Part 2
七十日の休暇の間、長らく人影を絕つて居た一高のグラウンドの土には、ところ〴〵草が茫々と打ち烟り、分館の廊下に挾まれた十坪ばかりの中庭は廢園の樣に荒れて、百日紅の幹の蔭に、花の汚れた紫陽花《あぢさゐ》が、惱ましげな項《うなじ》を垂れて居た。新寮の後の叢の中や、本館の煉瓦の隙間などには、晝でも蟋蟀がころ〳〵と鳴いて、遠い田舎から出て來た學生逹の胸に、「靑草の生ひ茂りたる愁しみ。」を覺えさせた。
熱い熱い夏の光りと鬪つて來た經驗は、人々の丈夫さうな赤銅色の面に溢れて見えた。主任の敎授が出席簿を擴げて名前を呼ぶ時、順々に「はい」「はい」と答へて行く學生の元氣の好い聲は、敎場の四壁に力强く響いた。久し振で一堂に再會した同窓の連中は、互になつかしい眼を見張つて、返辭をした聲の方を振り向いた。別けても、去年の十一月以來缺席がちであつた宗一の、生れ復つたやうな雄々しい姿は、誰も彼も珍らしがつた。 「どうしたい君、ひどく太つたぢやないか。何處かへ旅行でもしたのかい。」 「うん、沼津へ二た月ばかり行つて居た。」 「それぢや、もう體は良くなつたらう。」 こんな應答を宗一は幾度もした。 いろ〳〵の學科の受持の敎師が、入代り立ち代り敎室へ現はれて、新學期に用ふる敎科書の名が五つ六つ黑板へ掲示された。其の中にはマイヤーの萬國史だの、ゲーテのヱルテルだの、古今集だのが書いてあつた。最後に井上と云ふ英語の敎師が入つて來て、 「私の方のは、ゴールドスミスのかう云ふ本を買つて來て下さい。」 かう云つて、黑板へすら〳〵と白墨を走らせながら、"She stoops to conquer" と、直立體の文字で記した。 「タイトルは "She stoops to conquer" です。ゴールドスミスの有名な喜劇で、標題を直譯すると、『彼の女は身を屈して成功を遂ぐ』とでも云ひますかな。もう少し芝居の下題らしく譯せるでせうが、何かうまい言葉はありませんかな。」 敎授は早口にぺらぺらと喋舌つて、 「私の友人に、『滑稽《こつけい》戀《こひ》の尺蠖蟲《しやくとりむし》』と譯した人がありますが、此れなんぞは惡くないです。『尺蠖《しやくとり》の屈《くつ》するは云々』と云ふ諺から、蟲の尺蠖と女の酌取《しやくと》りとを掛けたんですな。全體喜劇の筋が、令嬢が酌婦に化けて、思ふ男と添ひ遂げる話なんですから、『戀の尺蠖蟲』は非常に面白いです。」 「先生、to stoop は『屈む』と云ふ意味なんですか。」 と、突然隅の方から質問を發した者があつた。 「えゝ、"She stoops" で『彼の女は屈む』 "to conquer" ―――『征服する。』卽ち『征服す可く、彼の女はかゞむ。』です。」 「そんなら、標題を『姬かがみ[#「かがみ」に傍点]』としたら好いでせう。」 かういつたので、敎授も生徒もどツ[#「どツ」に傍点]と笑つた。さうして、みんな愉快さうに立ち上つて、ぞろ〳〵と外の廊下へ出た。
