第十八章
どんなに苦しい体験も二回目になると恐怖感は薄れ、勇気を持って対処できるようになる。さほど困難でなくても、まったく新しい経験をするときのほうがはるかに気骨が折れるものだ。 ミセス・バンティングはすでに一度死因審問に出席したことがあった。しかも証人としてである。それはどことなくぼやけた彼女の記憶のなかでもくっきりと鮮明に思い起こすことのできる数少ない出来事の一つだった。
当時エレン・グリーンだった彼女は、年老いた雇い主の婦人と、とある田舎の邸宅に泊まっていた。そこで思いも寄らぬ、痛ましい悲劇が起きたのだ。立派な大邸宅の落ち着きや、いかにも上品そうな雰囲気をぶちこわすように、こういう悲劇というものはときどき起きるものなのである。
下級女中のかわいい、陽気な娘が従僕を愛するあまり入水自殺した。男は恋人に激しい嫉妬をかきたてるような真似をしたのである。少女は悩み事を同僚の召使いにではなく、見知らぬ婦人のお手伝いに打ち明けたのだった。二人の女が話をしているとき、娘は自殺をほのめかした。 ミセス・バンティングは外出着を着ながら、あの恐ろしい事件の詳細と、不本意ながらも自分が演じた役回りをことこまかに思い出した。
彼女はあのかわいそうな、不幸な娘の検死審問が行われた田舎の宿屋を思い浮かべた。
執事も彼女と一緒に屋敷を出た。彼も証言をする予定だったのだ。彼らがやってくると宿屋のまわりに集まった人々は期待に胸をはずませた。村人たちが男も女もうろうろしていた。死んだ娘の運命は彼らの興味を大いにそそった。この惨事は、田舎で退屈な生活を送っている者にとっては、避けて通るよりもむしろ歓迎すべきたぐいの出来事だった。
誰もが彼女、エレン・グリーンをことのほか丁寧に、優しく扱ってくれた。その古い宿屋の二階が控え室になっていたのだが、証人たちには椅子だけでなくケーキとワインもあてがわれた。
彼女は証人になることを怖れていた。悲しい事件について自分が知るわずかなことを言わなければならないくらいなら、その居心地のいい、快適な場所から逃げ出したほうがましだと思ったことを思い出した。 しかし終ってみるとそれほど恐ろしいことではなかった。検死官はおだやかな話し方をする紳士で、彼女が不幸な少女の使った言葉を正確に証言すると、その明快で筋の通った説明を褒めてくれたくらいなのである。
詮索好きな陪審員が質問をし、それに対するエレンの答えが人でいっぱいの、天井の低い部屋に笑いを引き起こした。「ミス・エレン・グリーンは娘さんが自殺をほのめかしたとき誰かに報告すべきじゃなかったんでしょうか」とその男は言った。「そうしていれば湖に身投げするのを防げたんじゃないでしょうか」証人である彼女は多少とげとげしく――検死官が親切だったので、そのときはもう楽な気分になっていた――次のように返答した。彼女はでまかせを言っているのだと思っていた、若い女が恋のために身投げなどという、馬鹿馬鹿しい真似をするわけがないと思っていた、と。
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午後出席する審問はずっと昔、あの田舎で行われた審問と似たようなものになるだろうとミセス・バンティングは漠然と考えた。 あの審問での取り調べはなまやさしいものではなかった。彼女は丁寧な話し方をする紳士、検死官が、真実を――つまり、彼女、エレン・グリーンが一目見たときからいけ好かないと思った、あの感じの悪い従僕がほかの女と浮気するに至った経緯を――少しずつ、残らず引き出していったことをよくおぼえている。検死官はその間の事情をつまびらかにすることはないだろうと思われていたのだが、しかしそれは静かに、容赦なく明らかにされた。さらに死んだ娘の手紙が読みあげられた。教養のない、おかしな言い回しを使っていたが、哀れをもよおす内容で、溺愛と激しい脅迫的な嫉妬に満ちていた。陪審団は若者を痛烈に非難した。見物人のひしめく部屋からこそこそと出て行く彼の表情を彼女は今でも思い出すことができる。まわりの人々は彼を避けるように後じさりして道をあけていた。
