下宿人

第七章

Chapter 7 6,546 words Public domain Markdown

ちょうど時計が十二時を打っているとき、四輪馬車が門の前に停まった。 デイジーを乗せてきたのだ――頬を染め、興奮し、眼元が笑っているデイジーを。その姿を見ればどんな父親も思わず相好を崩しただろう。 「|伯母さん《オールド・アーント》がね、天気が悪かったら馬車で行きなさいって言ったの」彼女は嬉しそうにはしゃいだ。

馬車代をめぐってちょっとしたやりとりが繰り広げられた。誰でも知っているように、キングズ・クロスからメリルボーン通りまではたったの二マイルしかない。しかし御者は大声で一シリング六ペンスを要求したのである。彼は、若い娘を無事に連れてきてやったんだ、と脅すように言うのだった。

御者とバンティングが押し問答をしているあいだ、デイジーは二人を残して板石敷きの小径を通り、まま母が待っている玄関へむかった。

二人は形だけのキスを交わした。特にミセス・バンティングのキスは軽く触れただけだった。そのとき静かな冷たい空気を破って突然大きな声が響き渡り、人々をぎくりとさせた。長く尾をひく叫び声は高く低く、はるかエッジウエア通りの往来のざわめきのむこうから聞こえてきた。 「何だ、ありゃ」バンティングが不思議そうに言った。「いったい何があったんだ」 御者は声をひそめた。「キングズ・クロスで恐ろしい事件があったって叫んでるんだよ。今度は二人まとめてやりやがった!だから料金をはずんでくれって言ってんだ。こんな話、お嬢ちゃんの前じゃできなかったけどよ、でも、かれこれこの五六時間のあいだにロンドンじゅうから人が集まってきてるんだ。立派な格好の紳士もいたぜ。もっとも、見るものなんてもう何もないんだけどな」 「何だと。昨日の晩、また女が殺されたのか」 バンティングはぞくぞくするほど興奮を感じた。こんな凶悪な犯罪を防げないなんて、何のために五千人の警官を配置したんだ?

御者は驚いて彼を見つめた。「二人だぜ――数ヤードと離れてないところでな。胆の――胆のすわった野郎だ――けど、殺された女は酔ってたんだ。酒に恨みがあるんじゃねえか!」 「警察は犯人を捕まえたのかい」バンティングは一応訊いてみた。 「まさか!警察に捕まえられるかよ!何時間も前にやられたんだろう――石みたいに冷たくなってたから。今は使われてない抜け道の両端でやられたんだ。だから発見が遅れたのさ」 しわがれた叫び声がだんだん近づいてきた。二人の新聞売り子が互いに負けじと怒鳴りあっている。 「キングズ・クロスで恐るべき犯行!」彼らは勝ち誇ったように叫んだ。「またもや復讐者の仕業!」 バンティングは娘の大きなわら色の旅行鞄を持ったまま道路に走り出て、無頓着にも半ペニー新聞に一ペニーを支払ったのだった。

彼はひどく興奮し落ち着いていられなかった。ジョー・チャンドラーの知り合いというだけで、なんだか自分までこの殺人事件に個人的関わりを持っているように思えたのである。彼は昨日の朝みたいにチャンドラーがさっそく家にやってきて、事件の一部始終を話してくれたらいいのにと思った。あのときは残念なことにバンティングは外出していたのだけれど。

小さな玄関広間に戻ったとき、デイジーの甲高くて、弾むような早口が聞こえた。彼女は猩紅熱のことや、|伯母さん《オールド・アーント》の隣人がはじめのうち、猩紅熱ではなくてただの蕁麻疹ではないかと思ったことなど、長々とまま母におしゃべりしていた。 しかしバンティングが居間のドアを押し開けたとき、娘の声ははっと驚くような調子に変わって、こう叫んだ。「あら、エレン、どうしたの?顔色が悪いわ!」そして妻の押し殺したような返事。「窓を開けて――お願い」 「キングズ・クロスの近くで恐るべき犯行!ついに手がかりが見つかる!」新聞売りが高らかに叫んだ。 そのときミセス・バンティングは自制心を失ったように笑い出した。笑って、笑って、笑って、まるで愉快でたまらないとでもいうように身体を前後に揺らすのだった。 「お父さん、いったいどうしちゃったの?」 デイジーはあっけにとられているようだった。 「ヒステリーだな――きっとそうだ」と彼は短く言った。「水差しを持ってくるよ。ちょっと待っていろ」 バンティングはひどくいらだった。とんでもないやつだな、まったく。こうも簡単に取り乱すとは。