久しく書籍に親しまなかつた宗一は、學校のかへりに神田の中西屋から丸善へ廻つて、早速語學の敎科書だけを取り揃へ、ついでにホーソンのツワイス、トールド、テールスや、獨逸譯と英譯のダンテの神曲などを買ひ求めた。さうして、途々電車の中や往來を步きながら、丁寧に包んでくれた覆ひの紙を解いて、レクラム本のアンカツトの頁を指で切り開いて、物珍らしさうに一枚一枚眼を通した。少しの手垢も着かない、純白な紙の面には、獨逸の活字がこまかく鮮かに印刷されて、遠い洋《うみ》の向うの、燦爛たる文華の國を想はせるやうな、甘い匂が爽かに鼻をそゝつた。名ばかり聞いて居て、まだ手に觸れた事のなかつた一卷のヱルテルを、これから日に二三節づゝ習ひ覺えて、遲くも來年の春頃までに讀破することが出來ると思ふと、新學期の希望も快樂も幸福も、其のうちに潜んで居るやうな心地がした。
濱町の家へ歸つて、彼は暫く二階の書齋の本箱にいろいろの本を出し入れした後、レクラムはレクラム、キヤツセルはキヤツセルと云ふ工合に並べながら、遠くの方から眺めて見たり、また抽き拔いて拾ひ讀みをしたり、そんな風に午後の半日を潰して了つた。早く獨逸のクラシツクがすら〳〵と理解されるやうになりたい。少くとも今の自分の英語の程度ぐらゐに、喋舌つたり書いたりするやうになりたい。再來年《さらいねん》の夏、法科大學の書類を、一とわたり渉獵《せふれふ》してしまひたい。――かう云ふ旺盛な知識慾の策勵を甘受しつゝ、自分の光輝ある將來に就いて、彼はさま〴〵の空想を描いた。 しかし、其の光輝ある將來も、美代子と云ふ者が居なかつたら、何等の價値も興味もないのであつた。美代子が始終宗一を忘れずに居てくれると云ふ事が、彼の精力の源泉でもあり、努力の基礎でもあつた。彼が倦まず撓まず勉强を續けて行くには、どうしても時々戀人のやさしい言葉で、鞭撻の惠みを授かる必要があつた。彼は其の爲めに、一層通學を止めて向が岡の寄宿寮に當分居を定める方が便利だと思つた。刺戟のない、物淋しい兩親の膝下を放れて、野にうたふ小鳥のやうに開け擴げた、恣《ほしいまゝ》な友逹同士の中に交はり、思ふがまゝに美代子と文通し、圖書館の藏書に親しんだ方が好いと考へた。父母には濟まない譯であるが、自分の生活に意義を與へるには、已むを得ない事であつた。 「僕は今度から寄宿舎へ入らうかと思ひます。其の方が時間も經濟だし、勉强も自由に出來ますから。」 と、其の晚宗一は父に賴んだ。 「そんなら、さうするがいゝ。」 と、宗兵衞は造作もなく承知して、 「下町に居るより運動も出來て、體が丈夫になるだらうし、今頃からちツと人中へ出て置くのも宜からう。」 と云つた。 「それにしてもお前、明日から直ぐと行かなくてもいいだらう。着物は二三枚洗濯してあるけれど、夜具があれぢやあんまり汚いからね。」 母はかう云つて、其の晚から、急に蒲團の縫直しにかかつた。 それから三日ばかりたつた宵に、宗一は荷物を俥に積んで、いよ〳〵濱町の家から本郷へ引き移る事になつた。其の夜丁度父が不在で、お品は女中と一緖に格子先まで送つて出ながら、 「まあ好い月だこと。」 と、二足三足からりころり[#「からりころり」に傍点]と冴えた日和下駄の音をさせて、往來の中央《まんなか》へ進んで空を仰いだ。晝間のやうな月光を浴びた新道の地面には、お品の影がくつきり[#「くつきり」に傍点]と印せられて、宗一の久留米絣の單衣の上に、秋らしい風がひや〳〵と沁み通つた。彼は兩股の間に行李を挾んで、默つて大空の月を見上げたが、今更兩親に氣の毒な、可哀さうなと云ふ感慨の胸に迫るのを覺えた。 「では行つて參ります。」 帽子を取つて輕く頭を下げると、俥屋は梶棒を上げた。 「あ、ちよいとお待ち。―――若い衆さん、もう一つ包が何處かへ入らないかね。」 