下宿人

第二章

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ミセス・バンティングはぎくりとして立ちあがり、暗闇のなかで耳をすました。ドアの下から差しこむ光が闇をいっそう濃くしている。ドアのむこうではバンティングが座って新聞を読んでいる。 その時、ふたたびあのびくびくとした、自信なさげなノックが大きく二回響いた。いいことを知らせるノックじゃないわ、と彼女は思った。下宿を探している人なら鋭く、間をおかず、大胆に、自信たっぷりにたたくはず。そうよ。これは乞食か何かだわ。いかがわしい人たちは時間におかまいなくやってきては、泣いたり脅したりしてお金を要求するもの。 ミセス・バンティングは、どの大都市にも浮遊している、名もなく、得体も知れない漂流者階級に――それも特に女たちに――おぞましい経験をさせられたことが何度かある。しかし夜中に玄関のガスをつけなくなってからは、その手の訪問者に煩わされることはほとんどなかった。彼ら、人間の形をしたコウモリは、灯りを見れば寄ってくるが、闇のなかに住む人々には手出しをしないのだ。

彼女は居間のドアを開けた。玄関に応対に出るのはバンティングの役目だったが、やっかいな客や面倒な訪問者をあしらうのは彼女のほうがずっと上手だった。それでもその晩は何となく夫に出てほしいような気がした。しかしバンティングは新聞に夢中になったまま座りつづけている。寝室のドアが開く音を聞いて彼がしたことといえば、顔をあげて「ノックが聞こえなかったかい」と言うだけだった。 その質問に答えることなく、彼女は玄関に出て行った。 ゆっくりと彼女は玄関のドアを開けた。

戸口にあがる三段の踏段の上に立っていたのは、ひょろりと背の高い男だった。インバネスに身を包み、流行遅れのシルクハットをかぶっている。彼はちょっとのあいだ眼をぱちくりさせて彼女を見ていた。たぶん玄関のガス灯の明かりに目が眩んだのだろう。ミセス・バンティングの鍛えられた目は、おかしな格好はしているけれど、この人は素性の正しい紳士であると、たちどころに見抜いた。以前、自分の仕事の関係で接触することのできた、あの階級に生れながら属している人だ。 「ここは下宿屋じゃありませんか」と彼は訊いた。やや甲高くて、落ち着きのない、ためらうような声だった。 「はい、さようでございますが」彼女はおどおどと言った。部屋を借りに人が来たのは、しかも世間体を重んじる彼らの下宿にふさわしい人が来たのは、よほど久しぶりのことだった。

彼女が本能的に身を引くと、見知らぬ男は彼女の脇をすり抜けて玄関に入った。 その時になってはじめてミセス・バンティングは、彼の左手に薄い鞄が握られていることに気がついた。新品の鞄で、しっかりした茶色の革でできている。 「静かな部屋を探しているんです」と彼は言い、夢を見るような、放心したような口調で、「静かな部屋を」ともう一度繰り返した。そう言いながら彼は神経質そうにあたりを見まわした。

血色の悪いその顔がぱっと明るくなった。玄関広間には家具が整然と備え付けられ、掃除も極めて行き届いていたからである。 すっきりした形の帽子掛け兼傘立てがあり、見知らぬ男の疲れた足は質のいい、丈夫な暗赤色のドラゲット絨毯を柔らかく踏みしめた。その色は壁紙のフロックペーパーとよく調和していた。 これは上等な下宿屋だ。管理人もしっかりした人らしい。 「ここならとても静かでございますわ、旦那様」と彼女は丁寧に言った。「ちょうど空いている部屋が四室ございます。夫とわたくし以外、誰もおりませんの」 ミセス・バンティングは慇懃な、落ちついた声でしゃべった。こんなふうに突然下宿を探している人があらわれるなんて、まるで夢のようだった。しかも相手の心地よく礼儀正しい声と話し方は、この哀れな女に遠い昔となった若い頃の、安定した幸せな日々を思い出させた。 「それは悪くなさそうだな」と彼は言った。「四部屋ですか。それでは二部屋だけ借りましょうかね。でも選ぶ前に四つとも見せてください」 バンティングがガス灯をつけたのはなんてすばらしい幸運だったのだろう!あれがなければこの紳士は彼らのところを通り過ぎてしまっていたはずだ。

