Part 8
今《いま》を去《さ》る凡《およ》そ二百年前《にひやくねんぜん》。家康《いへやす》の海内統一《かいだいとういつ》より凡《およ》そ百|年《ねん》、鄭成功《ていせいこう》の高砂島《たかさごたう》占領《せんりやう》より凡《およ》そ七十|年《ねん》を經《へ》たる享保《きやうほ》某年《ばうねん》六|月《ぐわつ》十五|日《にち》、山王祭禮《さんわうさいれい》の朝《あさ》の麹町貝塚《かうじまちかひづか》(今《いま》の隼町《はやぶさちやう》邊《へん》)の湟端《ほりばた》。
上手《かみて》より下手《しもて》へかけて、湟《ほり》に沿《そ》ひたる道端《みちばた》に、今《いま》しも山王神輿《さんわうしんよ》の御通《おとほ》りを拜《はい》せんとする武家《ぶけ》町方《まちがた》の老若男女《らうじやくだんぢよ》一|杯《ぱい》に居列《ゐなら》び、忙《いそがは》しげに扇子《せんす》團扇《うちは》を使《つか》ひながら、汗《あせ》を拭《ふ》き拭《ふ》き頻《しきり》に首《くび》を伸《の》ばして上手《かみて》を見込《みこ》む。與力《よりき》、同心《どうしん》、鳶《とび》の者《もの》共《ども》、見物人《けんぶつにん》の前《まへ》を右往左往《うわうさわう》して行列《ぎやうれつ》の通路《つうろ》を警護《けいご》す。群衆《ぐんしう》のうしろ、湟《ほり》を隔《へだ》てて、遙《はるか》かに千代田《ちよだ》の城垣《しろがき》を望《のぞ》む。時刻《じこく》午前《ごぜん》六|時《じ》頃《ごろ》。天《てん》よく晴《は》る。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 與力[#「與力」に傍点]。あ、これ、これ。皆《みな》さう前《まへ》へ出張《でば》つては相成《あひな》らん。もう直《ぢき》に御神輿《おみこし》のお通《とほ》りだ。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。(大手《おほて》を擴《ひろ》げて、見物人《けんぶつにん》を後《うしろ》へ押《お》しながら、)さあ、お前逹《まへたち》はもう一|間《けん》ばかり後《あと》へ退《さが》んなせえ。これぢやあ御通《おとほ》り筋《すぢ》が塞《ふさ》がつ了《ちま》はあ。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。此《こ》の暑《あつ》いのに斯《か》う後前《うしろまへ》から押《お》されちやあ抗《かな》はねえな。――何《なに》しろどうも近年《きんねん》にない豪勢《がうせい》な雜沓《ひとで》だ。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。其《そ》の筈《はず》だあな、皆《みな》御神輿《おみこし》よりも象《ざう》の花車《だし》を挽《ひ》く所《ところ》を見《み》ようてんだ。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。ちよいと半藏御門《はんざうごもん》の方《はう》を見《み》ねえ。まるで黑山《くろやま》のやうだぜ。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。旦那《だんな》、どうでげす。象《ざう》の人氣《にんき》も大《たい》したものぢやごわせんか。――如何《いか》に山王樣《さんわうさま》の御神輿《おみこし》がお有難《ありがた》かつたつて、每年《まいねん》同《おな》じ事《こと》を繰《く》り返《かへ》したんぢや始《はじ》まらないてんで、象《ざう》を擔《かつ》ぎ込《こ》んで景氣《けいき》を附《つ》けるなざあ、思《おも》ひ付《つ》きでげす。
町家の旦那[#「町家の旦那」に傍点]。全《まつた》くさ。象《ざう》もはるばる日本《にほん》へ渡《わた》つて來《き》た效《かひ》があると云《い》ふものだ。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。さうですよ。外國《あつち》ぢやあ別《べつ》に珍《めづら》しがられもしますまいからな。何《なん》でも暹羅《しやむ》などと云《い》ふ國《くに》では、國王《こくわう》のお姬樣《ひいさま》始《はじ》め、下々《した/″\》の女子供《をんなこども》迄《まで》が牛馬《ぎうば》同樣《どうやう》に追《お》ひ使《つか》つてると云《い》ふ話《はなし》を、私《わたし》は物《もの》の本《ほん》で見《み》た事《こと》がある。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。成《な》る程《ほど》、そんなものでげすかな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。兎《と》に角《かく》象《ざう》が花車《だし》を挽《ひ》く所《ところ》は見物《みもの》でせうな。どうも當節《たうせつ》の若《わか》い者《もの》は思《おも》ひ切《き》つた事《こと》をやりますよ。長壽《ながいき》をすると種種《いろいろ》と不思議《ふしぎ》な事《こと》に出會《でつくわ》します。
町家の女房[#「町家の女房」に傍点]。一|體《たい》そんな獸《けもの》が何處《どこ》の國《くに》から來《き》たのでせうね。
町家の旦那[#「町家の旦那」に傍点]。何《なん》でも唐土《もろこし》か天竺《てんぢく》の方《はう》からだらう。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。南蠻《なんばん》の方《はう》でげせう。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。なあに暹羅《しやむ》から來《き》たのさ。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。兎角《とかく》老人《らうじん》や女子供《をんなこども》は時勢《じせい》に疎《うと》くつていけない。彼《あれ》は廣南國《くわうなんこく》から、鄭大成《ていだいせい》と云《い》ふ人《ひと》が、船《ふね》へ乘《の》せて持《も》つて來《き》たのだ。
職人體の男[#「職人體の男」に傍点]。一寸《ちよつと》お伺《うかゞ》い致《いた》しやすが、その廣南國《くわうなんこく》てえのは、孰方《どつち》の方《はう》にあるのでございます。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。廣南《くわうなん》と云《い》ふから、いづれ南《みなみ》の方《はう》でげすかな。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。唐土《もろこし》と天竺《てんぢく》の間《あひだ》にある國《くに》で、年中《ねんぢう》春《はる》が續《つゞ》いて夏《なつ》と冬《ふゆ》のない所《ところ》ださうだ。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。此方等《こちとら》もそんな暖《あつたか》い國《くに》に生《うま》れれば好《よ》かつた。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。いや、やつぱり我《わ》が國《くに》程《ほど》結構《けつこう》な所《ところ》はあるまいて。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。廣南國《くわうなんこく》てえのは、あんまり講釋《かうしやく》にも出《で》て來《こ》ねえ國《くに》だな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。天竺《てんぢく》と唐土《もろこし》の間《あひだ》にあるのなら、きつと暹羅國《しやむこく》の異名《いみやう》だらう。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。いや、暹羅《しやむ》とは違《ちが》ひます。鄭大成《ていたいせい》と云《い》ふ人名《じんめい》が唐人《たうじん》らしいから、どうしても唐土《もろこし》の屬國《ぞくこく》だ。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。所《ところ》が天竺《てんぢく》の屬國《ぞくこく》だと云《い》ふ話《はなし》ですぜ。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。其《そ》の方《はう》共《ども》の無學《むがく》にも困《こま》つたものだ。伴《つ》れて來《き》た人《じん》は福建《ふくけん》の鄭大成《ていたいせい》だが、國《くに》は天竺《てんぢく》の屬國《ぞくこく》なのだ。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。はてね。また知《し》らない國《くに》が出《で》やしたが、福建《ふくけん》てえのは那邊《どのへん》にあるのでございます。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。左樣《さやう》さ。何《なん》でも唐土《もろこし》の近所《きんじよ》だらう。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。すると唐土《もろこし》の屬國《ぞくこく》でございますか。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。其《そ》の邊《へん》はしかと判《わか》らん。