と、母は女中の手から、メリンスの風呂敷に包んだ大きな菓子の袋を受け取つて、 「此れをお友逹にお土產に持つて行くといゝ。書生さん逹だから、とても嵩がなくつちや足りないだらうと思つて、烏賊煎餅をどつさり[#「どつさり」に傍点]買はしたんだよ。」 かう云つて、宗一の膝の上に載せてやつた。 「それぢやお前、着物が汚れたら放つて置かないで、時々持つておいで。内で洗濯して上げるから。」 「えゝ、では行つて參ります。」 と、宗一はもう一度頭を下げた。俥は、夢のやうに物靜かな下町の夜路を拾つて久松橋を渡り、掘留から伊勢町河岸の藏造りの家並の前を、ぱたぱたと走つて行つた。
大學前の大通りへ來た頃には、空はますます冴えて、澄んだ空氣が水のやうに往來へ流れて居た。道路の左側には、人形町と同じに露店が並んで、其れを冷かして廻る人々の姿は、フツト、ライトに照される役者の如く、あか〳〵と浮き出て見えた。その中には夜目にも白い二本筋の制帽を冠り、小倉の袴を穿いて、參々伍々連れ立つて步きつゝ、古本を漁つたり、おでん屋の暖簾を潜つたりして居る一高の學生もあつた。自分も今夜から、彼等のやうに勝手な行動を取つて、若い人々に許されたいろ〳〵の享樂を恣にする事が出來ると思へば、彼は何物にも換へ難い、貴い境遇に置かれたやうな心地がした。さうして、孤獨な、物淋しい地位に棄て置かれた兩親の狀態を、成る可く想ひ起さないやうに努めた。 やがて俥は賑かな追分の通りから、一高の正門の内へ入つて行つた。彼は每日通ふ學校の夜景を眼にするのは今が始めてゞあつた。月光の漲る庭にこんもりと草木が生え茂つて、雨の降りそゝぐやうに絕え間なく聞える一面の蟲の音、黑く森閑と眠つて居る本館の建物、うす暗い闇に底光のする分館の硝子窓。―――凡てが宗一には珍らしかつた。彼は蒸すやうな靑葉の匂に鼻を衝かれながら、遠くに響く寮歌の聲に耳を傾けた。
晝間の騷ぎに引換て、死んだやうにひツそり[#「ひツそり」に傍点]と人氣の絕えた校舎の壁に沿ひながら、若樹の櫻を植込んである構内の道を、半町足らずも奧へ進むと、忽ち其處に廣い〳〵向が岡の高臺が展けた。遙に上の谷中の森を、朦朧とした秋霧の這ふ中に瞰下して、東寮、西寮、朶寮、北寮、南寮―――の五つの棟が、ゴシツクの寺院のやうに、甍の角を尖らして聳えて居る。この頃の夜長を、全寮の學生が息を凝らして勉强して居るのであらう。一階、二階、三階のところ〴〵になつかしい燈火の明りが洩れて瞬いて居る。宗一は何となく「燈火《とうくわ》可親《したしむべし》」と云ふ言葉に、新しい憧れの心を寄せた。
自分の部屋と定められた朶寮一番の石階のほとりに俥を捨てゝ、そつと[#「そつと」に傍点]自修室の戶を開けると、二三人の同室生が專念に讀書して居る最中であつた。 「やあ來たな。」 かう云つて、机の上の本箱の蔭から頭を擡げたのは、クラスの中でも、頭惱が好くて人が好くて、いつ見ても快活な深切な野村と云ふ男であつた。 「机は彼處に二つ空いとるぞ。孰方《どつち》でも君の好い方にし給へ。」 と、廊下に近いデスクの方を、野村は頤でしやくツ[#「しやくツ」に傍点]て見せた。外の二人―――淸水と中島は、ちよいと近眼の顏を上げて、鐵緣の眼鏡を電燈にぴかりとさせながら、默つてお辭儀したかと思ふと、再びおもむろに本を讀み續けた。 