考えてみると、彼女がその昔話をバンティングに一度もしたことがないというのは奇妙なことである。二人が知り合う何年もまえに起きたことなのだが、どういうものか、話そうという気にならなかったのだ。 バンティングは検死審問に行ったことがあるのだろうか、と彼女は思った。訊いてみたいのはやまやまだが、今この瞬間訊いたら、彼女がどこに行こうとしているのか勘づかれてしまう。
寝室のなかを動き回りながら、彼女は首を横に振った――いいえ、そんなことないわ、バンティングが勘づくわけがない。わたしの嘘に気づくなんて、彼にかぎって絶対ありえない。 ちょっと待って――わたしは嘘を言ったのかしら。彼女は審問が終ったら医者のところに行くつもりだった。時間があればの話だけれど。審問はいったいどのくらい時間がかかるのだろうと彼女は心配になってきた。今度の事件では手がかりがほとんどないから、手続きはきっとごく形式的なものだろう――形式的だから、短いのではないか。
彼女には一つだけはっきりした目的があった。殺人者を見たと信じている人々の証言を聞くのだ。犠牲者たちがまだ流れ出す自分の血にまみれて身もだえする犯行現場から、殺人者が立ち去るのを見たという人々の証言だ。彼女は自信を持ってそう言う目撃者たちがどんなふうに復讐者の見かけを言いあらわすか、それが知りたいという強い、ひそかな、そう、熱烈な好奇心を燃やしていた。多くの人が復讐者を見ているにちがいないのだ。バンティングがつい昨日、チャンドラー青年に言ったように、復讐者は幽霊ではない。生きた人間で、どこかに身を隠している。そこにいることは人に知られていて、また恐るべき犯罪の合間はそこで生活しているはずなのだ。
彼女が居間に戻ってきたとき、夫はその真っ青な顔色を見てぎくりとした。 「おいおい、エレン」と彼は言った。「医者のところに行く時間だが、葬式に行くみたいな顔色じゃないか。駅までいっしょに行こう。汽車で行くんだろう?バスじゃないんだね。イーリングは遠いからな」 「ほらほら!真面目な顔で約束したのに、さっそく反故にするの!」しかしその言い方に冷たさはなかった。ただ落ち着かなげで、悲しそうだった。 バンティングはしょんぼりした。「ああ、確かに下宿人のことをすっかり忘れていたよ!でも、おまえ、大丈夫かい、エレン。明日まで待って、デイジーを連れて行けばいいじゃないか」 「自分のことは自分のやり方でする。人の指図は受けません!」彼女はぶっきらぼうに言った。しかしバンティングが本当に心配そうな表情を見せ、自分の調子もよいとはとても言えた状態ではなかったので、優しい声を出してこう付け加えた。「わたしは大丈夫よ、あなた。心配しないで!」 ドアのほうにむかいながら、彼女はロングジャケットのうえにまとった黒いショールをぎゅっと強く合わせた。
彼女はこんなに優しい夫をあざむくことが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。しかしほかにどうすることができるだろう。自分の恐ろしい重荷をバンティングと分かち合うことなどできるわけがない。そんなことをされたら誰だってびっくりして頭が変になるだろう。彼女でさえもう耐えられないと思うことがよくあった。彼女が疑っていること、心の奥底でそれが真実ではないかと怖れていること――それを誰かに打ち明けられるなら、誰でもいいから打ち明けられるなら、何を差し出しても惜しくはないのだが。 しかし外の空気は、霧が立ちこめていても、いつのまにか彼女の気持ちを軽くしはじめた。最近は外出することがあまりにも少なかった。無防備な状態にして家を離れることを神経質に怖れ、同時に、バンティングが下宿人と顔をつきあわせることを非常に嫌ったからである。
地下鉄の駅に着いたとき、彼女は急に立ち止った。セント・パンクラスに行くには二つの方法がある――バスでも行けるし、汽車でも行ける。彼女は汽車で行くことにした。しかし駅に入るまえに彼女の目は舗道に置いてある昼の新聞のちらしのあいだをさまよった。 「復讐者」 の三文字がいろいろな活字で彼女をじろりと見あげていた。
