幽霊書店

第八章 オーブリーは映画に行き、もっとドイツ語ができればと思う

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本屋からいくらも離れていないところに偉大な都市ミルウォーキーの名をい ただいた小さなカフェテリアがあった。カウンターで食べ物を買い、平たい肘 掛のついた椅子に座って食べる気持ちよい食堂のひとつである。オーブリーは スープ、コーヒー、ビーフ・シチュー、ブラン・マフィンを受け取り、窓際の あいた席に持って行った。彼は注意を半分通りにむけながら食事をした。通り の角にあたるその場所からはミフリンの店の前の舗道が見わたせた。シチュー を半分ほどたいらげたころ、ロジャーが舗道に出てきて箱から本を片づけはじ めた。

夕ご飯のあとは「味はマイルド、気分は爽快」なたばこに火をつけ、椅子に 座りながら、そばの放熱器の暖かさを心地よく感じていた。大きな黒猫が隣の 椅子に寝そべっていた。ときどき客がやってきて注文をするたびに、サービス カウンターの上で丈夫な瀬戸物が陽気にカチャカチャと音を立てた。オーブ リーは血管を通してくつろいだ気分が身体に広がりだすのを感じた。ギッシン グ通りは煌々と輝き、落ち着いたなかにも土曜日の夕方の活気がみなぎってい た。ブルックリンの古本屋にメロドラマじみた事件が起きようとしているなど、 想像することじたいまったくばかげているような気がした。尻ポケットの銃は やたらにごつごつして感触が悪い。ささやかながらあたたかい夕食を食べたあ とは、なんと事態が一変して見えることだろう! どんなに意志の固い理想主 義者も冷酷な暗殺者も、詩を書いたり非道な計画を練るなら、夕ご飯の前にす るがいい。食事という麻酔のあと、精神は安らぎのなかに沈み込み、ひたすら 安逸を求めるようになる。ミルトンですら夕ご飯のすぐあとに「楽園喪失」の 執筆に取りかかるという非人間的な精神力は持っていなかっただろう。オーブ リーは自分の憂慮が思い過ごしに過ぎないのではないかと考えはじめた。彼は 本屋に立ち寄って、ティタニアを映画に誘うことができたらどんなにすてきだ ろうと思った。

人間の思いには不思議な力があるものだ!

心のなかにそんな考えがひらめ いたとたん、ティタニアとミセス・ミフリンが本屋からあらわれ、食堂の前を さっそうと通り過ぎたのである。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら笑って いた。ティタニアの顔は若さと生命力に輝き、彼が今までに見たどんな十ポイ ント・カスロン書体の組版より「視線を釘づけにする」ように思われた。彼は こよなく愛する広告技術の観点から彼女の顔のレイアウトに感嘆した。「空白 のとり方が絶妙だ」と彼は思った。「あれでこそ中心的主題である目を引き立 たせる。彼女の顔の造作は現代的な、ボールド体のべた組じゃない」彼は活版 印刷に喩えながら考えた。「ほんのちょっとインテルを詰めた、フレンチ・ オールド・スタイルのイタリック体に近い。22ポイントのボディに鋳込まれ ているんだろうな。チャップマン老人はなかなか腕のいい活字鋳造工だ。それ は認めよう」 彼はこの奇抜な比喩ににっこりとし、帽子と外套をつかむとカフェテリアを 飛び出した。 ミセス・ミフリンとティタニアはすぐ先のところで立ち止り、ショーウィン ドウのしゃれた小型ボンネットを見ていた。オーブリーは通りをわたってつぎ の角まで走り、ふたたび通りをわたると東側の歩道をもどりはじめた。地下鉄 から出てきたふりをして彼らに会おうとしたのである。彼はベルギーのアル ベール王がブリュッセルにふたたび舞いもどってきたときよりも興奮していた (註 アルベール王は1914年にドイツに占領された祖国を四年後奪還し た)。外出してはしゃいでいる、はなやいだ様子の二人がおしゃべりをしなが ら彼のほうに近づいてきた。ヘレンは彼女といっしょにいると、ずっと若く見 えた。「やなぎ色のタフタの裏地に、刺繍のついたスリッポンね」彼女はそう いっていた。 オーブリーは巧みに驚いたふりをしながら彼らのほうに進んでいった。 「あら、どうしましょう!」ミセス・ミフリンがいった。「ミスタ・ギル バートがいらっしゃるわ。ロジャーに会いにいらしたの?」彼女はそうつけ加 え、若者をいじめて楽しんだ。 ティタニアは真心のこもった手を差し伸べた。オーブリーは校正係の必死の まなざしでオールド・スタイルのイタリック体をのぞき込んだが、こんなに早 く彼に再会したことを苦々しく思っている容子はなかった。 「そういうわけじゃないです」彼は苦しい言い訳をした。「みなさんに会い に来たんですよ。その――どうしていらっしゃるかと思って」 ミセス・ミフリンは彼がかわいそうになった。「わたしたちはミスタ・ミフ リンに店番をまかせて出てきたの。彼はなじみのお客さんとおしゃべりに忙し いところよ。いっしょに映画に行くのはどう?」 「ええ、そうなさって」とティタニアがいった。「シドニー・ドルー夫妻の 作品よ。あの二人、わたし大好きなの!」 オーブリーが一も二もなく同意したのはいうまでもない。彼は一行のうちで いちばん街路側を歩かなければならなかったが、そこはティタニアの横であり、 つまり喜びと義務が一致したのだった。 「あのう、本屋の仕事はどうですか?」と彼は訊いた。 「すごく楽しい!」と彼女は叫んだ。「でも本の名前をぜんぶ覚えるには、 まだまだうんと時間がかかるわ。お客さんたらむずかしい質問をするんですも の!