「誰か濟まないが、荷物を寢室まで手傳つてくれないか。」 「おゝ、さうか。」 と、野村は氣輕に立ち上つて、宗一と一緖に行李や蒲團を二階の寢室へ運びながら、 「僕は君の來るのを待つとつたんだぞ。―――君はたしか江戶つ兒だらう。」 と、突然つかぬ事を訊いた。 「江戶つ兒には違ひないが、あんまり江戶つ兒らしい人間ぢやないよ。―――何故。」 「僕は此れから君に就いて、大いに江戶趣味を硏究するんぢや。リフアインされた都會の生活と云ふものを、覺えたいんぢや。ほんとに賴むぞ。」 かう云つて野村はいそ〳〵と自修室へ下りて行つた。
二階の寢室と云ふのは、琉球疊を敷いた十疊あまりの日本間で、每晚就眠時間の午後十時から十一時の間でなければ、電燈をともさなかつた。暗い室内には男臭い黴臭い匂が籠つて、月が硝子越しに靑白く射し込んで居た。旣に蒲團へもぐつてぐつすり眠つた者もあれば、片隅に西洋蠟燭を立てゝ、獨でこつ〳〵勉强して居る者もあつた。
宗一は、一と通り自分の机へ書物を飾り附けた後、ヱルテルの下習ひに取りかゝつたが、場所馴れぬせゐか、どうも落ち着いて居られなかつた。暫くすると、彼はロセツチの詩集を懷ろにして、ぶらりと後庭の廣つ場へ步いて行つた。
何と云ふ美しい晚であらう。………細い草葉の數が、一枚一枚讀めるやうに鮮かで、しツとりとした夜露の玉が麻裏草履にこぼれかゝり、二三步の間に宗一の素足はつや〳〵と濡れて光つて來た。俯向いて月を踏んで居る彼の胸のあたりには、自分の形が黑い影を落して、明瞭に染出された。
練兵場のやうに遠く續いた坦々たるグラウンドは、さながら大きな湖水の如く透徹つた夜色の底へ沈んで、遮る物もない遙な地上四五尺のところに、一抹の靄が白く淡く棚引いて居る。更け行く空は、冷き光りが皎々と冴え返つて、宗一の身の周圍《まはり》には一點の人影さへ見當らない。此の淸淨な莊嚴な自然に包まれて彳んで居る時、彼は人形町の灯びも廣小路の絹行燈も、懷しいとは思はなかつた。
恍惚とした醉ひ心地を胸に湛へながら、彼は運動場の東北隅にある「小便の森」―――寮生が常に放尿するので、かう云ふ稱號を附けられて居た。―――の木蔭に凭れた。寂寞たる四邊の沈默の裏に、何者かゞ自分の耳元へ來つて、ロマンチツクな、センチメンタルな哀韻の囁きを傳へるやうな氣持がした。 「あゝ、かう云ふ晚に美代子はどうして居るだらう。」 自分に朗かな聲があるならば、豐かな連想があるならば、咽喉を搾つて、息の續く限り憧憬の歌を唄つて見ようものを。成らう事なら、今夜の中に小田原迄跳んで行つて、月輪の銀と碎ける波打際の砂濱に、唯二人膝を擦り寄せ、熱い淚をさめ〴〵と瞳に潤ませて、泣き明して見ようものを………。 ロセツチの詩集を膝の上に開くと、二三枚の頁の緣をそよがせながら、何處からともなく秋風が吹き渡つて居る。現《うつゝ》とも幻《まぼろし》ともつかない、謎のやうな光りがしらじらと滲み入る紙幅の面に "Sudden Light" と、はツきり[#「はツきり」に傍点]浮き出て見える太い活字は、大方詩の題であらう、字體の小さい本文の方は、拾ひ讀みをするさへ覺束なげに、月あかりの中へ溶け込んで、うすく消えて了つて居る。 "Sudden Light" ―――彼は其の詩の本文を、嘗て讀んだ事があるやうに思つた。何でも其れは戀の詩であつた。