下宿人

第二十一章

Chapter 21 4,634 words Public domain Markdown

ひどく寒い夜だった――気温がぐんと下がり、強い風が吹き、雪もよいの、誰もができることなら外には出たくないと思うような夜だった。 しかしそのときバンティングは満足しきって仕事から家に帰る途中だった。すばらしい幸運が今晩、彼にふりかかったのだ。まったく思いも寄らぬ幸運だっただけになおさらうれしかった!彼は誕生パーティーで給仕の役を務めたのだが、パーティーの主役の若い貴婦人がその日、財産を相続したのである。しかも彼女は慈悲深くも驚くべきことを思いついた。雇われた給仕全員にソヴリン金貨を一枚ずつ与えたのだ。

優しい言葉とともにおくられたこの贈り物はバンティングの胸をじんと熱くさせ、彼の保守的な考え方を裏付けたのだった。こんなお振る舞いをなさるのは紳士淑女の方々だけだ。つまり物静かな、昔気質の、家柄の良い人々だけなのだ。あのいまいましい急進主義者は彼らのことを知りもしなければ気にかけもしない! しかし元執事は彼が感じてしかるべき幸せに浸ることができなかった。歩調をゆるめ、近ごろ妻の様子がおかしいことを思い出し、途方に暮れた。エレンはときどき彼にも理解できないくらい、やけに興奮しやすくなり、やけにびくびくしている。これまでも決して愛想のいいほうではなかったが――有能な、自尊心の強い女はめったに愛想のいいことはない――しかし今みたいになることはなかった。時間が経っても良くなるどころか、かえって悪くなっている。最近は恐ろしくヒステリックだ。しかも何の理由もないのに!たとえばジョー・チャンドラーのあのいたずら。彼がしばしば変装することはエレンもよく知っているはずなのだ。なのにまるで血迷ったみたいに取り乱して。あんなふうになるとは、まったく思ってもいなかった。

彼女についてはもう一つ、いろいろな意味で彼を困惑させることがある。この三週間ほどのあいだに、エレンは寝言を言うようになった。昨日の晩は「だめ、だめ、だめ!」と叫んでいた。「嘘よ――そんなことない――嘘よ!」普段の声は冷静な、とりすました声なのだが、そこには激しい恐怖と強い抗議の叫びがまじっていた。

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ぶるるる!冷えこむなあ。おまけに彼はうっかり手袋を忘れてきていた。

彼は両手をポケットに突っこみ、足を速めた。 てくてくと歩いていた元執事は誰もいない通りのむこう側にふと下宿人の姿を認めた。そこはリージェント・パークを取り巻く大きな道路から、ひょいと横にそれた短い脇道の一つだった。 おやおや!散歩を楽しむにしちゃ、変な時間を選んだものだ!

通りのむこうを見ながらバンティングはミスタ・スルースの背の高いやせた身体がうつむき加減であることに気がついた。顏が下をむいているのだ。左手は丈の長いインバネスに突っこまれ、完全に隠れている。しかしその反対側は大きくふくらんでいて、まるでまっすぐおろした手に鞄か包みを持っているような具合だった。 ミスタ・スルースはかなりせかせかと歩き、歩きながら独り言を言っていた。バンティングはよく知っていたが、これは孤独な生活を送っている紳士にはよく見られる癖なのである。彼は下宿の主人が近くにいることにまだ気がついていないらしい。 バンティングはエレンの言った通りだと思った。下宿人はたしかにひどく風変わりな、妙なところのある人だ。まったくおかしな話だよ、あのいかれ気味の変わった紳士がおれたち夫婦の幸せや暮らし向きを大きく変えてしまったんだから。

道の反対側を歩くミスタ・スルースにもう一度眼をやりながら、彼は、これが最初というわけではなかったけれども、この完璧な下宿人のたった一つの欠点を思い出した。彼は意外なことに肉がきらいで、バンティングが漠然と「まともな食い物」と呼んでいるものを受けつけないのだ。 しかし、なくて七癖というから、そのくらいは大目に見なくてはな!なにしろ下宿人は卵やチーズまでも食べない気の狂った菜食主義者じゃないんだから。うん、その点は分別のある人だよ。おれたち夫婦に対しても同じようにまともに振る舞ってくれるし。