今日の午後、女の人が来て、『無関心な話《ブラーゼイ・テイル》』は ないかって言うの。それが『しるべのある山道《ブレイズド・トレイル》』の ことだなんてわかるわけがないわ」 「そのうち慣れるわよ」とミセス・ミフリンがいった。「みんな、ちょっと 待って。薬局に寄るから」 彼らはワイントラウブの薬局に入った。ミス・チャップマンがそばにいるの で彼はすっかり有頂天だったが、薬屋がなんとなく奇妙な目つきで彼を見つめ ることには気がついていた。もともと観察力の鋭いたちなので、ミセス・ミフ リンが買おうとした明礬の粉末の箱のラベルにワイントラウブが薄いすみれ色 のインクで字を書いたのも見逃さなかった。

劇場前のガラス張りの入場券売り場でオーブリーは自分に券を買わせてくれ といって譲らなかった。 「夕ご飯のあとすぐ出てきたの」ティタニアはなかに入りながらいった。 「混雑する前に入っちゃおうと思って」 しかしブルックリンの映画ファンを出し抜くのはそう簡単なことではない。

彼らは怖い顔をした若者が入場待ちの群衆をベルベットのロープで堰き止めて いるあいだ、すし詰め状態のロビーに数分間立っていなければならなかった。 もみくちゃにされないようティタニアを守りながら、オーブリーの保護本能は 喜びにふるえた。彼は彼女に悟られないよう、背中の後ろに鉄棒のような腕を 伸ばし、押し寄せる熱心な群衆の圧力を吸収していたのである。偉大なターザ ン映画のオープニングが銀幕にひらめくと、声にならないため息が熱心なファ ンのあいだを駆け抜けた。出だしを見損なったことに気がついたからだ。三人 はやっと仕切りを越えて、最前列に近い端のところに空席を三つ見つけた。そ の角度からだと次々と移り変わる画面が奇妙に歪んで見えるのだが、オーブ リーは気にもとめなかった。 「わたし、ちょうどいいときに来たと思っているの」とティタニアがささや いた。「さっきミスタ・ミフリンにフィラデルフィアから電話があって、売却 予定の蔵書があるから、見積もりを出しに月曜日に来てほしいんですって。そ れで留守のあいだ、わたしがお店の番をするのよ」 「そうなんですか。じつは、わたしも仕事の都合で月曜日はブルックリンに いなければならないんです。ミセス・ミフリンのお許しがあれば、お店に行っ て、あなたから本を買いたいのですが」 「お客さんはいつでも歓迎よ」ミセス・ミフリンがいった。 「あのクロムウェルの本が気に入ってしまいましてね。ミスタ・ミフリンは いくらなら売ってくれるでしょう?」 「あの本は大切なものにちがいないわ」とティタニアがいった。「今日の午 後、だれかが買いに来たんだけど、ミスタ・ミフリンは手放そうとしなかった の。お気に入りの一冊なんですって。まあ、なんて変な映画なんでしょう!」 ターザンの途方もなくばかばかしい物語が観客を興ざめさせながら、銀幕の 上で展開していった。しかしオーブリーは厚かましくもジャングルの強者が自 分にそっくりだと思っていた。僕も――と、彼はたあいもなく考えた――広告 というジャングルのあわれなターザンではないだろうか。商売という名の象や らワニのなかに迷い込み、己の熱いまなざしに飛び込んできた、手の届かぬ美 しい女性に胸を焦がしているあわれなターザン!