彼女は階段のほうに進んで行ったのだが、興奮のあまり玄関のドアが開けっ放しになっていることをすっかり忘れていた。足早に廊下を後戻りしドアを閉めたのは、彼女の頭のなかですでに「下宿人」となっていた見知らぬ男だった。 「あら、申し訳ございません、旦那様」と彼女は大きな声で言った。「お手をわずらわしてしまいまして」 一瞬、彼らの目が合った。「ロンドンで玄関のドアを開けっぱなしにしておくのは危険ですよ」と彼は厳しく言った。「こんなことは滅多にないようお願いします。誰でも簡単に忍びこんできますから」 ミセス・バンティングはいささかうろたえた。見知らぬ男は、口調こそいまだに丁寧だが、明らかに機嫌を大きく損ねていた。 「ご安心ください、旦那様、二度と玄関のドアを開けっ放しにしませんから」彼女はあわてて返事をした。「どうぞご心配なく!」 そのとき居間の閉じたドアを通してバンティングの咳の音が聞こえた。ほんの軽い空咳だったのだが、ミセス・バンティングの未来の下宿人は腰を抜かすほど驚いた。 「あれは誰ですか」彼は手を伸ばし、彼女の腕をつかまえた。「いったいあれは何です」 「わたくしの夫でございます、旦那様。つい先ほど新聞を買いに外に出たんですが、風邪でもひいたのじゃないかと思います」 「ご亭主――?」彼は彼女をじいっと、疑わしげに見つめた。「よ、よろしかったら教えてください。ご亭主のお仕事は?」 ミセス・バンティングは昂然と頭をあげた。夫の職業について他人からとやかく言われる筋合いはない。しかし不快感を示すのはやはり得策ではないだろう。「給仕をしております」と彼女はよそよそしく言った。「夫は上流階級のお宅で召使いをしていたのでございます、旦那様。お望みでしたら旦那様のお世話もいたします」 そういってくるりとむきを変えると、急な、狭い階段をあがっていった。

最初の一続きの階段をあがりきると、ミセス・バンティングが「客間の階」と呼んでいる二階に出る。正面には客間があり、その奥には寝室がある。彼女は客間のドアを開けて、すばやくシャンデリアに火を灯した。 この正面の部屋は家具を詰め込みすぎてややごたごたしていたかもしれないが、それでも充分に快適だった。床を覆っているのはコケに似せた緑の絨毯。部屋の真ん中にはテーブルがあり、四脚の椅子がまわりを取り囲んでいる。階段に通じるドアの反対側の隅には大きな古い飾り棚があった。

暗緑色の壁には八枚一組の版画、レースとターラタンのボールドレスに身を包むヴィクトリア朝初期の美人画がかかっていた。古い美人伝の本から切り抜いたものだ。ミセス・バンティングはこれらの絵がたいそう気に入っていて、客間に優雅で洗練された趣きを添えるものと考えていた。

急いでガス灯に火をつけながら、二日前にやる気を奮い起こし、この部屋を隅々まで掃除したのは大正解だったと思った。 その部屋はいい加減でだらしない最後の住人が、警察に訴えるぞというバンティングの脅しに怯えて出て行ってから、長いこと放置されたままだったのだ。しかし今はきちんと整理されている。もっともひとつだけ大きな手抜かりがあって、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど意識していた。窓に白いカーテンが掛かっていなかったのだ。しかしこの紳士が本当に下宿してくれるなら、そのくらいはすぐに何とかできる。 しかしこれはどうしたことだろう――。見知らぬ男はそわそわとまわりを見まわしていた。「これは少々――わたしには少々もったいないな」と彼はとうとうそう言った。「ほかの部屋を見せてくれませんか、ミセス、ええと――」 「バンティングです」と彼女は静かに言った。「バンティングと申します、旦那様」 そう答えたとき、暗鬱な、重苦しい不安がふたたび彼女のみじめな、おしひしがれた心にずしりとのしかかった。やっぱり勘違いだったのだろうか――いや、ある意味では勘違いではなかったのだが、しかしこの紳士は貧乏な紳士なのだろう――お金がないからひと部屋分の家賃しか払うことができないのだ。週に八シリングか十シリングくらい。週に八シリングか十シリングでは彼女とバンティングにとってたいした収入にはならない。まあ、何もないよりはましだけれども。 「寝室をごらんになりますか、旦那様」 「いやいや、上の階の部屋を見せてもらえませんか、ミセス――」そう言いかけ、まるで脳味噌をフル回転させて思い出したみたいに「バンティング」と彼女の名前を口にした。それと共にあえぐような息がもれた。