知っての通り、バンティングは妻に比べるとはるかに下宿人と会う機会が少ない。実際、ミスタ・スルースが来てから三度か四度しか二階に行ったことがないのだ。主人が給仕をするときは、下宿人はじっと黙っている。さらにこの紳士は夫であろうが妻であろうが、用事で呼ばれたとき以外は部屋に来てもらいたくないということをはっきり態度にあらわしていた。 こりゃあ、お話をするいいチャンスかも知れないぞ。バンティングは下宿人と出会えたことが嬉しかった。彼を包む幸福がますます強く感じられてきた。 そこで歳のわりにまだまだ元気な執事は道路を横切り、きびきびした足どりでミスタ・スルースに追いつこうとした。しかし彼が急げば急ぐほど相手は早足になるのである。しかも今や凍りはじめた舗道にカツカツと靴音を立てているのが誰なのか、うしろを振り返ってたしかめようともしない。 ミスタ・スルース自身の足音はまったく聞えなかった――考えてみればおかしなことだ――バンティングはあとで妻の横に寝ころび、眼を開けたまま真っ暗闇のなかでそう考えた。もちろん下宿人はゴム底の靴をはいているのだ。しかしバンティングはゴム底の靴を磨いてほしいと頼まれたことは一度もなかった。下宿人はブーツを一足持っているきりだと、それまでずっと思っていた。

二人の男――追う者と追われる者――はとうとうメリルボーン通りにやってきた。家からはもう数百ヤードしか離れていない。バンティングは勇気をふるって大声を出した。その声が静かな夜気にはつらつと響いた。 「ミスタ・スルース!ミスタ・スルース!」 下宿人は立ち止り振り返った。

彼は速く歩きすぎたのと、身体の具合が悪いせいで、顔から汗がしたたり落ちていた。 「ああ、あなたでしたか、ミスタ・バンティング。うしろから足音が聞えたので、急いでしまいました。あなただと分からなかったので。夜のロンドンには変な人がうようよしていますから」 「今夜みたいな夜はべつですよ、旦那様。仕事がある真面目な人しかこんな夜は外を歩きません。冷えますなあ、旦那様」 そのときバンティングの鈍い、正直な心に、突然疑問が降って湧いた。この耳を切るような寒い夜に、ミスタ・スルースはいったいどんな用事で外に出てきたのだろう。 「寒い?」と下宿人は繰り返した。彼は少し息切れがし、その言葉は薄い唇から鋭く、ちぎれたように発せられた。「寒くはありませんよ、ミスタ・バンティング。雪が降るときは、いつも暖かい感じになります」 「そうですが、旦那様、今晩は東風が強いですからね。それこそ骨に沁みるような寒さですよ!でも、旦那様もお気づきでしょうが、身体を温めるには歩くのがいちばんです」 バンティングはミスタ・スルースが異様に彼から距離を取って歩いていることに気がついた。彼は舗道の縁を歩き、建物の壁側をすっかり下宿の主人に明け渡しているのだ。 「道に迷ったのです」と彼は唐突に言った。「若いとき一緒に勉強した、プリムローズ・ヒルの友だちに会いに行ったのですが、その帰りに道が分からなくなったのです」 彼らは小さな門のところまでやって来た。そこを開ければ家のまえの、みすぼらしい板石敷きの庭に入る。この門は今はもう決して鍵をかけられることはなかった。 ミスタ・スルースは急にまえに出ると板石敷きの小径を歩きはじめた。元執事は「旦那様、失礼します」と言って、脇から下宿人を追い越し玄関のドアを開けてあげようとした。

脇を通り抜けるとき、手袋をはめていないバンティングの手が、丈の長い下宿人のインバネスに軽く触れた。驚いたことに一瞬手が触れたその部分は、附着した雪のせいで湿っているだけでなく、べっとりと粘ついていた。 バンティングは左手をポケットに突っこみ、反対の手で鍵を鍵穴に入れた。

二人の男はいっしょに玄関に入った。

家のなかは街灯のともる道路に比べて真っ暗なように思われた。手探りしながらまえに進んでいると、下宿人がすぐうしろからついてくるのが分かった。そのとき、バンティングは急にめまいのするような死の恐怖に襲われた。間近にせまる恐ろしい危険を直感的に感じとったのである。

