Part 5
とう〳〵冬がやつて來た。朶寮の自修室にストーブが備へられて、敎室には朝のうちだけスチームが通るやうになつた。此の二三日、淸水はテニスと西洋人の訪問を止めて、圖書館に立て籠つてゐる。野村は碁會所通ひを好い加減にして、寮務室の二階に隱れる。ノートの整理をしたり、敎科書の不審を質《たゞ》したり、みんな試驗の準備に忙殺《ばうさい》されて、運動家の中島でさへ、野球の練習が濟んで了ふと、いつもは講道館へ出かける時間を、勉强の方に割愛して居る。相變らず呑氣なのは杉浦ばかりで、 「僕ぐらゐ勉强の必要を痛切に感じて居て、而も勉强の出來ない人間はないナ。」 こんな事を吹聽しては遊び廻つて居る。
佛法の山口も、 「わしや近いうちに、一遍吉原へ行つて來んと、どうも勉强が出來ん。」 と云つて、每晚杉浦と一緖に飮み喰ひしてはお喋舌りを戰はす。 「なんと杉浦さん、淸水と云ふ男はありや可笑しいぜエ。わしや彼の靑白い顏を見ると、いつでも試驗を想ひ出すがな。」 「全く試驗のやうな面をして居るな。」 「それから君の部屋に大山と云ふ男が居るが、ありや一體どう云ふもんぢや。」 「どう云ふもんだか僕も解らんよ。ゆうべも寢室でコソコソやつてるから、大方試驗の準備かと思つたら、豈圖らんや『男女と天才』を讀んで居るんだ。」 「ヒヨツとしたら、ありや大した豪傑だぜエ。」 山口は首をかしげて、頻りに大山に感服して居る。
宗一は例の懸案が片附いて了ふまで、とても仕事が手に着きさうもなかつた。晝間から寢室の窓際に机を据ゑて書籍を前に端坐しながら、二三頁も進むと、直《ぢき》に頰杖を衝いて側方《そつぱう》を向く。どうかすると退屈紛れに友逹の本箱から雜誌や小說の古本を拔き出したが、或る時彼はウツカリして淸水の日記帳を開いて了つた。 [#ここから一字下げ] 予ハ此ノ度ノ試驗ニ必ズ主席ヲ占メザル可カラズ。予ハ實ニ野村ヲ恐ル、彼ハ予ノ Rival ナリ、予ハ如何ニシテモ彼《か》ノライヷルヲ破ラザルベカラズ。 [#ここで字下げ終わり] ちらりと此れだけ讀むと、彼は淺ましい心地がして、其の儘元の所へ突込んで置き、晚になつてから何氣なく淸水に尋ねた。 「君はえらい馬力で勉强してるぢやないか。今度は野村が敗《まけ》るかも知れんぜ。」 すると淸水は頭を抑へて、快活に笑ひながら、 「いや、どうして、僕なんざ、そりやあ君及第する自信はあるけれど、成績なんかまあ十番以上ならいゝ積りなんだよ。」 かう云つて、何喰はぬ顏をして居る。 「ところが僕は及第する自信もないぜ。每日々々遊んでばかり居て。」 と、傍から中島は口を出した。 「君あ大丈夫だよ。杉浦の所謂《いはゆる》知勇兼備なんだもの。」 「さうはいかんぜ。夕方湯へ入つて飯を食ふとガツカリして眠くなつちまふ。」 「しかし、運動家は精力が續くからいゝね。」 と、宗一は頑健な中島の體格を眺めて云つた。 「それはさうと橘君、此の頃はさつぱり小田原から手紙が來んぢやないか。試驗だと思つて遠慮しとるのかい。」 「どうだか。」 「君は勉强するにも二人がゝりだから、愉快だらうなあ。」 子供のやうな眼をして笑ひながら、柄にもなく中島はこんな冷かし文句を浴びせる。 「いや、君の方が餘程仕合せだよ。僕見たいに下らない事にかゝづらは[#「かゝづらは」に傍点]つて居ると、勉强なんか出來やしない。一日でもいゝから、僕は君のやうな氣持になつて見たい。………」 宗一は心《しん》から中島の境遇が羨ましかつた。學問と體育とに若い精力を傾注し通して居たら、嘸かし頭がカラツとして、年中爽快な月日が送れるであらう。自分も始めから美代子の事など考へないで、活發な、無邪氣な、運動家の群に投じればよかつた。
今となつて、其れを後悔したところで仕樣がない、一旦乘り出した問題の決着する間、やつぱり山口と同じく杉浦を相手にして、宗一はウロ〳〵と大切な時間を遊び暮らした。 「橘さん、わしや明日《あす》國から爲替《かはせ》が來たら、吉原へ行かうと思うとる。君も一緖に行《い》んだらどうぢや。上るのが嫌なら、見るだけでも構はんがな。一と口に女郞と云ふけれど、大店の華魁《おいらん》はいゝぜエ。―――かう云うたら怒るかも知れんが、女が戀しいと云ふのは、つまり無意識のうちに性慾の滿足を要求しとるんぢや。つまらん事に頭を病まんと、一遍女を知つて了へばきつと落ち着いて勉强が出來るんぢや。君のやうにクヨクヨして居つても、結句損ぢやがな。」 十二月の第一金曜日の晚に、三人で豐國《とよくに》の牛《ぎう》を喰ひながら、頻りに山口は說きすゝめた。明日はいよ〳〵女郞買に行つて、明後日《あさつて》の日曜から試驗準備に取りかゝる前祝ひに、山口は大した元氣で飮みもしない酒を呷つた。 「へーえ、兼ねての宿願が成就して、とう〳〵明日《あした》出かける事になつたのか。」 かう云つて、杉浦は眼を圓くした。 「山口の遊ぶところを一度見たいもんだな。お前の相方は別嬪《べつぴん》かい。」 「美人ぢやないが、ポツチヤリしてちよいと可愛いんぢや。わしや少し其の女に惚れとるがな。まあ君も一緖に來て見給へ、お職《しよく》を張つとるだけになか〳〵利口な奴だぜエ。」 お職と云ふ名を聞いて宗一は二三日前に讀んだ一葉全集のたけくらべ[#「たけくらべ」に傍点]に、此の言葉のあつた事を思ひ出した。 「さうだ、わしや一つ今夜出かけてやらう。どうせ明日は金が來るんだから、マントを質に入れてやるんぢや。―――此れなら、五兩は借すだらう。」 十一時頃まで夜を更かして、引き上げる時分に、山口はかう云つて外套のホツクを外しながら、 「それぢや、此處で失敬する。」 と、大學裏門の眞暗な夜路を、いそ〳〵と龍岡町の方へ消えて失《なくな》つた。 「外套を質に入れないたつて、一日ぐらゐ待てさうなもんだが、そんなに行きたいものかなあ。―――や、何しろ奴は滑稽だ。」 杉浦は宗一と一緖に、再び靑木堂で珈琲《コーヒー》とウヰスキーの梯子飮みをして、例の如く、門限過ぎに生垣を乘り越えて寮へ戾つた。
