第七章 オーブリー、間借りする
ミスタ・オーブリー・ギルバートがこの作品の主人公としてけっして理想的 な青年でないことは作者も承知している。この時期、主役の青年が左の袖にな ぜ金の山形袖章をつけていないのか。これには少々説明が必要だろう。じつを 言えば、われらがグレイ・マター広告代理店の若き社員は偏平足《フラット・ フィート》を理由に徴兵局と徴兵委員会から入隊を拒否されていたのである。 しかし作者はこの処分に異議を唱えなければならない。足が扁平だからといっ て彼の見かけに問題があるわけではないし、素直な青年にできることならなん でもこなす体力もあるのだ。軍が、彼がいうように「にべもなく《フラット》 入隊を拒否した」とき、彼は広報委員会に入って、一年以上謎めいた活動に従 事し、それがユナイテッド・プレスによる休戦協定締結までつづいた。今はも うだれも覚えてないちょっとした判断ミスが彼の側にもあったのだが、なにし ろ惜しむらくはドイツの外交使節が浮かれすぎた特派員に調子を合わせず、ぐ ずぐずしていたものだから、戦争最後の三日間は彼の積極的な貢献をともなう ことなく過ぎ去った。(註 ユナイテッド・プレスは休戦協定締結を誤ってそ の四日前に報じた)十一月十二日は当然英気を養い、そのあとはふたたびグレ イ・マター広告代理店に吸収された。同社とは数年にわたって関係があり、彼 の堅実で陽気な性格は高く評価されていたのである。いつもの行動範囲をはる かに逸脱してロジャー・ミフリンを訪れたのは、戦後のビジネスを盛り上げる 活動の真っ最中のことだった。こうしたことはもっと早くに説明しておいたほ うがよかったかもしれない。 ともかくオーブリーは土曜日の朝、ティタニアが店頭本の箱からほこりを払 いはじめたころ、世界征服達成とはおよそ正反対の気分で目を覚ました。半ド ンの日だったので、事務所に行かなくても一向に気はとがめなかった。母親の ようにかいがいしい宿のおかみさんはコーヒーとスクランブルエッグを持って きて、医者を呼び、傷の手当てを受けるよういいはった。数針縫ったあと、彼 は昼寝をした。午後起きたとき、頭痛は相変わらずひどかったが、気分はまし になっていた。部屋着を身につけ、椅子に腰掛けた。家財道具といえばパイプ 立てと灰皿とオー・ヘンリーの小説一そろいくらいしかない質素な部屋のなか で、彼は気を紛らせようとお気に入りの一冊を取り上げた。ミスタ・ギルバー トがいわゆる「文学青年」でないことはすでに話した。彼が読むのはほとんど が新聞売り場に置いてあるような本と、広告業者むけの幼稚な雑誌「プリン ターズ・インク」だった。彼の大好きな気晴らしは広告クラブで昼食をとり、 そこで魅入られたように広告用パンフレットやポスター、「あなたの話をボー ルド体で」(註 「ずうずうしく語れ」という意味とかけてある)などといっ たタイトルの小冊子を読みあさることである。彼はふだん「ラルフ・ウォル ド・エマソンよりパッカードのコピーを書いたやつのほうがてんで上だよ」な どと話していた。しかしそれもこの青年がオー・ヘンリーを愛読することに免 じて大目に見てやらなければならない。彼は、ほかの大勢のしあわせな人々が 気づいたように、オー・ヘンリーが時代をこえた、類まれな天才ストーリー・ テラーの一人であることを知っていた。どれほど疲れていても、どれほど気が 滅入っていても、どれほど意気消沈していても、このキャバラビアン・ナイト (註 キャバラビアンとはタクシーのキャブ、キャバレー、アラビアンをかけ た造語)の名手はいつも喜びを与えてくれる。「ディケンズの『クリスマス・ ストーリーズ』なんてくそくらえだ」オーブリーはブルックリンでの冒険を思 い出していった。「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のほうがディックのど の作品よりずっといい。