Part 7

Chapter 7 8,300 words Public domain Markdown

其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。 「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」 「うん、出かけてもえゝがな。」 と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼《うはめ》で眺めて居る。 「なんだい、いやに元氣がないぢやないか。今夜の約束を忘れちまつたのかい。」 「いや、忘れたと云ふ譯でもないんぢやがな、私《わし》はあの約束をえゝ加減の事ぢやと思つて居たんぢやが、いよいよ君が、ほんたうに決心したんだとすると、少々私も驚いて居る次第ぢや。」 「どうしてさ、何も驚かなくたつていゝぢやないか。」 さう云つて、橘は少し極り惡さうににやにや[#「にやにや」に傍点]笑つた。 「しかし後になつて、私が誘惑したなんて云はれて恨まれたりすると困るからなあ。それさへなければ案内してもえゝんぢやけれど、………」 「ふん、柄にもない心配をするぢやないか。いつもそはそは[#「そはそは」に傍点]して遊びに行く癖に、そんなに臀を落ち着けなくてもよささうなものだ。」 「そりや私《わし》一人なら喜んで行くがな、何しろ君は今までに經驗がないんぢやから、さう云ふ人を私《わし》が始めて連れて行くのは、何となく氣が咎めるんぢや。また杉浦にでも知れると、彼奴《あいつ》いよ〳〵私を攻擊するぢやらう。」 「いや大丈夫だ。杉浦には知れないやうにそうつと[#「そうつと」に傍点]出て來たんだから、分りつこはないんだよ。ねえ、だから早く行かうぢやないか。此の間の晚はあんなに僕を勸めて置きながら、いざとなつて澁るなんて甚だ怪しからんぜ。」 「それ、それを云はれるから私《わし》は迷惑すると云ふんぢや。私が勸めたから遊びに行つたと云はれるならほんたうに御免蒙るぜ。私はたゞ一時の興味に驅られてあんな話をしたんぢやからな。」 「あゝさうか、さう云つたのは僕が惡かつた。成る程此の間の話は君が冗談に云つたんだらう。しかし其の冗談に挑發されて、今夜は僕の方から斯うして誘ひに來たんだから、まあ行つてくれてもいゝぢやないか。」 橘には山口が自分の足許を見拔いていやにゆつくり構へて居るのがよく分つた。それでも彼は見す見す相手の策略に乘つて、思ふ壺へ陷つてまでも連れて行つて貰ひたかつた。 「まあ君がそれ程に云ふのなら行つてもえゝ。だが、一體金をいくら持つて居るんぢや。」 「實は此處に二十兩ばかりあるんだ。此れだけあればいゝだらう。」 「ほゝう、大分持つとるんぢやなう。」 山口はにやりとして、 「二十圓あれば何處へでも行ける。だが其の金を全部使はんとえゝだらう。此の間も云うたやうに二人で五兩あつたら大丈夫ぢや。そんなに君に使はせやせん。」 「僕も要心に持つて來たんだから、十圓位は殘して置きたいんだ。兎に角直ぐに支度をして出かける事にしようぢやないか。誰かやつて來ると面倒だから。」 「よろしい、それでは先づ淺草の方へでも行つて見るか。………私《わし》は大分|髯《ひげ》が生えたからちよつと剃つて行きたいもんぢや。ちよつとの間ぢや、待つて居てくれ給へ。」 山口はいそ〳〵と立ち上つて、机の抽出しから西洋剃刀と、剝げちよろの手鏡とを出して、血色の惡い、煤ぼけたやうな頰《ほつ》ぺたへ石鹼の泡をぬる〳〵と塗つた。さうしてところどころに瑕《きず》を拵へたり長い毛を殘したりして、大急ぎで髯を剃つてしまふと、今度は押入を開けて、柳行李の蓋を開いたまゝ何か考へ込んで居る。 「はて困つたもんぢやなあ、餘所行きの着物は此の銘仙きりしかないんぢやが、何しろ親父のお古でもつておまけに此の間臀を拔いてしまつたんでなあ。」 斯う云つて繩のやうに綯《よ》れたまゝ突込んであるものを、ぞろ〳〵と引き出して高く差し上げて見せた。成る程臀の所が一尺程綻びて綿がだらしなく飛び出して居る。 「どうしような、君はひどく洒落とるやうぢやなあ。」 と云つて山口は、節絲の綿入れに新しい小倉の袴を穿いた橘の服裝を羨ましさうに見上げ見下ろした。 「なんだい、君なんぞは年中出かける癖に今更めかす必要もないぢやないか。」 「ところがさうでないて、此れでもやつぱりいゝなりをして行かんと大分持て方が違ふんぢや。よし〳〵、臀が破れて居ても、袴を穿けば分りやせんわ。」 それから山口は足袋が汚いの下駄が穢《よご》れて居るのと云つて、それ等の品を本郷通りで買つて貰ふ約束をしたが、表へ出ると彼はだん〳〵圖に乘つてハンケチや鳥打帽子までも買はせた。しまひには「あの蜜柑を五錢ばかり買つてくれりや。」などと云つて八百屋の前で立ち止つたりした。