其の明くる日、半《はん》どん[#「どん」に傍点]の授業が濟むと、三人は又落ち合つて、本郷通を步いて居た。不思議な事には、昨夜入質した筈のマントが、相變らず山口の肩に翩翻《へんぽん》とひるがへつて居た。 「どうしたんだ、ゆうべ彼《あ》れから行かなかつたかい。」 杉浦が尋ねると、山口は小鼻の周圍に皺を作つて、妙ににたにた[#「にたにた」に傍点]笑つて居る。 「どうしたツて、彼れからが奇拔なんぢや。わしや當分吉原へ行かんと濟む事になつた。」 「ま、一人でさう恐悅して居ないで、話したらいゝぢやないか。」 「かうなつたら、無論話すがな。君池の端の通りに、丁度此方から行くと左側に、汚い煙草屋があるのを知つとるぢやらう。彼處に娘のあるのを知つとるかな。」 「知らないねえ。」 「わしは知つとるんぢや。」 と、山口は顏の中央《まんなか》に人差指をあてゝ、 「少し譯があつて、前からちよい〳〵訪ねるついでに彼の娘に眼を着けて置いたんぢや。ところが昨夜質屋へ行かうとして、彼處を通ると、娘が店の戶を締め乍ら、山口さん、今時分どちらへお出でになりますツて、呼び掛けるんぢや。―――暗い往來へ眞白な首を出して、家の中のあかり[#「あかり」に傍点]を背に受け取る工合が、可愛うてならんぜエ。………」 「Description は好い加減にして、早く要領をかい[#「かい」に傍点]摘《つま》むさ。」 「こいつ、今夜何とか物にしてやらんけりや、こんな機會はないと思うて、お梅さん、―――お梅さんと云ふ名なんぢや。―――ちよいと出ていらツしやいと云ふと、なあにと云ひ乍ら、下駄を穿いて、戶外《おもて》からそツと戶を締めて、わしの側へやつて來たんぢや。少しあんた[#「あんた」に傍点]に話があるがと云うて、わしや娘の手を取つて、上野の山へ行つた。 「娘はそれで平氣なのかい。」 杉浦は大分好奇心を挑發されて、眞面目になつて山口を覗き込んだ。 「いや、多少恐ろしかつたに違ひないんぢや。わしが押さへとる手頸がぶるぶる顫へて居つたからな。―――けれど Virgin でないことは確かなんぢや。大膽な女子ぜエ。」 「いや實際呆れたもんだ。僕等の友逹にこんな惡黨があるんだから驚く。」 杉浦は口を尖らし、胸を張つて、慨然と空嘯いた。 「今更惡黨にせんでもよからう。こんな例は世間に澤山ある事ぢやがな。―――ところでわしや此れから失敬して煙草屋へ行くぜエ。晝間は親父が留守で娘と小さい弟だけぢやから、萬事都合が好いんぢや。」 「一つ、家の前までくツ附いて行つて、其の娘を見てやらう。」 「見るに及ばんよ。そんな別嬪ぢやないんぢや。」 「だつてお前、さツきの Description に依ると、なかなか可愛らしさうぢやないか。」 「そりや其の時の氣持で可愛かつたんぢや。―――一緖にくるもいゝが、君が又娘を捉へて餘計な事を云やせんかと思うてな。わしや此れでも、正直な、堅い人間のやうに見せとるんぢやから。」 「見るだけ見れば、僕等は默つて引き退るさ。誰がソンナ面倒臭い事をするもんか。」 二人は山口の後に附いて、切通しの坂を下りた。岩崎邸の角から左へ折れて右へ曲つた池の端の通りを、二三町行くとむさくろ[#「むさくろ」に傍点]しい煙草屋の店があつた。五六間手前から、山口は獨《ひとり》先へ立つてすたすたと步いて、 「今日は。」 と云ひながら、框へ腰を掛けた。
娘は店先に陳列してある硝子張りの煙草の箱を楯にして肩から上を往來に曝しながら、火鉢にあたつて居たが、ちよいとニツコリしてお辭儀をするついでに、ちらりと戶外の二人へ秋波《しうは》を送つた。それから續いて、山口と何か喋舌つて居るらしいのが、さつぱり二人には聞き取れなかつた。お白粉をこてこて[#「こてこて」に傍点]塗り着けて居るにも拘らず、面長の兩頰が傷ましく痩せて、顴骨の飛び出た、額の拔け上つた、疲れたやうな容貌の女である。撫で肩のきやしや[#「きやしや」に傍点]な體つきが粹《いき》だと云へば云ふものゝ、赤い髮を銀杏返しに結つて、古ぼけた雙子《ふたこ》の綿入を着た樣子は、何處となく燻つて居て汚らしく、笑ふ度每に齦《はぐき》を露《あら》はにして、赤く爛れた眼瞼の奧から、細い瞳を光らせるのが、氣のせゐか、いかさま男狂ひでもしさうに見える。どう考へても、垢だらけな新銘仙に羊羹色の紋附を羽織つて、素足にぴたんこな薩摩下駄を穿いた貧書生《ひんしよせい》の山口とは、恰好の取組である。二人が豫期して居たやうな、ロマンチツクな色彩は、微塵もない。 「アレで山口は面白いのかね。」 宗一は夥しい Disillusion を感じて、杉浦に耳打ちをした。 「重ね重ね呆れたもんだね。あの娘が出來た爲めに、女郞買を止めると云ふんだから、女郞買の下らなさ加減も以て推す可しだよ。―――アレが可愛らしいんだとすると、山口の女好きよりも我慢强いに感心するぜ。」 かう云ひながら、二人が店の前を過ぎようとする時、 「あら隨分ね、山口さん、あたしが梅幸に似て居たら、世間にお多福はありやしないわ。」 「いや、お梅さん本當ぜエ、お世辭を云うとるんぢやないがな。」 などと、山口は娘を相手に、頻りと悅《えつ》に入つて居た。
三枚橋のところへ來ると、宗一は俄に立ち止まつて帽子の鍔へ手をかけた。 「僕も此處で失敬するぜ。………」 「何故。」 と、杉浦はつまらなさうに面と向つて彳みながら、懷手をして貧乏搖すりをする。 「此れからちよいと、家まで行つて來なけりやならん。………」 「例の問題でか。」 「うん。」 「ま、別れるにしても、其處いらまでもう少し步かう。―――どうなつたんだ彼《あ》れから。」 杉浦は友逹を氣遣ふ深切な心よりも、寧ろ無聊《ぶれう》に苦しんで、話の種に缺乏して居る所から、かう尋ねるらしかつた。 「今日か明日のうちに、親父の返答を聞く事になつた。」 「それぢや二日以内に君の運命が決するんだね。」 「親父が不承知なら、直ぐに駄目と決するが、承知したとなると、此れから小田原へ掛け合ふんだから、いくらか壽命が延びる譯だよ。」 「掛け合つて駄目だつたら、どうなるんだい。」 「此の結婚が出來なければ、僕も女も一生獨身で通す積りだから、遠からず悶着が起るだらう。」 「一つ、僕が君と美代ちやんの親父に打つかつて、大に利害得失を說明して、ウンと云はせてやらうかな。―――どうだい、僕に任せないか。かう云ふ談判は、實際うまいもんだぜ。其の代り成功したら、今學期の授業料を一時|工面《くめん》して貰ふ。」 何處まで本當で何處まで冗談か判らないので、宗一は面喰ひながら、 「あはゝゝゝゝ、」 と、煮え切らない笑ひ方をした。尤も授業料の方は、每晚のやうに大酒を呷つて居る杉浦の行動から察すれば、消費して了ふのは當り前である。實は宗一も今迄よく金が續く事だと訝《あや》しんで居た程であつた。 「いつもなら授業料の工面ぐらゐは出來るんだが、僕も今度は賄の食料を使つちまつたんで、どうも困る。」 「ナニ萬一の場合にはウエブスターを拂ひ下げる計畫だから、心配しなくつてもいゝよ。―――それよりかほんとに其の談判は僕に任し給へ。」 「有難う。いづれお賴みしないでも、相談に與つて貰ふかも知れない。―――それぢやあんまり遲くなるから。」 と、廣小路の四つ角で、宗一は電車を待つた。 「あゝつまらんな。本郷座の立ち見でもしようかな。」 杉浦は天神の方へぶら〳〵と步いて行つたが、又引き返して、 「おい、君、君、いゝ歌が出來たぜ。―――晴れたる日、晴れたるまゝに雲れる日、曇れるまゝに暮るゝ悲しさ。―――悲しさがいゝか、悲しきがいゝか、どつちかな、何しろ傑作に違ひないだらう。ぢや、左樣なら。」 かう云つて、どん〳〵行つて了つた。
