第二十五章
デイジーの十八回目の誕生日は何ごともなく朝を迎えた。父親は十八歳になったらプレゼントしようといつも約束していたものを与えた――時計である。かわいらしい小さな銀時計で、彼が幸せだった最後の日に中古で買ったものだ。それも今思うとずいぶん昔のような気がした。 ミセス・バンティングは銀時計など贅沢すぎるプレゼントだと思ったが、なにしろあまりにも気分が落ち込み、あまりにも自分のことしか考えられなかったから、いちいち口出しはしなかった。それに夫と娘のあいだで行われることに関しては良識をはたらかせ、たいていの場合は横からとやかく言わないことにしていた。
誕生日の午前中にバンティングはタバコを買い足しに出かけた。おそらく仕事を辞めてからの一週間をのぞけば、この四日間くらいタバコを吸いまくったことはなかっただろう。あの当時、パイプを吹かすことはえもいわれぬ快楽だった。それは禁断の実を食べるような快楽なのだそうである。 タバコは今や彼にとって唯一の安らぎだった。それはまるで麻薬のように神経に作用して、恐怖をやわらげ、思考の手助けをしてくれる。しかしささいなことにギクリとするのはタバコの吸いすぎのせいだと彼は思っていた。何でもない外の音や、急に話しかける妻の声にさえ彼は縮みあがったのだ。 ちょうどそのときエレンとデイジーは下の台所へ行っていた。バンティングはミスタ・スルースと自分のあいだにひと続きの階段しかないことに気づいてやけに落ち着かなくなった。そこでエレンには何も言わずこっそりと外に出かけたのだった。 この四日間というもの、バンティングは行きつけの店をわざと避けて行かないようにした。とりわけ知り合いや近所の人と会うことを避けていた。彼はあることについて彼らに話しかけられるのを怖れていたのだ。そのこと以外何も考えられなかった彼は、つい口を滑らして知っていることをしゃべってしまうのではないかと不安でたまらなかった。いや、知っていることというより、それは彼のなかに巣くっている疑惑といったほうがいいだろう。 ところが今日、この不幸な男は人と話をしたい――つまり妻や娘以外の誰かと話をしたい――という奇妙な、本能的な欲求にかられたのである。 ちがう相手と話したいという、この欲求はとうとう彼をエッジウエア通りにほど近い、小さな人通りの多い街路へと連れ出した。そのときはいつもより人の行き来が多かった。あしたが日曜日であるため、近所の主婦が買いだめをしていたのである。元執事はいつもタバコを買う小さな古い店屋に入った。 バンティングはタバコ屋ととりとめのない会話をして時間を過ごした。しかしバンティングが安心しまた驚いたことに、隣近所が今でも噂するにちがいない話題について、店のあるじはちらりとすら触れることはなかった。 カウンターのそばに立っていた彼は手にしたタバコの代金をまだ払っていなかったのだが、ふと開けっ放しのドアからエレンの姿を垣間見、はっと身体が凍りついた。妻はちょうど反対側の果物屋のまえに一人で立っていた。
一言ことわりを入れて、彼は店を飛びだし道路を渡った。 「エレン!」彼はしわがれた声で言った。「まさか娘を下宿人と二人きりにして出てきたんじゃないだろうな」 ミセス・バンティングの顔は恐怖で黄色くなった。「あなた、うちにいるとばかり思っていたわ」と彼女は叫んだ。「うちにいたじゃない!どうして出てきたのよ、わたしが家にいることを確かめもしないで?」 バンティングは答えなかった。しかし腹を立てながら黙ってにらみ合っているとき、彼らは互いに相手があのことを知っていることに気づいたのだった。
彼らはむきを変え、混雑した通りをあわてて戻りはじめた。「走るんじゃない」と彼は唐突に言った。「早歩きで充分間に合う。ほかの人が見ている、エレン。走るんじゃない」 彼は息をきらしながらしゃべった。早歩きのせいではなく、恐怖と動揺のために息が切れたのだった。 ようやく彼らは門のところにたどり着いた。バンティングが妻の先に立ち、門を押してなかに入った。 エレンはしょせん、まま母だ。おれの気持ちなんか分かるわけがない。