出家[#「出家」に傍点]。福建《ふくけん》と云《い》ふのは、和唐内《わたうない》が征伐《せいばつ》した高砂島《たかさごたう》の對岸《たいがん》にある唐土《もろこし》の領分《りやうぶん》ぢや。天竺《てんぢく》の獸《けもの》を唐人《たうじん》が伴《つ》れて來《き》たのぢや。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。何《なん》だか謎々《なぞ/″\》の文句《もんく》のやうでげすな。
見物一同[#「見物一同」に傍点]。あはゝゝゝゝ。
同心[#「同心」に傍点]。これ、もうちつと靜《しづ》かにしろ。
湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。それはさうと、もうお通《とほ》りになりさうなものだね。
茶屋女の一[#「茶屋女の一」に傍点]。ほんたうにさ。今《いま》にそろそろ日《ひ》が高《たか》くなると、暑《あつ》くつて抗《かな》やしない。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。暑《あつ》いよりは、日《ひ》に燒《や》ける方《はう》が氣《き》になるだらう。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。全《まつた》く暑《あつ》いな。お祭《まつり》には結構《けつこう》なお天氣《てんき》だが、見物人《けんぶつにん》は堪《たま》らねえや。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。頭《かしら》、もう行列《ぎやうれつ》は彼方《あつち》をお繰《く》り出《だ》しになりやしたかい。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。今《いま》しがたお繰《く》り出《だ》しになりやした。丁度《ちやうど》西尾樣《にしをさま》のお邸《やしき》前《まへ》を、お通《とほ》りの刻限《こくげん》でがす。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。それぢや、まだ小半時《こはんとき》も待《ま》たなくつちや。
湯女の二[#「湯女の二」に傍点]。おや、そんなに待《ま》たされるの。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。さうともよ。何《なん》しろ每年《まいねん》每年《まいねん》お大名《だいみやう》やお旗本衆《はたもとしう》が、永田町《ながだちやう》の通《とほ》りからずつと一|面《めん》に棧敷《さじき》を拵《こしら》へて、一々《いち/\》行列《ぎやうれつ》の花車《だし》屋臺《やたい》を停《と》めさせては、藝《げい》をやらせてるんだから、手間《てま》が懸《かゝ》らあ。
茶屋女の二[#「茶屋女の二」に傍点]。お武家《ぶけ》と云《い》ふものは勝手なものだね。下々《しも/″\》の迷惑《めいわく》もかまはずに、屋臺《やたい》を停《と》めさせて見物《けんぶつ》してるなんて。
湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。その位《くらゐ》なら、平常《ふだん》から蒼蠅《うるさ》く茶屋《ちやや》や芝居《しばゐ》の取締《とりしまり》をしないが好《い》いぢやないか。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。しツ。あんまり大《おほ》きな聲《こゑ》を出《だ》しなさんな。お役人《やくにん》に聞《きこ》えると惡《わる》い。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。もうそろそろお先觸《さきぶれ》が見《み》えても好《い》いぢやございませんか。象《ざう》と云《い》ふのは足《あし》の緩《のろ》い獸《けだもの》だと見えますな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。馬鹿《ばか》に體《からだ》が大《おほ》きいさうだから、日本人《にほんじん》には自由《じいう》にならないのでせうよ。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。そんな事《こと》かも知《し》れません。何《なに》しろ大國《たいこく》の獸《けもの》は異《ちが》つたものですな。高《たか》さが一|丈《ぢやう》の餘《よ》もあるさうですから。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。花車《だし》なんぞも餘程《よほど》大《おほ》きなものでないと、不釣合《ふつりあひ》ですな。大方《おほかた》象《ざう》が嗤《わら》つて居《ゐ》るかも知《し》れません。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。象《ざう》はどんなものを喰《た》べて居《ゐ》るのでせう。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。饅頭《まんぢゆう》と笹《さゝ》の葉《は》をやるのださうぢや。――それに、甚《はなは》だ尾籠《びらう》なお話《はなし》ぢやが、象《ざう》の糞《ふん》は瘡毒《さうどく》の藥《くすり》になります。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。へーえ。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。それから、彼《あ》の牙《きば》が大《たい》したものでがす。象牙細工《ざうげざいく》にすると中々《なか/\》高直《かうぢき》な品《しな》になります。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。牙《きば》や糞《ふん》迄《まで》が役《やく》に立《た》つんだから、重寶《ちようはう》な獸《けだもの》ですな。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。「大男《おほをとこ》總身《そうみ》に知慧《いゑ》が廻《まは》りかね」と云《い》ひますが、象《ざう》は大《おほ》きくつても、非常《ひじやう》に怜悧《りかう》ださうですな。此《こ》の間《あひだ》上方《かみがた》から歸《かへ》つて來《き》た人《ひと》の話《はなし》に、西京《さいきやう》で天子樣《てんしさま》が叡覽《えいらん》遊《あそ》ばした時《とき》には、あの象《ざう》がちやんと前足《まへあし》を折《を》つて、首《くび》を下《さ》げたと云《い》ひます。其《そ》の代《かは》り、人《ひと》があんまり馬鹿《ばか》にすると、長《なが》い鼻《はな》で捲《ま》き上《あ》げて置《お》いて、一《ひ》と縊《し》めにしめ殺《ころ》すさうです。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。それぢやあ熊《くま》や虎《とら》よりも强《つよ》いでせうか。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。うん、いざとなつたら强《つよ》いだらうよ。これも西京《さいきやう》で見《み》て來《き》た人《ひと》の話《はなし》ぢやが、潭數潭綿《たんすうたんめん》と云《い》ふ廣南人《くわうなんじん》の象使《ざうつか》ひが、鳶口《とびぐち》を象《ざう》の背《せ》に突《つ》き立《た》てて追《お》ひ廻《まは》しても、一|向《かう》痛《いた》がる樣子《やうす》もなかつたと云《い》ふ事《こと》ぢや。それだから熊《くま》だつて虎《とら》だつて爪《つめ》も立《た》つまい。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。けれども獅子《しゝ》には抗《かな》はないでせう。獅子《しゝ》は百|獸《じゆう》の王《わう》だと云《い》ひますからな。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。いや、獅子《しゝ》だつて抗《かな》ひますまいよ。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。そんな獸《けもの》を、不馴《ふなれ》れな日本人《にほんじん》が使《つか》ふのは物騷《ぶつさう》な話《はなし》ですな。今《いま》に何《なに》か禍害《まちがひ》でもなければいいが。
町家の女房[#「町家の女房」に傍点]。手前共《てまへども》の娘《むすめ》が踊娘《をどりこ》になつて屋臺《やたい》に乘《の》つて居《を》りますが、大丈夫《だいぢやうぶ》でございませうか。