最上階の二つの部屋はもちろん客間の階のすぐ上にあった。しかし飾りが一切ないため貧相で見劣りがした。どちらの部屋も整理されたことがほとんどない。いや、実をいえば、バンティング夫婦が越してきたときとほぼ同じ状態といってよかった。 とはいっても、流しと大きなガスストーブがでんと鎮座している部屋を、魅力的な、優雅な居間に変えることは難しい。ガスストーブは時代遅れの型式で、一シリングを投入口に入れて使うという厄介なしろものだ。バンティング夫婦の前の借家契約者の所有物だったのだが、こんなものは一銭の価値もないと、ほかの粗末な備品とともに残していったのである。 ミセス・バンティングの持ち物はみんなそうだが、その部屋にあるわずかな家具もどっしりしていて手入れが行き届いていた。しかしそこはがらんとした、居心地の悪そうな場所で、下宿の女主人はもうちょっと借りたい気持ちを起こさせるよう仕度をしておけばよかったと今になって後悔した。 ところが驚いたことに、相手の暗い、神経質そうな、細く尖った顔は満足そうに輝きはじめたのである。「すばらしい!申し分ありませんな!」と彼は叫び、手にした鞄をはじめて足元に置いて、細い手をすばやく、落ち着きなくこすり合わせた。 「これこそわたしが探していた部屋ですよ」彼は大股にずんずんとガスストーブのほうへ歩いていった。「最高です。最高!こういうところに下宿したかったんですよ。ミセス――ええと――バンティング、わたしは科学者でしてね。そのう、いろんな実験をするんです。それでしばしば、何ていいますか、強い火力が必要なんですよ」 彼はストーブを指差したが、彼女はその手が少し震えていることに気づいた。「これも役に立ちます――大いに役に立ちます」と彼は石の流しに触れ、縁を撫でさすった。

彼は顔をあげ、広くひいでた額を手でぬぐった。それから椅子のほうに移動すると、ぐったりと座りこんだ。「疲れました」彼は低い声でつぶやいた。「疲れた――疲れた!一日中、歩き回りましてね、ミセス・バンティング。座るところがなかったんです。ロンドンは、疲れた人のためにベンチを置いてないのです。大陸にはあるんですけどね。ある意味じゃ、大陸はイギリスよりも人間的ですよ、ミセス・バンティング」 「さようでございますね、旦那様」と彼女は丁寧に言い、そわそわした視線を投げかけたあと、彼女にとってはその答えが大きな意味を持つ大切な質問をした。「では、部屋をお借りになりますか、旦那様」 「もちろん、この部屋をね」とまわりを見ながら彼は言った。「こういうところがないだろうかと、今まで何日も探しまわったんです」それから急いでこう付け加えた。「こういう場所に住みたいものだとずっと思っていたんです、ミセス・バンティング。びっくりするでしょうけど、こういう部屋はなかなか手に入らないんですよ。しかしわたしの難儀な家探しは終わりました。ほっとしましたよ――実に、実にほっとしました!」 彼は立ちあがり、夢を見ているような、ぼんやりした様子で部屋のなかを見ていたのだが、急に「わたしの鞄はどこだ?」と訊いた。その声には強い怒りと恐れがこめられていた。彼は眼の前の物静かな女を睨みつけ、ほんの一瞬、ミセス・バンティングは全身がぞぞっと震えた。恨めしいことに、バンティングはずっと離れた下の階にいる。 しかし奇矯な性格というものは、常に育ちのいい、教養ある人々の特権であること、彼らにだけ与えられた特別な贅沢のようなものであることをミセス・バンティングは知っていた。学者は、彼女がよく理解していたように、決してほかの人々と同じではない。そして新しい下宿人は疑いもなく学者である。「入ってきたときはこの手に鞄を持っていましたよね」彼は怯えたような、困惑した声で言った。 「こちらにございます、旦那様」彼女はなだめるように言い、身を屈めて鞄を取ると彼に渡した。そのとき鞄がちっとも重くないことに気づいた。どうやら荷物が一杯に詰まっているわけではないらしい。

