下宿人

第十章

Chapter 10 5,166 words Public domain Markdown

これこそ願ってもない幸運だった。夫とデイジーがチャンドラー青年といっしょに出かけているあいだ、ミセス・バンティングはほぼ一時間近くも一人で家にいることができたのだから。 ミスタ・スルースは昼間はほとんど外出しないのだが、この日の午後はお茶をすませて薄暗くなってきた頃に、急に新しい服が一そろいほしいと言いだした。女主人は買い物に出ると聞いて熱心に頷いた。

彼が家を出るや、彼女は急いで客間の階にあがっていった。二つの部屋を徹底的に掃除する機会がついにやってきたのだ。しかしミセス・バンティングが心の奥底でよく理解していたように、彼女がしたいと思っていたのはミスタ・スルースの客間の掃除というより――はっきり何とは自分でも分からないのだけれど――漠然とした捜し物だったのである。

使用人として働いていたとき、彼女の同僚は家族の秘密を嗅ぎ出そうという、曖昧ではなくはっきりした目的を持って、雇い主の個人的な手紙を盗み読みしたり、こっそり机の引き出しや棚のなかを覗いたものだ。それに対して、ミセス・バンティングは、言葉にこそしなかったものの、いつも深い軽蔑の念を抱いていた。 しかし今、彼女はかつて他人がするのを見て卑しんでいた行為を、ミスタ・スルースに対して自ら行おうと心を決め、勇み立っていたのである。

寝室を手はじめに、組織的な捜索が開始された。下宿人は非常に几帳面な紳士で、下着などの数少ない所持品は整然と片づけられていた。彼女は下宿人のごくわずかな洗濯物を自分やバンティングのものといっしょに洗うことにしていた。下宿人もこの手はずには大いに満足だった。幸いなことに彼が着ているシャツはソフト・シャツだった。

以前、ミセス・バンティングは毎週行うこの面倒な仕事のために女を一人雇っていたのだが、最近では自分でもすっかり要領をのみこみ、洗濯屋に任せるのはバンティングのシャツだけ。そのほかのものはすべて彼女が一人で洗った。

彼女は整理ダンスから化粧台に注意を移した。 ミスタ・スルースは外出するときお金を持ち歩かない。たいてい古い姿見の下の引き出しに置いていくのである。女主人は何気なくその小さな引き出しを開けてみた。しかしそこにあるものに手を触れようとはしなかった。ただソブリン金貨と何枚かの銀貨の山をちらりと見た。下宿人は服を買うのに必要なお金を持ち出しただけらしい。彼は彼女に服がいくらするのか尋ね、外出の理由を秘密にしようとしなかった。それが何となくミセス・バンティングを安堵させたのだった。

彼女は化粧台掛けを持ちあげ、カーペットも少し捲いて下を調べたが、紙切れ一枚見つからなかった。連絡ドアを開け放ち、二つの部屋を行ったり来たりしながら、とうとう捜索をあきらめようと思いはじめたとき、彼女は下宿人の過去の生活を不安とともにあれこれ思い出した。 ミスタ・スルースは確かに変わり者である。しかし変わっているといっても、良識を逸脱することはない。その振る舞いは、だいたいにおいて、彼が属する階級のほかの人々と同じ道徳的理念に基づいている。彼は飲酒に対しては異常な反応を示す。そのことに関しては気も狂わんばかりになると言っていい。しかしそれは彼一人に限った話ではない!エレン・バンティングは酒や酔っぱらいの話となると、ちょうど彼のように、異常な態度を取る貴婦人と生活したことがある。彼女はこぎれいな客間をなんとなく不満そうに見渡した。何かが隠されているとしたら、残っている場所は一つしかない。それは小さくても、重量感のあるマホガニー製の飾り棚だった。そのとき、今まで一度も浮んだことのなかった考えがミセス・バンティングの頭に突然浮んだ。 ミスタ・スルースが思ったよりも早く戻りはしないかと、ひとしきり耳をすませたあと、彼女は飾り棚のある隅へゆき、さしてあるわけでもない力を細腕に込め、重いこの家具を前に傾けたのである。 すると奇妙なガサガサという音が聞こえた。何かが二番目の棚のなかを転がっているのだ。ミスタ・スルースの到着前にはなかったはずの何かが。ゆっくりと時間をかけて、彼女は飾り棚を前へ後へと傾けた。一回、二回、三回。彼女は満足と同時に不思議な困惑を感じた。消えてなくなり彼女を驚かせたあの鞄が所有者によってしっかり鍵を掛けられ、そこにしまいこまれていることはまちがいない。 ひどく具合の悪い考えがふとミセス・バンティングの心に浮んだ。彼女は鞄が棚のなかで動いたことをミスタ・スルースに感づかれたくはないと思った。しかし次の瞬間、ミスタ・スルースの女主人はがっくり肩を落とした。飾り棚を動かしたことは下宿人にばれてしまうにちがいない。何か黒っぽい色の液体が細い筋となって小さな棚の扉の下から流れ出していたからである。