町家の旦那[#「町家の旦那」に傍点]。さう云《い》へば、私《わたし》の伜《せがれ》も花車《だし》を挽《ひ》いて居《を》りますが、鼻《はな》で捲《ま》き上《あ》げられやしませんかな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。それは御心配《ごしんぱい》ですな。どうも子供衆《こどもしう》は氣早《きばや》だから一寸《ちよつと》も眼《め》が放《はな》されませんよ。
出家[#「出家」に傍点]。いや御心配《ごしんぱい》なさる事《こと》はござるまい。昔《むかし》から象《ざう》は普賢菩薩《ふげんぼさつ》のお乘物《のりもの》になる位《くらゐ》で、有難《ありがた》い獸《けもの》でござる。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。獅子《しゝ》は文珠菩薩《もんじゆぼさつ》の御家來《ごけらい》だが、普賢菩薩《ふげんぼさつ》の御乘物《おんのりもの》になる所《ところ》を見《み》ると、象《ざう》は女《をんな》の臀《しり》が好《す》きなんだな。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。なる程《ほど》な。諺《ことわざ》にも「女《をんな》の黑髮《くろがみ》には大象《だいざう》も維《つな》がれる。」とありますな。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。一體《いつたい》今度《こんど》の象《ざう》は、雄《をす》でせうか雌《めす》でせうか。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。長崎《ながさき》までは雌雄《めすをす》で來《き》たのぢやが、雌《めす》は彼處《あすこ》で死亡《なくな》つて、雄《をす》ばかりが生殘《いきのこ》つたのぢや。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。して見《み》ると、畜類《ちくるゐ》ながら死《し》んだ女房《にようぼ》が戀《こ》ひしうがせうな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。雄《をす》だとすると、愈《いよ/\》以《もつ》て女《をんな》の臀《しり》を狙《ねら》ふ譯《わけ》ですな。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。女《をんな》は好《す》きかも知《し》れませんが、鼠《ねずみ》が大《たい》さう嫌《きら》ひださうです。それについて可笑《をか》しな話《はなし》がありますよ。唐人《たうじん》が彼《あ》の獸《けもの》を伴《つ》れて來《き》た時《とき》には鼠《ねずみ》を鋼網《かなあみ》の箱《はこ》の中《なか》へ入《い》れて、あてがつて置《お》いたのです。すると象《ざう》の奴《やつ》め、鼠《ねずみ》が網《あみ》の外《そと》へ跳《と》び出《だ》しては大變《たいへん》だと云《い》ふので、唯《たゞ》もう一生懸命《いつしやうけんめい》四|本《ほん》の足《あし》で箱《はこ》を踏《ふ》まへて其《そ》の方《はう》へばかり氣《き》を奪《と》られて居《ゐ》るんですな。若《も》しさうでもしないと、彼《かれ》は游《およ》ぎが逹者《たつしや》だから、海《うみ》へ飛《と》び込《こ》んで廣南《くわうなん》へ歸《かへ》つて了《しま》ひますとさ。
町家の旦那[#「町家の旦那」に傍点]。なんぼ象《ざう》でも、天竺《てんぢく》まで海上《かいじやう》を游《およ》いでは行《ゆ》けますまい。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。なあに、體《からだ》が大《おほ》きいから、其《そ》の位《くらゐ》な事《こと》は出來《でき》ませうよ。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。西京《さいきやう》の天子樣《てんしさま》が象《ざう》を叡覽《えいらん》遊《あそ》ばした時《とき》の、御製《ぎよせい》の御歌《おうた》と云《い》ふのを御存知《ごぞんぢ》かな。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。たしか、「時《とき》しあれば人《ひと》の國《くに》なるけだものも、けふ九重《こゝのへ》に見《み》るが嬉《うれ》しさ」とか云《い》ふのだと伺《うかゞ》ひました。それから院《ゐん》の御歌《おうた》が、「めづらしく都《みやこ》にきさ[#「きさ」に傍点]の唐《から》やまと、過《す》ぎし野山《のやま》は幾千里《いくちさと》なる」とございました。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。宗匠《そうしやう》そのきさ[#「きさ」に傍点]と云《い》ふのは何《なん》の事《こと》でございます。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。象《ざう》の和名《わめい》でせう。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。象潟町《きさがたちやう》などと云《い》ひますからな。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。芭蕉翁《おきな》の句《く》にも、「象潟《きさがた》の雨《あめ》や西施《せいし》がねむの花《はな》」と云《い》ふのがあります。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。西京《さいきやう》では天子樣《てんしさま》が歌《うた》をお詠《よ》みになるし、今日《こんにち》は又《また》將軍樣《しやうぐんさま》が御覽《ごらん》になるし、象《ざう》も仕合者《しあはせもの》ですな。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。上方《かみがた》ではもう詠象詩《えいざうし》と云《い》ふ、象《ざう》の詩歌《しいか》を集《あつ》めたものが、出版《しゆつぱん》になりました。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。江戶《えど》でも追々《おひ/\》團十郞《だんじふらう》が、象《ざう》に因《ちな》んだ狂言《きやうげん》でも出《だ》すでせうな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。これから一《ひ》としきり世間《せけん》が象《ざう》で持《も》ち切《き》りますな。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 此《こ》の時《とき》、上手《かみて》遙《はるか》に、三味線《しやみせん》、笛《ふえ》、太鼓《たいこ》、拍子木《へうしぎ》の音《おと》きこゆ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。おや、そろそろ行列《ぎやうれつ》がやつて來《く》るよ。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。さあ、坊《ぼつ》ちやん。もう直《ぢき》ですよ。――皆《みんな》子供《こども》が居《ゐ》るんだから、さう押《お》さないでお吳《く》んなさい。
男の聲[#「男の聲」に傍点]。(後《うしろ》の方《はう》にて、)ええ、眞平御免《まつぴらごめん》ねえ。私《わつち》を其處《そこ》へ割《わ》り込《こ》ましておくんなせえ。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。(後《うしろ》をふりかへり、)誰《だれ》だ、誰《だれ》だ、無暗《むやみ》に押《お》して來《き》ちやあ危《あぶね》えぢやねえか。
同心[#「同心」に傍点]。こらこら騷《さわ》いではならん。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。(兩手《りやうて》にて見物人《けんぶつにん》を後《うしろ》へ押《お》しながら、)お前逹《まへたち》はいくら云《い》つても、前《まへ》へ出《で》て來《く》るのだな。皆《みんな》もつと後《あと》へ退《さが》つた、退《さが》つた。
多勢の聲[#「多勢の聲」に傍点]。(後《うしろ》の方《はう》にて、)さう押《お》して來《き》ちやあ、お湟《ほり》へ落《おつこ》ちるぢやねえか。
與力[#「與力」に傍点]。あ、町人《ちやうにん》町人《ちやうにん》。土手《どて》の上《うへ》へ上《あが》つては相成《あひな》らんぞ。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。(群衆《ぐんしう》にもまれてよろよろしながら、)象《ざう》を見《み》るのも死《し》ぬやうな苦《くる》しみですな。
娘の聲[#「娘の聲」に傍点]。(後《うしろ》の方《はう》にて、)あれエ、苦《くる》しいツ、皆《みんな》押《お》さないで下《くだ》さいよう!