彼は鞄をひったくるように受け取った。「失礼」と彼は小声で言った。「鞄にとても大切なものが入っていましてね。さんざん苦労して見つけたんです。また手に入れようと思ったら、たいへんな危険をおかさなければならない。それで取り乱してしまったんです」 「契約の条件はいかがいたしましょう、旦那様」彼女は恐る恐る大切な、彼女にとってはいたって重要な話題に戻ろうとした。 「契約の条件?」と彼は繰り返した。一瞬の間があった。「わたしはスルースといいます」と彼は唐突に言った。「S―l―e―u―t―h。警察犬という意味のスルースと同じです、ミセス・バンティング。(註 「探偵」の意味もある)これで名前を忘れないでしょう。身元証明書もさしあげられますが――」(彼が彼女を見る目つきを見て、妙な流し目だわ、と内心彼女は思った)「しかしよろしかったらそんな面倒ははぶきましょう。お金は喜んでお支払いします――そうですね、一ケ月分前払いでどうです?」 ミセス・バンティングの頬に赤みがさした。安堵のあまり――いや、ほとんど痛みにも似た喜びのあまり――気が変になりそうだった。彼女はそのときまで自分がどれほど空腹であるか、どれほどおいしいものを食べたいと思っていたか、気がつかなかった。「結構でございます、旦那様」と彼女はつぶやいた。 「で、いくら請求なさるのですかな」その声は優しく、親しみすら感じられた。「そうそう、身の回りの世話もお願いしますよ!身の回りの世話も。それから料理はもちろんできるんでしょうね、ミセス・バンティング」 「もちろんですとも、旦那様」と彼女は言った。「腕のほうは普通でございます。一週間二十五シリングでいかがでございますか、旦那様」彼女は遠慮がちに相手を見た。彼が返事をしないので、口ごもりながら次のようにつづけた。「あの、旦那様、お高く思われるかもしれませんが、お世話のほうはできるかぎりのことをさせていただきますし、料理も気を配ってお作りします――わたくしの夫も――喜んでお仕えいたしますでしょう」 「そんなことはいいんですよ」とミスタ・スルースは慌てて言った。「服の整理は自分でやります。慣れてますからね、自分で自分の面倒を見ることは。ただですね、ミセス・バンティング、わたしはほかの人といっしょに下宿するのが大嫌いなので――」 彼女は熱心な口調でこう口をはさんだ。「同じ家賃で結構ですので二つの階をお使いください――その、別の下宿人が来るまでは。こんな裏部屋でお休みいただくわけにはいきませんわ、旦那様。ここはみすぼらしすぎますもの。お好きなようにお使いいただいてかまいません――こちらでお仕事なり実験なりなさって、お食事は客間で召しあがってくださいませ」 「そうですね」と彼はためらうように言った。「それは有り難いのですが、じゃあ、さらに二ポンドか二ギニー追加しますから、わたし以外に下宿人が来ても断ってください」 「かしこまりました」と彼女は静かに言った。「旦那様お一人のお世話をさせていただくだけでわたくしは満足でございます」 「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング。仕事の最中は邪魔されたくないのです」 彼はしばらく返事を待ち、催促するようにもう一度言った。「この部屋の鍵はお持ちですね、ミセス・バンティング」 「ええ、もちろんですとも、旦那様、ございますよ――とてもいい小型の鍵でございます。以前ここに住んでいた人が新しい鍵をドアに取り付けまして」彼女はドアを開けると古い鍵穴の上に円盤が取り付けられているのを見せた。