彼は危険をおかして彼女の 横顔をこっそりのぞいた。銀幕の光のゆらめきが彼女の目のなかにいくつもの 踊る小さな点となって映し出されていた。彼はすっかりのぼせて、相手が自分 の視線に気がついていることもわからなかった。そのとき明かりがついた。 「ひどい映画だったと思いません?」とティタニアがいった。「終わってよ かった!

象がスクリーンから飛び出して来て、わたしたちを踏みつけるん じゃないかと怖くてたまらなかったの」 「どうして名作を映画化しないのかしら」とヘレンがいった。「納得がいか ないわ――フランク・ストックトンの作品なんか、とっても楽しいでしょうに。 ドルー夫妻が『ラダー・グランジ』を演じるなんてどう?」 「まあ、うれしい!」とティタニアがいった。「本のお仕事についてから、 わたしが読んだ本の名前が出たのははじめてだわ。ええ、そう思います――ポ モナとジョナスが新婚旅行で精神病院を訪れたときのことを覚えています? じつはね、あなたとミスタ・ミフリンを見ているとドルー夫妻を思い出してし まうんですよ」 ヘレンとオーブリーはこの無邪気な連想に吹き出してしまった。そのとき、 オルガンが「ああ、朝起きるのは大きらい」を弾きはじめ、いつ見ても楽しい ドルー夫妻がスクリーンにあらわれ、ホームコメディのひとつを演じはじめた。 この型破りな無言劇俳優がアーク灯とレンズのためにその健康的で人間的な才 能を発揮しはじめたとき、映画は新時代の幕を開けたのだと、映画愛好者が考 えるのももっともである。オーブリーはティタニアの横で彼らの演技を見なが らおだやかなくつろいだ喜びを感じた。目の前に繰り広げられる朝食の場面が、 納屋のような映画撮影スタジオに木摺り板でつくられた間に合わせにすぎない ことはわかっていたが、舞い上がる彼の想像力のなかでは、彼とティタニアが 恵みぶかい運命の采配によっていっしょに住むことになる、牧歌的な郊外の家 のように思えるのだった。若者は開拓者のような想像力を持っている。若き オーランドーがロザリンドの隣にいるとき、彼女との結婚を夢見ないでいられ るとは思えない。たとえこの世の煩わしさを脱するまでに千回死ぬほどの苦し みがつづこうとも、きっと若者は市役所で許可証をもらう前に千回婚約を交わ すだろう。 オーブリーはオペラグラスがまだポケットのなかに入っていたことを思い出 して取り出した。三人は面白がってシドニー・ドルーの顔を双眼鏡でのぞいた。 しかしそれはがっかりするような結果に終わった。というのは映像を拡大して みると細かなひび割れが画面を蜘蛛の巣状に覆っているのがわかってしまった からである。ミスタ・ドルーの鼻は映画史上もっとも滑稽な顔の造作なのだが、 拡大してみるとそのおかしさが失われてしまった。 「あら、まあ」とティタニアが声を上げた。「これで見ると彼のすてきな鼻 がフロリダの地図みたいに見えるわ」 「どうしてこんなものをポケットに入れていたの?」ミセス・ミフリンがオ ペラグラスを返しながら訊いた。 オーブリーは急いでもっともらしい嘘をつかなければならなかったが、広告 マンというのは機転がきく。 「それはですね。ときどき夜中に持ち出して屋上広告を研究するんですよ。 ちょっと近視なものですから。ネオンサインの研究は仕事の一部なんです」 ニュース映画をいくつか流したあと、上映プログラムは最初にもどり、彼ら は劇場を出た。「うちに寄っていっしょにココアでも飲みませんか?」本屋の 入り口まで来たときヘレンがいった。オーブリーは招待に応じたくて仕方な かったが、図に乗りすぎるのは禁物と思った。「申し訳ないのですが、止めて おきましょう。今晩、仕事があるんです。月曜日はミスタ・ミフリンがいらっ しゃらないそうですが、かまどに石炭をくべるとか、なにかお手伝いをしにお 邪魔してもいいですか?」 ミセス・ミフリンは笑った。「そうね!」彼女はいった。「いつでも歓迎し ますわ」彼らがドアを閉めると、オーブリーは深い憂鬱に沈んだ。神々しい美 文のようなティタニアの目を奪われたギッシング通りは、気が抜けてどんより していた。 まだ遅い時間ではなかったし――十時をまわっていなかった――オーブリー はふと、この近所を見張るのなら細かい地理を頭にたたき込んでおくのも悪く ないと思った。ハズリット通りは本屋から南に進んだつぎの通りである。人通 りのすくない静かな細い道で、質素な住居の明かりに豊かに照らし出されてい た。ハズリット通りをすこし進むと、丸石を敷いた狭い路地があった。両側を 裏庭にはさまれた小径で、ギッシング通りとホイッティアー通りのなかほどを、 ワーズワース・アヴェニューまで延びていた。路地は真っ暗だったが、家の数 を正確にかぞえることでオーブリーは本屋の裏口を突き止めた。庭の門にそっ と手をかけると、鍵はかかっていない。なかをちらりと見るとココアでも温め ているのだろうか、台所に灯がともっていた。そのとき二階の窓が明るくなり、 ランプの光に輝くティタニアの姿を見て彼の胸は震えた。彼女は窓辺にやって きてブラインドをおろした。彼女の頭と肩の影がつかの間カーテンに映って見 えたが、つぎの瞬間、明かりが消えた。 オーブリーはしばらく突っ立ったままロマンチックなことを考えていた。毛 布が二枚ありさえすればロジャーの裏庭に野宿して一夜をあかすのだが、と彼 は思った。あの観音開きの窓の下で、僕が監視をしているかぎりけっして彼女 に危険はない! この思いつきは突拍子もないだけにかえって彼を魅了した。 そのときだった。開いた門口に立っている彼の耳に、遠くからこちらにむかっ て路地を進んでくる足音と、低くうなるような複数の声が聞こえた。たぶん警 官が二人組で見まわりに来たのだろう、と彼は思った。夜のこんな時間に裏口 でこそこそしているのを見つかったらまずい。彼は忍び込むようになかに入り、 門をそっと閉め、用心のためにかんぬきをかけた。