遊び人[#「遊び人」に傍点]。おやおや何處《どこ》かで女《をんな》が苦《くる》しがつて泣《な》いてるぜ。あんな色氣《いろけ》のない聲《こゑ》を出《だ》す位《くらゐ》なら、見物《けんぶつ》に來《こ》ないがいいや。
湯女の二[#「湯女の二」に傍点]。あら、亂暴《らんばう》だねえ、此《こ》の人《ひと》は。結《ゆ》ひたての髮《かみ》が滅茶滅茶《めちやめちや》になつちまふぢやないか。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。そんな事《こと》を云《い》つてる場合《ばあひ》ぢやねえ。全體《ぜんたい》女子供《をんなこども》がこんな時《とき》に出《で》しやばるのが間違《まちが》つてらあ。
茶屋女の二[#「茶屋女の二」に傍点]。女《をんな》だつて新《あたら》しいものは見《み》たいやね。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。何《なに》しろ今度《こんど》の象《ざう》を見《み》なけりやあ話《はなし》にならねえからの。
茶屋女の一[#「茶屋女の一」に傍点]。そら、もう彼處《あすこ》に見《み》え出《だ》した。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。さあ、行列《ぎやうれつ》の御先觸《おさきぶれ》がお見《み》えになりやした。皆《みんな》騷《さわ》いぢやいけねえ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 見物《けんぶつ》の一同《いちどう》、靜肅《せいしゆく》に立《た》ち列《なら》びてお先行列《さきぎやうれつ》を迎《むか》ふ。突棒《つくぼう》、指俣《さすまた》、錑《もぢり》を持《も》ちたる同心《どうしん》三人《さんにん》眞先《まつさき》に進《すゝ》み、同心《どうしん》五人《ごにん》朱槍《しゆやり》を捧《さゝ》げ與力《よりき》三人《さんにん》獅子《しゝ》に附《つ》き添《そ》ひて其《そ》の後《うしろ》につづき、ついで獅子《しゝ》に附《つ》き添《そ》へる同心《どうしん》二人《ふたり》を左右《さいう》に從《したが》へて若黨《わかとう》二行《にぎやう》、草履取《ざうりとり》一行《いちぎやう》、槍《やり》一行《いちぎやう》、狹箱《はさみばこ》一行《いちぎやう》、合羽籠《かつぱかご》一行《いちぎやう》、最後《さいご》に再《ふたゝ》び突棒《つくぼう》、指俣《さすまた》、錑《もぢり》を持《も》てる同心《どうしん》三人《さんにん》、朱槍《しゆやり》を持《も》てる同心《どうしん》五|人《にん》、獅子《しゝ》、榊《さかき》の順序《じゆんじよ》にて上手《かみて》より下手《しもて》へしづしづと練《ね》つて行《ゆ》く。 お先行列《さきぎやうれつ》の全《まつた》く通過《つうくわ》し終《をは》りたる頃《ころ》、更《さら》に上手《かみて》より御跡行列《おあとぎやうれつ》の隊伍《たいご》、日枝《ひえ》神社《じんじや》の神與《しんよ》を先《さき》に立《た》てて、突棒《つくぼう》、指俣《さすまた》、錑《もぢり》の一行《いちぎやう》、朱槍《しゆやり》五|本《ほん》獅子《しゝ》の一行《いちぎやう》、與力《よりき》三人《さんにん》の一行《いちぎやう》、四行《しぎやう》になりて進《すゝ》み、同心《どうしん》二人《ににん》獅子《しゝ》二頭《にとう》を左右《さいう》に、若黨《わかとう》二行《にぎやう》、馬《うま》一行《いちぎやう》、狹箱《はさみばこ》一行《いちぎやう》、合羽籠《かつぱかご》一行《いちぎやう》、縱《たて》に列《なら》び、突棒《つくぼう》、指俣《さすまた》、錑《もぢり》、朱槍《しゆやり》五本《ごほん》を殿《しんが》りにして下手《しもて》へ步《あゆ》み去《さ》る。
見物《けんぶつ》の老若《らうにやく》、或《あるひ》は合掌《がつしやう》し、或《あるひ》は叩頭《かうとう》し、柏手《かしはで》をうちて神與《しんよ》を禮拜《らいはい》す。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。坊《ぼつ》ちやん、御神輿《おみこし》が濟《す》んだら、いよいよ象《ざう》が參《まゐ》りますよ。
町の老婆[#「町の老婆」に傍点]。お前《まへ》さん方《がた》は、さう御神輿《おみこし》をないがしろにすると罰《ばち》があたりますよ。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。だつて面白《おもしろ》いものは面白《おもしろ》いや。
町の老婆[#「町の老婆」に傍点]。その面白《おもしろ》い象《ざう》や屋臺《やたい》が見《み》られると云《い》ふのも、つまり山王樣《さんのうさま》のお蔭《かげ》ですよ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。いつの世《よ》になつても、御神輿《おみこし》の渡御《とぎよ》などと云《い》ふものは、流石《さすが》神々《かう/″\》しくつて有難味《ありがたみ》がござる。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。御尤《ごもつとも》でございますな。手前《てまへ》なども御神輿《おみこし》を拜《おが》みますと、何《なん》となく忝《かたじけな》さに淚《なみだ》がこぼれます。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。左樣《さやう》な心掛《こゝろがけ》は、今《いま》の若者《わかもの》には爪《つめ》の垢《あか》ほどもござらぬ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 鳴物《なりもの》の響《ひゞき》、だんだんに近《ちか》づく。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 茶屋女の一[#「茶屋女の一」に傍点]。おや、どうしたんだらう。花車《だし》が見《み》えなくつて、屋臺《やたい》ばかり澤山《たくさん》やつて來《く》るよ。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。頭《かしら》、象《ざう》はどうしたんだね。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。花車《だし》は後《あと》になりやした。屋臺《やたい》だけは足弱《あしよわ》な踊娘《をどりこ》が疲《つか》れると云《い》ふので捷徑《ちかみち》を取《と》つても可《い》いと云《い》ふお免許《ゆるし》が出《で》たのでがす。多分《たぶん》半藏御門《はんざうごもん》外《そと》で待《ま》ち合《あ》はせる積《つも》りでがせう。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。お上《かみ》でも踊娘《をどりこ》にはお察《さつ》しがいい。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。將軍樣《しやうぐんさま》は何處《どこ》で御上覽《ごじやうらん》遊《あそ》ばすんでげすい。