下宿人の呼び鈴が急に静かな家のなかに鳴り渡った。その音のせいなのか、水差しという脅しのせいなのか、いずれにせよミセス・バンティングに魔法のような効果があらわれた。全身の震えはまだ止まらなかったが、冷静を取りもどし、立ちあがったのだ。 「上に行ってくるわ」彼女は多少苦しそうに息をしながら言った。「あなたは台所に行きなさい、デイジー。オーブンで豚肉を焼いているの。ソースを作るからリンゴの皮をむいておいて」 階段をあがるとき、ミセス・バンティングは両足が綿でできているような気がした。震える手で手すりをつかみ、身体を支える。しかし必死になって身体に力をこめていくと、じきに足元がしっかりしてきた。階段をあがったところでしばらく立ち止まり、客間のドアをノックした。 ミスタ・スルースの声が寝室から聞こえてきた。「具合が悪いんです」と彼は気むずかしい声で呼びかけた。「風邪をひいたみたいです。お茶を一杯持ってきていただけませんか。ドアの前に置いておいてください、ミセス・バンティング」 「かしこまりました、旦那様」 ミセス・バンティングは振り返って下に降りた。依然として調子がおかしくめまいがしたので、台所に行くかわりに居間のガスコンロで下宿人のお茶を淹れることにした。 お昼のディナーの最中に夫婦はデイジーの寝場所をどこにしようかとしばらく話し合った。そのときは最上階の裏部屋にベッドの用意をしようと決まったのだが、ミセス・バンティングはこれを変更したほうがよいと考えた。「デイジーはわたしといっしょに寝るから、バンティング、あなたは上で寝なさい」 バンティングはいささか驚き、それが表情にも出たのだけれど、おとなしく提案に従った。たぶんエレンが正しいのだろう。上に行くのは寂しいだろうし、結局のところ下宿人がどんな人間なのかあまり分かってはいないのだ。もちろん立派な紳士のように見えるのだけれども。 デイジーは気立てのよい娘だった。彼女はロンドンが好きで、まま母の手伝いがしたかった。「洗い物はわたしがする。わざわざ下に行かなくてもよくってよ」彼女はほがらかに言った。 バンティングは部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。妻はこっそりそれを見つめながら、夫は何を考えているのだろうといぶかしんでいた。 「新聞を買わなかったの?」とうとう彼女が言った。 「もちろん買ったよ」彼は急いで答えた。「でも片づけたんだ。おまえが見たくないだろうと思って。神経質になっているようだから」 彼女はもう一度すばやく、こっそりと視線を投げかけた。しかし彼はいつもと変わらぬ様子で――明らかに彼の言葉にはそれ以上の意味もそれ以下の意味もないようだった。 「通りで何か叫んでいたんじゃないの――わたしがおかしくなる前に」 今度はバンティングが妻をすばやく盗み見る番だった。錯乱というかヒステリーというか――呼び名はどうでもいいが――それに突然襲われたのは外から聞こえた叫び声のせいだと彼は確信していた。ロンドンで復讐者の殺人に神経質になっている女は彼女だけではない。朝刊によると、相当な数の女性が一人で外出することを恐れているという。先ほど彼女が取り乱したのは外の叫び声や興奮と無関係なはずがない。 「何て叫んでいたのかおぼえてないのかい?」彼はゆっくりと訊いた。 ミセス・バンティングはテーブル越しに夫を見た。彼女は思いきってやろうとすれば嘘もつけるし、あのおぞましい叫び声の意味を知らないふりもできただろう。しかしいざとなると、やっぱり嘘はつけなかった。 「おぼえているわ」彼女は力なく答えた。「一言二言聞こえたの。また殺人があったんでしょう?」 「さらに二人殺されたよ」夫は重々しく言った。 「二人?余計にひどいじゃない!」彼女の顔は青ざめ――緑がかった土色になり――バンティングは彼女がまたもやヒステリーを起こすのではないかと思った。 「エレン?」彼は警告するように言った。「エレン、気をしっかり持て!殺人のことでどうしておまえがうろたえるのか知らんが、とにかくあんなものは忘れろ!別にわしらが話題にするようなことじゃない――いや、まあ、しょっちゅう話すことじゃ――」 「わたしは話したいのよ」とミセス・バンティングがヒステリックに叫んだ。