二人が雷門で電車を下りた時分にはもう夜になつて居た。 「どうだな橘さん、君は一體吉原がいゝのかそれとも千束町へ行きたいのか、どつちなんぢや。それを極めて置かんといろ〳〵時間の都合があるんぢや。」 と、山口は向島の花見客が雜踏して居る中店を步きながら、何か眞面目な相談でもするやうに仔細らしく橘の耳に囁いた。 「さうだな、僕は何だか吉原へ行きたくないな。千束町にしようぢやないか。」 「なぜ吉原は嫌なんぢや。銘仙屋の女なんぞより花魁《おいらん》の方がいくら氣持がいゝか知れやせんがな。大店へ行けば座敷も綺麗だし、寢道具なんぞそりや素晴しいもんだぜ。」 「けれども僕は何だか花魁と云ふものが嫌ひなんだよ。あの毒々しいゴテゴテの衣裳を着けて居るのからして氣に喰はない。まだ銘仙屋の女の方が、幾分かすつきりして居るやうに思はれるんだ。」 「はゝそりやあ君が無經驗だからさう思ふんぢや。私のやうに遊びの經驗を積んでみると、結局花魁が一番いゝと云ふことになる。君が嫌ならば孰方でも構やせんけれど。」 「いや、いくら經驗を積んだつて、僕にはとても花魁は好きになれさうもない。あんなグロテスクな風つきをした、化物みたやうなものは、てんで僕の趣味には合はないんだ。僕はあつさりとした意氣な女がいゝんだ。」 「ふん、分つた。さうすると何ぢやな、君はつまり藝者のやうなのを要求しとるんぢやな。」 「うん、まあさうなんだ。」 「意氣といふ點から言へば、そりや銘仙屋の女の方が幾分か藝者に近いかも知れん。しかし、斷《ことわ》つて置くが、藝者買をするやうなつもりで居ると大きにあてが外れるから、後になつて愚痴をこぼしても私や責任を持たんぜ。千束町に萬龍や靜枝のやうなのが居ると思つたら、とんだ間違ひぢやからなあ。」 「僕だつてまさかさうは思つて居ないよ。でもまあ、君の働きでなるたけ藝者らしい奴を紹介して貰ひたいのさ。さうして泊るところも、銘仙屋の二階でなしに、どこか待合じみたところへ連れて行つて貰へないだらうか。」 「そこは話しやうでどうにもなる。あゝいふ女を連れて行くには、また其の方の專門の待合があるのぢや。さうすると、何も言はずに私に十兩預けて置いたらどうぢや。今から行くのはちよつと時間が早や過ぎるから、少しその邊をうろついて、十時頃になつたら出掛けるとしよう。十兩あれば、明日の朝まで遊んでも私はお釣《つり》を殘して見せる。うまく行けば朝飯に牛肉ぐらゐは食べられるかも知れんぜ。」 山口は仁王門の蔭のところで橘から十圓札を受取りながら、 「これを何とかして崩さんではいかんな。こんな大きな札を見せたら、きつとぼられる[#「ぼられる」に傍点]に極つとるからな。隙つぶしにおでんでも食うて一杯飮むとしようぢやないか。」 かう言つて、こんもりした公園の櫻の木の間を、十二階の方へ辿つて行つた。