早く獨りになりたいので、杉浦と別れたやうなものゝ、宗一は別段急いで家へ歸る必要もなかつた。「晴れたるまゝに曇れる日」の、雲の裏に光つて居る太陽を仰ぐと、何か不祥《ふしやう》の運命の蔽ひ被さつて來る前兆のやうに感ぜられて、クド〳〵と重い心に問題の成りゆきを考へ乍ら、其の儘お成街道を萬世橋の方へ辿つた。須田町から掘留へ出て人形町に來たのは三時頃であつた。まだ親父の歸宅する時間ではない。彼の事に就いて、當然父から相談を受けて居る筈の母親に、其れとなく顏を合はす恥かしさ窮屈さを思ふと、此れから直ぐには、家の敷居を跨ぐのが辛かつた。據ん所なく竈河岸《へつゝひがし》の甘泉堂へ入つて、小豆《あづき》を二三杯喰べて、明治座の立ち見をして灯ともし過ぎに濱町へやつて來た。 「大そう暗くなつてから、來たぢやないか。今日はもう遲いからどうかと思つて居たのに。」 かう云つて、お品は十能《じふのう》の炭火を長火鉢に移して居た。姐さん冠りをした中高の顏へ、火氣が赤く映つてポツと上氣《のぼ》せたやうな血色に見える。 「本郷から步いて來たんです。」 と、宗一は率直に答へた。少し手先のかじかむ[#「かじかむ」に傍点]やうな寒さの宵に戶外を彷徨《うろつ》き廻つた揚句、急に家の中へ入つた爲めであらう、人いきれ[#「いきれ」に傍点]と、燈火《ともしび》の熱の籠つた室内の空氣に、ぬく〳〵と體の溫まるのを覺えて、彼は今更しみ〴〵家庭のなつかしさ惠み深さを感じた。 「お前、御飯前にお湯へ入つたらどうだい。」 「えゝ、頂きます。」 「そんなら直にお入り、今お父さんがお上りになる所だから。」 母のかう云つて吳れるを幸《さいはひ》彼は袴と帶を解き捨てゝ、土藏と臺所の間に挾まつた湯殿の廊下へ駈けて行つた。姿見の前で素裸になつて、手拭を片手に、曇り硝子の障子を開けると、父は流しの中央に大柄な體格を据ゑて、お兼に背中を洗はせて居た。 「今日は。」 宗一は立ち罩《こ》めた湯氣の中から聲をかけて、石鹸《しやぼん》の泡の流れて居る板の間へ下りた。 バタ〳〵と手拭を宗兵衞の肩にあてゝ、お兼は暫く按摩をして居たが、其れが濟むと、背筋へ湯を注いだ後、小桶を一杯酌み換へて、 「若旦那、お背中を流しませうか。」 「いゝや、澤山。」 と、宗一が湯船の中から答へた時、父はどツかと腰を擡げて、彼と並んで體を浸しながら、 「もう試驗が近くなつたな。どうだ勉强してゐるか。」と云つた。 「えツ。」 宗一は生返事をして下を向いて了つた。「美代ちやんの事が氣懸りで、勉强が出來ません。」と云ふのもあんまり不躾《ぶしつけ》のやうで、不本意ながら噓を吐《つ》いた。 「此の間の話は兎に角先方へ相談してやるから、其の積りで勉强するがいゝ。―――いづれゆつくり聞かせたい事もあるけれど、試驗が濟むまで、學校の方に精を出すさ。」 かう云つて、ザアツと凄じく湯の溢れる音を立てゝ、宗兵衞は湯船を出た。
八
[#ここから一字下げ] 隨分と暫く御無沙汰仕候。寒冷の候大兄には相變らず御壯健にて結構に存じ候。小生事、試驗終了後、一度御目にかゝり、いろ〳〵御話致し度存じ居候ところ、家の方に用事出來、昨夜遲く京濱電車にて六郷へ歸省仕候。多分此の暮は田舎にて越年致す事と相成可く候。ヲルヅウオースの大好きな小生も、寮の生活の自由にして豐富なる都會の色彩の華麗にして複雜なるに比べて、今年ばかりは、故郷に蟄居《ちつきよ》する事の淋しさ物足らなさをつく〴〵感じ申候。昨今は父を始め家族一同の顏を見るのも嫌にて、一日鬱々と讀書したり、煙草を吹かしたり致し居り候。
春子との Marriage 問題は、遂に破談と相成候。先方は勿論、小生の父も賛成、母も賛成、妹も賛成なるに拘らず、急に小生の心變りて、契約を破棄致し候次第、此事に就きてはいづれ拜眉《はいび》の節委しく申し上ぐる積りに候へ共、要するに春子の性格が小生の妻として甚だ不適當なるを發見したる結果に外ならず候。彼の女は小生如き愚直一徹なる人間の妻たるべく、餘りに怜悧にて、度胸が好すぎるやうに覺え候。寧ろ外交官の夫人にでもなりて、歐州の交際界に押し出し、數多の男子を手玉に取る方が其の本領に候可きか、もと〳〵小生などの思ひを懸けたるが誤りに御座候。先逹《せんだつて》父が姬路へ參りて、其れとなく春子の實家を調査致し候處に依れば、土地にて可なりの家柄には相違なきも、彼の女の兄が申す程の資產は無之《これなき》やうの趣に候。小生とても彼の女の愛情に疑を挾む者には無之《これなく》、かう申しては可笑しきやうなれど、小生の家は聊か纏まりたる財產も有之《これあり》候へば、多少其の邊の利害關係に心を動かしたりとするも、全然慾づくにて仕懸けたる事とは存ぜられず、極めて冷靜に忌憚なく申せば、先づ第一に春子の兄が小生の朴訥《ぼくとつ》らしき氣象に惚込み、次で相當の財產あるを確かめ、これに彼の女の戀―――たとへ不純なるにもせよ。―――が加はりて、今度の相談と相成り候やうに考へられ候。其の點を察すれば、今更氣の毒の感も致し候へど、性格の背馳せる兩人の結婚は、お互に將來の不幸と存じ、淡泊に先方の兄に打ち明け破約を乞ひ候處、兄も妹に負けぬシツカリ者とて、不平を色にも表はさず、兎にも角にも快諾致し、さらば此の後とも親友として往復致し度き希望を述べて、譯なく落着仕候。
小生の初戀が、斯くも悲慘なる終りを遂げたるは實に意外にて、形式上の解決は着き候へ共、手痛き創痍《さうい》の痕は容易に恢復仕らず、當分懊惱の種と相成り申す可く候。いかにして此の頃の無聊、倦怠孤獨を救はんか。刺戟なき生活は小生の一日も堪へ難きところ。さればとて第二の戀を作る元氣もなく、昔のクリスチヤンに復る心にもなれず、過去を想ひ出す度每に、忌々しく、情なく、徒《いたづら》にいらだち申し候。 せめて、小生の心事境遇を最も熟知せらるゝ大兄を捕へて、悶々の衷情《ちゆうじやう》を訴へたく、近日憂さ晴らしに上京して御尊宅を訪問仕可く候。此の際飄然と旅行に出かけたき存念切に候へども、破約以來家族一同小生の擧動を解しかね、何かにつけて餘計な心配を醸し居る折柄故、蟲を殺してヂツと辛抱致し居り候。先は御近狀御尋ね旁《かた〴〵》御報迄以上。
