Category: Novels

汽車は沼津を出てから、だんだんと海に遠ざかつて、爪先上りの裾野の高原を進んで行くらしかつた。八月の眞晝の日光が、濃い藍色に晴れた空から眞直に射下して、折々一寸二寸ぐらゐづゝ、窓枠の緣を燒附けて居た。

Summary

汽車は沼津を出てから、だんだんと海に遠ざかつて、爪先上りの裾野の高原を進んで行くらしかつた。八月の眞晝の日光が、濃い藍色に晴れた空から眞直に射下して、折々一寸二寸ぐらゐづゝ、窓枠の緣を燒附けて居た。

Chapters

6. Part 6

冬の休暇になつてから、中島と淸水は歸省して了ふ。野村と大山は旅行に出かける。山口は千駄木の安下宿へ移る。杉浦一人が、寄宿寮へ踏み止《とゞ》まつて、朶寮一番の寢室を我が物顏に橫領して居た。年末のソハ〳〵した空氣も、向陵の門内へはまるきり吹き込まない。授業の鐘は鳴らず、朝寢坊の邪魔は這入らず、いつも蒲團を敷き放しにして、森閑とした晝の靜けさに無聊を喞ち、夜...

5. Part 5

とう〳〵冬がやつて來た。朶寮の自修室にストーブが備へられて、敎室には朝のうちだけスチームが通るやうになつた。此の二三日、淸水はテニスと西洋人の訪問を止めて、圖書館に立て籠つてゐる。野村は碁會所通ひを好い加減にして、寮務室の二階に隱れる。ノートの整理をしたり、敎科書の不審を質《たゞ》したり、みんな試驗の準備に忙殺《ばうさい》されて、運動家の中島でさへ、野...

4. Part 4

「橘さんはいらつしやいますか。電話でございます。」 と、寢室のドーアを開けて、呼び覺ました小使の聲に、宗一はふと眼を覺した。 「何、電話?」 かう云つて、夜具を捲くつて立たうとしたが、昨夜の川甚の酒が未だ頭に殘つて居て、彼はふら〳〵と昏倒しさうな懈怠《けだる》さを覺えた。二日醉ひの結果、思はず寢過ごしたものと見えて、彼の周圍の蒲團は殘らずきれいに疊まれ...

1. Part 1

汽車は沼津を出てから、だんだんと海に遠ざかつて、爪先上りの裾野の高原を進んで行くらしかつた。八月の眞晝の日光が、濃い藍色に晴れた空から眞直に射下して、折々一寸二寸ぐらゐづゝ、窓枠の緣を燒附けて居た。

3. Part 3

寢室の窓から望む上野の木々の梢が、一日一日と黃ばんで來た。朝は硝子障子に靑々と冴えた空が映つて、力の弱い光線が疊の目の上へハツキリと落ちて居る。ぽんと夜具を撥ね除けて起き上ると、寢間着の肩へそよそよとつめたい風があたつて、何となく氣が引き締まるやうである。宗一は顏を洗ふついでに每日必ず浴室へ行つて、水風呂の中へ飛び込んだ。

2. Part 2

七十日の休暇の間、長らく人影を絕つて居た一高のグラウンドの土には、ところ〴〵草が茫々と打ち烟り、分館の廊下に挾まれた十坪ばかりの中庭は廢園の樣に荒れて、百日紅の幹の蔭に、花の汚れた紫陽花《あぢさゐ》が、惱ましげな項《うなじ》を垂れて居た。新寮の後の叢の中や、本館の煉瓦の隙間などには、晝でも蟋蟀がころ〳〵と鳴いて、遠い田舎から出て來た學生逹の胸に、「靑草...

7. Part 7

其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。 「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」 「うん、出かけてもえゝがな。」 と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼《うはめ》で眺めて居る...