下宿人

第二十六章

Chapter 26 5,365 words Public domain Markdown

それまでマダム・タッソーの蝋人形館はミセス・バンティングにとって楽しい思い出の場所だった。彼女とバンティングが付き合っていたとき、午後のデートをよくここで過ごしたものだった。

執事は蝋人形館の職員の一人、ホプキンスという男と知り合いで、彼がときどきペアの優待券をくれたのである。しかしミセス・バンティングはこの大きな建物のすぐ隣といってもいいところに住んでいたのに、それまでそこを訪れたことがなかった。

彼らは黙ってなじみのある入り口からなかへ入った。この奇妙な三人連れが大きな階段をのぼり、最初の展示場に着いたとき、ミスタ・スルースは急に立ち止った。奇怪な形で生のなかに死を示す、異様な、動かぬ、蝋人形を見て驚き、おののいたようだった。 デイジーは下宿人の躊躇と不安を利用してすばやくこう言った。 「ね、エレン」と彼女は大きな声で言った。「最初に恐怖の部屋に行きましょうよ!わたし、まだ行ったことがないの。前に一回だけここに来たときは、お父さんが連れて行ってくれなかったの、|伯母さん《オールド・アーント》があそこには連れて行くなって約束させていたのよ。でも、もう十八なんだから、好きなことをしたっていいでしょう。それに|伯母さん《オールド・アーント》には分りゃしないから」 ミスタ・スルースは彼女を見下ろした。その疲れてやつれた顔に一瞬ほほえみがひらめいた。 「ええ、恐怖の部屋に行きましょう。名案ですね、ミス・バンティング。わたしも恐怖の部屋はずっと見たかったんです」 彼らはナポレオン時代の遺物が保存されている大きな部屋を抜け、納骨所のようなおかしな小部屋に入った。そこには死んだ犯罪者たちの蝋人形が何体かずつに分けられて木の台の上に立ち並んでいた。 ミセス・バンティングは夫の古い知り合い、ミスタ・ホプキンスを見て、困惑すると同時にほっと安心もしたのだった。彼は回転木戸のところで恐怖の部屋に入る客の切符を切っていた。 「おや、珍しいですな」と彼はにこやかに言った。「結婚なさってからはじめてじゃないですか、ミセス・バンティング、ここでお目にかかるのは」 「ええ」と彼女は言った。「そうね。この子が夫の娘のデイジーよ。聞いていらっしゃるでしょうけど、ミスタ・ホプキンス。それからこちらの方は」――彼女はつかの間ためらった――「うちで下宿をしていらっしゃるミスタ・スルース」 しかしミスタ・スルースはしぶい顔をして、さっさと先へ行ってしまった。デイジーはまま母のそばを離れ、彼と一緒に歩いた。

俗に言う通り、二人なら気が合うが、三人では仲間割れ、である。ミセス・バンティングは六ペンス銅貨を三枚置いた。 「待ってください」とホプキンスが言った。「まだ恐怖の部屋には入れませんよ。四五分待っていただければいいんですけど、ミセス・バンティング。実は、お偉いさんが団体客を案内しているんですよ」彼は声をひそめた。「サー・ジョン・バーニーです。サー・ジョン・バーニーのことはご存じでしょう?」 「いいえ」と彼女は興味なさそうに答えた。「聞いたことがないわ」 彼女は少しだけ――ほんの少しだけ――デイジーのことが気にかかった。まま娘を姿が見え、声が聞える範囲に置いておきたかったのだけれど、ミスタ・スルースは彼女を部屋のむこう端に連れて行こうとしていた。 「彼とは知り合いにならないほうが――個人的な知り合いにはならないほうが――いいでしょうな、ミセス・バンティング」そう言って彼はくすりと笑った。「サー・ジョン・バーニーってのは警視総監ですよ――新任の。連れて歩いているお客さんの一人はパリ警視庁の総監です。サー・ジョンと同じ仕事をなさっているんですな。この方は娘さんと一緒に来ています。それからご婦人方も何人かいます。ご婦人方は恐いものがお好きですな、ミセス・バンティング。わたしらの経験じゃ、例外なしにそうですよ。『まあ、恐怖の部屋へ連れて行ってちょうだい』――この建物に入ったとたん、そう言いますね!」 ミセス・バンティングは考え込むように相手を見た。ミスタ・ホプキンスは彼女がひどく青ざめ、疲れていることにふと気がついた。バンティングと結婚するまえ、まだお仕えをしていたころは、もっと元気な様子だったのだが。 「ええ」と彼女は言った。「まま娘もさっきそう言ったわ。『恐怖の部屋に連れて行って』って。ここに着いたとき、そっくりそのままのことを言っていた」

