証言をもとにして――もっとも不運なことに二人の証言は大きく食い違っているのだが――復讐者の人相書きが作られたのだった。それによると犯人は立派ななりをした二十八歳くらいのハンサムな若者で、新聞の包みを持っていたという。

三人目の女は、きっと死んだ女の知人か親友なのだろう。 ミセス・バンティングは証人たちから眼をそらし、別の見慣れない光景に視線を合わせた。とりわけ注意を引いたのがインクの染みたテーブルで、これは仕切りによって囲われた部分の端から端まで、つまり検死官の小高いひな壇から木の仕切りの出入り口までのびていた。彼女が入ってきたときは三人の男が忙しそうにスケッチをして座っていたのだが、今はどの席にも疲れた、頭の良さそうな男たちが腰掛けている。彼らはおのおのノートというか、綴じていない紙を何枚かまえに置いていた。 「あれは新聞記者ですよ」と彼女の友だちはささやいた。「ぎりぎりまで入ってこようとしないんです。出ていくのはいちばん最後になりますから。普通の検死審問では二人か、せいぜい三人しか来ないんですが、でも今は新聞記者席のパスを申請しない新聞社は王国内に一つもないといっていいでしょう」 彼は考えるように法廷の奥を見つめた。「さて、いいように取りはからってきます」 彼は検死官補佐を手招きした。「こちらの女性をあそこの隅にお一人だけで座れるようにしてもらえませんか。お亡くなりになった方のご親戚なんですが、ただ――」彼が一言二言小声で言うと相手は同情したように頷き、ミセス・バンティングを好奇の眼で眺めた。「こちらにおいでいただきましょうか」と彼は言った。「あそこには今日は誰も来ないんです。証人が七名しかいませんしね――もっとたくさんいるときもあるんですけど」 彼は優しく彼女を誰もいないベンチに座らせてくれた。そのむかい側には七人の証人が立ったり座ったりしていた。やる気満々の気負った表情で、いつでも自分の役を演じる準備があるような――いや準備どころかそれ以上の意気込みに燃えているような様子だった。

一瞬、法廷じゅうの眼がミセス・バンティングに集中した。しかし彼女をじろじろと熱心に見つめていた人々もすぐに彼女が事件と何の関係もないことに気づいた。どうやらただの観客らしい。ただほとんどの人とちがって幸運にも法廷に知り合いがいたのだ。だから群集のなかに立ち混じることなく椅子に座って楽にすることができたのだ。 しかし彼女は長いこと一人ぽつねんとそこに座っていたわけではない。下で見かけた偉そうな紳士たちがすぐに法廷に入ってきて、彼女の席のほうへ案内されてきた。そのうち二人か三人は新聞記者席へと招じ入れられた。ミセス・バンティングが親友みたいにその顔をよく知っている、例の有名な新聞記者もそこには含まれていた。 「検死官の入場です」 陪審団はどやどやと立ちあがり、また座った。聴衆は急にしんと静まりかえった。 そのあとつづいて起こったことは、遠い昔、田舎で行われた形式ばらないささやかな検死審問を、はじめてミセス・バンティングに思い出させた。 まず「オウイェズ!オウイェズ!」という声が聞こえてきた。死の原因――突然の、不可解な、恐るべき死の原因――を厳密に調べることが仕事である人々への、古いノルマン・フレンチの呼びかけである。

陪審団は全部で十四人だったが、全員がまた立ちあがった。彼らは手を挙げ、奇妙な誓いの文句をおごそかに一斉に繰り返した。

検死官と補佐のあいだでくだけた会話がすばやくかわされた。 ええ、準備のほうはとどこおりなく。陪審団は死体を二体とも――と言いかけて彼は急いで訂正した――死体を見ております。この検死審問の対象となるのは厳密に言えば一体の死体のみだったのである。 かすかな衣擦れの音すら法廷じゅうに聞こえそうな完璧な静寂のなか、検死官は――賢そうな顔付の紳士だったが、このように重要な日に、このように重要な役目を果すにはいささか年若いような気がミセス・バンティングにはした――恐ろしい、謎めいた復讐者のいわば犯罪歴を簡単に振り返った。