彼女は身体を屈めてその液体に触ってみた。指についたそれは真っ赤な色をしていた。 ミセス・バンティングの顔面は蒼白になり、そしてすぐにもとに戻った。実際、あっという間に顔に赤みがさし、身体じゅうが熱くなったのである。

赤インクの瓶をひっくり返しただけ――何のことはない!それ以外のものであるわけがないのに、わたしったら何を考えていたのだろう。 まったく迂闊な話だ――彼女は自分をあざけり、非難するようにこう思った――下宿人が赤インクを使っていることを自分は知っていたではないか。クルーデンのコンコーダンスは、ページによってはミスタ・スルース独特の真っ直ぐな字で埋め尽くされていた。びっしり感想や疑問のメモが書き込まれ、余白がまったくなくなっているところもあったのだ。 ミスタ・スルースは何も考えずに赤インクの瓶を飾り棚のなかにしまったのだろう。それが彼女の可哀相な、愚かしい紳士がしたことなのだ。そして彼女の物好きな詮索のせいで――彼女が知ったところで毒にも薬にもならぬことを何とか知りたいと思ったせいで、こんな事故が起きてしまった。

彼女はぞうきんで緑の絨毯の上に落ちた数滴のインクを拭き取った。われながら救いがたいうろたえようだと、怒ったように心のなかで思いながら、彼女はもう一度裏手の部屋へ入っていった。 ミスタ・スルースが便箋を持っていないのはおかしなことだった。最初に買うものの一つだろうと彼女は思っていたのだ。紙は非常に安いのだからなおさらである。とりわけやや汚く見える例のシルリアン・グレーの紙は安い。ミセス・バンティングがかつていっしょに暮らしていたとある婦人はいつも二種類の便箋を使っていた。友人や同等の地位の人には白い紙を、彼女が「一般人」と呼んでいた人々には灰色の紙を使っていた。当時まだエレン・グリーンであった彼女はそのことにいつも憤慨していた。どうしてなのだろう、あんなことを今になって思い出すなんて。あのときお仕えしていた女性は本物の貴婦人ではなかったけれど、ミスタ・スルースは、奇癖の持ち主とはいえ、掛け値なしに本物の紳士なのだから、ますますわけが分からない。彼が便箋を買うなら安い灰色のものではなく、白地のものを買うだろう――白くて、おそらくクリーム色の簀の目の入った紙を買うだろう、とミセス・バンティングはなぜか確信していた。

彼女はもう一度古いタンスの引き出しを開け、ミスタ・スルースの肌着を何枚か持ちあげてみた。 しかし何もなかった――隠されているものは何もない。考えてみればおかしなことだ。有り金は誰でも手の届くところに置いていくのに、安いにせの革鞄とか、さらにはインクの瓶みたいな無価値なものを鍵を掛けてしまいこむのだから。 ミセス・バンティングは姿見の下の小さな引き出しを一つ一つもう一度開けてみた。そのどれもが立派な古いマホガニーを用いて美しく仕あげられていた。ミスタ・スルースは真ん中の引き出しにお金を入れていた。

鏡はたったの七シリング六ペンスしかかからなかった。しかもオークションのあとである業者が譲ってもらえないだろうかと、最初は十五シリング、次に一ギニーを提示したのだった。先ごろベーカー通りでこれとまったく同じ鏡を見たが、そのラベルには「チッペンデール。骨董品。二十一ポンド五シリング」と書いてあった。 そこにミスタ・スルースのお金があった。女主人がよく知っているように、そのソブリン金貨は次第次第に彼女とバンティングのものになっていく。もちろんまっとうな稼ぎだ。しかしこの鈍く輝くソブリン金貨の現在の持ち主に出会わなければ決して手に入れられない――いや、稼ぐことのできない――金だった。 ようやく彼女は下に降り、ミスタ・スルースの帰りを待った。