夫と妻はテーブルを挟んで立っていた。夫は煖炉に背をむけ、妻はドアに背をむけていた。 バンティングは妻を見つめながらひどく混乱し動揺していた。彼女は本当に具合が悪そうだ。やせ細った身体がさらに縮こまったように見える。彼はエレンがはじめて年相応の見かけになってきたと悲しく思った。その細い手――荒仕事をしたことがない、きれいな、柔らかい、白い手――は、痙攣するような動きとともにテーブルの端をつかんだ。 バンティングは妻の顔色を見て不安になった。「大変なことになったぞ」と彼は思った。「また気分が悪くならなきゃいいんだが。でないと大騒ぎになる」 「話してちょうだい」彼女は低い声で要求した。「ほら、聞かせてくれるのを待ってるのよ。さ、早く、バンティング!」 「話すことなんて、たいしてないんだ」彼はいやいやそう言った。「だいたい新聞にはちょっとしか出てなかったし。だがデイジーを乗せてきた御者が――」 「何て言ったの?」 「今、おれが言ったようなことを教えてくれたんだ。今度は二人やられた。どっちもしたたか酔っていたそうだよ、かわいそうに」 「まえにも人が殺されたところで?」彼女は恐れるように夫を見た。 「いや」彼はぎこちなく言った。「いや、ちがうよ、エレン。あそこからずっと西のほうさ――実はここからそう遠くないところだ。キングズ・クロスの近く――それで御者は事件のことを知ったんだ。使われていない抜け道でやられたらしい」そのとき妻の目つきに異変を感知した彼は急いでこう付け足した。「さあ、今はこれでやめておこう!もうすぐジョー・チャンドラーから詳しい話が聞ける。今日きっと訪ねてくるよ」 「じゃ、五千人の警官は何の役にも立たなかったのね」とミセス・バンティングはゆっくりと言った。

彼女はテーブルを握っていた手をゆるめ、さっきよりも真っ直ぐに立っていた。 「ぜんぜんさ」バンティングは短く言った。「狡猾なやつだよ、まったく。しかし待てよ――」彼は振り返って椅子の上に片づけておいた新聞を取りあげた。「そうそう、手がかりが見つかったって言っていたな」 「手がかりですって、バンティング?」ミセス・バンティングは低く弱々しい消え入るような声で言った。そしてふたたびやや前のめりになってテーブルの端をつかんだ。 しかし夫はもう彼女を見ていなかった。彼は新聞に目を近づけ、いたって満足そうな声で記事を読みあげた。 「『喜ばしいことに警察はついに犯人逮捕につながる手がかりをつかんだ――』」そこまで読んでバンティングは新聞を落とし、慌ててテーブルを回った。

妻が奇妙な、ため息のようなうめき声をあげ、テーブルクロスをずるずると引きずりながら床にくずおれたのである。彼女は失神して横たわっているように見えた。バンティングは震えあがって狂ったようにドアを開け叫んだ。「デイジー!デイジー!来てくれ。エレンがまたおかしくなった」 デイジーは飛びこんでくると、あわてふためく優しい父親が思わず感嘆するような沈着と冷静を示した。 「スポンジを濡らして持ってきて、お父さん――急いで!」と彼女は叫んだ。「スポンジと――ブランデーがあれば、それも少し。わたしがみているから!」彼が小さな薬瓶を持ってくると、デイジーは不思議そうに「どこが悪いのかしら」と言った。「わたしが家のなかに入ってきたときは何ともなかったのよ。わたしの話に面白そうに聞き入っていたのに、それが急に――お父さんも発作を起こすところは見ていたでしょう?エレンらしくないわ。そう思わない?」 「まったくだ」と彼はささやいた。「まったくだよ。だがね、わたしらは生活がえらく苦しかったからね――おまえには言えなかったが、苦労が絶えなかったんだよ。その影響が今出てきたんだな――きっとそうだ。彼女は文句ひとつ言わなかった。エレンは気丈な性質だから。だけど今になってあの苦労がこたえてきたんだよ――今になってね!」 そのときミセス・バンティングは上体を起こしながら少しずつ目を開けた。彼女は本能的に頭をさわって髪の毛が乱れていないか確かめた。

彼女は完全に気を失ったわけではなかった。もっとも完全に気を失ったほうがよかっただろうけれども。彼女はひどい虚脱感に襲われ、もう立っていられない――いや、倒れなければならないような気がしただけなのだ。バンティングの言葉は哀れな女の滅多に触れられない琴線に触れた。目を開けると涙が一杯に溜まっていた。ひもじい思いをしながらじっと待ち続けたあの時期に、彼女がどれだけ堪え忍んでいたかをまさか夫が知っているとは思っていなかったのだ。 しかし彼女は感情をあらわすことを病的なほど嫌った。彼女にとってそれは「馬鹿げたこと」でしかなく、それゆえ次のようなことしか言わなかった。「大騒ぎしないでちょうだい!ちょっと具合が悪くなっただけ。気を失ってなんかいませんよ、デイジー」 彼女はバンティングが急いで注いだ少量のブランデーのグラスを邪険に押しのけた。「そんなもの、さわりたくもないわ――死んだってさわるものですか!」と彼女は声を荒げた。