彼は小径をひとっ飛びに飛び越えたようだった。そして慌てて鍵をあけた。 ドアを開け放ち「デイジー!」と彼は怒鳴った。泣き出しそうな声だった。「デイジー!どこだ?」 「こっちよ、お父さん。どうしたの?」 「大丈夫だ」バンティングは蒼白な顔を妻にむけた。「大丈夫だよ、エレン」 彼は廊下の壁にもたれてしばらくじっとしていた。「まったく驚かせやがって」と彼は言い、それから警告するように「娘を怖がらせちゃいけないぞ、エレン」と言った。 デイジーは居間の煖炉のまえに立って鏡に映った自分の姿に見とれていた。 「お父さん」と振り返りもせず、彼女は叫んだ。「わたし、下宿人を見たわよ!すてきな紳士じゃない。でも確かに変人みたいね。呼び鈴が鳴ったんだけど、わたし、上に行きたくなかったのよ。そうしたら彼が降りてきてエレンに何かを頼もうとしたの。わたしたち、ちょっとだけお話ししたのよ。今日はわたしの誕生日だって言ったら、エレンも誘って今日の午後、マダム・タッソーの蝋人形館へ行きませんかですって」彼女はやや照れたように言った。「たしかに普通の人とはちがっているわね。はじめて顔を合わせたとき、すごく変な話し方をしたもの。『誰なんです』っておどかすみたいに言ったのよ。だから、わたし、『ミスタ・バンティングの娘でございます』って言ってやったの。『それは幸運な娘さんですね』って、あの人、そう言ったのよ、エレン。『あんなに素敵なまま母がいらっしゃるのだから。だからあなたも善良で、純粋な女性に見えるんでしょうね』ですって。そのあと祈祷書から何か引用したわ。『全き人に目をそそぎなさい』って、首を振りながら言ったの。なんだか、|伯母さん《オールド・アーント》と一緒にいるみたいな気分だったわ」 「下宿人と外出するなんて許さないぞ、絶対に」 バンティングは押し殺したような、憤慨した声で言った。一方の手は額の汗をぬぐい、もう一方の手は無意識のうちにタバコの小箱を握りつぶしていた。彼は代金を払い忘れたことをはっと思い出した。 デイジーは口を尖らせた。「あら、お父さん、誕生日には好きなことをさせてくれるんじゃなかったの!土曜日は混んでいるから見学にはあまりいい日じゃないそうですよって、わたし、言ってやったのよ。そうしたら早く行って、ほかの人が昼ご飯を食べているときに見ましょう、ですって」彼女はまま母のほうをむき、嬉しそうに笑った。「あの方は、特にあなたを誘いたいらしいわ。あなたのことが大好きみたいよ、エレン。わたしがお父さんだったら、やきもち焼いちゃう!」 彼女の最後の言葉は居間のドアをノックする音によってさえぎられた。 バンティングと妻は不安そうに眼を見交わした。動揺のあまり、玄関のドアを開けっぱなしにしていたのだろうか。誰か、容赦のない法の手先が、こっそりと忍び込んでいたのだろうか。
二人はそれがミスタ・スルースにすぎないことを知ると不思議な安心感をおぼえた。ミスタ・スルースは外出する格好をしていた。はじめてそこに来たときかぶっていたシルクハットを手に持っている。しかしインバネスのかわりにコートを着ていた。 「お戻りになるのが聞えたものですから」――彼は甲高いおどおどした声でミセス・バンティングに話しかけた――「ミス・バンティングと一緒にマダム・タッソーの蝋人形館へ行くのはどうかと思いまして。わたしはまだ有名な蝋人形を見たことがないのです。名前はいつも聞いているのですが」 バンティングは平静を装って下宿人をじっと見ていた。そのとき、ある考えが胸のなかに浮んできて、たとえようもない安堵をもたらしたのだった。 こんなに穏やかで優しい紳士が、残酷で狡猾な怪物であるわけがないではないか。この恐ろしい四日間というもの、バンティングがずっと信じつづけてきたような怪物であるわけが。
彼は妻の眼をとらえようとしたがミセス・バンティングはあらぬ方向を茫然と見つめていた。彼女はもちろん買い物用のボンネットとクロークを身につけたままだった。デイジーはもう帽子をかぶりコートを着ていた。 「いかがでしょうか」とミスタ・スルースは言った。ミセス・バンティングは振りむいた。女主人には相手の眼が彼女を威嚇しているように思えた。「いかがです?」 「かしこまりました、旦那様。すぐ御一緒しますので」と彼女は力なく言った。