下宿人

第十四章

Chapter 14 6,148 words Public domain Markdown

「ようやくお帰りだぞ。よかった、よかった、エレン。番犬だってうちにいれてやりたい夜だものな」 バンティングの声には安堵感が満ちていたが、そう言いながら振り返って妻を見ることはしなかった。かわりに手にした夕刊を読みつづけた。

彼はさっきからずっと煖炉のそばの肘掛け椅子に心地よく納まっている。身体の調子は良さそうで、頬に赤みがさしていた。ミセス・バンティングはそれを見て強い羨望を、いや、それどころか憤りをすら感じた。これは実に不思議なことだ。冷淡なように見えて彼女は実はバンティングのことがとても好きだったのだから。 「そんなに神経質になることはないわ。ミスタ・スルースはちゃんと用心しているから」 バンティングは読んでいた新聞を膝の上に置いた。「こんな天気の日に出かけるなんて、わけが分からんね」彼はもどかしげに言った。 「まあ、あなたには関係ないじゃない、バンティング」 「うん、そりゃそうだ。だけど、あの人に何かあったら、こっちも困るからなあ。あの下宿人は、さんざん待ってようやく手にしたはじめての幸運なんだからね、エレン」 ミセス・バンティングは高椅子の上でちょっといらいらしたように身じろぎした。彼女はしばらく沈黙していた。バンティングが言ったことは当たりまえすぎて返事をするまでもなかった。それに彼女は聞き耳を立てていたのだ。想像のなかで、霧の立ち込める、ランプの灯った廊下を、下宿人がすばやく、奇妙なくらい静かに――まるで「人目をはばかる」ように、と彼女は思った――進むさまを追いかけていたのだ。ああ、今、彼は階段をあがっている。バンティングは今、何て言ったのかしら。 「こんな天気の日に外を出歩くなんて、危ないじゃないか――そうとも、まともな人がすることじゃない。明日まで待てない用事があるなら別だけど」話し手は妻のほそい、血色の悪い顔をまっすぐに見つめた。バンティングは頑固な男で、自分の正しさをあくまで主張する癖があった。「一言注意してさしあげよう。うむ、そうするか!危ないですよとね。ああいう方は、夜中に町をうろつくべきじゃないって。ロイズ保険者協会で起きた事件を読んでやったことがあったね。ショッキングだったなあ。あれもみんな霧のせいなんだからね!それに、あの怪物野郎がまたすぐ動き出すだろうし――」 「怪物?」ミセス・バンティングはぼんやりとその言葉を繰り返した。

彼女は頭の上を歩く下宿人の足音を聞こうとしていた。快適な客間に行ったのか、それともすぐ上にあがって、彼がいつも実験室と呼んでいる、あの寒い部屋に行ったのか、それが知りたくて仕方なかったのだ。 しかし夫は彼女の言葉が聞こえなかったかのように話をつづけ、彼女は上で起きていることを探ろうと、聞き耳を立てることをあきらめた。 「霧のなかでそんなのに出くわしたらたまらんだろうね、エレン」彼の口調には、でも、それはそれでスリルがあって楽しいぞ、というようなニュアンスが含まれていた。 「くだらないことを!」とミセス・バンティングはきびしい声を出し、立ち上がった。夫の言葉に彼女は取り乱していた。夫婦水入らずでゆっくりできるというときに、どうして楽しい会話ができないのだろう。 バンティングはまた新聞に眼を落とし、彼女は静かに部屋のなかを動き回った。もうすぐ夕食の時間になる。今晩は夫のためにおいしい焼きチーズを作ることにしていた。彼女は軽蔑と羨望の念をこめて、夫のことを幸せ者と呼んでいた。この幸せ者は強靱な胃袋を持っているのだが、なかなか食い道楽なところもあった。立派なお屋敷に勤めると、召使いはえてしてそんな趣味を身につける。 そう、バンティングは胃が丈夫で幸せ者だわ。ミセス・バンティングは自分の上品な話し方に誇りを持っていた。彼女は下品な言葉――たとえば「腹」とか、もっと下卑た言葉とか――は決して口にしようとしなかった。もちろん病室で医者に話をするときは別だったけれども。 ミスタ・スルースの女主人はすぐに寒い台所へ行かなかった。かわりに寝室のドアを開け、気づかれぬようさっとなかに入り込んだ。静かにドアを閉ざし、暗闇のなかへ後じさりすると、耳をすませて立ちつくした。