荒い砂利道を踏みしだき、足音が暗闇のなかを近づいてきた。彼は裏門の柵 に寄りかかってじっと立っていた。驚いたことに男たちはミフリンの門の前で 止まり、掛け金を静かにはずそうとした。 「だめだ」と声がいった――「かんぬきがかかっている。別のやり方を考え なきゃならんぜ、相棒《マイ・フレンド》」 オーブリーは最後の単語に、巻き舌のしわがれた「r」が使われたことに気 づき、身体がぞくぞくした。まちがいない――これは「友人にしてしあわせを 祈ってくれる」電話の男の声だ。 もう一人の男がしゃがれたドイツ語でなにごとかをささやいた。オーブリー は大学でドイツ語を勉強したが、二つの言葉しか聞き取れなかった――「トュ ル」と「シュルッセル」で、それが「ドア」と「鍵」を意味することは知って いた。 「わかった」最初の声がいった。「そいつは大丈夫だが、この仕事は今晩 じゅうにやっちまわないとな。例のものはなんとしても明日完成させる。貴様 が間抜けなものだから――」 がらがらしたドイツ語がふたたび聞こえてきたが、早口の小声でオーブリー の耳はついていくことができなかった。路地に面した門の掛け金がもう一度か ちりとなり、彼は拳銃に手をかけた。しかしすぐさま二人は路地のむこうへ歩 いていってしまった。

若き宣伝マンは柵に寄りかかったまま、恐ろしさのあまりものもいえず、心 臓をどきどきさせていた。手はじっとりと汗ばみ、足は膨れあがって根をおろ したかのようだった。いったいなにを企んでいるんだ?