彼は非常に明快な話し方をし、それが次第に熱を帯びていった。

彼は以前、復讐者の犠牲となった一人の人間の検死審問に出たことがあると言った。「専門家としての興味から行ったにすぎないのですが」と彼は余談としてそんなことを言った。「まさかわたし自身が、不運な人々の一人の審問を担当することになろうとは思ってもいませんでした」 彼は延々と話しつづけた。もっとも本当のことを言えば、彼に言いたいことなどほとんどなかったのである。しかも彼が言うべき少しのことは、聴衆の誰もが知っていることだった。 ミセス・バンティングはそばに座る年老いた紳士が別の紳士にこうささやくのを聞いた。「できるだけ引き延ばそうっていうんだな。あいつめ。いかにも楽しんでいるといった感じだな!」すると相手がささやき返した。「そう、そう。しかしあいつはいいやつだよ――父親を知っているんだ。学校でいっしょだった。えらく仕事熱心な男でね。とにかく今日も一生懸命やっているよ」

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彼女は一心に耳をすませた。隠された恐怖から彼女を開放してくれる単語や文が発せられるのを、あるいは逆にそれらを裏付ける単語や文が発せられるのを、今か今かと待ちながら。しかしそんな単語や文は一度も飛び出してこなかった。 それでも検死官はその長い演説のしめくくりに何か意味のありそうなことを――あるいは何の意味もないことを――言ったのだった。 「本日この場において得られた証言が、この恐るべき犯罪を犯し、今なお犯しつつある無法者の逮捕へと将来つながるのではないか、われわれがそういう希望を持っていることをここに申しあげておきたいと思います」 ミセス・バンティングは不安そうに検死官の決意を秘めた、毅然たる顔を覗きこんだ。今のはどういう意味だろう。何か新しい証拠があるのだろうか――たとえばジョー・チャンドラーが知らないような証拠が。心のなかでそう問いかけたとたん、彼女の心臓はいきなり飛びはねた。大きなたくましい男が証人席についていた――ほかの証人たちとはいっしょにいなかった警察官だ。 しかし彼女の不安と恐怖はすぐに鎮められた。この証人は最初の死体を発見した警官にすぎなかったのだ。早口なてきぱきした話しぶりで、彼は十日まえの寒い、霧の夜の出来事を正確に説明した。地図を見せられ、ゆっくりと考えながらその太い指で印をつけた。ちょうどこの位置であります――いや、まちがえました――ここは別の死体が横たわっていた場所であります。二つの死体が――ジョハンナ・コベットとソフィー・ハートルの死体が――頭のなかでごっちゃになっておりましてと、彼は申し訳なさそうに釈明した。 そのとき検死官が威厳たっぷりに口をはさんだ。「この検死審問の目的のためには」と彼は言った。「しばらく二つの殺人をまとめて考えなければならないと思います」 そのあと証人は緊張感が取れたように話しつづけた。早口な一本調子の説明を聞くうちに、復讐者の犯行の圧倒的な恐ろしさがミセス・バンティングをとらえた。血も凍るような怖れと――そう、深い後悔の念が津波のように彼女をとらえたのだ。 それまで復讐者に殺された酔っぱらいの犠牲者のことなど、考えたこともなかった。考えたとしても脳裏をかすめる程度でしかなかった。彼女の頭は復讐者のことでいっぱいだったのだ――復讐者と彼を追いかけようとしている人々のことで。だけど今はどうだろう。彼女は今日、ここに来たことを激しく後悔していた。警官の言葉がありありと喚起した情景を、はたして心のなかから――記憶のなかから、消すことができるだろうかと、彼女は思った。 そのとき興奮と興味のどよめきが法廷じゅうから湧き起こった。警官が証人席から降り、かわりに女性の証人の一人がそこへ導かれていったのだ。 ミセス・バンティングは興味と同情を感じながらその女を見た。そう言えばわたしも恐ろしさにがたがたと震えたものだ、あの哀れな、みすぼらしい、平凡な見かけの女が今そうしているように。女は一分まえまではずいぶん陽気で、ずいぶん嬉しそうにしていたのだが、しかし今や顔色は青ざめ、狩りたてられたけもののようにあたりを見まわしていた。 しかし検死官はとても優しかった。その物腰は証人を安心させる穏やかなもので、水死した娘の検死審問でエレン・グリーンを優しく扱ってくれたあの検死官とちょうどそっくりだった。