十二月二十四日 佐々木卯之助 橘 大兄 机下 [#ここで字下げ終わり] 暮の二十一日に試驗が濟むと、宗一は早速寮を引き拂つて濱町へ歸り此の休暇の間に小田原の方の話を始末して了はうと思つた。さうして、一旦物置き代りに使はれた自分の書齋を綺麗に片附けて、再び其の部屋の住人となつた。父からは容易に何の挨拶もなかつたが、あれ程淸く承知してくれた以上、あまり執念《しふね》く追求する譯にも行かず、每日々々返答を待ち焦れつゝ空しく時を過ごして居た。丁度此の手紙が屆いてから、中一日置いた二十六日の事である。まだ宗一が寢て居る時分に、佐々木がヒヨツコリ訪ねて來た。 「何處かへお出掛けになるといけないと思つて、今朝六時前に家を立つたんです。………先逹の手紙は御覽になつたでせう。」 「うん、此の頃は始終退屈で困つてるんだ。今日はゆつくりして行つてくれ給へ。」 宗一は二階の緣側の、日あたりの好い東向きの障子を開け放して、敷居際に八端《はつたん》の座蒲團を据ゑ、佐々木と差し向ひに庭の梢の霜除けを眺めながら語つた。疊替へをしたばかりの座敷の中に、朗かな朝の空氣が透き徹つて、佐々木の薰《くゆ》らす敷島の煙が、靑く白くゆるやかな圏を描き、恰も水に流るゝ女の髮の毛のやうに、たゆたひながら漂つて居た。 「大層書齋が立派になりましたね。―――あれは何ですか。」 佐々木は身を屈めて、向う側の壁に沿うた本箱の硝子戶を透かしながら、 「君、デイヷイン、コメデイーを買つたんですね。全部《すつかり》お讀みになりましたか。」 「此の休みに讀む積りで居たんだが、まだ十頁ぐらゐしか手を付けない。」 「あれには、ロングフエローの譯と、ロセツチの譯があるさうですが、孰方がいゝでせう。」 「さあね。」 と、宗一は曖昧に云つた。中學時代に一級下であつた關係から、佐々木はいまだに彼を先輩扱ひにして、言葉遣ひを叮嚀にするばかりか、自分が専攻する文學上の質疑までも、宗一に聽かうとする。其れが一片の禮讓から出たのではなく、本當に相手の學識を買ひ被つて居るらしいので、宗一は度々遺憾を感ずるのであつた。 「僕は此の間、クオー、ヷヂスを讀んで見ました。」 「僕もあれは讀んだ。」 「素晴らしいもんぢやありませんか。此の頃の小說で、あの位動かされた本はありませんね。ヸニチアスと云ふ人は、日本の文覺上人の樣な所がありはしませんか知ら。」 「それでも戀が成就したゞけ、文覺上人よりは仕合せだと思ふ。」 「しかし、今の靑年は文覺上人よりもつと不仕合せですよ。僕等はとても彼れ程無遠慮に、自分の戀を貫くだけの熱情が湧きませんもの。文覺やヸニチアスのやうに、熱烈な生一本な感情が持てれば、其れだけでも僕は幸福だと思ふんです。今の人間はどうしたツて、あんな單純な頭にはなれませんからね。」 「君なんぞでもさうかなあ。僕は此の間の手紙を讀んで、實際意外に思つたよ。春子さんの方で逃げたのなら格別、君の方から嫌になると云ふのは可笑しいぢやないか。」 「そんなに可笑しうござんすか。」 「可笑しいさ君、今になつて性格が合はないとか、將來の不爲めだとか、そんな冷靜な判斷が出來よう筈がない。よしんば判断が付いたところで、單に理窟一遍で別れるなんて、君にやり通せる藝當ぢやないぜ。やつぱり飽きたんだね。」 「飽きたんだと云はれゝば、其れもさうでせう―――しかし、僕が彼《あ》の女《をんな》に飽きた原因は、どうしても性格の相違する點にあるんです。だん〳〵附き合つて見ると、そりやナカ〳〵喰へない女なんですよ。まあ、まるで僕なんぞとは別世界の人間ですね。僕に對する素振にしろ、仕打ちにしろ、一々政略の細工を持つて居るんです。必ずしも惡い動機から技巧を用ふるんぢやないとしたつて、實際腹が立ちますよ。此の儘捨てゝ置いたら、僕は氣が弱いから、次第に彼の女に壓服されて了ふでせう。」 「惚れた女になら、壓服されたつて構はないぢやないか。」 「そりやさうです。けれども遣り方が如何にも見え透いて居て淺ましいから、壓服される前に先づ不快を感じて、嫌になるんです。あれではいつ迄馬鹿にされるもんかと云ふ敵愾心《てきがいしん》を起させるばかりです。」 「君のやうな道德家―――道德家と云ふのも變だが、正直な、愛情の淸い人でも、飽きると云ふ事があるのかえ。何にしても意外だつたよ。」 宗一は意味ありげな微笑を浮べながら、相手の表情を判じるやうに凝視して 「君、彼《あ》の人と何か關係があつたんぢやないのかい。」 「決してありません。」 と、佐々木はキツパリ答へて、强く首を振つた。 「そりや、二人で夜遲く散步した事は隨分あるんですけれど、關係なんかは斷じてないんです。」 「さうか知ら。―――山口の說に依ると、男と云ふものは關係が附いて了へば、直に女を棄てるさうだから、或は其の邊の事情があるかと思つて、………」 「それこそ、僕に出來る藝當ぢやありませんよ。藝者を買つたり、女中に手を附けたりしたのなら、棄てた所で冷酷とは云へますまいが、其れとは場合が違ふんですもの。かうなれば、何も彼も打ち明けてお話しますがね。いつか夏の晚に芝の山内をうろついた時なんぞ、春子をベンチへ坐らせながら、僕は後から庇髮の中へ鼻を埋めて、兩手で頰を挾んでやつたり Kiss したりしました。其の他の時にも Shake hand や Kiss は何度したか知れません。けれど決して、其れ以上には進まなかつたんです。」 宗一は友逹の甘い物語を、默つて聞かされる程、寛大ではなかつたが、佐々木のやうに眞劍に惚《のろ》けられると、冷嘲する隙がないので、いつも謹聽を餘儀なくされた。 「さう云へばね、一度妙な事がありましたよ。此れは決して、他へ行つて話されちや困りますが………」 と、何を想ひ出したのか、佐々木は眼を光らせて、一段と調子を低め、 「一時僕が千駄木に二階を借りて居た事があつたでせう。あの時分、土曜日になると、屹度春子が僕の妹と一緖に、―――兩方とも○○女學校の同級生だもんですから、互に誘ひ合つて訪ねて來たものなんです。たしか去年の四月ごろでした。半どん[#「どん」に傍点]の晚に二人でやつて來て、十一時過ぎまで話し込んで、とう〳〵泊ることになつちやつたんです。