此の世に生を享ける前から、宿命の力に結び附けられた男と女の、因緣の深さを歌つた戀の詩であつた。雲の切れ目からさツ[#「さツ」に傍点]と靑空が閃いて、忽ち又失せるやうに、其の男の眼の前に、前の世の有りし姿がぱツと現はれる。過去の世界に於いても、今と變らず愛し合ひ契り合つて居る二人の樣子が幻燈の如くありありと男の心に映る―――そんな意味を歌つた戀の詩であつた。月光の羅衣《うすぎぬ》に蔽はれて、おぼろに霞んで居る文章の字句は分らないでも、彼は其の詩のやさしい思想と、暖かい調子とを思ひ起す事が出來た。自分もロセツチのやうな感情を、美代子に對して抱いて居たい。過去未來の世界はもとより、國を南北に隔つとも二人の身體には同じ血潮が脈を打つて流れて居る。小田原と東京と、二十里の西と東に月を仰いで、互に魂を通はせて居る。……… 「橘君ぢやありませんか。」 かう云つて、不意に後から呼びかけた者がある。中學時代から、宗一より一級下の後輩、―――文科志望の佐々木と云ふ男で、クリ〳〵と五分刈にした、人並より大きく圓い頭の鉢を聳やかしながら、二三間先の原のまん中に突立つた儘、 「どうも君に似てゐると思ひましたが、矢つぱりさうでしたね。いつから寮に入つたんです。」 と、田舎者らしい、純朴な律儀な口調で訊いた。 「今夜。」 「あゝさうですか。………花やかな下町の生活に比べると、寮の生活は又色彩が違つて面白いでせう。寮でも今夜のやうなしんみり[#「しんみり」に傍点]した晚は、めつたにありませんよ。あゝ好い月ぢやありませんか。」 かう云つた佐々木の聲は、柄にもなく女のやうに細く媚《なま》めいて、如何にも興奮した神經を抑へ難いと云ふ風であつた。彼は無骨な容貌に似合はぬ美音家で、平生から詩を吟ずるのを得意として居た。 「日本橋なんぞに居ると、あゝ云ふ蟲の音は聞かれないね。」 「さうでせう。………けれどもかう云ふ晚に、下町の新道なんかを通つて、新内の流しを聞くと何ともかとも云ひやうのない、うら悲しい氣持がしますね。僕は下町趣味のうちで、新内流しが一番好きです。德富蘆花が『自然と人生』の中に書いて居ますが、ほんとにあれは "Still, sad music of humanity" ですね。」 感激の深い言葉に抑揚《よくやう》頓挫《とんざ》と付けながら熱心な淀みのない辯舌で、佐々木は說敎でもするやうに滾々と語つた。 「君はヲーズヲースが大好きだツたが、此の頃でも相變らずかい。新内流しと、ヲーズヲースと孰方《どツち》がいい。」 「僕は孰方も好きですよ。僕のやうな田舎者は、ヲーズヲースの自然に對する瞑想や詠嘆の詩に、いくら啓發されてるか知れませんもの。そりやあね、僕だつて、浦里時次郞のやうな悲劇に憧れることもありますけれども、中學時分から感化を受けたヲーズヲースの恩を忘れることは出來ませんよ。戀と自然とは、孰方が孰方とも云へないだらうと思ふんです。」 彼は自分が眞面目に考へて居るならば、どんな場合でも、誰の前でも遠慮會釋なく滔々と縷述《るじゆつ》するのが常で、臆病な小心な氣質の一面に、「野人《やじん》禮《れい》に嫻《なら》はざる」、正直な田舎者の特長を備へて居た。 「それはさうと、君、いつかのHの話はどうなつたい。」 默つて相手の物語を聞いて居た宗一は、ふと何かを想ひ出したやうに、項を上げてかう尋ねた。 「あれですか、あれは大分話が進んで來ました。