証人が単調な声で厳かな誓いの言葉を繰り返したあと、彼女は順々に目撃談を語らされていった。ミセス・バンティングはすぐに彼女が寝室の窓から復讐者を見たと言う女であることを知った。話が進むにつれて自信を得たのか、証人は押し殺された悲鳴が長く尾を引くように響き、深い眠りから起こされ、本能的にベッドから飛び起きて、窓に駆け寄ったことを話した。

検死官は机の上に置いてある何かを見下ろした。「さて、ここに地図があります。あなたの下宿先は二つの犯罪が起きた路地のちょうど真向かいにあるんですね」 そこで簡単な、意味のないやり取りがかわされた。家じたいは路地のほうをむいていないのだが、証人の寝室の窓は路地を見下ろしていたのである。 「重要なちがいはありませんね」と検死官はいらだたしそうに言った。「では窓を覗いたとき何が見えたか、簡潔に分かりやすくおっしゃってください」 人で混み合う法廷に完全な静寂が訪れた。女がそれまでよりももっと冗舌に、確信に満ちた声で話しはじめた。「わたし、あいつを見たんです!」と彼女は叫んだ。「二度と忘れないわ――死ぬまで忘れるもんですか!」そう言って彼女は挑戦するようにまわりを見た。 ミセス・バンティングはこの女の一階下の住人を取材した新聞記事をふと思い出した。その人は意地悪っぽくこう言ったのだった。リジー・コールはあの晩、ベッドから起き出したりはしなかった、彼女の話はみんなでっち上げだ、と。自分は眠りが浅いのだ、と取材された女は言った。あの晩は病気の子供を看病していた。だからリジー・コールが言うような悲鳴があったり、リジー・コールがベッドから跳ね起きる音がしたら、きっとそれを耳にしていたはずだ。 「その点はよく分かっているのですよ、あなたが」――検死官は躊躇した――「この恐るべき犯罪を行った人間を見たと考えていることは。しかしあなたからお聞きしたいのは、その人の人相です。誰もが霧が出ていたことを認めていますが、あなたは彼が窓下を歩くのをはっきり見たとおっしゃる。ですので、彼がどんな様子をしていたか、どうかそのことを話してください」 女は手にした色つきのハンカチの隅をねじったり、元に戻したりしはじめた。 「はじめからお聞きしましょう」と検死官は忍耐強く言った。「その男は路地から急ぎ足で出てきたとき、どんな帽子をかぶっていましたか」 「ただの黒い帽子でしたよ」と証人はようやくしゃがれた、やや動揺した声を出した。 「なるほど――ただの黒い帽子。ではコートはどうです。男が着ているコートはどんなものか分かりましたか」 「コートは着てなかったんです」と彼女はきっぱりと言った。「コート無しですよ!それははっきりおぼえてる。だってすごく寒かったんですから。あんな天気でコートを着ない人なんていませんよ」 陪審員の一人は新聞の切り抜きを読んでいて、証人の発言にはいっこう耳を傾けていないようだったが、そのときばかりは飛び上がって手を挙げた。 「何でしょうか」検死官は彼のほうを振り向いた。 「ちょっと申しあげたいんですが、こちらの証人――リジー・コールさんとおっしゃるのならですね、彼女は最初、復讐者はコートを着ていたと言っているんですよ。大きな厚手のコートを着ていたって。ここに書いてあります、この新聞に」 「あたし、そんなこと言わなかった!」と女はかんかんになって言った。「イヴニング・サンの若い記者が来て、そういうことをわたしに言わせたのよ。そいつは自分の好きなことを新聞に載せたんだわ――あたしは一言もそんなこと言っちゃいないのに!」 これに対して失笑がもれたが、すばやく静められた。 「これからは」と検死官はもう着席しているさきほどの陪審員にむかってきびしい調子で言った。「お尋ねになりたいことがあるときは、陪審長を通して訊くように。それからわたしの取り調べが終わるまで待ってください」 しかしこの中断――この非難は、証人をすっかり動転させてしまった。彼女はどうにもならないほど矛盾したことを言いはじめた。窓の下の薄暗がりを急ぎ足で通り過ぎた男は背が高かった――いいえ、低かったわ。やせていて――ちがう、太りぎみの若者だった。彼が何かを手に持っていたかという点になると、実に激しい議論が繰り広げられた。