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一団の人々がおしゃべりをし、笑い合いながら木の柵の内側から回転木戸のほうへむかって来た。 ミセス・バンティングは神経質そうに彼らを見た。ミスタ・ホプキンスが、個人的な知り合いにならないほうがいいでしょうな、と言った紳士はどの人だろうと思った。彼女はほかの人のなかから彼を選び出すことができそうな気がした。彼は背が高くて力強い、軍人のような顔つきのハンサムな男性だった。 ちょうどそのとき、彼はにこにこしながら一人の少女の顔を上から覗き込むように見ていた。「ムシュー・バルバルーのおっしゃる通り」と彼は大きな、陽気な声で話していた。「イギリスの法律は犯罪者に寛大すぎます。とりわけ殺人者には。わが国がフランス流の裁判をしていれば、今われわれが出てきた部屋にはもっと蝋人形が一杯詰まっていたでしょう。有罪は絶対まちがいないと警察が確信した人間がしばしば無罪放免になるのです。そして一般大衆からは『未解決事件がまた増えた!』と愚弄されるのですよ」 「サー・ジョン、それって、人を殺しても罰を受けないことがあるっていうことなの?先月から人を殺しているあの男も?きっと絞首刑になるわよね――捕まったら」 少女らしい声が鳴り響き、ミセス・バンティングはその一言一句を聞き取ることができた。

一団の人々は彼らのまわりに集り、熱心に聞き耳を立てていた。「いやいや」彼はゆっくりと言った。「あの殺人者は絞首刑にはならないと思いますね」 「警察には捕まえられないってこと?」少女の澄んだ声には気取ったような、おしゃまな調子があった。 「われわれは最後にはやつを引っ捕らえるでしょう――というのは」――彼は一瞬ためらって、それから低い声でこう付け加えた――「新聞記者には洩らさないでくださいよ、ミス・ローズ――というのは、われわれは問題の殺人者の正体を突き止めたと考えていますから――」 そばに立っていた数人の人が驚きあきれ、信じられないといった声を発した。 「じゃ、どうして捕まえないの?」と少女は憤慨したように叫んだ。 「犯人の居場所が分かっているとは言いませんでしたよ。ただやつが誰であるのか知っていると言ったのです。いや、それよりも、わたしが個人的に非常に強い疑いを抱いている人物がいると言うべきかもしれません」 サー・ジョンのフランス人の同僚はすばやく視線をあげた。「ライプシックとリバプールの男かね?」彼はいぶかしそうに訊いた。

相手は頷いた。「そうです。事件を調査なさったようですな」 彼はその話題を自分の心からも聞き手の心からも追い払おうとするかのように、ひどく急いでこう言った。 「八年前に同じような殺人が四件発生しました。ライプシックで二件、その直後にリバプールで二件。どの犯罪にもある特徴があって、同一人物によって犯されたことは明らかでした。犯人は幸いなことに現場で取り押さえられました。犯人は最後の犠牲者の家を出て行こうとしたところを捕まったのです。リバプールの二つ目の事件は家のなかで起きましてね。わたしはこの不幸な男を見ました――不幸というのは、どう見ても彼は気が狂っていたからです」――彼はためらい、声を低めてこう言い足した――「宗教的な妄想に取り憑かれていましたよ。わたし自身、かなり長いことこの男を観察しました。さて、ここからが本当に興味深い点なんですが、わたしは一月前にある知らせを受け取りました。この犯罪的な精神異常者が入院していた病院を脱走したというのです。彼は驚くべき狡猾さと知性で脱走を企てました。彼が逃げるとき、とてつもない額の金貨をくすねさえしなければ、とっくの昔に捕まっていたんでしょうがね。病院の職員に払うはずだった給料を盗んだんです。そのせいで脱走事件は秘密にされてしまったんですよ、非常にまずいことに――」 彼はしゃべりすぎたことに気がつき後悔したように突然言葉を切った。そのあと一行はサー・ジョン・バーニーを先頭に一列になって回転木戸を通り抜けた。 ミセス・バンティングは真正面を見つめていた。彼女はまるで――あとになって夫に言ったように――石になったような気分だった。

彼女は、いくらそうしたいと思っても、下宿人に危険を知らせる時間も力もなかった。デイジーとその同伴者は今、こちらのほう、警視総監のいるほうへまっすぐ向っていたからである。次の瞬間、ミセス・バンティングの下宿人とサー・ジョン・バーニーは鉢合わせした。 ミスタ・スルースは一方の側にそれた。その青ざめた、細い顔には恐ろしい変化が起きていた。怒りと恐怖にゆがみ、土気色になっていたのだ。 しかしミセス・バンティングがほっとしたことに――そう、言葉では言えないくらいほっとしたことに――サー・ジョン・バーニーとその友人たちはさっさとそこを通り過ぎていった。まるでその部屋には彼ら以外誰もいないような感じで、ミスタ・スルースと娘のそばを通り過ぎてしまったのだ。 「早く見ていらっしゃい、ミセス・バンティング」と回転木戸の番をしている男は言った。「お友だちといっしょに貸し切り状態でご覧になれますよ」彼は職員としてではなく、一個の男性として彼らに接していた。かわいらしいデイジー・バンティングにふざけたように話しかけたのは一人の男性としてのミスタ・ホプキンスだった。「あなたのような若い女性がああいう恐いものを見たがるなんて、世のなかいったいどうなっているんでしょうな」と彼はからかい半分に言った。 「ミセス・バンティング、ちょっとこちらのほうへ来ていただけますか」 その言葉はミスタ・スルースの唇から語られたと言うより、そこから洩れて出た息のように聞えた。