声なき声――最近はもう思い出すことも滅多にない、ずっと以前に死んだ最初の妻の声――が、彼の耳に「気をつけて!」とささやいた。 そのとき下宿人が話しかけてきた。その声は大きくなかったものの、耳障りで聞き苦しかった。 「ミスタ・バンティング、わたしのコートが汚れてべとついていることに気づいたんじゃないですか。説明すると長くなるのですが、動物の死骸にコートがこすれたんですよ。情け深い誰かがその動物の苦痛に終止符を打ってやったのでしょう。プリムローズ・ヒルのベンチに横たわっていたのです」 「いや、わたしは何も気づきませんでしたよ、旦那様。コートにも触っておりません」 何か外部の力が無理やりバンティングにそんな嘘をつかせたようだった。「それでは旦那様、ごゆっくりお休み下さいませ」と彼は言った。 うしろに下がり、彼はありったけの力をこめて背中を壁に押しつけ、相手に道を譲った。一瞬の沈黙のあと、ミスタ・スルースは「お休みなさい」と虚ろな声で返事をした。バンティングは下宿人が二階に行くまで待った。それから玄関広間のガスに火をつけ、その場に座りこんだ。ミスタ・スルースの下宿の主人はひどく気分が悪くなり――しかも吐き気がした。

彼がようやく左手をポケットから出したのは、ミスタ・スルースが二階の寝室のドアを閉める音が聞えてきたときだった。彼は左手を持ちあげ不思議そうに見つめた。薄く赤い血が点々と、あるいは筋をなしてこびりついていた。 ブーツを脱いで、妻が寝ている部屋にこっそりと入った。忍び足で洗面台のところへ行き、水差しに手を浸した。 「何をしているのよ、いったい」とベッドから声がした。バンティングはぎくりとして気まずそうな顔をした。 「手を洗っているだけさ」 「あら、そんなことしないでちょうだいよ!ひどいじゃない――明日の朝、わたしが顔を洗う水に手を突っこむなんて!」 「ごめんよ、エレン」と彼は素直に謝った。「捨てるつもりだったんだ。汚い水で顔を洗わせるわけがないじゃないか」 彼女はそれ以上何も言わなかった。しかし服を脱ぎはじめた彼を、ミセス・バンティングは横になったままじっと見つめつづけた。その視線は彼をいっそう落ち着かない気持ちにさせた。 ようやく彼はベッドにもぐりこんだ。重苦しい沈黙を破ろうと、若い貴婦人がくれたソヴリン金貨のことを話そうと思ったが、しかしそのソヴリン金貨も今は道路で拾ったファージング銅貨より価値がないように思われた。 また妻が話しかけてきた。彼はびっくりしすぎて、ベッドが揺れた。 「あなた、玄関の明かりをつけたままにしてきたでしょう。お金の無駄づかいよ」と彼女はきびしい声で言った。

彼はいやいや起き出して廊下に通じるドアを開けた。彼女の言ったとおり、ガスの炎がつけっぱなしになっていて、彼らの金を――というよりミスタ・スルースの金を――無駄づかいしているのだった。彼が下宿人になってから、夫婦は家賃の金に手を付けることはなかった。 バンティングは明かりを消し、手探りで部屋に戻り、ベッドに入った。彼らはもうお互いに口をきかず、夫も妻も夜明けまで眼を開けたまま横になっていた。

次の日の朝、ミスタ・スルースの下宿の主人ははっと目を覚ました。奇妙に手足がだるくて、眼がしょぼしょぼした。

枕の下から時計を引っ張り出すと七時だった。妻を起こさないようにベッドを出るとブラインドを少しだけ寄せて外を見た。大雪が降っている。雪が降るときはいつもそうだが、そのときもすべてが不思議と奇妙に静まりかえっていた。大都会のロンドンでもそうなのだ。服を着て廊下に出る。彼が怖れもし、また同時に期待もしていたように、新聞がもうマットの上に転がっていた。たぶん郵便受けから押し込まれたときの音が彼の不安な眠りを破ったのだろう。

新聞を拾いあげ、居間に入り、そっとドアを閉めた。それからテーブルに新聞を大きく広げて、身を乗り出した。 バンティングがようやく顔を上げて背筋を伸ばしたとき、強い安堵の表情がその鈍感な顔に輝いていた。新聞のど真ん中にでかでかと印刷されているにちがいないと思っていた記事はどこにもなかった。