証人は断定的に、自信たっぷりに、新聞紙の包みを脇に抱えていたと言った。うしろ姿を見たときも、それは脇からはみ出して見えた――そう彼女は言い切った。しかしロンドン警視庁の捜査官にはじめて目撃証言をしたとき、彼女はそんなことを一言も言っていなかった。そのことはごく穏やかに、しかしきっぱりと証明された。実のところ彼女は、男は手ぶらだった、何も持っていなかった、と断言していたのだ。両腕を前後に振っているのが見えたとも言っていた。

検死官は一つの事実――それが事実と呼べるならの話だが――を引き出した。リジー・コールは、男が窓の下を通るとき、顔をあげて彼女を見た、とみずからすすんで証言したのである。それはまったく新しい証言だった。 「あなたを見あげたのですか」と検死官は繰り返した。「取り調べを受けたとき、そんなことは何もおっしゃっていなかったが」 「こわかったから、何も言えなかったのよ。死にそうなくらいこわかったから!」 「あの晩は暗くて霧が出ていたことは知っていますが、本当に顔を見たというのなら、どんな人相だったか教えてもらえませんか」 しかし検死官の声は熱意を失い、手は机の上をさまよっていた。今や法廷にいる人間は誰ひとり女の話を信じていなかった。 「浅黒かった!」彼女は芝居がかった声で答えた。「浅黒くて、黒人みたいだった!分かるかしら、黒んぼうみたいな感じ」 クスクスという笑い声が聞こえてきた。陪審団さえにやりと笑った。検死官は鋭くリジー・コールに証人席を降りるよう言った。

次の証人ははるかに信憑性のある証言をした。 さきほどの証人よりも年のいった、おとなしそうな女性で、慎み深く黒い服を身につけていた。彼女の夫は犯罪のあった路地、あるいは抜け道から百ヤードほど離れたところにある大きな倉庫の夜警をしていた。そのため夫がいつも午前一時に食べる夜食を届けに彼女は外出したのだった。すると男が荒く息をはずませながら急ぎ足で彼女のそばを通りすぎた。彼に注意をむけたのは、その時間に人に会うことがめったになかったからで、また男の表情と振る舞いが奇妙で異様だったからである。 じっと聞き入っていたミセス・バンティングは、警察が出した復讐者の人相書き――彼女、エレン・バンティングをほっと安堵させたあの人相書き――は主にこの証人の言ったことをもとに作られたのだと思った。

証人は静かに、自信を持って話をし、男が持っていた新聞の包みに関しては非の打ち所がないくらい明快で確かな証言をした。 「ひもで小さくくくられた包みでございました」と彼女は言った。

立派ななりをした若者がそんな包みをかかえているというのが、彼女にはちぐはぐに感じられた――だからこそ包みに目が行ったのである。しかし重ねて尋ねられると、あの晩はひどく霧が深かったこと――通りなれた道だったが、迷子になりそうなくらい霧が濃かったことを認めた。

三人目の女が証人席に立ち、ため息をついたり涙を流したりして、亡くなった被害者の一人、ジョハンナ・コベットと交友があったことを語ると、同情のざわめきが起こった。しかし故人となった「アニー」は酒さえ飲まなければ、優しい上品な女になっていただろうとしぶしぶ認めたことをのぞいて、捜査に新たな光を投げかけるようなことは何も言わなかった。

彼女への尋問はできるかぎり簡略化された。その次の証人、ジョハンナ・コベットの夫に対する尋問もそうだった。彼はきわめて堂々とした恰幅のいい男で、クロイドンにある大きな会社の作業長をしていた。彼は自分の社会的地位に強いこだわりがあるようだった。妻とは二年間会っていません。半年ほど消息を聞いていませんでした。酒を飲むようになるまえは、すばらしい妻で――ええ、すばらしい母でもありました。