女主人はおどおどしながら一歩彼のほうに歩み寄った。 「あなたとお話しするのはこれが最後です、ミセス・バンティング」下宿人の顔はまだ恐怖と激しい怒りに歪んだままだった。「あなたの忌むべき裏切りには必ず報いが来ます。あなたを信頼していたのに、ミセス・バンティング、なのにあなたは裏切った!でもわたしは天の力によって守られています。まだやるべきことがたくさん残っているからです」彼はささやくように声をひそめ、次のような言葉を吐き出した。「あなたの最後はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭いでしょう。その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむくでしょう」 ミスタ・スルースはこの奇怪な、禍々しい言葉をささやきかけるあいだも、視線を彼方此方に走らせ逃げ道を探していた。 ついに彼の眼はカーテンの上の小さな札に釘付けになった。「非常口」とそこには書かれていた。ミセス・バンティングは彼がそこを目指して一目散に駆け出すのではないかと思った。しかしミスタ・スルースの取った行動はそれとはぜんぜんちがっていた。女主人のそばをはなれて、回転木戸に近寄り、しばらくポケットのなかを探ってから、番をしている男の腕をさわった。「気分が悪いんです」と彼はひどく早口に言った。「気分が悪くてたまらないんです!ここの空気のせいでしょう。どう行けばいちばん早く外に出られますか。こんなところで気を失いたくはないのです――特に女性がいますから」 左手がすばやくのびて、ポケットのなかで探っていたものを相手の手のひらに載せた。「あそこに非常口がありますね。あそこから出ることはできますか」 「ええ、もちろんですとも、旦那さん」 男はそう言って躊躇した。彼はほんのかすかではあったけれど、不安を感じたのだ。デイジーを見ると、彼女は顔を紅潮させ、嬉しそうに、何の心配事もないようにほほえんでいる。ミセス・バンティングを見ると、彼女は顔が真っ青だった。しかし下宿人の様子が急におかしくなったので当然のことながらきっと心配しているのだろう。ホプキンスは十シリング金貨が心地よく手のひらをくすぐるのを感じた。パリ警視庁の警視総監は半クラウンしかよこさなかった――けちんぼの、しけた外国人野郎め! 「ええ、旦那さん、あそこから出してさしあげましょう」彼はとうとうそう言った。「鉄のバルコニーがありますから、そこで外の空気を吸えば気分がよくなるでしょう。でも、またなかに入るときは正面までまわらないといけませんよ。あの非常口からはなかに入れないんで」 「ええ、知っていますよ!」とミスタ・スルースは慌てているように言った。「気分がよくなったら正面から入ってきて、もう一シリング払います。それがフェアというものです」 「そんなことなさらないでも事情をおっしゃれば大丈夫ですよ」 男は非常口のほうに行き、カーテンを引くと、肩でドアを押した。ドアは一気に開いて、一瞬、光がミスタ・スルースの眼をくらませた。

彼は手で眼を覆った。「ありがとう」と彼はつぶやいた。「ありがとう。外に出たら大丈夫ですよ」 鉄の階段が下の小さな庭まで延びており、そこの出入り口から脇道に抜けることができた。 ミスタ・スルースはもう一度あたりを見まわした。彼は本当に具合が悪かったのだ――具合が悪くて頭がくらくらしたのだ。バルコニーの手すりを飛び越え、永遠の安らぎを得ることができたらどれほど心地よいだろう。 いや、そういうわけにはいかない。彼はそんな思いや誘惑を頭から払いのけた。ふたたび怒りの表情が顔に浮んだ。彼は女主人のことを思い出したのだ。あれだけ寛容に扱ってやったのに、どうしてあの女はわたしをわたしの最大の敵に売り渡したのか。何年もまえに謀議してわたしを閉じ込めてしまおうとしたあの警官に。わたしは完全に正気なのに、そしてこの世で復讐という偉大な仕事をしなければならないのに、あの警官はわたしを精神病院に閉じ込めようとしたのだ。

彼は外に足を踏み出した。そのうしろでカーテンが垂れ下がり、彼を見つめていた人々の視界から、背の高い、痩せた姿を覆い隠した。 デイジーでさえかすかな怯えを感じた。「顔色がよくなかったわね」彼女は振り向いて訴えるような眼でミスタ・ホプキンスを見た。 「ああ、そうだね。お気の毒に――お宅の下宿人なんですって?」彼は同情するようにミセス・バンティングを見つめた。

彼女は舌で唇をしめらせて「ええ」と言い、こう力なく繰り返した。「うちの下宿人ですよ」