鳶の者[#「鳶の者」に傍点]。何《なん》でも半藏御門《はんざうごもん》内《うち》のお矢來《やらい》の外《そと》まで、行列《ぎやうれつ》が繰《く》り込《こ》むのだてえから、彼處《あすこ》で御上覽《ごじやうらん》になるんでがせう。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。大分《だいぶ》近《ちか》くなりましたな。一|番《ばん》先《さき》の屋臺《やたい》が内藤樣《ないとうさま》の前《まへ》で停《とま》りました。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。後《うしろ》の屋臺《やたい》も殘《のこ》らず停《とま》つたやうですぜ。又《また》彼處《あすこ》で手間《てま》がとれるんだらう。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。(小手《こて》を翳《かざ》しながら、)何《なに》か踊《をど》つて居《ゐ》るやうです。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。あれは狐噌《こんくわい》でげせう。保名《やすな》狂亂《きやうらん》の所作事《しよさごと》でげす。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。其《そ》の次《つぎ》のは鞘當《さやあて》かね。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。さうでげす。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。保名《やすな》になつて居《ゐ》るのは、誰《だれ》でせう。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。源之丞《げんのじよう》と云《い》ふ平河天神《ひらかはてんじん》の陰間《かげま》ださうですぜ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。陰間《かげま》が御神輿《おみこし》のお供《とも》をしたり、御上覽《ごじやうらん》に供《そなは》つたり、怪《け》しからん世《よ》の中《なか》になつたわい。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。左樣《さやう》な理屈《りくつ》は、あまり當世《たうせい》ははやりませんな。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。男《をとこ》でも女《をんな》でも、容貌《きりやう》の好《よ》いものは一|德《とく》でござるて。
子供を背負ひたる小僧[#「子供を背負ひたる小僧」に傍点]。そら、やつと動《うご》き出《だ》した。今度《こんど》こそやつて來《く》るだらう。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 屋臺《やたい》いよいよ群衆《ぐんしう》に近《ちか》づきたるけはひ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 男の聲[#「男の聲」に傍点]。いよう!源之丞《げんのじよう》!日本一《につぽんいち》!
出家[#「出家」に傍点]。なる程《ほど》、源之丞《げんのじよう》と申《まを》すのは、中々《なか/\》な美少人《びせうにん》でござるな。
田舍武士[#「田舍武士」に傍点]。仰《おほ》せの如《ごと》、天下《てんか》に稀《まれ》な好《よ》か稚兒《ちご》でござる。御坊《ごばう》も大分《だいぶ》御執心《ごしふしん》の御樣子《ごやうす》と相見《あひみ》える。今夜《こんや》あたり平河天神《ひらかはてんじん》へお伴《とも》仕《つかまつ》らうか。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。姐《ねえ》さん逹《たち》、何《なん》とか聲《こゑ》をかけてやりねえ。源之丞《げんのじよう》が大汗《おほあせ》になつて居《ゐ》らあ。
湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。お駒《こま》さん。お前《まへ》何《なん》とか云《い》つておやりな。屹度《きつと》彼《あ》の子《こ》が喜《よろこ》ぶよ。
湯女の二[#「湯女の二」に傍点]。それはお人《ひと》が違《ちが》ふわね。滅渡《めつた》な事《こと》を云《い》ふと、誰《だれ》かさんに怒《おこ》られるもの。
茶屋女の一[#「茶屋女の一」に傍点]。だが全《まつた》くああして見《み》ると、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするやうな子《こ》だねえ。
茶屋女の二[#「茶屋女の二」に傍点]。雜沓《ひとごみ》で暑《あつ》い最中《さなか》に、お惚《のろ》けは堪忍《かに》しておくれよ。
四人の女[#「四人の女」に傍点]。おほゝゝゝゝゝ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 上手《かみて》より揃《そろ》ひの浴衣《ゆかた》に、鉢卷《はちまき》、芳原冠《よしはらかむ》りなどして、澁團扇《しぶうちは》を持《も》ちたる若者共《わかものども》、阿部《あべ》の保名《やすな》に扮《ふん》せる十五六|歲《さい》の美少年《びせうねん》を乘《の》せて、踊屋臺《をどりやたい》を挽《ひ》き、唄三味線《うたしやみせん》の大夫共《たいふども》を後《うしろ》に隨《したが》へて出《い》で來《きた》り、舞臺《ぶたい》少《すこ》しく下手《しもて》に停《とゞま》りて狐噌《こんくわい》を踊《をど》る。群衆《ぐんしう》の中《なか》に急霰《きふさん》の如《ごと》き拍手《はくしゆ》起《おこ》る。少年《せうねん》踊《をど》り終《をは》りて見物《けんぶつ》に一|禮《れい》し、屋臺《やたい》の欄《らん》にもたれて踊《をど》りの扇子《あふぎ》を使《つか》ひ、汗《あせ》を拭《ふ》き拭《ふ》き見物《けんぶつ》の湯女《ゆな》茶屋女《ちややをんな》とむつましげに語《かた》りあひながら、嫌《いや》らしく笑《わら》ふ。 ついで第《だい》二の屋臺《やたい》登場《とうぢやう》、やや上手《かみて》に停《とゞま》りて少年《せうねん》少女《せうぢよ》の扮《ふん》せる伴作山三傾城《ばんさくさんざけいせい》の三|人《にん》、胡蝶《こてふ》の如《ごと》く入《い》り亂《みだ》れつつ鞘當《さやあて》を演《えん》ず。再《ふたゝ》び群衆《ぐんしう》の拍手《はくしゆ》の間《あひだ》に、二|臺《だい》とも下手《しもて》へ挽《ひ》き去《さ》らる。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。どうも子供にしては皆《みんな》よくやりますな。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。全《まつた》くな。今《いま》に役者《やくしや》にでもなつたら、大《たい》した評判《ひやうばん》でがせう。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。あの傾城《けいせい》になつた子供《こども》は、ほんたうの女《をんな》でせうか。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。あれは麹町《かうじまち》三丁目《さんちやうめ》の長唄《ながうた》の師匠《ししやう》の娘《むすめ》で評判《ひやうばん》のはねつかへり[#「はねつかへり」に傍点]です。