彼が『ローリング・ストーンズ』(註 オー・ヘン リーの最後の短編集)のクリスマス・ストーリーを完成させないで死んだのは 残念なことだ! アーヴィン・コブとかエドナ・ファーバーとか大物作家が結 末を書いてくれたらいいのに。自分が編集者だったら、だれかを雇ってあの話 を完成させるんだがな。あんなにいい物語を中途半端なままで投げ出しておく なんて犯罪だよ」 彼がたばこの煙にやわらかく包まれて座っていたとき、宿のおかみさんが朝 刊を持って入ってきた。 「タイムズが読みたいんじゃないかと思ったんだよ、ミスタ・ギルバート」 と彼女はいった。「その身体じゃ、外に買いに出るわけにもいかないしね。ど うやら大統領は水曜日に船に乗るようだよ」 オーブリーはおもしろいものを見わける熟練した眼で記事を読んでいった。 それから、つい習慣で、広告ページを注意深く見わたした。求人広告欄のひと つの記事が彼の目に飛び込んできた。
求む――オクタゴン・ホテルはシェフ三名、経験豊かなコック五名、ウエイ ター二十名を臨時募集する。申し込み受付はシェフの事務所にて火曜日午後十 一時まで。
「ははあ」と彼は思った。「たぶんミスタ・ウィルソンの料理人がジョー ジ・ワシントン号に乗っていってしまうので、そのかわりを探しているんだな。
大統領の船旅に厨房のメンバーが選ばれたとは、オクタゴンも鼻高々だな。な んだってまた、本格的に紙面を使ってそのことを強調しないんだろう? ぼく がそのコピーをつくって載せてやってもいいんだが」 急に彼はあることを思い出し、昨日の晩、外套を放り投げた椅子のほうに歩 み寄った。ポケットから表紙だけになったカーライルの『クロムウェル伝』を 取り出し、じっと見つめた。 「いったいこの本にどういう呪いがかかっているんだろう?
昨日の晩、あ の男がぼくをつけてきたのもおかしな話だが――そのあと薬屋でこいつを見つ け、頭をがつんとやられたのも訳がわからない。あの近所は女の子が働く場所 として安全なところなんだろうか?」 彼は頭の痛さも忘れて部屋のなかを行ったり来たりした。 「警察に知らせたほうがいいだろうか。悪い予感がする。でも自分で解決し てみたい気もするな。あの娘を危険から救ってやったら、チャップマン老人が ぐんと好意的になるだろう――人さらいの一味のことも聞いたことがあるし― ―うん、どうもこの成行きは気に入らない。なにしろあの本屋は半分いかれて いる。広告を信じていないだなんて! チャップマンが娘をあんなところに預 けるとは、考えただけで――」 広告の委託業務よりもっと個人的でロマンチックなもののために、中世の遍 歴の騎士を演じるという思いつきは、たまらなく魅力的だった。「今晩暗く なったらすぐにブルックリンに忍び込もう。あの通りのどこかに部屋を借りる ことができるはずだ。そこから本屋をこっそり観察して、あの店にとりついて いるものの正体をつきとめるんだ。キャンプでよく使った二十二口径の古い銃 があったな。あれを持っていくとしよう。それにワイントラウブの店のことも もっと知りたい。ヘア・ワイントラウブの顔ときたら、まったくいけ好かない や。それにしても、正直な話、カーライルみたいなむかしの作家がこんなにお もしろいことに関係しているとは思ってもいなかった」 彼は手提げかばんに荷物をつめながら冒険に胸が躍った。パジャマ、ヘアブ ラシ、歯ブラシ、練り歯磨き――(「チャイニーズ・ペースト社がこの冒険に 彼らの歯磨きチューブを持っていくことを知ったら、大喜びするんじゃないか な!」)――二十二口径の回転式連発銃、リス撃ちによく使われる小さな緑の 弾薬の箱、オー・ヘンリーの本、安全かみそりと付属品、そして便箋一冊。す くなくとも六つは全国的に宣伝されている製品だぞ、とかばんの中身を数えあ げながら思った。かばんに鍵をかけ、身支度して昼ごはんを食べに下におりた。
