Category: Novels

刺靑

其《そ》れはまだ人々《ひと/″\》が「愚《おろか》」と云ふ貴《たうと》い德《とく》を持《も》つて居《ゐ》て、世《よ》の中《なか》が今《いま》のやうに激しく軋《きし》み合《あ》はない時分《じぶん》であつた。殿樣《とのさま》や若旦那《わかだんな》の長閑《のどか》な顏《かほ》が曇《くも》らぬやうに、御殿女中《ごてんぢよちゆう》や華魁《おいらん》の笑《わらひ》の種《たね》が盡《つ》きぬやうにと、饒舌《ぜうぜつ》を賣《う》るお茶坊主《ちやばうず》だの幇間《はうかん》だのと云《い》ふ職業《しよくげふ》が、立派《りつぱ》に存在《そんざい》して行《ゆ》けた程《ほど...

Summary

其《そ》れはまだ人々《ひと/″\》が「愚《おろか》」と云ふ貴《たうと》い德《とく》を持《も》つて居《ゐ》て、世《よ》の中《なか》が今《いま》のやうに激しく軋《きし》み合《あ》はない時分《じぶん》であつた。殿樣《とのさま》や若旦那《わかだんな》の長閑《のどか》な顏《かほ》が曇《くも》らぬやうに、御殿女中《ごてんぢよちゆう》や華魁《おいらん》の笑《わらひ》の種《たね》が盡《つ》きぬやうにと、饒舌《ぜうぜつ》を賣《う》るお茶坊主《ちやばうず》だの幇間《はうかん》だのと云《い》ふ職業《しよくげふ》が、立派《りつぱ》に存在《そんざい》して行《ゆ》けた程《ほど》、世間《せけん》がのんびり[#「のんびり」に傍点]して居《ゐ》た時分《じぶん》であつた。女《をんな》定《さだ》九|郞《らう》、女《をんな》自雷也《じらいや》、女《をんな》鳴神《なるかみ》――當時《たうじ》の芝居《しばゐ》でも草雙紙《くさざうし》でも、すべて美《うつく》しい者《もの》は强者《きやうしや》であり、醜《みにく》い者《もの》は弱者《じやくしや》であつた。誰《だれ》も彼《かれ》も擧《こぞ》つて美《うつく》しからむと努《つと》めた揚句《あげく》は、天禀《てんりん》の體《からだ》へ繪《ゑ》の具《ぐ》を注《つ》ぎ込《こ》む迄《まで》になつた。芳烈《はうれつ》な、或《あるひ》は絢爛《けんらん》な、線《せん》と色《いろ》とが其頃《そのころ》の人々《ひと/″\》の肌《はだ》に躍《おど》つた。

Chapters

3. Part 3

もう彼《か》れ此《こ》れ二十|年《ねん》ばかりも前《まへ》にならう。漸《やうや》く私《わたし》が十《おを》ぐらゐで、蠣殻町《かきがらちやう》二|丁目《ちやうめ》の内《うち》から水天宮《すゐてんぐう》裏《うら》の有馬《ありま》學校《がくかう》へ通《かよ》つて居《ゐ》た時分《じぶん》―― 櫻《さくら》が咲《さ》いて空《そら》が霞《かす》んで人形町《にんぎや...

6. Part 6

其《そ》の頃《ころ》私《わたし》は或《あ》る氣紛《きまぐ》れな考《かんがへ》から、今迄《いままで》自分《じぶん》の身《み》のまはりを裹《つゝ》んで居《ゐ》た賑《にぎや》かな雰圍氣《ふんゐき》を遠《とほ》ざかつて、いろいろの關係《くわんけい》で交際《かうさい》を續《つゞ》けて居《ゐ》た男《をとこ》や女《をんな》の圈内《けんない》から、ひそかに逃《のが》れ...

8. Part 8

今《いま》を去《さ》る凡《およ》そ二百年前《にひやくねんぜん》。家康《いへやす》の海内統一《かいだいとういつ》より凡《およ》そ百|年《ねん》、鄭成功《ていせいこう》の高砂島《たかさごたう》占領《せんりやう》より凡《およ》そ七十|年《ねん》を經《へ》たる享保《きやうほ》某年《ばうねん》六|月《ぐわつ》十五|日《にち》、山王祭禮《さんわうさいれい》の朝《あ...

1. Part 1

其《そ》れはまだ人々《ひと/″\》が「愚《おろか》」と云ふ貴《たうと》い德《とく》を持《も》つて居《ゐ》て、世《よ》の中《なか》が今《いま》のやうに激しく軋《きし》み合《あ》はない時分《じぶん》であつた。殿樣《とのさま》や若旦那《わかだんな》の長閑《のどか》な顏《かほ》が曇《くも》らぬやうに、御殿女中《ごてんぢよちゆう》や華魁《おいらん》の笑《わらひ》...

9. Part 9

[#ここから3字下げ] 荒廢《くわうはい》した山奧《やまおく》の深夜《しんや》。枯燥《こさう》せる雜草《ざつさう》、灌木《くわんぼく》、落葉《らくえふ》、石《いし》ころなどが、處《ところ》嫌《きら》はず亂雜《らんざつ》に群《むらが》り、背後《はいご》は一帶《いつたい》の竹藪《たけやぶ》に掩《おほ》はる。舞臺《ぶたい》の中央《ちうあう》に太《ふと》き老杉...

5. Part 5

此《こ》の男《をとこ》は幇間《ほうかん》の三平《さんぺい》と云《い》つて、もとは兜町《かぶとちやう》の相場師《さうばし》ですが、其《そ》の時分《じぶん》から今《いま》の商賣《しやうばい》がやつて見《み》たくて溜《たま》らず、たうとう四五|年前《ねんまへ》に柳橋《やなぎばし》の太鼓持《たいこも》ちの弟子入《でしいり》をして、一《ひ》と風《ふう》變《かは》...

2. Part 2

其《そ》の日《ひ》から靈公《れいこう》の心《こゝろ》を左右《さいう》するものは、夫人《ふじん》の言葉《ことば》でなくつて聖人《せいじん》の言葉《ことば》であつた。朝《あした》には廟堂《べうだう》に參《さん》して正《たゞ》しい政《まつりごと》の道《みち》を孔子《こうし》に尋《たづ》ね、夕《ゆふべ》には靈臺《れいだい》に臨《のぞ》んで天文《てんもん》四時《...

4. Part 4

其《そ》の明《あ》くる日《ひ》から、私《わたし》も仙吉《せんきち》も光子《みつこ》の前《まへ》へ出《で》ると猫《ねこ》のやうに大人《おとな》しくなつて跪《ひざまづ》き、たまたま信一《しんいち》が姊《あね》の言葉《ことば》に逆《さから》はうとすると、忽《たちま》ち取《と》つて抑《おさ》へて、何《なん》の會釋《ゑしやく》もなくふん縛《じば》つたり撲《なぐ》...

7. Part 7

其《そ》の後《ご》暫《しばら》く、私《わたし》は、彼《あ》の晚《ばん》女《をんな》に見《み》せられた不思議《ふしぎ》な街の《まち》光景《くわうけい》を忘《わす》れることが出來《でき》なかつた。燈火《とうくわ》のかんかんともつて[#「ともつて」に傍点]ゐる賑《にぎや》かな狹《せま》い小路《こうぢ》の突《つ》き當《あた》りに見《み》えた印形屋《いんぎやうや...