朝からどんよりとしてゐた雨曇りの空が、今にも降り出しさうに曇つて、妙に生暖い、風のない晚であつた。向うの空を焦して居る活動寫眞のイルミネーシヨンや、樂隊の響や、緞帳芝居の囃《はやし》の音や、池の汀に並んで居る露店の灯影や、そんなものが橘には今夜に限つて夢のやうに感ぜられた。子供の時分から幾度となく見馴れて居る公園の夜景が、今夜始めて連れて來られた遠い國の、何か不思議な珍しくも恐しい巷《ちまた》のやうであつた。自分の左右を往き違ふ群衆さへも、自分とはひどくかけ離れた世界の人種のやうに見えた。橘はふと、兩親や乳母の手に牽かれて、花屋敷の猛獸だの奧山の見世物だのを見に來た時分の、二十年も前の頑是《ぐわんぜ》ない己れの姿を想ひ出した。あのころの幼い彼は、淺草に連れて來られるのが何よりも嬉しくて、中店の通りから觀音樣のお堂を眺めると、譯もなく小さな胸が浮き立つて來て小躍りしたいやうな心地になつたものであるが、今夜の彼もちやうど同じやうな心地がする。しかしあの時の無邪氣な喜びと、今の自分の喜びとは、何といふ相違であらう。二十年後の今になつて、この公園が斯うして自分を待構へて居ようとは、その頃の彼には思ひもよらぬ事であつた。父や母は未だに彼をその頃の子供のやうに考へて居るのに、彼はいつの間にか、親から貰つた學費を誤魔化して遊びに來るやうになつてしまつた。それはいゝとしても、今夜の樣子を美代子が知つたならば何と云ふだらう。彼女との仲を割かれた結果だと云ふ事が、何の言ひ譯になるであらう。自分が斯うなる代りに、美代子がこんな眞似をしたら、自分はどんな氣持がするだらう。 「自分はこれを機會に墮落してしまふのではないだらうか。自分はもう、山口と選ぶ所がなくなつて居やしないか。」 さう反省して見ても、それが橘には何の感情をも齎らさなかつた。彼は全身に麻醉藥をかけて物凄い手術を受けて居る人間のやうに自分を思つた。自分が今、忌まはしい穢らはしい境涯に泥《なづ》みつゝあるのだと云ふことが、まるで他人の身の上のやうに空々しく感ぜられた。たゞ何處までも淺ましい惡友のなすがまゝに、快く彼の傀儡《くわいらい》となつて、お坊ちやん扱ひにされて居たかつた。ならうことならば、いつそ目隱しをしてぐんぐんと手を引張つて行つて貰ひたかつた。 「橘さん、君は何を食ふんぢや。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取つてくれや。」 ………氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜つて、ぐつ〳〵湯氣の立つた煮込みの鍋を前にしながら、山口と肩を並べて居た。 「それから姐《ねえ》さん、正宗一本、お燗を熱くしてな。―――大いに景氣をつけてこれからいゝ處へ繰り込むんぢや。だが何ぢやな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうないぜ。」 山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になつて他愛もなく女中にからかつて居る。もう先のやうな勿體ぶつた素振りや仔細らしい態度は、疾《と》うに飛んで行つてしまつたらしい。 「君は女さへ見れば誰を掴《つか》まへても口說《くど》くんだな。あの女の何處がいゝんだい。」 おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云つた。 「いゝ女ぢやないか君、色が白くつてぽつちやり[#「ぽつちやり」に傍点]として居て、私やあゝ云ふ愛嬌のある女が好きぢや。君は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了簡で居るからいかんのぢや。