親父も承知してくれましたから、次第に依つたら結婚の約束をするかも知れません。」 「それは好い鹽梅だね。」 と、宗一は心から友人の幸福を祈るやうな眼つきをして、佐々木を見上げた。色の黑い、頑丈な佐々木の顏も、今夜ばかりは美しいつや[#「つや」に傍点]を帶びて、輪廓までが優しい、きやしや[#「きやしや」に傍点]な曲線に包まれて見えた。 「それに僕のやうな男は、結婚した方が却つて落ち着いて勉强も出來ると思ふんですよ。實は先逹《せんだつて》春子の兄の方から、ちよいとそんな話があつたもんですから、親父が内々先方の國許の方へ、家の樣子を捜りに出かけたんです。今のところ、はツきり明言は出來ませんけれど、まあね、多分結婚は一二年の後として、約束だけでも取り交はす事になるでせう。」 「さうし給へ。君と春子さんに限らず、互に戀し合つて居ながら、結婚もせずにグヅ〳〵して居る位、不爲めの事はないよ。親の目を忍んで怪《け》しからぬとか、學生の癖に不都合だとか、無意味な理窟を云つて、無暗に中を裂かうとするのは、結局男女を墮落させる元なんだ。學生時代に戀に陷つたら、間違ひの起らない間に、どん〳〵結婚の手續きを踏んで、安心して了はなけりや駄目だ。」 珍らしく宗一は元氣づいて、こんな意見を吐いた。さうして、ロセツチを懷に收めて立ち上つた。 「僕もさう思つたから、一層《いつそ》の事正々堂々と親父に打明けて了つたんです………。」 佐々木は一緖に並んで、東寮の方へ步を移し乍ら、相手の議論など耳へ入らないやうに、猶も自分の事許り話し續けた。 「親父はなか〳〵如才ない方で、僕の性分をすつかり呑み込んで居るものですから、成るべく逆らはない方針を取る積りなんでせう。それに妹もね、春子さんなら學校友逹で、氣心の解つた人だから、大變いゝつて喜んで居ます。」 「そりや本當に結構だ。いづれお披露《ひろ》めの時にはウンと御馳走して貰はう。」 「えゝ、是非ね。屹度儀式は田舎の家でやる事になるでせうが、僕の國の方では一人でも東京のお客の多いのを見えにする風習があつてね、父にしろ母にしろ、君逹が大勢來て下されば、嬉しがるに極まつて居ますから、ほんとにお呼びしますよ。………」 「それぢや失敬。」 宗一は少しうるさくなつて、 「僕の部屋は彼處だから、ちツと遊びに來給へ。」 と、朶寮の廊下へ上つて行つた。 もう十時過ぎであつた。自修室へ入ると、みんな賑かに喋舌りながら、烏賊煎餅をばりばり[#「ばりばり」に傍点]やつて居た。 「おい橘、ちよいと君の留守に失敬して風呂敷を展げたぜ。大方お土產だらうと思つて、無斷で頂戴してるところだ。」 かう云つたのは、杉浦と云ふ、色の白い才子肌の男であつた。 「僕は今しがた戶外《おもて》から歸つて來て、野村に君の入寮した話を聞いたんだ。何しろ野村は君に依つて盛んに江戶趣味を鼓吹《こすゐ》されたいんださうだから、何卒一つシツカリ敎へてやつてくれ給へ。―――先生此の頃は豆絞りの手拭ひをぶら下げて朝湯に出かけたり、每朝笹の雪まで豆腐を喰ひに行つたり、大《おほい》に半可通《はんかつう》を振り廻して手に負へないで困つてるんだから。」 「あはゝゝゝゝ。」と、野村は子供のやうに顏を赤くして面喰ひながら、 「だツて橘君、笹の雪の豆腐は全くうまいだらう。―――さうケチを附けるには及ばんぞ杉浦。」 