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。素人《しろうと》の娘《むすめ》が陰間《かげま》などと一|緖《しよ》に藝《げい》をやるとは宜《よ》くない事《こと》ぢや。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。一|體《たい》この頃《ごろ》の娘《むすめ》は、平氣《へいき》で男《をとこ》の前《まへ》へのさばり出《で》ますが、惡《わる》いことでございますよ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。左樣《さやう》左樣《さやう》。某《それがし》などは抑《そもそ》もあの芝居《しばゐ》狂言《きやうげん》などからして、不都合《ふつがふ》だと存《ぞん》ずるな。お能《のう》と云《い》ふ誠《まこと》に結構《けつこう》なものがござるに、男子《なんし》が女子《によし》の如《ごと》く粉黛《ふんたい》を施《ほどこ》し、又《また》は傾城《けいせい》遊女《いうぢよ》の所作《しよさ》を演《えん》ずると云《い》ふ次第《しだい》が解《わか》らん。此《こ》の分《ぶん》では、世《よ》の中《なか》が益々《ます/\》惰弱《だじやく》に流《なが》れるでござらう。嘆《なげ》かはしいことぢや。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。こればかりは、お上《かみ》の御威勢《ごゐせい》でも、どうもなりませんと見《み》えます。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。八代樣《はちだいさま》は勤儉尚武《きんけんしやうぶ》のお方《かた》で、度々《たび/\》町人《ちやうにん》の分《ぶん》に過《す》ぎたる贅澤《ぜいたく》をお差止《さしと》めになつたやうぢやが、今日《こんにち》の樣子《やうす》では、あまり上樣《うへさま》の御趣意《ごしゆい》が下々《しも/″\》へ通《とほ》つて居《を》らんと相見《あひみ》える。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。象《ざう》にかこつけて、いろいろと惡《わる》い事《こと》が流行《はや》るやうでございます。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。全體《ぜんたい》異國《いこく》の四足獸《よつあし》を、御門《ごもん》内《ない》へ入《い》れると云《い》ふ事《こと》が、老人《らうじん》などには合點《がてん》が參《まゐ》らぬ。舶來《はくらい》の者《もの》と云《い》ふと、猥《みだ》りに珍重《ちんちよう》するのは輕擧《かるはづみ》と申《まを》すものぢや。過《す》ぎたるは猶《なほ》及《およ》ばざるが如《ごと》しとか申《まを》して、象《ざう》のやうに圖拔《づぬ》けて大《おほ》きいものは、却《かへ》つて敏捷《びんせう》な働《はたら》きが出來《でき》ぬに依《よ》つて、あまり役《やく》には立《た》たぬものぢや。日本《にほん》には牛馬《ぎうば》と云《い》ふ重寶《ちようはう》な獸《けもの》があるから、あれで澤山《たくさん》ぢや。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。そんな事《こと》を仰《おつ》しやる御貴殿《ごきでん》が、何故《なぜ》見物《けんぶつ》に來《こ》られたのだ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。いや、拙者《せつしや》は日枝神社《ひえじんじや》の御神輿《ごしんよ》を拜《おが》みに參《まゐ》つたのぢや。象《ざう》は唯《たゞ》其《そ》のついでに見物《けんぶつ》致《いた》すのぢや。
男の聲[#「男の聲」に傍点]。誰《だれ》だ、誰《だれ》だ。舊弊《きうへい》な事《こと》を吐《ぬ》かす奴《やつ》は、侍《さむらひ》でも何《なん》でも打擲《ぶんなぐ》つちまへ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。(聲《こゑ》の方《はう》を振《ふ》り向《む》き、)武士《ぶし》に向《むか》つて無禮《ぶれい》な奴《やつ》ぢや。聞《き》き捨《ず》てに相成《あひな》らん。さつさと此處《こゝ》へ出《で》ろ。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。まあ御了見《ごれうけん》なさいまし。何《なに》しろお祭《まつり》で氣《き》が立《た》つて居《ゐ》ますから、手がつけられませんよ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 再《ふたゝ》び鳴物《なりもの》太鼓《たいこ》拍子木《へうしぎ》の響《ひゞき》。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。大分《だいぶ》屋臺《やたい》がつづいてやつて來《き》た。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。あれは何處《どこ》の町内《ちやうない》のだらう。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。一|番目《ばんめ》のが、麹町《かうじまち》二丁目《にちやうめ》の七福神《しちふくじん》でせう。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。其《そ》の次《つぎ》のは、三丁目《さんちやうめ》の天人羽衣《てんにんはごろも》だ。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。あれも矢張《やはり》陰間《かげま》でござるか。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。いや、あれは孰《いづ》れも町内《ちやうない》の踊娘《をどりこ》でございます。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。此《こ》の頃《ごろ》は素人《しろうと》が役者《やくしや》の眞似《まね》を上手《じやうづ》に致《いた》しますな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。山《やま》の手《て》も仲々《なか/\》下町《したまち》に負《ま》けて居《ゐ》ませんよ。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。何《なん》でも二丁目《にちやうめ》の七福神《しちふくじん》の辨財天《べんざいてん》と、三丁目《さんちやうめ》の天人羽衣《てんにんはごろも》とが、容貌《きりやう》競《くら》べなのださうだ。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。孰方《どつち》も町内《ちやうない》の小町娘《こまちむすめ》だからな。
湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。あの二人《ふたり》にや女《をんな》でも惚《ほ》れ惚《ぼ》れするよ。