黒いショールをさらに少しだけ強く肩に巻き付け、ミセス・バンティングはちらしを見つめた。まわりの大勢の人々が新聞を買っていたけれど、彼女はそうする気になれなかった。今でも目が痛かったのだ。バンティングが持ってきた号外の、細かな活字を追うという、慣れないことをしたせいだった。 ようやくゆっくりと彼女は地下鉄に入っていった。 そこで驚くような幸運がミセス・バンティングを待っていた。
彼女が乗り込んだ三等車はたまたまがら空きで、そこには警部が一人いるだけだった。電車が駅を離れてかなり時間が経ってから、彼女は勇気を奮い起こし、もうすぐ誰かに訊かなければならないことを彼にむかって質問した。 「教えていただけませんか」と彼女は低い声で言った。「検死審問の場所はどこでしょう」――彼女は唇をしめらせてちょっとだけ言葉を切り、こうつづけた――「キングズ・クロスの近所でしょうか」 男は振り返り、彼女を注意深く見た。彼女はただ面白がって審問に行くようなロンドン子には見えなかった。そんな連中は大勢いるのだけれど。彼はやもめだったので、彼女の黒いコートとスカートを見て好感を持った。彼女の白い、上品な顔を包む無地のプリンセス・ボンネットも気に入った。 「わたしも検死法廷に行くんです」彼は愛想よく言った。「いっしょについていらっしゃい。ご存じでしょうが、今日は例の復讐者の検死審問がありましてね。だから、何て言うか、通常の事件に関してはいつもとちがうやり方をすると思います」彼女が黙って見つめているので彼はつづけた。「復讐者の検死審問は人で大混雑するんです。一般人はもちろん、切符を持っている人も大勢入りますから」 「わたしが参りますのもその審問でございます」とミセス・バンティングはたどたどしく言った。彼女はまともに言葉を発することができなかった。これからしようとしていることが、どれだけけしからぬ、心得違いなことであるかということに気づき、猛烈な不快感と恥ずかしさを感じていたのである。立派な社会的地位のある女性が殺人の検死審問に出たがるなんて、考えただけでもとんでもない話だ! この数日間、彼女の感覚は心配と恐怖に鋭くとぎすまされていた。単に病的な好奇心からそうした審問に出たがる女を、彼女自身がどれほど軽蔑していたか、名も知らぬ相手の無感動な顔を覗きこみながら、彼女はそのことにふと思い当たった。しかし――しかし、それこそまさに彼女がしようとしていることにほかならない。 「少々事情がございまして、出席したいと思っているのですが」と、彼女はつぶやいた。知らない人であってもこんなふうにちょっとだけ胸の内を打ち明けられるのはほっとすることだった。 「そうでしたか」彼は考え込むように言った。「犠牲者のご亭主のどちらかとご縁があるのですか?」 ミセス・バンティングは顔をうつむけた。 「証言をなさるのですか」彼は何気なくそう訊くと、ミセス・バンティングのほうを振り返り、今までよりはるかに注意深く彼女を見た。 「いいえ、とんでもない!」話し手の声は恐怖と戦慄に充ち満ちていた。
警部は気の毒なような、いたわってやりたいような気持ちになった。「被害者の女性とは長いことお会いになっていらっしゃらなかったんでしょうね」 「ぜんぜん、その、会っておりませんでした。わたしは田舎から来ましたので」どういうわけかミセス・バンティングはそう言わずにいられなかった。しかし彼女は急いで次のように訂正した。「ともかく昔は田舎におりましたので」 「彼も来るんですか」 彼女は茫然と相手を見た。誰のことを言っているのか、見当もつかなかった。 「旦那さんのことですよ」と警部は早口につづけた。「いや、まったくお気の毒です――最後の犠牲者の旦那さんですが――たいへん気を落とされていたようでした。奥様はお酒を飲むようになるまでは、良妻賢母であられたそうですから」 「ええ、そういうものでございますわね」とミセス・バンティングはささやいた。 「まったくです」彼は言葉を切った。「検死法廷に知り合いはいらっしゃいますか」 彼女は首を振った。 「どうぞご心配なく。わたしがお連れいたしますよ。お一人ではなかに入れませんから」 彼らは下車した。他人が何もかもやってくれるというのは何て気楽なことだろう。しかも警察の制服を着た、毅然とした男性に面倒を見てもらえるのだ!しかしそれでもミセス・バンティングはすべてが実体を伴わない、夢のような気がした。 