灼けつくような怒り の波が、身体を駆け抜けた。あのやさしそうな、口のうまい、話し好きの書店 主、あいつはあの娘を誘拐し、父親が汗水流して稼いだ金を脅し取ろうとして いるのか? しかもドイツ人なんかと手を組みやがって、あの悪党!

無防備 な娘をブルックリンの荒野に送り出すとはチャップマンもおろかなことをした ものだ――さしあたり、自分はなにをしたらいいだろう?

裏庭を一晩じゅう 偵察するか? いや、友人にしてしあわせを願ってくれる男は「別のやり方を 考えなきゃならん」といっていた。それにオーブリーは年老いたテリヤが台所 で寝ていることを思い出した。ボックなら夜中にドイツ人が侵入したとき、 きっと大騒ぎを起こすにちがいない。たぶんいちばんいいのは店の正面を見張 ることだ。みじめに混乱する頭を抱えながら、彼は数分のあいだ自分の足音を 聞きつけられないよう、二人のドイツ人が遠くに離れるのを待った。それから 門のかんぬきをはずし、彼らとは反対のほうにむかって路地を忍び足で進んだ。

路地はワイントラウブの薬局のちょうど裏側でワーズワース・アヴェニューに つながっていた。そこには高架鉄道の駅を支える大梁と構脚がそびえていて、 いわばスイスの山小屋が竹馬に載って通りをまたいでいるような格好をしてい た。彼は遠まわりしたほうが賢明だと考え、ワーズワース・アヴェニューを東 にむかってホイッティアー通りまで歩き、それからつけられていないことを油 断なく確認しながらホイッティアー通りを一ブロック南にくだった。ブルック リンは夜になって明かりを消しはじめ、すべてが静まりかえっていた。彼はハ ズリット通りに入り、それからギッシング通りにもどったのだが、そのとき幽 霊書店の明かりが消えていることに気がついた。もうすぐ十一時だ。映画館か ら最後の客がぞろぞろと出てきた。二人の従業員がはしごにのぼり、早くも ターザンの電光看板をおろして、つぎの呼び物のイルミネーション文字を設置 していた。

彼はしばらくあれこれ考えたあと、ミセス・シラーの下宿にもどるのがいち ばんだと判断した。自分の部屋からなら本屋の正面ドアをしっかり監視するこ とができる。うまい具合にミフリンの家のほぼ真ん前に街灯が立っていて、ド アの前のくぼんだあたりにも充分な光があたっていた。オペラグラスを使えば、 寝室からそこの様子は手に取るように見えた。通りをわたりながら、彼はミセ ス・シラーの下宿の正面を見あげた。四階の二つの窓に明かりがともっていて、 一階の玄関にはガスの火が小さく燃えていた。そのほかは暗闇に包まれている。 ふと自分の部屋の窓を見た。カーテンは今も窓ガラスの後ろに留められたまま だ。しかし奇妙なことに、窓のそばで小さなバラ色の光が強くひかり、それが 小さくなったかと思うと、また強く光った。だれかが彼の部屋でたばこを吸っ ている。 オーブリーはなにごともなかったかのように足取りを乱さず歩きつづけた。

通り沿いに下宿のむかいまで来ると、最初に見たものがまちがいでないことを 確かめた。光の点は依然としてそこにあり、たばこを吸っているのは例の友人 にしてしあわせを願う男か、その一味だと考えるのがまず妥当と思われた。路 地にいたもう一人の男はワイントラウブのような気がしたが、確信はなかった。

薬局の窓から気をつけてなかをのぞくとワイントラウブが調剤台にむかってい る。オーブリーは彼を待つしわがれ声の、もちろん好意などチリほども持って いない紳士に、しっぺ返しをしてやろうと決意した。彼はミセス・シラーの下 宿を出るとき、本の表紙を外套のポケットに突っ込んだ幸運に感謝した。理由 はわからないが、だれかがそれをひどく手に入れたがっていることはあきらか だった。 ちょうど閉店の準備をしていた小さな花屋を通り過ぎるとき、ある考えが浮 かんだ。彼は店に入り、白いカーネーションの花を十本ばかり買い、まるで思 い出したように「針金はあるかい?」と訊いた。