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かつたら、吉原でも千束町でもとても滿足できやせん。だから先《さつき》も斷つて置いたんぢや。ほんたうに君、案内するのもえゝが、後になつて、恨んだりしちや困るぜエ。そのくらゐなら私《わし》は御免を蒙りたいもんぢや。」 山口はわざと仰山に怫然《ふつぜん》として、往來のまん中で立ち止つた。 「まあさ、何もそんなに怒るには及ばないさ。一切君に任してあるのだから、さう手數をかけなくてもいゝぢやないか。」 「いや、手數をかけると云ふ譯ぢやないが、あんまり君が贅澤を云ふからぢや。私は一昨日《をとゝひ》吉原へ行つたばかりだから、今夜はそんなに氣が進んで居らんのぢや。今日は君に賴まれたから據んどころなく出て來たんぢや。全く君の犠牲になつとるやうなものぢや。」 「あはゝゝゝ、犠牲はちつと大袈裟だな。さう恩に着せないでもよからうぜ。」 「冗談ぢやない。ほんたうの話ぢやがな。なんぼ私《わし》が道樂者《だうらくもの》だつて、始めての人を誘惑するのは實際いやな役廻りぢやからなあ。」 「始めてと云へば、僕にさう云ふ經驗が無いのだと云ふことを、先《さき》の女に君から斷つてくれ給へね。さうでないと僕は何だか工合《ぐあひ》が惡いからな。」 「いゝよ、心配せんでも大丈夫だよ。そんなことに氣を揉むなんて、君も可愛い男ぢやなあ。」 こんな事を語り合ひながら、二人は一二時間も公園の彼方此方をさまよつて、バアへ這入つたり立ち見をしたりして隙を潰した。やがて十時頃になつてから、「さあそろ〳〵行つてみよう。」と云ひながら、山口はずん〳〵先に立つて、十二階の下の細い新路《しんみち》へ踏み込んで、兩側にぎつしりと並んだ、明るい家の軒下をぐるぐると經廻《へめぐ》つて行つた。かういふ狹い區域に、どうしてこれほど澤山な横丁があるかと驚かれるくらゐ、其處は蜂の巢のやうに交錯した路地と路地とが、目まぐるしく折れ曲つて居た。さうして其の家々は、孰《ど》れも此《こ》れも同じやうにマチ箱のやうな粗末な普請《ふしん》で、軒燈を掲げた格子戶と曇り硝子の障子を嵌めた窓とが附いて居た。その曇り硝子の内には、白い顏の女共が眼ばかり見えるやうにして、障子の隙間《すきま》から表を覗いて居る。橘は同じ路地を何度も往つたり來たりしたやうに思つたが、實はみんな異つた橫町であつた。橫町から橫町へ拔ける間に、また第三の橫町があつて、それへ這入ると其處にも同じやうな世界が擴がつて居た。もしもあらゆる橫町の底を究めようとすれば、それが細く長く無限に續いて居て、東京市の外へまでも延びてゐるらしかつた。もう公園から餘程遠いところへきたやうな氣がして、ふと立ち止つて空を仰ぐと、不思議にも未だ十二階が頭の上に聳えてゐる。それが橘にはいよ〳〵夢のやうに思はれるのであつた。 「どうぢやな橘さん、この女はちよいと可愛い顏をしとるが、此所《こゝ》いらではお氣に召さんかな。これは千束町の萬龍といふ仇名《あだな》があるんぢや。」 さう云つて山口は、とある窓の前で臆面《おくめん》もなく說明したり、どうかすると馴染の女の家と見えて、 「よう今晚は、先日は失禮。」 などと挨拶をして通つたりする。 「まあ大體この邊のところで我慢せんけりや仕方がないが、この他にまだ、活動寫眞館の裏の方にもうちつと上等な家《うち》があるから、ひとつ彼所《あすこ》へ行つてみよう。」 かう云つて步き出した山口の跡に附いて、家と家との庇合《ひあはひ》のやうな間をひよいと潜つたかと思ふと、再び橘は元の公園の池の前に連れて來られて居た。 「いゝかな橘さん、今度の所は千束町では一流の場所なんぢやから、彼所《あすこ》が氣に入らなかつたらもう駄目だぜ。さうしたら吉原へ行くより他に仕方がないぜ。」 成る程其所は、山口の云ふ通り多少今迄のとは異つて、やゝ道巾の廣い往來に、小綺麗な藝者屋|染《じ》みた二階家が五六軒かたまつて居た。