「この人がもしも――もしもわたしの知っていることを知ったなら!」彼女は何度も何度もそう思いながら、大きなたくましい警部の横を軽い足どりで歩いたのだった。 「遠くはないですよ――三分もかかりません」と彼は唐突に言った。「わたしの歩き方は早すぎますか、奥さん?」 「いいえ、ちっとも。わたしは歩くのが速いですから」 急に角を曲ると男も女も押し合いへし合いしている大変な人だかりにぶつかった。彼らは高い壁から少し落ちくぼんだ、意地の悪そうな小さなドアを見つめていた。 「腕につかまって」と警視は言った。「道をあけて!道をあけて!」彼はいかにも権威ありげにどなった。ぎっしり居並ぶ人々は彼の声を聞き、制服を見て道をあけた。彼は彼女を連れてそのあいだをさっさと抜けていった。 「わたしに会えたのは幸運でしたね」と彼はにこやかに笑いながら言った。「お一人ではこうはいきませんでしたよ。それに連中は決して心優しい群衆ではありませんから」 小さなドアがほんの少し開いた。なかに入ると、狭い板石敷きの小径があり、四角い中庭に通じている。数名の男がそこでタバコを吸っていた。 ミセス・バンティングの親切な新しい友人は中庭のうしろの建物へ彼女を案内するまえに時計を取り出した。「はじまるまで二十分ありますね」と彼は言った。「あそこに死体置き場があります」――彼は親指で中庭の右端から突き出した天井の低い一室をさした。「なかをごらんになりますか」と彼は小声で言った。 「まあ、とんでもない!」彼女は怖気だった声で叫んだ。彼は同情をこめて彼女を見下ろし、ますます尊敬の度合いを強めた。彼女は立派なすばらしい女性だ。不健全な、いとわしい好奇心からではなく、そうするのが彼女の義務と心得てここに来たのだ。おそらく復讐者の犠牲者の義理の姉ではないだろうか、と彼は思った。
彼らは大きな部屋か広間のようなところを通り抜けた。そこはもう人で埋まっていて、みんなひそひそと、しかし熱心に、興奮したように話をしていた。 「こちらにお座りなってください」彼は気遣うようにそう言って、水しっくいを塗った壁から突き出したベンチの一つに彼女を導いた。「もちろん証人たちといっしょにいたければ別ですが」 しかし彼女はまたもや「まあ、とんでもない!」と言った。それからやっとの思いでこう付け加えた。「混雑しそうですので、先に法廷に入ってはいけないでしょうか」 「ご心配なく」と彼は優しく言った。「ちゃんと座れるように手配します。ちょっとだけ失礼しますよ。すぐ戻ってきてご一緒しますから」 彼女はあの薄気味悪い、狼のような外の群集を通り抜けるとき、顔の上におろしていた厚いベールを持ちあげ、あたりを見まわした。 まわりに立っている紳士は、ほとんどがシルクハットに上等な外套といういでたちだったが、彼女はその多くの顔に何となく見おぼえがあった。すぐに一人の男に眼がとまった。彼は有名なジャーナリストで、その鋭い生き生きした顔は洗髪剤の広告で広く宣伝されていたのだ。今よりもっと幸せで裕福だったころ、バンティングがその効能を信じて愛用していた洗髪剤で、彼はすばらしい効き目があるんだといつも言っていた。この紳士が熱のこもった会話の中心で、六人ほどの人が彼に話しかけ、彼が話すときは敬意をこめてその言葉に耳を傾けていた。その誰もがみな有名人であることにミセス・バンティングは気がついた。
何て不思議な、驚くべきことだろう。眼に見えない、一人の謎の男がこうした人間たちをロンドンじゅうから呼び寄せたのだ。きっと大切な仕事があるだろうに、この底冷えのする陰鬱な日に、こんなむさ苦しい場所に呼び寄せたのだ。ここで彼らは全員がただ一人の、誰も知らない謎めいた男のことを考え、話し、描き出そうとしている。つまりみずからを復讐者と呼ぶ、影のような、それでいて恐ろしく現実的な人間のことを。そして彼らのいるところからさほど遠くない場所にいるはずなのに、復讐者はこの才知に富み、教養ゆたかな精神たちを――そしてもちろんその肉体をも――決してそばには近づけさせないのだ。 ひっそりとそこに座るミセス・バンティングでさえ、彼らに混じってこんなところに自分がいるとは何と皮肉なことだろうと思った。