最初は何の物音もしなかったのだが、耳に神経を集中していると、次第に真上の部屋から誰かがそっと動き回る音が聞こえてきた。真上の部屋はミスタ・スルースの寝室である。しかしどんなに耳をそばだてても下宿人が何をしているのか見当もつかなかった。 ついに階段に通じるドアの開く音が聞こえた。階段のきしむ音がする。これはまちがいなくミスタ・スルースがあの殺風景な部屋で晩を過ごすということだ。ずいぶん長いことあの部屋は使われていなかった――ほぼ十日くらいも。よりによって今晩、こんなに霧が出ているときに、実験を行うなんて。

手探りして椅子を見つけ、腰かけた。ひどく疲れていたのだ――まるで思い切り体力を使ったかのように不思議なくらい疲れていた。 そうよ、ミスタ・スルースがわたしとバンティングに幸運を運んで来てくれた。それは事実。そのことを忘れるなんて、恩知らずもいいところだわ。 このときがはじめてというわけではなかったけれど、座りながら彼女は、下宿人に出ていかれたらどうなるのだろうということも考えた。そうなればまず確実にわたしたちはおわりだ。それは下宿人の滞在があらゆる良きものを意味するのと同じように確実なことだ。その良きもののなかには物質的な面での余裕が含まれているが、でもそれはいちばん重要じゃない。ミスタ・スルースがここにいてくれるなら、そして彼はそのつもりであることを明らかに示しているのだけれど、とにかくいてくれるなら、世間体が保てるし、何より安心感があるのだ。 ミセス・バンティングはミスタ・スルースのお金のことを考えた。あの人には手紙が来ない。でも何らかの収入があるにちがいない――そこまでははっきりしていた。たぶんお金が必要なときは銀行に行ってソブリン金貨を引き出すのではないか。

彼女の心は意識的に、意図的に、ミスタ・スルースのことからはなれていった。

復讐者?おかしな名前だわ!復讐者がどこの誰であれ、いつかは気が済むときが来るだろう。いわば復讐心を満たすときが来るだろう。そんなふうに彼女はもう一度自分を納得させた。 ミスタ・スルースのことに戻ろう。下宿人が部屋だけでなく、主人夫婦にも満足してくれたのは幸運だった。実際、こんなに気持ちのいい下宿を出たいなどと、ミスタ・スルースが思う理由は何もないのだ。

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ミセス・バンティングは不意に立ちあがり、彼女をさいなむ不安と懸念を必死になって振り払った。廊下に出るドアの取っ手を手探りして回し、次の瞬間には軽い、しっかりした足どりで台所に降りていった。

彼らがはじめてこの家を借りたとき、地下の台所は彼女の努力によって快適とまではいえないまでも、ともかく非常に清潔な場所になったのだった。水しっくいを塗ったのだが、今でも白いその壁際にはガス・ストーブがぬっと大きな姿をあらわしていた。真っ黒い鉄と、ぴかぴかした鋼鉄でできている、巨大な四角い物体だった。この大きなガス・ストーブは十五分ごとに四シリングをガス会社に払うタイプのものだ。硬貨を投入口に入れて使うような馬鹿げたものは、この台所には、ない。こういうことにかけては、ミセス・バンティングはそつがなかった。ちゃんとしたガス・メーターがあり、彼女は使った分を、使ったあとに支払うのだ。

磨き込まれた木のテーブルの上にろうそくを置き、ガスの火口を開けると、ろうそくを吹き消した。 それからガスコンロの一つに火をいれ、ストーブの上にフライパンをのせた。とたんに彼女の心は、ついうっかりと、ミスタ・スルースのことに逆戻りしてしまった。あの下宿人くらいすぐ人を信じる紳士は見たことがない。にもかかわらず、彼にはひどく秘密めいたところが――とても変わったところがある。