湯女の二[#「湯女の二」に傍点]。浮氣者《うはきもの》だから、男《をとこ》だけぢやあ惚《ほ》れ足《た》りないんだね。
茶屋女の一[#「茶屋女の一」に傍点]。たしか一昨年《をととし》のお祭《まつり》に、平河町《ひらかはちやう》の吳服屋《ごふくや》の娘《むすめ》が、屋臺《やたい》で道成寺《だうじやうじ》を踊《をど》つたつけが、何《なん》でもその時《とき》さるお大名《だいみやう》の殿樣《とのさま》の御目《おめ》に止《とま》つて、今《いま》ぢや立派《りつぱ》なお部屋樣《へやさま》になつて居《ゐ》るとさ。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。それだものを。此《こ》の頃《ごろ》の娘《むすめ》はいやに如才《ぢよさい》なく塗《ぬ》りたてて、高貴《かうき》のお方《かた》のお目《め》にとまるやうにとばかり仕向《しむ》けやがる。
茶屋女の二[#「茶屋女の二」に傍点]。今度《こんど》だつて、大分《だいぶ》娘《むすめ》の親逹《おやたち》が力《りき》み返《かへ》つて居《ゐ》るやうだよ。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。親逹《おやたち》ばかりか、町内《ちやうない》の若《わか》い者《もの》が皆《みんな》涎《よだれ》を滴《た》らして屋臺《やたい》を挽《ひ》いてるぜ。
湯女の一[#「湯女の一」に傍点]。あの娘《むすめ》にぞつこん惚《ほ》れ込《こ》んだ大家《たいけ》の若旦那《わかだんな》が、五六人《ごろくにん》も若《わか》い衆《しう》に交《まじ》つて挽《ひ》いてるさうだね。
仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。昨夜《ゆふべ》もあぶなく娘《むすめ》の事《こと》で、二丁目《にちやうめ》と三丁目《さんちやうめ》の若《わか》い衆《しう》が血《ち》の雨《あめ》を降《ふ》らす所《ところ》だつたとよ。
湯女の二[#「湯女の二」に傍点]。象《ざう》もああ云《い》ふとりまきが附《つ》いちやあ嬉《うれ》しいだらうね。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。そらやつて來《き》た。どうだ見《み》ねえ。美《い》い女《をんな》だなあ。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。成《な》る程《ほど》、此《こ》の方《はう》が餘程《よつぽど》お神輿《みこし》よりも御利益《ごりやく》がありさうだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 上手《かみて》より「七|福神《ふくじん》」「天人羽衣《てんにんはごろも》」の屋臺《やたい》、花《はな》の如《ごと》く着飾《きかざ》りたる少女等《せうぢよら》を載《の》せて、多勢《おほぜい》の若《わか》い衆《しう》に挽《ひ》かれつつ練《ね》り來《きた》る。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 與力[#「與力」に傍点]。(屋臺《やたい》に附《つ》き添《そ》ふ若《わか》い衆《しう》に對《むか》ひ、)これこれ、大分《だいぶ》刻限《こくげん》が遲《おく》れたではないか。
若い衆の一[#「若い衆の一」に傍点]。へえ、へえ。まことに恐入《おそれい》りやす。どうも方々《はう/″\》のお邸《やしき》で踊《をどり》を御所望《ごしよまう》なさるものでごぜえやすから、ついつい遲《おそ》くなつて相濟《あひす》みやせん。
同心[#「同心」に傍点]。花車《だし》はまだ中々《なか/\》參《まゐ》らぬかの。
若い衆の二[#「若い衆の二」に傍点]。なに、もうすぐでごぜえやす。あの通《とほ》り後方《うしろ》に見《み》えて居《を》りやす。
同心[#「同心」に傍点]。然《しか》らばもう此處《こゝ》では踊《をど》るに及《およ》ばんから、急《いそ》いで半藏御門《はんざうごもん》外《そと》まで參《まゐ》るがよい。
若い衆一同[#「若い衆一同」に傍点]。承知致《しようちいた》しやした。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 若《わか》い衆《しう》、拍子木《へうしぎ》をうちて景氣《けいき》よく囃《はや》しながら、二《ふた》つの屋臺《やたい》を下手《しもて》へ挽《ひ》き行《ゆ》く。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 町家の女房[#「町家の女房」に傍点]。まことに可愛《かあい》らしい踊娘《をどりこ》だね。
町家の娘[#「町家の娘」に傍点]。あいさ。容貌《きりやう》の好《い》い娘《むすめ》は仕合《しあは》せでございますのさ。
町家の女房[#「町家の女房」に傍点]。將軍樣《しやうぐんさま》が御覽《ごらん》になるのださうだから、娘《むすめ》の身《み》になつたらどんなに嬉《うれ》しいだらう。
町家の下女[#「町家の下女」に傍点]。ほんとに羨《うらやま》しいではございませんか。來年《らいねん》はお孃樣《ぢやうさま》もお出遊《であそ》ばせよ。
町家の娘[#「町家の娘」に傍点]。妾《わたし》のやうなお多福《たふく》だと、將軍樣《しやうぐんさま》がお笑《わら》ひになるだらうよ。
町家の下女[#「町家の下女」に傍点]。何《なに》、そんな事《こと》がございますものか。屹度《きつと》江戶中《えどぢう》の男《をとこ》が戀病《こひわづらひ》にかかつて了《しま》ひます。
俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。象《ざう》も見《み》ものでせうが、踊屋臺《をどりやたい》などと云《い》ふものも、亦《また》捨《す》てられない趣《おもむき》がありますな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。さうですとも。やつぱり我《わ》が國《くに》の習俗《しきたり》の方《はう》が面白《おもしろ》い處《ところ》がありますよ。象《ざう》なんてものは、一時《いちじ》の氣紛《きまぐ》れに流行《はや》るのでせうな。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 花車《だし》追《お》ひ追《お》ひに近《ちか》づきたるけはひ。太鼓《たいこ》馬鹿囃《ばかばや》しの音《おと》、木遣《きやり》の聲《こゑ》、波《なみ》の崩《くづ》るるやうに聞《きこ》ゆ。一|同《どう》どよめき立《た》ちて、押《お》しあひ、へしあひ、前列《ぜんれつ》に出《い》でんともがく。與力《よりき》、同心《どうしん》、鳶《とび》の者共《ものども》、頻《しきり》に手《て》もて群衆《ぐんしう》を制《せい》す。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 仲間風の男[#「仲間風の男」に傍点]。そら、今度《こんど》こそ花車《だし》に違《ちげ》へねえ。
遊び人[#「遊び人」に傍点]。うむ、さうださうだ。彼處《あすこ》に來《き》たのが象《ざう》らしいぜ。
職人體の男一[#「職人體の男一」に傍点]。なある程《ほど》巨《おほ》きいや。まるで土藏《どざう》の動《うご》くやうだ。