心ある人、想像力のある人は、そのあと、またもや胸の苦しくなるような数分間を過ごさなければならなかった。殺された女の父親が証言台に立ったのである。彼は夫よりも娘の最近の様子を知っていたが、しかしもちろん娘の殺害、あるいは殺害者について新しい情報を与えることはできなかった。

店じまいの直前に二人の女に酒をついだバーテンはかなり手荒い扱いを受けた。彼はさっそうと証言台に立ったのだが、引きさがるときは下をむいておろおろしていた。 このあとまさかと思うような実に劇的な出来事が起きた。それは新聞各紙が夕刊に派手に書き立て、ミセス・バンティングを憤慨させた出来事だった。しかし検死官も陪審員もそれにさしたる重要性を認めなかった――結局のところ、彼らがどう考えるかが肝腎なのである。

審問の進行が一時とどこおっていた。七名の証人全員の聴取が終り、ミセス・バンティングの近くにいた紳士がこうささやいた。「次はドクタ・ゴーントが呼ばれる。この三十年ほど、大きな殺人事件には必ず喚問されているんだ。何か面白いことを話してくれると思うよ。わたしは彼の話を聞きに来たようなものなんだから」 しかし検死官のそばに腰かけていたドクタ・ゴーントが立ちあがるよりも早く、一般の観衆のあいだから、より正確には、傍聴席と法廷をへだてる低い木の入り口近くに立っていた観衆たちのあいだから、ざわめきが起こった。

検死官補佐が申し訳なさそうに検死官に近づき、封筒を手渡した。ふたたび法廷に完全な静寂が訪れた。 ややとまどったような表情で検死官は封筒を開けた。そこに入っていたメモ用紙を見つめ、それから顔をあげた。 「ミスタ――」彼はもう一度視線を落とした。「ミスタ、ええ、ミスタ、これはキャノットでしょうか」彼は心もとなさそうに言った。「どうかまえのほうへ」 観衆のあいだから忍び笑いがもれ、検死官は顔をしかめた。