其れまで彼處へ泊つたと云ふ例はないんですが妹も一緖だし、差支あるまいと思つて、座敷へ蒲團を三つ並べて敷いたんですよ。すると、寢るときに春子が『あたし此處がいゝわ。』ツて、中央《まんなか》の蒲團へ入つたんでせう。其れがいかにも無雜作《むざふさ》に輕く云はれたもんですから、僕も格段氣に留めないで寢ちまつたんです。今考へると彼《あ》の調子なんぞ、全くうまいもんでしたね。」 「其座敷には灯がついて居たのかい。」 「いゝえ、僕は暗くないと寢られませんし、それにランプでしたから、危險だと思つて消して了ひました。春子は妹の方へ背を向けて、いつまでもコソ〳〵僕に話しかけて、なか〳〵寢さうもないんですよ。二時間ばかりさうして居るうちに、だん〳〵此方へ體を寄せながら、腕を伸ばして僕の手頸を押さへるんでせう。妹も寢られなかつたと見えて、其れまで我慢して居ましたが、とう〳〵夜具を被つてシク〳〵泣き始めたんです。其のお蔭で、まあ、際どい所を逃れましたがね。」 「若しも妹が知らなかつたら、隨分危いもんだつたね。」 「二人ぎりだと受け合ひませんが、側に妹が寢て居たんですから、たとへ知れないでも、そんな眞似は出來ませんよ。妹も後になつて、春子さんは妾《わたし》と同じ年だけれど、まるでする事が姉さんのやうだツて、皮肉を云つてましたつけ。―――此れで彼《あ》の女の性質は大槪解るでせう。」 「事に依つたら、もう Virgin ぢやないんだらう。」 「さあね、隨分そんな疑ひも起りますね。―――しかし、今になつても、僕は春子を憎いとは思ひません。兎に角あれ程に僕を慕つてくれたのだし、未だに未練があるらしいんですから、可哀さうな氣もしますよ。一生友逹附き合ひをして幸福を謀つてやる責任はあらうと思ふんです。」 と、佐々木は傷ましい顏をして云つた。
宗一は、一身の祕密を隱さず打ち明ける友逹の信義に對して、自分が今迄、美代子の事を厘毫《りんがう》も吿げなかつたのが、濟まないやうに感ぜられた。殊に、山口のやうな人間に洩らして置きながら、佐々木の耳へ入れないと云ふのは、どう考へても不都合である。自分の戀が、將來何の心配もなく、易々《やす〳〵》と成就するめでたい話なら、失意に沈む現在の佐々木に語らずとも宜いであらう。しかし、佐々木が宗一に胸中の苦悶を訴へると同じく、彼も佐々木の同情を求めたいのが、目下の狀態であつた。 「ところで僕も、昨今君のやうな問題に惱まされて居るんだよ。」 かう云つて彼は、川甚の折よりも更に詳しく、戀の成行《なりゆき》をこま〴〵と話して聞かせた。 「しかし、君のお父さんはよく解つた方ですねえ。」 佐々木は宗兵衞が何も云はずに金を吳れた處置に感心して、「ほんとに君は仕合せですよ。」 「あんまり捌《さば》けて居られるのも困り者だよ。だだ[#「だだ」に傍点]を捏ねて催促する事も出來ず、やけ[#「やけ」に傍点]になつて道樂する譯にも行かず、實際此の頃はヤキモキして居るね。―――君のお父さんは、どんな工合だい。」 「僕の親父も、決して解らない方ぢやありませんが、あんまり如才なさ過ぎて、人を欺すやうな眞似をするので、時々腹が立ちますよ。それに、何しろ僕が我が儘者ですから、腫物《はれもの》に觸るやうにして御機嫌を取るんです。妹なんぞお父さんは陰險だと云つて、嫌ひ拔いて居ます。―――尤も、親父としては多少の政略も無理はないんですが、戀愛の問題なぞになると、どんな仲の好い親子だつて、感情の齟齬《そご》は免れませんよ。戀の味を知り初めたら、誰だつて家庭に不滿を抱くやうになるんです。」 「全くさうだ。………」 宗一は熱心に、佐々木の意見に賛成の意を表した。 「僕なんか、此れまで親父にも母親《おふくろ》にも心服して居て、出來るだけの孝行を盡す積りで居たんだ。今日でも兩親の仕打ちに何一つ手落ちはなし、淚がこぼれる程有難いと感じながら、どう云ふものか、さつぱり家《うち》が面白くない。九月に寮へ入つたのも實は其の爲めなんだ。それでも今度の休暇中に是非型を付けようと思つて、家へ歸つたんだが、一日不愉快で、落ち着かないで、仕樣がないね。兩親と遇ふのが嫌で、用事の外はめつたに階下《した》へなんか下りやしない。と云つて、少しも兩親が憎いんぢやないのだ。つまり兩親の顏を見ると、氣の毒で溜らなくなつて、自分の不幸なのが、悲しくなるんだらう。」 「けれども君は仕合せですよ。お父さんは行き屆いた方だし、美代子さんだつてなか〳〵考へがシツカリして居るし、そんなにヤキモキ心配する必要はないぢやありませんか。安心して、落ち着いて、吉左右《きつさう》を待つて居たらいゝでせう。」 「吉左右が來ると極まつて居れば、安心するけれど、さう譯なく運びさうもないんだよ。向うの家が、さつき話した通りの込み入つた事情なんだからね。」 「どんな事情があつたつて、美代子さんさへ、さう云ふ考へなら安心ぢやありませんか。君はたゞ、神を信じると同じやうに、美代子さんを信じて居ればいゝんです。大丈夫ですよ。吉左右に極まつて居ます。どうしたツて、一緖になれない筈はありません。夫《そ》れ程に二人が思ひ合つて居乍ら、結婚が出來ないなんて噓です。」 眞心の籠つた燃えるやうな舌に說き慰められて、宗一は氣が弛んだのか、遣る瀨ない胸の憂ひが一時に込み上げ、 「こんな所を君に見せちや恥かしいが、僕は美代子が可哀さうで仕樣がないんだ。」 かう云つたまゝ、頭《つむり》を膝の上へ伏せた。 「………美代子は望みがかなはなければ死ぬと云つてるんだぜ。さうなれば、僕だつて死にたいけれど、男は親に對する責任があるから、そんな譯には行かないぢやないか。だから可哀さうで仕樣がないんだ。」 「今から其れ程ガツカリする事はありませんよ。大丈夫ですよ。」 佐々木はうつむいて瞑目しながら、簡單な言葉に力を籠めて云つた。けれども宗一は容易《たやす》く泣き止まない。歔欷《しやく》り上げる聲がだん〳〵忙《せは》しく、遂に梯子段の下まで洩れさうになると、佐々木は狼狽して、女のやうに友逹の背筋を撫でつゝ耳元へ顏を近づけ、 「どうしたんです、君はあんまり悲觀し過ぎますよ。まあ、よく考へて御覽なさい。美代子さんが斷じて餘所へ行かない覺悟なら、いくら親が不賛成でも、結局君の所へ寄越すより外方法がないぢやありませんか。君だつて又、そんなに心配なら、遠慮せずにどん〳〵お父さんに催促したらいゝぢやありませんか。此の場になつて義理が惡いの恥かしいのつて、云つてる際ぢやありませんよ。結婚さへして了へば、結局圓滿に収まるんだから、一時の騷動や衝突なんか頓着しないで、ドシ〳〵押し切つて進んだらいゝでせう。