昼ごはんのあとは、依然として頭痛がひどかったので横になってひと休みをし た。しかし眠ることはできなかった。ティタニア・チャップマンの青い目と物 怖じしない小柄な姿が、彼と眠りの間に割って入ってきたからである。彼女の 身の上に危険が迫っているという確信は振り払うことができなかった。彼は何 度も何度も時計を見ては、歩みののろい夕闇を非難した。四時半に彼は地下鉄 にむかった。三十三丁目の通りを半分ほど歩いたとき、はっと思いついたこと があった。彼は自分の部屋にもどり、トランクからオペラグラスを取り出し、 かばんのなかに入れた。 ギッシング通りに着いたとき、あたりは青くたそがれていた。ワーズワー ス・アヴェニューとハズリット通りにはさまれたこの区画には奇妙な特徴があ る。一方の側――幽霊書店がある側――の古い褐色砂岩の住居はほとんどが明 るい、にぎやかな小店舗になっていた。ワーズワース・アヴェニューが尽きて、 高架鉄道がはるか頭上を轟々とうなりながらカーブしてくるところにワイント ラウブの薬局がたっていて、そこを発端に西側にはショーウィンドウが並び、 夜のあいだもかがり火のように輝いている。デリカテッセンには調理肉や塩漬 け肉、乾燥果実、チーズ、色鮮やかなジャムの瓶など、食欲をそそる雑多な品 が並び、小さな婦人服の店には髪飾りをつけた蝋細工の豊満な半身像が飾られ、 軽食堂の窓の外にはその日のメニューが印刷されて貼ってあった。フランス式 焼肉料理店では焼き串にさされた鶏肉がシュッシュッと音をたてながら、石炭 がばら色に燃える大きなオーブンの前で回転していた。花屋、たばこ屋、果物 屋。ギリシャ菓子の店もあり、縞大理石のピカピカ光る大きなソーダ水売り場 や、色つきガラスランプや、ココアを入れた銅の容器が並んでいた。文房具店 は冬のバーゲンに備えてクリスマスカード、おもちゃ、カレンダーを所狭しと 陳列し、クリスマスが近づくと毎年あらわれるスエード張りのキプリング、 サーヴィス、オスカー・ワイルド、オマル・ハイヤームの小型本もどっさり あった――そうした質素だが楽しい商品のおかげでギッシング通りの西の歩道 は、明かりがともるころ、にぎわいだ場所になるのである。どの店もクリスマ ス・セールにむけて飾りが施されていた。雑誌のクリスマス特別号がちょうど 出たところで、その燃え立つような表紙が新聞雑誌の売店を輝かせていた。ブ ルックリンのこの区画は奇妙にフランス的な雰囲気を漂わせている。パリの小 市民がつどう小さめの通りにいるような気になるのである。この人を引きつけ る活気にあふれた区画のまんなかに幽霊書店があった。オーブリーは明かりの ともった本屋の窓と、店内の棚にずらりと並ぶ大量の本を見た。彼はなかに入 りたいという強い誘惑を感じたが、なんだか気恥ずかしくもあり、それがいっ そう秘密裡に行動する気持ちを強くした。本屋をこっそりと監視するという計 画にはひそかに胸をときめかすものがあり、彼はいまだ知られざる新たな冒険 に乗り出したような気がした。
彼は通りの反対側を歩きつづけた。そちらは北の端、ワイントラウブの店の 反対にある映画館を除いて、今も静かな茶色い正面が途切れることなくつづい ている。こちら側の地階は、ほとんどが普通の住居のままで、そこにちらほら と仕立て屋、クリーニング屋、レースカーテン専門の洗濯屋(ブルックリンの 人々は今でもレースのカーテンに固執している)などの小さな店が混じってい る。かばんを運びながらオーブリーは映画館のまぶしい光の輪を通り抜けた。 「ターザンの帰還」を予告するポスターには「創世記」第三章の場面でイヴに 運動着を着せたような絵が描かれていた。「シドニー・ドルー夫妻の作品を同 時上映」とも書いてあった。 その区画のやや先の応接間の窓に「空き部屋あり」という掲示がかかってい るのが見えた。その建物はほぼ本屋の反対側に位置していた。さっそく高い踏 み段をあがって正面ドアのベルを鳴らした。 