職人體の男二[#「職人體の男二」に傍点]。話《はなし》にきいたよりも長《なが》え鼻《はな》だな。地面《ぢめん》を舐《な》めて居《ゐ》るぜ。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。白象《はくざう》だと云《い》ふ噂《うはさ》だつたが何《なん》だか、黑《くろ》いやうだ。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。黑象《こくざう》と云《い》ふのもあるのでせう。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。すると普賢菩薩《ふげんぼさつ》でなくつて、虛空藏菩薩《こくざうぼさつ》でげすかな。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。黑《くろ》とも白《しろ》ともつきませんな。灰《はひ》のやうな曖昧《あいまい》な色《いろ》をしてますな。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 象《ざう》、神武天皇《じんむてんわう》の花車《だし》を挽《ひ》き、多勢《おほぜい》の鳶人足《とびにんそく》、町《まち》の若者《わかもの》子供《こども》などに景氣《けいき》よく取《と》り卷《ま》かれて上手《かみて》よりのそりのそり[#「のそりのそり」に傍点]と步《あゆ》み出《い》づ。屋臺《やたい》の上《うへ》には、馬鹿《ばか》、ひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍点]の面《めん》を被《かぶ》りたる男共《をとこども》、太神樂《だいかぐら》につれて踊《をどり》ををどる。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 俳諧の宗匠[#「俳諧の宗匠」に傍点]。成《な》る程《ほど》、これは珍《ちん》な獸《けもの》ですな。
町醫者[#「町醫者」に傍点]。どうも彼《あ》の鼻《はな》が乙《おつ》でござるな。
旗本の若侍[#「旗本の若侍」に傍点]。あの悠長《いうちやう》な步《ある》きつ振《ぷり》が面白《おもしろ》うござる。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。何《なん》だか體《からだ》の大《おほ》きい割《わり》には、步行《あし》の緩《のろ》い獸《けもの》ぢや。
出家[#「出家」に傍点]。さすが佛典《ぶつてん》にも載《の》つて居《ゐ》るだけあつて、見《み》た所《ところ》貴《たふと》い獸《けもの》ぢや。
町家の手代[#「町家の手代」に傍点]。あの牙《きば》が素晴《すば》らしいものですな。
町家の若旦那[#「町家の若旦那」に傍点]。あの眼《め》つきが怜悧《りこう》さうぢやないか。
幇間風の男[#「幇間風の男」に傍点]。何《なに》しろ妙《めう》でがす、珍《ちん》でがす、乙《おつ》な獸《けもの》でがす。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 象《ざう》、花車《だし》を挽《ひ》きて下手《しもて》へ去《さ》る。群衆《ぐんしう》總崩《そうくづ》れになりて、花車《だし》の跡《あと》より騷《さわ》ぎながら從《したが》ひ行《ゆ》く。隱居《いんきよ》、老年《らうねん》の武士《ぶし》、兩人《りやうにん》舞臺《ぶたい》に居殘《ゐのこ》る。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。はゝゝゝゝゝ。男《をとこ》も女《をんな》も、われがちに象《ざう》の後《あと》にくつ附《つ》いて行《い》つて了《しま》ひましたな。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。皆《みんな》、狂《きちがひ》のやうでござる。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。何《なん》だか灰色《はひいろ》の馬鹿《ばか》に巨《おほ》きな獸《けもの》でございましたな。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。圖拔《ずぬ》けて大《おほ》きいばかりで、拙者《せつしや》などにはえたいが[#「えたい」に傍点]判《わか》らん。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。もう半藏御門《はんざうごもん》の所《ところ》まで參《まゐ》つたやうです。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。緩《のろ》いやうでも大《おほ》きいだけに案外《あんぐわい》步行《あし》は早《はや》いと見《み》える。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。神武天皇《じんむてんわう》が象《ざう》にお挽《ひ》かれなさると云《い》ふのも不思議《ふしぎ》な因緣《いんねん》でございますな。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。やつぱり牛《うし》に挽《ひ》かせた方《はう》が、うつりが好《よ》いやうぢや。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。それ、半藏御門《はんざうごもん》の方《はう》を御覽《ごらん》なさい。象《ざう》の體《からだ》が御門《ごもん》を一|杯《ぱい》に塞《ふさ》いで了《しま》ひました。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。成《な》る程《ほど》――はてな、首《くび》を半分《はんぶん》御門《ごもん》へ突込《つゝこ》んだまま後《あと》へも先《さき》へも動《うご》かなくなつたやうぢや。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。多勢《おほぜい》寄《よ》つて蝟集《たか》つて大騷《おほさわ》ぎをして居《を》りますな。
老年の武士[#「老年の武士」に傍点]。小《ち》ひさな門《もん》へ、大《おほ》きな獸《けもの》を入《い》れやうとするのは若《わか》い者《もの》の無鐵砲《むてつぱう》ぢや。
町家の隱居[#「町家の隱居」に傍点]。左樣《さやう》でございますな。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 兩人《りやうにん》顏《かほ》を見合《みあは》せ、暫《しばら》く默《もく》したるまま下手《しもて》へ對《むか》ひて佇立《ちよりつ》す。 (幕) [#ここで字下げ終わり]
信西《しんぜい》
[#ここから3字下げ] 登《とう》 場《ぢやう》 者《しや》 少納言《せうなごん》入道《にふだう》信西《しんぜい》 師《もろ》 光《みつ》┓ 師《もろ》 淸《きよ》┃信西《しんぜい》の郞黨《らうだう》 成《なり》 景《かげ》┃ 淸《きよ》 實《ざね》┛ 出雲前司光泰《いづものぜんじみつやす》 光泰《みつやす》の郞黨《らうだう》數人《すにん》 [#ここで字下げ終わり]
時 平治《へいぢ》元年《ぐわんねん》十二|月《ぐわつ》、信賴《のぶより》義朝《よしとも》の謀叛《むほん》ありたる夜《よ》。
所 山城《やましろ》近江《あふみ》の國境《くにざかひ》、信樂山《しがらきやま》の奧《おく》。