一時間ばかり過ぎた時分、二人の男は二人の女の跡について、半町ばかり後《うしろ》から見え隱れに、夜の更け渡つた公園の未《いま》だに人通りの絕えない町を、わざと交番の前をさけながら、辿つて行つた。先に立つた女逹は、傳法院の前から中店を橫ぎつて、暗い狹い小路の間をうねりながら、時々姿を闇に消したりした。 「待合といふのは全體何處にあるんだらう。」 「もう直き其處《そこ》ぢや。きつと花川戶の方にあるんぢや。あゝあ、これで私《わし》もやつと責任を果したわい。」 と山口が云つた。橘はいくらか元氣がよくなつてゐた。

明くる日一日、寮にも敎場にも姿を見せなかつた橘は、晚の九時頃になつて、ぐでんぐでんに醉ひながら山口と一緖に駒込の杉浦の下宿へやつて來た。

見ると、杉浦はたつた一人、頭から蒲團をすつぽり被つて小說を讀んでゐる。 「やあ、君逹は何處へ行つてゐたんだ。昨夜《ゆうべ》から居なかつたぢやないか。」 「うん」 と云つたきり、橘はどしんとあぐら[#「あぐら」に傍点]を搔いて坐つた。 「いや大きに失敬した。昨夜《ゆうべ》川甚へ行つて泊つてしまつたんぢや。君を誘はうと思つたんぢやけれど、生憎見えなかつたもんぢやからなあ。」 さう云つて、山口はから〳〵と笑つた。 「見えない事があるもんか。己《おれ》はお前逹を散々捜したのに、何處にも居ないから獨りで呂昇を聽きに行つちまつた。今日になつても歸つて來ないなんて、怪しからん奴だ。未だいくらか殘つて居るだらう。罰金に何か奢らんけりや承知しないぞ。」 「うん奢らう。何でも奢らう。」 「よし、よし、其奴は賛成だ。」 杉浦は蒲團を撥ね起きて、寢間着の上へ袴を穿いた。

十三

[#ここから一字下げ] 拝啓 先日は失禮いたしました。あれから佐々木君に御會ひになりましたか。僕の方へはあれきりさつぱり訪ねて來ません。尤も訪ねて來る譯にも行かないでせうが、僕も内々どうして居るかと心配して居ります。 きつと佐々木君は僕等に對して怒つて居るのでせう。此の間會つた時にも、あの話はどうなつたんだ。まだ姉さんに話してくれないのか。もう二た月にもなるのだから、機會がないと云ふ譯はあるまい。默つて棄てゝ置かれては、半殺しにされて居るやうで落ち着かないで困る。と云つて、例の調子で性急に追究するのです。定めてあなたにも不平を洩らした事だらうと思ひます。 しかし、僕の方でも決して投げやりにしてあるのではないのです。佐々木君にはまだ姉に話さないと云つて居ますが、實はもう疾《と》うに話してあるのです。さうして大體姉の意向も聞いて居るのです。けれども其の意向が佐々木君の爲めに決して芳ばしいものでない以上、それを無造作に返事する譯には行かないぢやありませんか。佐々木君なら家柄と云ひ人物と云ひ、決して僕の方に不足はない。それは僕にしろ母にしろ、皆さう思つて居るのです。正直のところ當人さへ承知なら直ぐに纏まる話なのです。ところが當人の姉が、田舎は嫌だと云ふのですから、どうも仕方がありません。僕からは何とも挨拶のしやうがなく、いつまで經つても、姉に話す機會がないといふ一點張りで、佐々木君に答へる外はありません。僕は事實を吿げるのが辛いので、謎を讀んで貰はうとして居るのです。結婚の話を斷る場合には、さういふ風にするのが當り前ぢやありませんか。東京の人なら、その謎が分らない筈はありませんが、佐々木君にしたつてもいゝ加減に氣が付いてくれてもよささうなものです。嫌なら嫌でハツキリと答へてくれろと、佐々木君は云ひます。ですが、正直に打ち明けたなら、佐々木君のやうな人は、きつとこれきり僕の所へ來なくなるだらうと思ひます。僕はこんな事で友逹を一人なくなすのが嫌ですから、それでいろ〳〵案じて居るのです。