「然らば豆腐の方は、うまいから喰ひに行くとして、熱い湯へ痩我慢をして漬つてるのは、どうしてもスコ變だ。密《ひそか》に秀才野村君の爲めに惜むね。」 「杉浦だつて、あんまり人の惡口は云はれんよ。………君は今夜も昇之助へ行つたんだらう。」 容貌|魁偉《くわいゐ》な運動家の中島が、嘴を入れる。 「ふん、僕の昇之助は一向可笑しくないさ。義太夫と云ふ物は健全なる娯樂だから、未だ文弱の名を冠する譯には行かないさ。」 「君は口が逹者だなあ。」中島は高い鼻を蠢かして、無邪氣に感嘆した。 「所で橘君に紹介するがね。」と、杉浦はいよ〳〵圖に乘つて辯舌爽かに、 「此の部屋の住人で、一番えらくツて、且正直な人間は中島さんだよ。見給へ、あの面魂《つらだましひ》からして實に非凡だらう。僕は中島の橫顏《プロフアイル》を見ると、いつでも中學の政界歷史の敎科書にあつたヂユリアス、シーザーの肖像を想ひ出すよ。色こそ黑けれ、鼻高く、唇締まり、顴骨秀でゝ英邁の氣、自ら眉宇の間に溢れてるだらう。どうしても豪傑の相があるよ。………」 「あはゝゝゝゝ、いやにわしの事を褒めるぢやないか。」 「………それ、それ、あの笑つたところなんか洒々《しや〳〵》落々《らく〳〵》たる英雄の襟懷《きんくわい》が窺はれるだらう。かんら、かんらと打ち笑ひと云ふのは、蓋《けだ》し此處を云ふのだね。」 「もう好い加減にせんか。」 「まあ、默つて聞け。知勇兼備の良將と云ふのは中島の事だよ。野球の選手で、柔道が初段で、而も頭腦の明敏なること、秀才野村君と伯仲の間にある。それから僕の敬服するのは、胸中常に光風《くわうふう》霽月《せいげつ》の如く、一點の邪氣を留めない事だね。あの通り、僕に賞讚の辭を浴びせかけられて、周章狼狽、爲す所を知らざるのを見ても、いかに無邪氣だかゞ解るだらう。中島にして始めて、小兒の如き英雄たり得るんだね。」 「わしも君の才氣煥發には、感心しとるよ。」 と、中島は手持ち無沙汰の照れ隱しを云つた。 「僕の才氣煥發は、君を待たずして明かだよ。―――それから、橘君、此の淸水だがね、此の男は朶寮一番唯一のクリスチヤンにして、ピユーリタンであります。」と、杉浦は肩を聳やかして、痩ぎすの、色の蒼褪めた、淸水の方を睨一睨《げいいちげい》した。 「出鱈目ばかり云ふ男だなあ。」 「出鱈目ぢやないさ。それとも君はクリスチヤンぢやないのかい。滿座の中で、僕はクリスチヤンでありますと宣言する勇氣のないやうな信仰なら、止しにするさ。」 「僕はいつでも立派に、クリスチヤンだと云つてるぢやないか。」 神經質の淸水は、少し氣色ばんで憤然とした。 「だから僕の云ふ事は出鱈目ぢやないよ。當世のクリスチヤンは、因循な、女性的の人間が多いのに反して淸水はテニスが得意で、此の上もなく活潑なのは偉とするに足ります。もう一つ得意なのは英語であります。ふだん日本語を使ふ時でも度々 alas! とか oh! とか、bravo! とか英語の間投詞が出て困るくらゐです。」 みんな手と叩いて、哄笑した。 「從つて外國人にも交際が廣く、西洋のエチケツトに通曉《つうげう》すること、淸水君の如きはめつたにありません。いつもきちんと折目の正しい制服を着、汚れ目のないカラーを附けた優雅なスタイルは、常に吾々の欽仰《きんぎやう》するところであります。お洒落と基督敎とは必ずしも矛盾するものではありません。