花屋は細くて丈夫な一巻きの針金を差し出した。花屋はそれで高価なバラの つぼみをしめつけ、開花を遅らせることがある。 「八フィートほどくれないか。今晩いるんだが、金物屋はみんな閉まってい るだろうから」 彼はそれを持って、上の窓から姿を見られないよう、慎重に建物伝いに歩い てミセス・シラーの下宿にもどった。階段をのぼり、息を凝らしてドアの掛け 金をはずす。時間は十一時半、彼はしあわせを願う男がおりて来るまでどれぐ らい待たなければならないだろうと思った。

彼は用意をととのえながら、大学時代にこれよりもはるかにふざけた目的で 似たようなことをやった経験を思い出し、おもわずくすりと笑ってしまった。 まず靴を脱ぎ、またすぐ見つけられるようにそっと片隅に寄せておいた。そし て床から六フィートほどの高さの手すりを選び、その根本に針金の一方の端を きつく巻きつけ、踏み段を二段にわたって広がる大きな輪を作った。針金の残 りは手すりのあいだを通して外に出し、小さな輪にして引っ張りやすいように した。それから玄関のガス灯を消し、暗がりのなかでことが起きるのを座って 待った。 パグがこっそりやってきて彼を見つけるのではないかという、一抹の不安を かんじながら長い時間座っていた。部屋着を着た女性――おそらくミセス・ J・F・スミスだろう――が一階の部屋からあらわれ、暗闇にひそんでいる彼 のすぐそばを通って、ぶつぶつ言いながら上にあがっていったときは肝をつぶ した。彼は輪っかを引っ張ってかろうじて彼女の足に引っ掛からないようにし た。しかし間もなく彼の忍耐は報われた。上のほうでドアがきしり、だれかが ゆっくりと階段をおりはじめた。階段はうめくような音をたてた。彼はわなを 置きなおし、にやりと笑いながら待った。建物のどこかで時計が十二時を打っ たとき、男は暗闇のなかを手探りしながら最後の一つづきの階段をおりてきた。 オーブリーは男が低く悪態をつくのを聞いた。 その瞬間、犠牲者の両足が輪のなかに入り、オーブリーは針金を思い切り 引っ張った。男は金庫のように倒れ、手すりに激突し、床の上にのびてしまっ た。すさまじい落下が家を揺らした。彼はうめき声をあげ、呪いの言葉を吐い て倒れていた。

笑いたいのをなんとかこらえながら、オーブリーはマッチを擦って大の字に 横たわる男の上にかざした。男は横にむけた顔を、伸ばした一方の腕に押しつ けていたが、あの髭に見まちがいはなかった。またしても例のアシスタント・ シェフだ。彼は意識を失いかけているように見えた。「髭を燃やすといい気つ けになるんだ」オーブリーはそういってマッチの火をもじゃもじゃの髭につけ た。二三インチ髭を焦がすのはひどく小気味よかった。それから動かない男の 頭にカーネーションの花を置いた。地階からごそごそと音が聞こえてきたので、 彼は針金をはずし、靴を拾い、上の階に逃げた。彼はしてやったりと胸のなか で大笑いしながら部屋にたどり着いた。しかし部屋に入るときは、罠がしかけ られていないかと用心した。強いたばこのにおいをのぞいてなにも異常はない ようだった。ドアのところで耳を澄ましていると、ミセス・シラーが玄関で金 切り声をあげ、それにパグがきゃんきゃんと唱和するのが聞こえた。上の階の ドアが開き、問いが発せられた。髭男がしわがれたうめき声をあげながら、階 段から落ちたことをののしり、憤るのが聞こえてきた。パグは狂ったように興 奮して吠えた。女性の声――おそらくミセス・J・F・スミスだろう――が叫 んだ。「この焦げくさいにおいはなに?」ほかのだれかがいった。「気つけに 彼の鼻の下で羽を燃やしているんだ」 「そう、ドイツ野郎の羽をね」オーブリーは一人で満足そうに笑った。彼は ドアに鍵をかけ、オペラグラスを手に窓のそばに座った。