彼女は鞄のことを考えた――飾り棚のなかで奇妙にがさごそしていたあの鞄。彼女はなぜか今晩、下宿人があの鞄を持ち出したような気がした。

彼女は乱暴といっていいくらい荒々しく頭のなかから鞄のことを追い払い、ミスタ・スルースの収入のこととか、彼が面倒をかけないことなど、もっと楽しいことを考えようとした。もちろん下宿人は風変わりな人である。そうでなければ下宿などしないだろう――親族とか同じ階級の友だちと、まったくちがう生活をしていただろう。 こうしたことがとりとめなく頭のなかを駆け抜けていくあいだ、ミセス・バンティングは料理をつづけた。チーズを用意し、小さく切り分け、慎重にバターの分量を量った。いつものことだが、彼女の作業にはある種のきめ細やかさ、手際よさ、正確さがあった。 トーストパンを作りながらその上に溶けたチーズをかけていると、突然音がしてびくりとした。彼女はじっとしていられない気持ちになった。 そろそろと、ためらいがちな足音が階段を降りてきた。

彼女は上を見あげ、耳をすました。 まさか、この寒い、霧の夜のなかに、またもや出かけて行くのだろうか――この前の晩のように。いいや、ちがう。聞こえてきた音、今はもう聞き慣れた足音は、そのあと玄関へむかう廊下を歩きはしなかった。 そのかわり――いったい何だろう、この音は?彼女は全神経を耳に集中させ、そのあまり、長いフォークの先にさしていたパンをすっかりこがしてしまった。びっくりしてそのことに気がつくと、彼女は顔をしかめた。自分が腹立たしかった。上の空で仕事しているからこんなことになるんだ。 ミスタ・スルースは明らかに今までしたことがないことをしようとしていた。彼は台所に降りてきたのだ。 ズシッ、ズシッと台所への階段を重々しく降りる足音がますます近づいてくる。ミセス・バンティングの心臓はそれに呼応するようにドキン、ドキンと打ちはじめた。彼女はガスコンロの火を消した。チーズが冷たい空気に触れて固くなり、台無しになるのもかまわなかった。 それから彼女は振り返ってドアのほうをむいた。

取っ手をまさぐる音がして、すぐにドアが開き、彼女が予想し怖れていたように、下宿人が姿をあらわした。 ミスタ・スルースはいつも以上に様子がおかしかった。格子縞の部屋着を着ているのだが、彼女はそんな格好の彼を見たことがなかった。とはいっても、彼がここに来てから間もなくしてその部屋着を買ったことは知っていた。彼の手には灯りのついたろうそくが握られていた。