玄関から鍵の音が聞こえたとき、彼女は廊下に出てきた。 「申し訳ございません、旦那様、不始末をしでかしてしまいまして」彼女は緊張して少し息が乱れた。「お出かけになっているあいだに客間にあがってお掃除をしたのでございますが、飾り棚のうしろに手を伸ばしたとき、棚が傾いてしまいまして。なかに入っていたインク瓶が割れてしまったかもしれません。ほんの数滴ですが、インクがこぼれてきたんでございます。たいしたことがなければいいのですが。飾り棚に鍵がかかっていましたので、外側だけ、できるだけきれいに拭いておきました」 ミスタ・スルースは愕然とした、ほとんど怯えたような目つきで彼女を見つめた。しかしミセス・バンティングはうろたえなかった。彼が帰ってくるまえと比べると、はるかに落ち着きを取りもどしていた。帰ってくるまえは、あまりの怖さに家を出て、通りで相談する相手を探そうと思ったくらいだった。 「あのなかにインク瓶を入れていらっしゃるとは思いも寄りませんでしたので」 彼女は弁解するようにしゃべった。下宿人の表情が明るくなった。 「旦那様がインクをお使いになることは存じておりました」とミセス・バンティングは話しつづけた。「お持ちの本に書き込みをなさっているのを見たことがございます――その、聖書といっしょにお読みになっている本でございますが。かわりの瓶を一つ買ってまいりましょうか、旦那様」 「とんでもない」とミスタ・スルースは言った。「ありがとう。でも結構ですよ。すぐに上に行って様子を見てきましょう。用があるときは呼び鈴を鳴らします」 彼はぎこちなく彼女の脇を通り抜けた。五分後に客間の呼び鈴が鳴った。 ドアのところから、扉を大きく開けた飾り棚がミセス・バンティングの目に飛びこんできた。棚のなかは空っぽで、下の棚にインク瓶が赤い水たまりのなかに転がっているだけだった。 「木に染みが残ってしまいますね、ミセス・バンティング。あそこにインクを入れておくべきではなかった」 「そんなことございませんわ、旦那様!お気になさらないで。一二滴絨毯に落ちたんですけど、隅の暗がりですから特に目立ちません。瓶を片づけましょうか。そのほうがよろしいですわね」 ミスタ・スルースはためらった。「いいえ」と彼は長い間を置いて答えた。「片づけなくてもいいですよ、ミセス・バンティング。ほんのちょっとあればいいんです。瓶に残っているインクだけで充分。少し水を加えればいいでしょう。お茶を加えればもっといいんだけれど。聖書のなかで特に興味をひいた一節はコンコーダンスに印をつけておくんです。インクはそれに使うだけですからね。コンコーダンスというのは、ミセス・バンティング、この、ええと、クルーデンという紳士が作っていなかったらわたしが喜んで編纂していた本ですよ」

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その晩のエレンはいつもよりはるかに愛想がよかった。これはバンティングだけではなくデイジーも思ったことだった。彼女は二人が語る興味深い黒博物館の話を最後まで聞き、二人のどちらをも鼻であしらうことがなかった。バンティングが絞首刑者から取った恐ろしい、容易に忘れられない、けれども間の抜けたデスマスクのことを話したときでさえ黙って聞いていたのである。 しかし数分たって夫が彼女に質問をしたとき、ミセス・バンティングは的外れな答えを返した。彼女が相手の最後の言葉を聞いていなかったことは明らかだった。 「何を考えているのかな!」と彼はおどけて言った。しかし彼女は頭を振るだけだった。 デイジーはこっそり部屋を出て、五分後に青と白の格子チェックのシルクガウンを着て戻ってきた。 「おうや!」と父親が言った。「すてきじゃないか、デイジー。その服ははじめて見たよ」 「おかしな格好ねえ!」とミセス・バンティングは嫌みな口調で言った。「そんなおめかしをするなんて、誰かを待っているということよね。お二人とも今日は充分チャンドラーに会ったんじゃないの。いったいあの人、いつ仕事をしているのかしら。本当に不思議だわ!忙しいったって、うちに来て一二時間は無駄話する余裕があるみたいなんだから」 しかしその晩エレンが言った皮肉はそれでおしまいだった。デイジーですらまま母がぼうっとしていて、いつもとはちがうことに気がついた。料理も、彼女がしなければならない細々した仕事も、いつもよりずっと静かにこなしていくのだった。 しかしその物静かな、ほとんど無愛想といってもいい態度の裏側で、どれほど不安と、暗い苦悩と、病的な緊張が嵐のように激しく吹き荒れていたことだろう。それは彼女の魂を揺さぶり、病弱な身体に襲いかかり、思わず彼女は、単純な日々の仕事さえこなせないのではないかと何度も思ったのだった。

夕食をすませたあと、バンティングは外に出て一ペニー新聞を買ってきた。しかし戻ってくるとやや沈んだ笑顔を見せた。そしてこの一二週間、小さな活字を読み過ぎて目が痛いと言うのだった。 「わたしが読んであげるわ、お父さん」とデイジーが意気込んで言った。彼は娘に新聞を渡した。 デイジーが唇を開こうとした瞬間、大きなベルとノックの音が家じゅうに鳴り響いた。