さうなさい、さうなさい。君の生涯に關はる大事ぢやありませんか。」 佐々木の唇から流れでる勸吿の辭《ことば》が、長い〳〵戀の歌でも聽くやうに美しく感ぜられて、宗一は久し振に快くさめ〴〵と泣いた。友逹にこんな手數をかけて、自ら訝《あやし》まれる程淚に搔きくれて、それで漸く此の頃のもしやくしや[#「もしやくしや」に傍点]が輕減されたやうに思つた。 「時に、もう何時でせう。」佐々木は袴の紐にからんだ銀鎖に手をかけて、 「十一時ですね。―――どうです、ちつと散步でもしませんか。」 「ま、飯を喰べて行き給へな。―――ほんとに失敬しちまつた。」 かう云つて、宗一は面《おもて》を擡げたが、まだしやツくり[#「しやツくり」に傍点]が止まらなかつた。 「御馳走になつても宜ござんすけれど、何か喰べに行きませうよ。氣が變つていゝぢやありませんか。」 「ぢや其處まで出かけて見よう。………君、眼の周圍《まはり》がまだ赤かないかい。」 宗一は明るい方へ顏を曝して云つた。 「その位なら判りやしません。」 二人は支度をして、梯子段を下りた。 「もう御歸りでございますか、まあお午《ひる》でも召し上つて………何にもございませんが、宗一、お前お止め申したらいゝぢやないか。」 お品は惶《あわ》てゝ玄關へ送つて出た。 「はい、どうも每度伺ひまして、お邪魔ばかり致します。」 と、佐々木は上り端へ畏まり、叮嚀にお辭儀をして、中腰に立ちかけながら、 「橘君も此の頃はお丈夫で、結構でございますね。ではこれで失敬を致します。私の方は田舎で淋しい處でございますが、川崎へでもお參りに入らツしやいましたら、ちとお立ち寄り下さいまし。」 こんな風に挨拶する所は、質朴なしかしなか〳〵逹者な口ぶりで、お品には末賴もしい靑年のやうに思はれた。
戶外《おもて》へ出ると、佐々木は早速宗一に耳打ちをした。 「何ですね、君のおツ母さんは、話をしながら、始終氣を配つて眼を働かせて居ますね。同じ深切でも、散々苦勞をし盡した、複雜な心から出る深切と云つたやうなところがありますね。」 「君にもさう見えるかな。」 「そりや見えますとも。―――僕のマーザーなんか、人間は正直ですけれど、氣が小さくつて、怒りツぽくつて、其の癖馬鹿に臆病なんです。田舎の家へ知らない男がやつて來て、金を强請《ゆす》つたりなんかしようものなら、忽ち靑くなつて顫へ上るんですからね。何かの時には全く役に立ちませんよ。」 「役に立つ點から云へば、僕のマーザーは實際えらい[#「えらい」に傍点]よ。兎に角箸にも棒にも懸からないやうな道樂者だつた僕の親父を、いゝ工合に操縱して了つたんだからね。母親の云ふ事だと、親父は一言もなく承知しちまふんだ。柔順なやうで、心底は案外シツカリした、惡く云ふと少しずるい[#「ずるい」に傍点]位利口なんだぜ。―――今度の事件なんぞ、親父よりお母《ふくろ》の方が何うかと思ふ。」 「なあに、そんなことはありませんよ。マーザーだつて、お父さんの時分に散々經驗していらつしやるんだから、まさか無闇な壓制はなさらないでせう。」 「ハズバンドが大人しくなつたかと思ふと、今度は子供が心配をかける。―――マーザーも長い間苦勞する人間だ。」 二人はこんな事を云ひながら、中之橋を渡つて、水天宮前へ出た。
人形町の大通りは、もうすつかり新年の裝ひになつて、軒並に松を飾り竹を結び付け、大賣り出しや、福引の旗が方々に飜つて居た。菓子屋の店先には、眞白な、搗き立ての餅が、座蒲團のやうに積み重なつて居る。溝に沿うた露店の筵には、輪飾り、穗俵《ほんだはら》、蝦、裏白などが、所狹う展がつて居る。羽子板を冷やかす客、寄切《よせぎ》れを見る女、いろ〳〵の人間が忙はしげに歲晚の町を右往左往する。 「おい、君、何處へ飯を喰ひに行かう。」 大觀音《おほぐわんおん》へお參りをして、出口の石段へ戾つて來ると、宗一はかう云つて立ち止まつた。 「何處でもよござんす。―――君はこゝいらをよく知つてるぢやありませんか。」 「うまい物を喰ひに行くのか、落ち着いて話がしたいのか、どつちだね。」 「此の邊の喰ひ物なら、僕には何だつてうまうござんすよ。靜かな、話の出來る所がいゝぢやありませんか。」 田舎者を標榜《へうばう》する佐々木は、江戶趣味の野村と違つて、花村なぞよりいつそ洋食屋の二階の方がいゝらしかつた。
宗一は末廣か鳥安へ行つて、久しぶりで好物のあひ[#「あひ」に傍点]鴨を喰べたかつたが、靜かなところと云ふ注文に懸念《けねん》して、茅場町の藥師の地内の丸金へ案内した。
下戶の佐々木が相手では、杯の數も進まず、鍋をまん中に、一本半ばかりビールを飮むと、直に飯を取つた。格別會談の興を添ふ可き話柄《わへい》も盡きて、二人は折々默つて了つた。一時間程で、其處を出ると、佐々木は鎧橋の袂で、 「それぢや、失敬しませう。」 と、云つた。 「まあ、もう一遍家へ來ないか。」 それでも獨りになるよりはいゝと、宗一は思つた。 「又にしませう。此れから丸善へ廻つて、買ひ物をしなけりやなりませんから。―――ところで、さツきの勘定は幾らでした。」 「あれはいゝんだ。」 「いゝえ、僕に半分出さして下さい。」 かう云つて、佐々木は一圓なにがしの錢を無理に宗一の手へ渡して、逃げるやうに駈けて行つた。
取引所の角から、兜町の方へ消えて了つた友逹の後姿を見送つて、宗一は再びとぼ〳〵と步を移した。鎧橋の左右に伸びた川筋の、一方は永代、一方は魚河岸の果てまで、毛程の曇りもない空が、秋の水のやうに冴え渡つて、石版刷の繪の色を想ひ浮ばせる。紅葉川の分れ口にある古い西洋館―――澁澤事務所の屋根から三四尺上に輝く日光が、鋸の齒を並べたやうな小網町河岸の土藏の壁に、まざ〳〵と黃色く漂つて居る。―――彼は、ふと、少年の折の事を考へ出した。七つ八つの時分、丁度肩の高さぐらゐある此の橋の手すり[#「手すり」に傍点]に掴まつて、足許を通る往來《ゆきき》の船を、ヂツと瞰下した事が度々あつた。橋桁の底へ潜つて行く船を視詰めて居ると、船が動かないで、橋が前進するやうに思はれる。其れが子供心に面白くつて、一艘、二艘、三艘と、次ぎから次ぎへ漕ぎ寄せる船を待ち構へつゝ、つめたい鐵の欄杆が自分の頤で溫まるまで、長い間眺め暮らした。其の頃の西洋館と云へば珍らしくつて、あの澁澤事務所の圓い柱や硝子窓が、どんなに彼の好奇心を募らせたであらう。いまだに彼はあの建築を見ると、西洋の封建時代の城砦に附隨するやうなローマンスを胸に描く。