台所が明るく照らされていて、そこに女が立っていることを見て取ると、下宿人はなぜかぎょっとし、ほとんど茫然とした表情になった。 「あら、旦那様。何でございましょうか。呼び鈴を鳴らされましたか」 ミセス・バンティングはストーブの前から動かなかった。こんなふうに彼女の台所に入ってくる権利など、ミスタ・スルースにはないのだ。彼女は自分の見解をはっきり相手に示すつもりだった。 「いや、な――鳴らしませんでした」彼はしどろもどろだった。「実をいうと、ここにあなたがいるとは知らなかったのです、ミセス・バンティング。こんな格好で失礼しますよ。わたしのところのガスストーブが使えなくなりましてね、というか、コインを入れるところが壊れたんでしょう。それでガスストーブを探して下に降りてきたんです。今晩貸してもらえないでしょうか。大切な実験をしたいのです」 ミセス・バンティングの心臓はドキドキと早鐘のように鳴った。彼女は不自然なくらいにどうしていいのか分からなくなった。ミスタ・スルースはどうして朝まで実験を待とうとしないのだろう。彼女は不審そうに相手を見たのだが、彼の顔にはあの表情、彼女を不安にさせ、同時に哀れみを催させるような、あの表情があった。それはひどく興奮し、真剣で、嘆願するような表情だった。 「ええ、もちろんですとも、旦那様。でも、ここはとても冷えこむんでございますよ」 「わたしには暖かくて快適ですよ」と彼は言ったが、その声には安堵の響きが充ち満ちていた。「上の階の寒い部屋に比べれば、暖かくて落ち着けます」 暖かくて落ち着ける?ミセス・バンティングは唖然としたように彼を見つめた。とんでもないわ。最上階の、あのがらんとした部屋だって、この冷たい地下の台所よりははるかに暖かくて、ずっと心地よいはずだ。 「火をおこしてさしあげましょう、旦那様。ここの煖炉は使っていないんですが、手入れはきちんとしてあるんです。この家に来て、わたくし、何よりも先にこの煙突を掃除させました。ひどい汚れようでしたわ。火事になるんじゃないかと思うくらい」ミセス・バンティングは主婦としての本能をかきたてられた。「そういえば、こんな寒い晩ですから、旦那様の寝室にも火をいれなくてはなりませんね」 「とんでもない――それはなさらないでください。あの部屋に火はいりません。煖炉はきらいなんです、ミセス・バンティング。まえにお話したと思うのですが」 ミスタ・スルースは顔をしかめた。まだ火がついているろうそくを手に持ち、台所の入り口のすぐ内側に立つ彼は、奇怪な姿を呈していた。 「長くはかかりません、旦那様。十五分くらいしたらおいでなすってください。すべてきちんと用意いたしますから。ほかに御用はございますか」 「まだ使わなくてもよいのですよ――しかしお礼は申しあげます、ミセス・バンティング。あとでまた来ますよ――ずっとあとで――あなたとご主人が就寝されたあとに。ただ明日、ガス会社の人を呼んでわたしのストーブを直していただけるとありがたいです。わたしが出かけているあいだにやってしまってください。硬貨の投入口が壊れては非常に困ります。たいへんな迷惑です」 「もしかしたらバンティングが直せるかもしれませんわ、旦那様。何でしたら、今、上の階に行かせましょうか」 「いや、いや、今晩はけっこうですよ。それにあれは直せません。わたしは多少知識がありましてね、ミセス・バンティング、いろいろ試してみたんです。故障の原因は単純です。機械のなかに硬貨がつまってしまった。いつもながら、まったくろくでもない仕組みだと思いますね」 ミスタ・スルースは普段よりもはるかに強い口調で不平をこぼした。しかしミセス・バンティングは彼に同情した。彼女は硬貨投入機を不正直なやつだと、まるでそれが人間であるかのように思っていた。ほんと、いやらしい、あの機械がシリング硬貨を飲み込むやり方は!昔一度使ったことがあるから、彼女はそれをよく知っているのだ。 ミスタ・スルースは彼女の考えを読み取ったかのように進み出て、ストーブをじろじろと見まわした。「投入機がついていないんですね」と彼は驚いたように言った。「これはありがたい。わたしの実験は少し時間がかかるんですよ。しかし、もちろん、ストーブの使用料としてお金は払いますよ、ミセス・バンティング」 「あら、とんでもないですわ、旦那様。そんなもの、いただくわけにはいきません。このストーブはあまり使っていないのでございます。それにこんなに寒いときは一分だって必要以上にここにいることはないんですから」 ミセス・バンティングは気分が次第に落ち着いてきた。ミスタ・スルースが眼のまえにいるとき、彼女の病的な恐怖は鎮められる。たぶん彼の態度がいつも紳士的で、ごく穏やかだからだろう。しかしそれでも彼が先に立ち、いっしょに一階へゆっくりあがっていくとき、彼女は何かしら薄気味悪いものを感じたのだった。

一階に着くと、下宿人は丁寧に女主人にお休みを言い、自分の部屋へと階段をあがった。 ミセス・バンティングは台所に戻った。ふたたびストーブに火をつけたが、自分でもわけの分からない不安に取りつかれ、心の落ち着きは消し飛んでしまった。チーズ料理を作りながら、彼女は自分がしていることに集中しようとした。そして大体のところ、それに成功したのである。しかし心のどこか別の部分が勝手に動いているらしく、彼女にしつこく質問を投げかけてくるのだった。

台所には得体の知れない存在がうようよ蠢いているようだった。ふと気がつくと彼女は耳をすましていた――もちろん二階上や、まして三階上の物音など聞こえはしないのだから、そんなことをしても意味はない。彼女は下宿人の言う実験とはどんなものなのだろうと思った。おかしなことだが、あの大きなガスストーブで彼が実際に何をやっているのか、彼女は探り出すことができないでいるのだった。彼女が知っているのは、非常に高温の熱が使われているということだけだった。