カーライルのやうな無作法な、禮儀を辨へざる人間は、淸水君は大嫌ひださうです。江戶趣味の鼓吹は野村秀才之に任じ、ハイカラの鼓吹は、專ら淸水クリスチヤンが之に任じます。」 淸水は堅く閉した唇の周圍に、にや〳〵と煮え切らない笑ひを洩らした。 「以上の二人は、我々のうちで最も特徴のある人間であります。勿論、其の他の諸君と雖も決して碌々《ろく〳〵》たる連中ではありません。みんな何處へ出しても恥かしからぬ、立派な息子さん逹ばかりであります。―――うむ、さう、さう、それから橘君、君はさツき寢室へ行つたらう。」 「うむ。」 「大山が蒲團を被つて寢て居やしなかつたか。」 「大山だか誰だか、一人寢て居たよ。」 「あの男は全くX《エツキス》だね。僕の烱眼《けいがん》を以てしても、大山ばかりは馬鹿だかえらいんだか、判らんね。恐らく自分でも好く判らないんだらうと思ふ。ズバ拔けた大人物のやうな、さうかと思ふと、感じの鈍い愚物のやうな、とんと要領を得ない男だ。唯人が勉强してゐる間は、寢たり遊んだりして居て、草木も眠る丑滿《うしみつ》時分《じぶん》にこツそりと勉强する事だけは確なんだ。」 「けれども、彼の男は不思議に成績が好いよ。」 かう云つたのは中島である。 「さうだよ。だから僕は結局えらいんぢやないかと思ふ。大石良雄だの、西郷隆盛なんて云ふのは、あんな男が氣紛れにえらくなつたんだぜ。恨むらくは、僕に伊藤仁齋の明なきことをだ。」 「伊藤仁齋は君のやうな饒舌家《ぜうぜつか》ぢやなかつたらう。」 と、淸水が云つた。 「生意氣な事を云ふなよ。クリスチヤンに伊藤仁齋は解らないから。」 杉浦は嶮しい眼つきをして淸水を睨んだ。淸水は又にやにやと薄笑ひをして、それきり默つて了つた。 「橘君、朶寮一番のドライ、ナーゼンと云ふものを知つてるかい。」 杉浦の一と息ついた隙を狙つて、野村が口を挾んだ。 「中島のローマン、ノーズと、大山の團子ツ鼻と、僕の市村羽左衞門式の鼻を稱して、ドライ、ナーゼンと云ふんだ。」 と、杉浦は直に引き取つて、說明した。 いつの間にか烏賊煎餅をすつかり喰ひ盡して、冷めたくなつた番茶をがぶ〳〵呑みながら、みんな十一時近くまで喋り續けて居た。さうして、二階へ上つて行つたのは、電燈の消えた後であつた。 「おい君、野村の寢間着を見てやつてくれ給へ。―――此れが江戶趣味なんださうだから。」 寢る時、杉浦は宗一にかう云ひながら、茶格子の單衣に絲織のどてら[#「どてら」に傍点]を襲ねてゐる野村の立姿を、蠟燭で照して見せた。 「橘君、君の蒲團は、そりや秩父銘仙かい。」 野村は寧ろ得意で、蠟燭のあかりを受けながら訊いた。 「何だか僕はよく知らない。」 と宗一は夜具の中へもぐつた。
暗闇に馴れないせゐ[#「せゐ」に傍点]か、境遇の變つた爲めか、其の晚宗一は容易に眠られないで、彼方此方寢返りを打つた。凡そ一時間ばかり過ぎた頃、 「おい、君はまだ寢られないのかい。」 と、闇中の何處かで杉浦の聲がした。 「うん、君もまだかい。」 「僕は子供の時から、寢つきが惡くツて困る。」 かう云つた杉浦の調子は、いつになく沈鬱であつた。 それから暫くとろとろ[#「とろとろ」に傍点]として、再び宗一は眼を覺ました。見ると大山は枕の上へ頰杖を突いて、蠟燭の火影を机の抽き出しで包み、眞言《しんごん》の行者《ぎやうじや》のやうに輝く瞳を一心不亂に書物へ曝して居た。
四