力のない手でテーブルにつかまり、彼女は立ちあがった。「もう一度台所へ行ってちょうだい、デイジー」しかしその声はむせぶように震えていた。 「きちんと食事をしてなかったからだよ、エレン――だからこうなるんだ」とバンティングは突然言った。「そういや、この二日ほどろくに食べていないじゃないか。いつも言っていただろう――昔は何度も言ったはずだよ――女は空気を食って生きるわけにゃいかないって。でもおまえはおれの言うことなんて一言も聞きゃしないものなあ!」 デイジーは立ったまま二人を見比べていた。明るい、愛らしい顔に影がさした。「そんなに生活が苦しかったなんて知らなかったわ、お父さん」彼女は胸がいっぱいだった。「どうして教えてくれなかったの。わたしから|伯母さん《オールド・アーント》にお願いしたら助けてもらえたかもしれないのに」 「そんなことはしてほしくありません」まま母はいらだたしげに言った。「でも、たしかに――そうね、まだあのときの苦労が身体から抜けきっていないのね。忘れることなんかできそうもないような気がする。あの、じっと待つだけの日々――そ、それから――」彼女は自分を抑えた。さもないと次の瞬間には「飢えに苦しんだ日々」という言葉が口をついて出ていたかもしれない。 「しかし、もう大丈夫さ」とバンティングは力をこめて言った。「ミスタ・スルースのおかげでな」 「そうね」妻は低い、奇妙な声でその言葉を繰り返した。「そうね。もう大丈夫ね。あなたの言う通りよ、バンティング。何もかもミスタ・スルースのおかげだわ」 彼女は歩いて椅子に腰かけ、「まだちょっとだけふらふらする」とつぶやいた。 デイジーは彼女を見ながら父親のほうを振りむき、小声で話しかけた。しかしそれほど低い声ではなかったためにミセス・バンティングに聞かれてしまったけれども。「お父さん、お医者様に診てもらったほうがいいんじゃない?元気を回復するお薬とか、くれるかもしれないわ」 「医者なんか結構よ!」ミセス・バンティングは急に語気を強めた。「医者なら最後のお屋敷でたくさん見たわ。奥様は十ケ月で三十八人の医者に診てもらったのよ。みんなに診てもらうんだって、奥様はかたく決心していらっしゃった。でも奥様を助けることができたかしら。いいえ。やっぱり奥様はお亡くなりになったわ。もしかしたら死期を早めたかもしれない」 「あの方は変わり者だったよ。おまえが最後にお仕えした奥様は」バンティングは非難するように話しはじめた エレンは奥様が息を引き取るまでお屋敷を離れたくないと言い張った。それがなければ彼らは数ケ月早く結婚できたかもしれない。バンティングはそのことをいつも不満に思っていた。

妻は弱々しくほほえんだ。「そのことで言い争うのはやめましょう」彼女はいつもより優しい、柔和な声でさらにこう言った。「デイジー?あなたがもう台所に行かないのなら、わたしが行かないとならないわね」彼女がまま娘のほうを振りむくと、娘は飛ぶように部屋を出て行った。 「あの娘は日に日にきれいになっていくな」バンティングは慈しむように言った。 「美貌も皮一重ってことを人は忘れがちなものよ」と妻は言った。彼女はだんだん気分がよくなってきた。「でも、バンティング、たしかにデイジーはいい娘だわ。すすんでお手伝いもするようになったし」 「そうだ、下宿人のディナーを忘れちゃならんぞ」バンティングはそわそわしながら言った。「今日は魚料理だったね。デイジーに作ってもらって、おれが持っていこうか。まだ完全によくなっていないだろう、エレン?」 「もう平気。わたしがミスタ・スルースの午餐《ランチョン》を持っていく」と彼女はすばやく言った。夫が下宿人の食事をディナーなどというのを聞くといらいらした。彼らはお昼にディナーを食べるが、ミスタ・スルースは午餐《ランチョン》を召しあがるのだ。どんなに奇人であっても、ミセス・バンティングは下宿人が紳士であることを忘れなかった。 「あの方はわたしにお世話されるのが好きなんだもの。そうでしょう?わたしなら大丈夫。心配しないで」彼女はしばらく間を置いてからそう付け加えた。