彼は頷いて、しばらく何も言わず立っていた。まるで物思いに沈むような様子だった。「一週間四十二シリングですね?いいでしょう。わたしとしては願ったり叶ったりです。では最初の一ケ月分を前払いしましょう。四十二シリングの四倍は」――彼はふと頭をもたげ、新しい下宿の女主人を見つめた。はじめて笑顔を見せたが、それは奇妙に歪んだ笑顔だった――「ああ、ちょうど八ポンド八シリングですね、ミセス・バンティング!」 長いケープのようなコートの内ポケットに手を突っこみソブリン金貨をひとつかみ取り出した。それを部屋の中央に置かれた剥き出しの木の机の上に一列に並べだした。「五、六、七、八、九、十ポンド。おつりは取っておいてください、ミセス・バンティング。明日の朝買ってきてほしいものがあるんです。今日はひどい目にあいましてね」しかし新しい下宿人は、どんな目にあったにしろ、気にしているような様子はなかった。 「さようでございますか、旦那様。それはお気の毒でございました」ミセス・バンティングの心臓はどきん、どきん、どきんと高鳴った。気が動転し、安堵と喜びにめまいがした。 「ええ、それはひどかった!荷物をなくしたんです、苦労して持ってきたのに」突然、彼は声をひそめた。「話すべきじゃなかった」と彼はつぶやいた。「何て馬鹿なことを!」そして今度はもっと大きな声で言った。「ある人に言われたんです、荷物がないと下宿屋に行っても断られるってね。でも、あなたは断らなかった、ミセス・バンティング。感謝しているんです、あ、あなたのご親切には――」彼は哀願するように彼女を見、ミセス・バンティングは胸を打たれた。彼女は新しい下宿人に好意を抱きはじめていた。 「紳士の方は一目で分かるつもりでございます」彼女はきまじめな声を詰まらせながら言った。 「あしたは服を探さなければなりません、ミセス・バンティング」彼はまた哀願するように彼女を見た。 「旦那様、お手を洗ってはいかがでしょう。夕食は何になさいますか。大したものはございませんが」 「ああ、あり合わせで結構ですよ」と彼は急いでいった。「わざわざ買い物に出る必要はありません。寒いし、霧が出てるし、じめじめした夜ですからね、ミセス・バンティング。バターつきのパンとミルク一杯があれば十分です」 「おいしいソーセージがございますが」と彼女は口ごもりながら言った。 それは上等のソーセージで、その日の朝、バンティングの夕食用に買ったものだ。自分は軽くパンとチーズですませるつもりだった。しかし今は――考えただけでもすばらしくて、茫然となるが――バンティングに彼らの好きなものを何でも買わせることができるのだ。十枚のソブリン金貨が心地よさげに、ほがらかに手のなかに収まっている。 「ソーセージ?いえ、それはいただけません。肉は食べないのです」と彼は言った。「ソーセージを食べたのはずっと、ずっと昔のことです、ミセス・バンティング」 「さようでございますか、旦那様」彼女は一瞬とまどってから堅苦しい声で尋ねた。「ビールかワインをお望みでしょうか」 突然ミスタ・スルースは青白い顔いっぱいに奇怪な、荒々しい怒りの表情を浮かべた。 「いりません。はっきり申しあげたはずですよ、ミセス・バンティング。お酒はたしなまないものと思っていたのですが」 「はあ、その通りでございます、旦那様。生まれてこの方、お酒は飲んだことがございません。夫も結婚して以来、禁酒しております」平気で打ち明け話をするような女だったら、彼女は知り合ってすぐにバンティングに酒をやめさせたことを話していただろう。彼が禁酒したのではじめて彼女は戯言と思っていたバンティングの言葉が本気だと分かったのだった。はるか昔、彼が言い寄ってきたときの話だ。若いときに禁酒の誓いをしてくれてよかったと今、彼女は思った。そうでなければ、今ようやく漕ぎ抜けた逆境のなかで彼は酒浸りになっていただろう。 さて、そのあとは下に降りて、客間とつながる素敵な寝室にミスタ・スルースを案内した。一階のミセス・バンティングの部屋と同じ家具の配置だったが、ただ、どれも彼女の部屋のものより少しだけ高価で、少しだけ上等だった。

新しい下宿人は疲れた顔に不思議な満足と安らぎの色を浮かべてまわりを見まわした。「安息の地だ」と彼はつぶやいた。「『主は彼らをその望む港へ導かれた』。美しい言葉です、ミセス・バンティング」 「その通りですわ、旦那様」 ミセス・バンティングはちょっとびっくりした。誰かが彼女にむかって聖書を引用するなど絶えてなかったことだ。それは、いわば、ミスタ・スルースが紳士であることの確かなしるしであるように思えた。 しかも下宿人といっても夫婦者ではなく、たった一人の紳士をお世話するだけなのだ。彼女はほっと胸をなで下ろした。ここロンドンだけではなく海岸のそばにいた頃も、ひどく風変わりな夫婦がバンティング夫婦の下宿を出入りしたものだった。 まったくついていなかったわ!ロンドンに来てから、そこそこ社会的地位があって思いやりのある夫婦なんて一組として下宿に来たことがない。最後に下宿していた連中は恐ろしいやくざ者の男女で、昔は羽振りがよかったのだろうが、その頃はけちくさいぺてんをやってかろうじて生計を立てていた。 「すぐにお湯をお持ちいたします、旦那様、それから清潔なタオルも」彼女は部屋から出て行きながらそう言った。 するとミスタ・スルースがすばやく振り返った。「ミセス・バンティング」――少しどもりながら彼は言った――「身、身のまわりの世話といっても何でもやってくれということではありませんからね。わたしのために走り回ることはありません。自分のことは自分でできます」 彼女は追い払われるどころか、冷たく突き放されてしまったような気がして、妙にうろたえた。「かしこまりました、旦那様。では夕食の用意ができたらお知らせにまいります」