立派な毛裏の外套を身につけ、生き生きしたピンク色の顔に頬髭を生やし、こざっぱりした、しゃれた恰好の老紳士が、一般の観衆に混じって立っていたその場から証人席へと案内されてきた。 「これはいささか異例の取り計らいです、ミスタ、ええ、キャノット」と検死官はきびしく言った。「このようなメモは審問がはじまるまえにわたしに送っていただかねばなりません。こちらの紳士は」と彼は陪審団にむかって言った。「われわれの捜査に関連してきわめて重大な情報をお持ちとのことです」 「わたしが黙っていたのは――知っていることを胸に秘めたままにしていたのは」――ミスタ・キャノットは震える声でそう話しはじめた。「新聞が怖くてたまらなかったからです!わたしが何か言ったら、たとえ警察に対してしゃべったとしても、わたしの家は記者とか新聞社の人間に取り囲まれるでしょう‥‥わたしには病弱な妻がいます、検死官殿。そんなことが起きたら――わたしが怖れているようなことが起きたら――妻は死んでしまうかもしれません。この審問の記事だって読ませたくはないのです。さいわい妻には優秀な看護婦がついていて――」 「宣誓をしてください」と検死官が鋭く言った。彼はもうこのくだらない人物に発言の機会を与えたことを後悔していた。 ミスタ・キャノットはそれまでのほとんどの証人たちとちがい、威儀を正して重々しく宣誓した。 「陪審団に申しあげます」と彼は話しはじめた。 「おやめください」と検死官がさえぎった。「よろしいですか。わたしの言うことをよく聞いてください。あなたはこの手紙にこう書いている。例の――例の――」 「復讐者ですね」とミスタ・キャノットはとっさに口をはさんだ。 「この犯罪を犯した者を知っている、と。さらに今われわれが調べている殺人が行われた晩に、あなたは彼に会ったと言明していらっしゃる」 「その通りです」とミスタ・キャノットは自信たっぷりに言った。「わたし自身は健康そのものでありますが」――彼は今や面白そうに聞き入る法廷に笑顔をむけた――「わたしのまわりにいるのは病気の人ばかり、友だちも病気に苦しんでいる人ばかりです。それがわたしの運命なのでしょう。ご面倒でもわたしの個人的な事情について説明を聞いていただかなければなりません、検死官殿。夜中の一時などという突拍子もない時間にたまたま外出していた事情をご理解いただくために――」 またもやクスクスという笑い声が法廷のなかを駆け巡った。陪審団でさえ、満面に笑みを浮かべた。 「そうなのです」と証人はおごそかにつづけた。「わたしは病気の友だちといっしょでした。実は彼は死を目前にしていて、そのあと亡くなってしまいました。わたしが住んでいるところを申しあげるわけにはいきませんが、検死官殿がお手にしていらっしゃる紙には書いておきました。住所を明らかにする必要はありませんが、しかしわたしが家に帰るとき、リージェント・パークの一角を通らなければならないことはお分かりになるでしょう。そこで――正確に言うとプリンシズ・テラスの真ん中あたりですが――非常に奇妙な風体の人に呼び止められ、話しかけられたのです」 ミセス・バンティングははっと胸を押さえた。激しい恐怖感が彼女をとらえた。 「気絶なんかしちゃだめよ」彼女は急いで自分にそう言い聞かせた。「気絶なんかしちゃだめ!いったいどうしたのかしら」彼女はかぎ薬を取り出し、たっぷり長々と息を吸い込んだ。 「彼は近づきにくい感じの、やせた男でした、検死官殿。そして何とも奇妙な表情を浮かべていました。彼は教育のある男――分かりやすく言えば、紳士であると思います。特に注意をひかれましたのは、彼が独り言を言っていたことであります。それも詩を暗唱しているようでした。わたしは復讐者のことなどまったく頭にありませんでした。これっぽっちも考えていませんでした。正直に言いますが、わたしはこの紳士は施設を抜け出してきた精神病患者じゃなかろうか、と思いました。付き添い人のもとから逃げ出してきたんじゃなかろうか、と。申しあげるまでもありませんが、リージェント・パークはたいへん静かな、心休まる場所ですから――」 そのとき一般の傍聴人の一人が大声でゲラゲラ笑い出した。 「お願いします、検死官殿」と年老いた紳士は急に大声を出した。「この見苦しい不真面目な振る舞いからわたしをお守りください!わたしは市民としての義務を果すという、その目的のためにのみ、ここに来たのです」 「事件に関係のあることだけをお話しください」と検死官は冷淡に言った。「時間が経っていますし、ほかにもう一人重要な証人――お医者さんの証人を呼ばなければなりません。できるだけ手短に理由を説明してください、なぜその男が――」審問がはじまってからはじめて彼は我を折ってこの言葉を使った。「復讐者だと思ったのですか」 「その話をするところだったんですよ!」とミスタ・キャノットは慌てたように言った。「今その話しをします!もうちょっとだけご辛抱ください、検死官殿。あれは霧の深い夜でしたが、そのときはまだ大したことはなかったのです。わたしたちが――わたしと大きな声で独り言を言っていた男が――すれ違ったとき、彼はむこうに行くかわりに立ち止って、わたしのほうにむかってきたのです。わたしは妙に不安な気持ちになりました。興奮したような、取り乱したような顔をしてましたから。わたしはできるだけ気持ちを落ち着かせるようにしゃべりかけました。『ずいぶんと霧が深い夜ですね』と。すると彼は『そう――そうですね。霧の深い夜です。仄暗く、有益な行いをするにはぴったりの夜です』まったく妙な言い方じゃありませんか、検死官殿――『仄暗く、有益な行い』だなんて」彼は期待に満ちた眼で検死官を見た。 「それで?それでどうだというのですか、ミスタ・キャノット。それで終りですか。その人物が――たとえばキングズ・クロスにむかったのを見たのですか」 「いいえ」とミスタ・キャノットはしぶしぶ頭を振った。「いいえ。正直に申しあげますが、見ませんでした。しばらく肩を並べて歩いたのですが、彼は道路を横切り霧のなかに消えてしまいました」 「それでけっこうです」と検死官は言った。彼の口調はそれまでよりも優しいものになっていた。「お礼を申し上げます、ミスタ・キャノット。あなたが大切だとお考えになった情報のためにわざわざお出でいただきまして」 ミスタ・キャノットは滑稽な、時代がかったお辞儀をした。またもや観客のなかの数名がへらへらと笑った。