河竹默阿彌の脚本「島《しま》鵆《ちどり》月《つきの》白波《しらなみ》」に現はれたやうな、明治初年の風俗を憧憬する。 それから十五年あまりも歲月が立つて、自分はこんなに變つて了つた。二十一歲の暮も、あと五晝夜過ぎれば終りを吿げる。―――宗一に取つて、今年ほど忘れられぬ年はあるまい。去年の秋から持ち越した肋膜の大病が漸く直つて命拾ひをしたのも今年である。初戀の味を舐めてから、此れまでの人生觀が動搖し出したのも今年である。茅ケ崎から歸つて半年の間に茶屋酒を飮む度胸も附いた。親を欺く行為もあつた。贅澤な金の遣ひ方も覺えた。戀と學問とを、同じ程度に尊重する積りであつたのが、健康を恢復してから、彼はどれだけ勉强をしたであらう。どれだけ讀書をしたであらう。年内に讀破する決心で、手帳へ書き連ねた十二三册の書目のうち、一册として片附いたものはないではないか。去年の今日に比較して、どのくらゐ獨逸語は進步したらう。どのくらゐ單語の數を餘計知つたらう。功名と云ふ事、事業と云ふ事、其れ等を悉く忘却して、自己の全部を美代子に捧げて了ふ程、彼は自分を女々しい男とは氣が付かなかつた。
美代子の話は美代子の話として、此れから斷然勉强しなければならない。片時の猶豫もなく、直に家へ歸つて、讀書に取りかゝらなければならない。―――かう張り詰めて見るものゝ、二三町步く間に勇氣が沮喪《そさう》して、到底實行し難い事のやうに感ぜられる。問題の解決がつかぬうちは、失神した人間も同然である。美代子と完全な握手が出來ない以上、當分宗一の復活する道はなかつた。
銀杏八幡前へ來た時、彼は深い沈思の底から泛び上つて、體中の意識をハツキリさせて、あたりを見廻した。電車が二三臺置きに滿員の赤札を下げて、一杯の人數を運びながら、凄じく走る。切山椒《きりざんせう》を買ふお客が、多勢三原堂の店先へ押しかける。誰も彼も追ひ立てられるやうな顏をして、動いて居る。宗一は野路に行き暮れた旅人の如く、賑やかな四つ辻のまんなかに茫然と彳んだ。
此れから何處へ遊びに行くと云ふあて[#「あて」に傍点]もない。家へ戾つて、夜になるまで、どうして時間を送つたら好からう。………彼は退屈凌ぎに、新年の雜誌を二三册|漁《あさ》り求めたが、かう云ふ時の暇つぶしには年始狀でも認めるのが一番いゝと心付いて繪葉書を三十枚と、書き好ささうな古梅園の毛筆を二本買つた。歸つたら早速、二階の書齋に端坐して、硯の墨を濃く擦つて眞白な紙の面へ「恭賀新年………」と揮毫《きがう》する樂しさを想像しながら、宗一は俄かに活氣づいて道を急いだ。 「唯今。」 と云ひつゝ、玄關の障子を開き、六疊の間を跨いで行かうとすると、お品は其處に裁板《たちいた》を置いて、獨りで火熨《ひの》しをかけて居た。 「佐々木さんはお歸りなすつたのかい。」 「えゝ、つい[#「つい」に傍点]鎧橋のところで別れました。」 宗一は少し烟つたさうな面持ちをして梯子段の上り口に立ちすくんだ。 「ちよいとお前に話しがあるんだが。………」 まあ、此處へ來て坐れ。と云ふやうに、お品はちらりと宗一を見て、 「此の間お父さんから聞きましたが、出來る事ならお前の望み通りにして上げたいけれど、なか〳〵チヨツクラ行きさうもないんだよ。正月になつて嫌な話をするでもないから今の中に云つて置くがね。………」 「とても駄目なんでせうか。」 かう云つて、宗一はパタリと母の傍へ腰を落した。 「さうも云へないが、美代ちやんのおツ母さんが不承知らしいから、私やむづかしからうと思ふ。お父さんも心配なすつて、今月になつてから、二三度小田原へいらしつたんだよ。いろ〳〵手を換へ、品を換へてお賴みなすつたらしいけれど、何しろお綱さんは、若い時分から剛情な人でね。自分が斯うと云ひ出したからは、後へ引くやうな性分ぢやないんだもの。」 聞いて居るうちに宗一は、身が沈んで行くやうな、果敢《はか》なさ、便りなさを覺えて、悲しみが胸一杯に充滿した。 「わたしも美代ちやんなら差支ないと思ふし、殊にお前がさう云ふ考へだから、成る可く纏めるやうにしたいと思つたんだけれど、先方が許さない以上は、仕方がないぢやないか。お前、何とか考へ直して見る氣にはならないかい。」 「ほんとに駄目となつたら、考へ直すも直さないもありません。―――しかし、それでも、もう一遍賴んで下さる譯には行きませんか知ら。」 「そりや、春にでもなつて、又折があつたら話しても見よう。今のところ、お父さんだつてお忙しいから、さう〳〵小田原へもいらつしやれやしないよ。」 「私は決して急ぎませんから、兎に角もう一度お話しなすつて下さい。小田原の方だつて、美代ちやんが飽く迄聟を貰ふのを拒めば、いつか折れる時が來るでせう。いよ〳〵駄目だつたら、私は其の時まで待つてもいゝ積りなんです。」 「其の後、美代ちやんから手紙でも寄越したのかい。」 「あれきり音信《いんしん》不通になつて居ます。―――何も彼もお父さんにお任せした以上、當人同士は直接に往來しないと云ふ約束をしたんですから。」 「何卒此れからもさうしておくれ。本来ならかうなる前に、私の耳へ入れてくれゝばよかつたんだよ。それをお前が蔭へ隱れて、内々美代ちやんと相談なんかしたものだから、向うでも少しは氣持を惡くしたんだらう。今となつて、其れを云つても仕樣がないがね。―――たゞ私が心配するのは、お前が待つと云つたところで、此れから先何年かゝるものか判らない。美代ちやんだつて、だん〳〵月日が立つうちには、どう變らないとも限らないから、一途に其れをあて[#「あて」に傍点]にすると、飛んだ間違ひが起ると思ふ。」 「しかし、私は美代ちやんの性質から考へて、其の點だけは疑はないんです。」 「いゝえ。此ればかりはナカ〳〵當人の思ひ通りに行かないものなんだから、いくら美代ちやんが其の積りで、堅い約束をしたからツて、先の事は判りやしないよ。當人同士は勿論、親と親とが立派に取り極めた許嫁でさへ、五年十年と立つうちには隨分破談になるぢやないか。お互に明日が日貧乏するかも知れないし、いつ何時病氣にかゝつて、死なない迄も片輪になるとか、一生直らないとか、―――そんな事があつてくれちや大變だけれど、人の身の上はどうなるか判らないんだから、其の時になつて、以前の約束を楯に取る譯にも行かなくならあね。それに女は氣が弱いから、親に手を合はされて、拜まれでもして御覽、いつ迄强い言《こと》も云つて居られないから。」 「私だけは、どんなに境遇が變つたつて決して違約しない積りです。