就いては、あなたから何とか佐々木君の誤解を解いて下さる譯には行きますまいか。僕の方の眞意を婉曲に傳へて下すつて、今後同君と僕等との間に、不愉快な感情が殘らないやうにして頂ければ非常に結構です。さうして、成らう事ならば、佐々木君と御一緖に僕の所へ遊びに來て下さるやうに願ひます。どうぞ何分御賴み申します。 [#ここで字下げ終わり] かう云ふ淺川の手紙が、或る日橘の許へ屆いたのは、もう花見の時候が過ぎて四月が暮れようとする頃であつた。同時に彼の机の上には、春の休暇に近縣地方へ旅立つて以來、未だに學校へ出て來ない佐々木からも、頻々と繪葉書だの書狀だのが寄せられて居た。 [#ここから一字下げ] 三月二十七日、夜來の豪雨を冐して東京出發。只今無事甲府着。此れより昇仙峽に遊び、鰍澤に出でて富士川の奔湍《ほんたん》を下るつもり。 ぬばたまの笹子の闇のをたけびに我が世の末を戰き思ふ 委細は後便にゆづる。 [#ここで字下げ終わり] と云ふのが第一便である。それから又四五日過ぎて、こんなのが來てゐる。 [#ここから一字下げ] たとへば我は地に傷ける鳩の、鮮血のしたゝる翼を搏《う》つて果しもなき天涯《てんがい》に翔《あまがけ》るが如し。 たゞ息の續く限り、力の許す限り、再び大地に落ちるまでは飛び行かんとこそ思へ。きのふは龍華寺に詣でゝ高山樗牛の墓を訪ひ、唯今三島に着、此れより箱根の舊道を踏破して小田原に出づる豫定に御座候。同地より汽船に投じて伊豆の下田に參り、更に大島に遊ばんかと存じ居り候。 [#ここで字下げ終わり] 其の明くる日には直ぐ追ひかけて、 [#ここから一字下げ] 箱根|本宿《もとじゆく》より蘆の湖畔に沿うて姥子の湯に參り、大涌谷、地獄谷を經て仙石原に到着、やう〳〵脚絆《きやはん》草鞋《わらぢ》を脫いで唯今硫黃の溫泉に漬かり申し候。明日《あす》は乙女峠を登りて富士の裾野を俯瞰《ふかん》せばやと存じ候。同宿に夫婦連れの旅藝人あり、妻なる女の二十前後なるが、いつの間にか我と懇意になり、いろ〳〵と愛想よく話しかけるも、旅情を慰むること夥し。夫は盲人の淨瑠璃語りなり。 [#ここで字下げ終わり] と、書いて來て居る。それから最後の郵便は伊豆の伊東から出したものらしく、原稿用紙へ二三枚ほど細々《こま〴〵》と認めてあつた。 [#ここから一字下げ] もはや四月の下旬に相成り、學校もそろ〳〵始まつたらうと思ひますが、私はまだ故郷へも東京へも歸る氣にはなれません。何だかあなた方の顏を見るのが極りが惡いやうな氣がします。折角旅に出て忘れかけた悲しい感情が、東京へ行けば再び想ひ出されはせぬかと、それが恐しさにかうして未だにうろついて居るのです。一月に近い旅行の間に、私はさまざまの事を覺えました。どうにでもなれと云ふやうな心地になつて、通りすがりの宿場々々の情《なさけ》を賣る女共に身を任せる事をさへ、厭ひませんでした。―――あゝ、何といふ淺ましい我になつたのでせう。―――いつそこのまゝ旅の空で野たれ死にしてしまつた方がいゝくらゐです。 [#ここで字下げ終わり] この手紙で見ると、もう橘の手を煩はすまでもなく、佐々木はすつかり絕望の淵に沈んでゐるらしかつた。さうして墮落と廢頽とが、橘ばかりでなく、佐々木の身の上にも附き纏つて來るやうであつた。 こんな事を考へながら、ぼんやりと寮の中庭を步いてゐると、 「どうぢや橘さん、今夜あたり、また此の間の所へ行かうかな。」 かう云つて、不意に山口が後《うしろ》から彼の肩を叩いた。 「今に己逹は皆《みんな》山口のやうになつてしまふんだ。失戀した者の運命は誰も彼も同じ事だ。」 ふと、さう思つて、橘は默念《もくねん》として相手の顏を視詰めて居た。

Transcriber's Notes