証人席を降りるとき、彼は振り返って検死官を見、唇を動かした。あたりはひそひそと話し合う声でざわめいていたが、少なくともミセス・バンティングははっきりと彼が言ったことを聞いた。 「一つ言い忘れました、検死官殿。重要なことかもしれません。その男は鞄を持っていたんです――どちらかというと薄い色の革鞄で、左手に持っていました。柄の長いナイフとかが入りそうな鞄ですよ」 ミセス・バンティングは記者席を見た。彼女はミスタ・スルースの鞄が消えたとバンティングに話したことを急に思い出した。そのとき強い感謝の気持ちが胸のなかに湧き起こった。インクの染みた長テーブルにむかう記者は誰一人ミスタ・キャノットの最後の言葉を書き留めていなかった。実は誰もその発言を聞いていなかったのだ。 この最後の証人はまたもや手を挙げ人々の注目を集めた。法廷はふたたび静まりかえった。 「もう一言」彼は震える声で言った。「審問が終るまで座っていてもいいでしょうか。証人席に余裕があるようですね」彼は許可されるのを待たずにすばやくそちらのほうに行き、ベンチに座った。 ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。友だちの警視が彼女のほうに身体を屈めていた。 「よろしかったらいっしょに出ませんか」彼は急いで言った。「医学的な証言なんてお聞きになりたくないでしょう?いつもそうなんですが、女性にとっては聞くに堪えない内容ですからね。それに審問が終ると人々がどっと出口に殺到します。今なら静かに出ていくことができますよ」 彼女は立ちあがり、青ざめた顔にベールを降ろし、おとなしく彼に従った。

彼らは石の階段を降り、下の大きな、今は誰もいない部屋を通り抜けた。 「裏口から出ましょう」と彼は言った。「お疲れでしょうね。家に帰ってお茶を一杯お飲みになりたいんじゃないですか」 「何てお礼を申しあげたらよろしいのやら!」彼女の眼には涙が浮んでいた。興奮と感激で身体が震えていた。「本当にご親切に」 「いやいや、とんでもない」彼は少しきまり悪そうに言った。「さぞかしつらかったでしょうなあ」 「あの老紳士はまた呼ばれるんでしょうか」彼女は小さな声で言った。相手を見あげる眼には訴えるような、苦しんでいるような色が浮んでいた。 「とんでもありませんよ!あんな変人の爺さんなんか!われわれはあの手の連中に悩まされているんです。しかもあの手合いは得てして妙な名前の持ち主なんですよ。あいつらはシティとかでせっせと仕事をし、六十になって引退すると、あとはもう退屈で首をつりたいくらいなんです。ロンドンにはあんなおかしな連中が何百人といますよ。夜中に外を歩けば必ずあんなやつらに出くわすんですから。それこそうじゃうじゃいます!」 「では、あの方の証言には何の価値もないとお考えですか」彼女は思いきって訊いてみた。 「あの老人の証言ですか。ご冗談を!」彼は気さくに笑った。「わたしの考えを教えてさしあげましょう。殺人が起きてから時間が経過しているという点を除けば、わたしは二人目の証人は確かにあの奸智にたけた悪魔を見たと思いますね――」彼は声をひそめた。「しかしドクタ・ゴーントは断言しています――彼のほかにも二人のお医者さんがそう言っているんですが――あの犠牲者たちは発見された時間より何時間もまえに殺されたんだそうです。医者というのはいつでも自分たちの証拠事実は絶対正しいと言いますからね。そう言わなければならないんですよ――さもなきゃ、誰が彼らを信じます?時間があれば、ある事件のお話をするんだがなあ――それはドクタ・ゴーントのせいで殺人者にみすみす逃げられた事件なんですよ。わたしたちはその男がやったと確信していたんです。でも犯人のやつ、ドクタ・ゴーントが鑑定した被害者の死亡時刻には別の場所にいたって、アリバイを証明しやがったんです」