けれども先がそんな薄情な眞似をするかどうか、其の場にならなければ何とも云へませんが、若しさうなつたら、私もキツパリ思ひ切ります。」 「お前は一槪に薄情と云ふけれど、さうばかりも云へやしないよ。だん〳〵年を取つて見れば解る事だが、いくら當人は一緖になりたくツても、據んどころない事情が澤山出來てくるのだから。―――私や兎に角、一旦あきらめて貰つた方がいゝと思ふ。さうして、お前が大學を卒業する迄には、五六年もあるのだから、其の後になつて、双方の心が變らないで居るやうだつたら、改めて話をしてもいゝぢやないか。何にしても、こゝのところ、當分そんな話は忘れちまつて、學校の方に精を出すと。さう云ふ風にしてくれないかね。」 宗一は何と答へてよいか、當惑して、眼の前に坐つて居る母親の白足袋の裏を視詰めながら、狛犬のやうに蹲踞《うづくま》つて兩手をついて、「宜しうございます。そんなら一旦あきらめて了ひます。」―――かう答へたら、勿論母は滿足する。前後の行き掛りが、自分に此の答へを、血を吐くやうな此の答へを餘儀なくせしめて居る。親に安心を與へる爲め、たつた一と言云つて了へば濟むのであるが、宗一には其れが口惜しかつた。眞の覺悟が極らないのに、一時逃れの挨拶をして、お茶を濁すのは快くなかつた。 「あきらめなければならない時が來れば、私も男らしくあきらめますから、もう暫くお見逃しなすつて下さい。いろ〳〵御心配をかけて濟みませんが、今のところ、まだ早計のやうに考へられて、どうもそれ程にする氣にはなれないんです。其の爲めに學校を怠けるとか、手紙の遣り取りをするとか、そんな不埒《ふらち》な眞似は一切致しません。以前の通り勉强もします。品行も愼みます。唯私が心の中で思つて居る事だけ、許して頂きたいんです。此ればかりは忘れろと仰しやつても、またいくら自分で忘れようとしても、容易に忘れられるものぢやないと思ひます。」 「忘れられない、忘れられないと思つて居るから、駄目なんだよ。お前の氣の持ちやう一つで、どうにでもなる話ぢやないか。―――出來ないと云ふなら、無理にとは言はないが、それで學校の方が疎《おろそ》かにならないかね。口ではさう云つたツて、女の事に氣を腐らせたりなんかした日にや誰でも怠け癖の附くものだよ。みーんなさう云ふのが原《もと》で、道樂を始めたり、財產を失くしたり、しまひには墮落をして了ふのさ。今時分から、色の戀のツて嫌らしい騷ぎをするやうぢや、ナカナカ出世は出來やしない。………」 母はクド〳〵と意見しながら、始終せはしなく手を働かせ、細々《こま〴〵》した着物の布《きれ》を根《こん》よく取り出して、順々に火熨斗《ひのし》を掛けて居たが、其れが濟むと、やがて長火鉢の傍へ立て膝をして、煙草を吸ひ始めた。態度と云ひ、調子と云ひ、別段氣色ばむでもなく、憎らしい程落ち着いて居る。 「お前は敎育のある人間だから、よもや間違ひはないだらうけれど、どんな利巧な者だツて、女の事では無分別が起るものなんだから………」 父にも母にも、「敎育のある人間」と言ふ言葉を、宗一は何囘聞かされるだらう。「敎育のある人間」は、心が鐵にでもなるのか知らん。 「勉强だけは必ずするから大丈夫だ、なんと思つたツて、其の通り行くものぢやないんだから御覽。ほんとに今が肝腎の時だよ。よウく考へて何かしないと、一つグレ出したら、一生の損になるよ。お前だつて、お父さんの若い時の事を知つてゐるぢやないか。それでも中途で眼がお覺めなすつたから、漸く取り返しがついたものゝ、今だつて、家は決してお祖父さんの時分の樣に好くないんだよ。わたしやいまだに、お父さんがあんな道樂をなさらなかつたら、もう少し何とかなつて居るだらうと思つて居る。―――お父さんも御自分に覺えがおあんなさるから、此の頃はお前の事をどのくらゐ心配していらつしやるか判りやしないよ。」 其の時臺所に續いた障子を開けて惡いところへ打つかつたと云ふやうに、お兼が恐る〳〵顏を出した。 「あの、おかみさん鐵瓶が沸騰《にた》ちましてございますが、後へ何をかけますんですか。」 「伽羅蕗《きやらぶき》を煮るんだから、さつきのお鍋を掛けといておくれ。今わたしが行つて見ますから。」 母はぽんと煙管をはたいて、 「まあ、こんな事は當人の心次第で、ハタがいくら八釜《やかま》しく云つても無理な話だから、二三日とつくり[#「とつくり」に傍点]考へて見るさ。わたしが此れ丈云つたんだから、お父さんは改めて何も仰しやるまいと思ふ。」 かう云つて、立つて行つた。 どうなる事かと案じて居たのに、辛《から》くも放免されて、宗一は胸を撫で下ろしながら、逃ぐるが如く梯子段を上つた。さうして買つて來た雜誌や繪葉書を机の上へ放り出して、惱ましげに腕組をしたまゝ、書齋の中をグル〳〵と廻り始めた。丁度三廻りばかりして四度目に本箱の前へやつて來た時、パツと電燈のあかりがついた。まだちつとも暗くならないのに細い赤いカーボンの線が電球の中にぼんやり光つて居るのを見ると、心がせか〳〵と焦ら立つやうに感ぜられて、彼はいきなりパチリとスヰツチを拈り返した。 「お父さんは、改めて何も仰つしやるまいと思ふ。」 ―――此の言葉から察すると、母は明らかに父の意を體して、伜に忠吿したのであらう。事に依つたら、父の寛大を齒痒く思ひ、母が自ら進んで、憎まれ役の衝《しよう》に當つたのかとも邪推される。放任主義の父の遣り方としては、少し干渉し過ぎるやうである。父だつて昔の事を考へたら、そんなに强い事を云へる筈がない。色戀に關して立派な口が利けるのは、自分だけであると云ふ地位を利用して、母は伜の監督權を父の手から奪ひ取つたのであらう。……… 戶外《おもて》を步いて居た間に、火鉢の炭がすつかり灰になつて、部屋はしんしん[#「しんしん」に傍点]と凍切《こゞえき》つて居た。寒さがうら寂しい彼の心に沁み徹つて、一層悲しく情ない感慨を催さしめる。何にしても、此の惶しい歲晚の五日間が早く過ぎてくれればいゝ。正月になつて、一陽來復の春めいた景氣に出會つたならば、少しは氣分も引き立つであらう。………彼があれ程苦に病んで居た問題が、こんなに突然、こんなに雜作なく、且こんなに不得要領の結末を吿げようとは思はなかつた。もう家に燻つて居る必要はないのだから、若し兩親が許すならば、彼は何處へなりと旅行に出かけて了ひたかつた。
出かけるならば、人里離れた山奧の、雪に鎖された溫泉宿へ籠りたい。眞綿のやうな雪がこんこんと降り積つて、谷を埋め川を塞ぎ、庇の垂氷《つらゝ》の三四尺も下るやうな一軒家に隱れて、戀の炎を封じ込めて了ひたい………。
九