ほどなく淡い黄褐色の肌をした、よく「アディ」などと呼ばれるような黒人 の女の子があらわれた。「部屋を借りられるかい?」と彼は尋ねた。「知らな いわ。ミセス・シラーに聞きなさいよ」彼女はそういったが、いやな顔はして いなかった。しつけの悪いお手伝いにありがちな中途半端な応対で、彼を招き 入れはしなかったものの、うとましく思っているわけでもないようで、ドアを 閉ざさずそのままむこうへ行ってしまった。 オーブリーは玄関に入り、ドアを閉めた。巨大な鏡に、薄いチーズ色をした ガス灯の炎が、離れたところからちらちらと映りこんでいた。壁には大きな方 形石をデザインした灰色の壁紙が貼られ、ランドシア(註 イギリスの画家) の銅板画がかかっている。例によって電話のメモが、例のごとくミセス・J・ F・スミスに宛てて(彼女はどこの下宿屋にも住んでいる)鏡の縁に差し込ん であった。「ミセス・スミス、ストックトン6771に連絡してください」と 書いてある。絨毯敷きの階段には、古い立派なマホガニーの手すりがついてい て、登った先は薄闇に包まれていた。下宿暮らしにすっかり慣れているオーブ リーは本能的に階段の四番目、九番目、十番目、そして十四番目の段がきしる だろうと思った。ほんのりと麝香のような匂いが暖かい、よどんだ空気を甘く していた。だれかがガス灯でマシュマロをあぶっているのだと彼は推測した。 この家の浴槽の上には「湯船はあなたが使いたいと思う状態にして出てくださ い」と書かれた張り紙があるだろうということもちゃんとわかっていた。ロ ジャー・ミフリンなら玄関をじっくり見まわしたあと、この家のだれかがきっ とラビ・タゴールの詩を読んでいる、といったかもしれないが、オーブリーは そんな揶揄嘲弄を口にするタイプではなかった。 ミセス・シラーは小さなパグを従えて地階から階段をのぼってきた。彼女は やさしそうな太った女で、腋の下がはちきれそうにふくらんでいた。彼女は愛 想がよかった。パグはオーブリーの膝にじゃれついた。 「やめなさい、トレジャー!」とミセス・シラーはいった。 「部屋を借りられますか?」オーブリーはごく丁寧にたずねた。 「三階の正面にひと部屋だけ空いているわ。寝たばこはしないでしょうね? この前いた若い人ったら、三枚もうちのシーツに穴をあけて――」 オーブリーは彼女を安心させた。 「食事は出ないわよ」 「それはかまいません」とオーブリーはいった。「結構です」 「一週間五ドル」 「部屋を見てもいいですか?」 ミセス・シラーはガスの炎を大きくし、先にたって階段をのぼりはじめた。 トレジャーは彼女の横を飛び跳ねるようにして一段一段をのぼった。六本の足 が同時に動いて階段をのぼる様子はオーブリーをおかしがらせた。四番目、九 番目、十番目、十四番目の段は予想通りきしんだ。二階にあがるとドアがあり、 その上の小さな窓からオレンジ色の光があふれていた。通路のガス灯の火を大 きくしなくてすんだことを、ミセス・シラーは心のなかで喜んだ。その小さな 窓の下、ドアの後ろから、だれかがお風呂に入っていて、水をはね散らかす大 きな音が聞こえた。彼はそれがミセス・J・F・スミスではないかと失敬なこ とを考えた。ともかくそれは下宿生活に慣れた人で、風呂に入る時間はほかの 住人が夕ご飯の支度をしたり、帰宅後のシャワーを浴びて温水ボイラーが空に なる前の、午後五時半くらいが最適であることを知っている人だと彼は確信し た。
彼らは階段をもうひとのぼりした。部屋は小さく、三階正面側の半分を占め ているにすぎない。大きな窓が通りに面し、その反対側の本屋とほかの家々が すぐ見わたせた。化粧台が大きな棚のなかにひっそりとつくりつけられていた。
炉棚の上にはよく見かける絵――通常は四階の奥の部屋に置いてあるものだが ――若い女性が下品な男の子に靴を磨いてもらっている写真がかかっていた。 オーブリーは喜んだ。「これなら文句ありません。一週間分の家賃を先払い します」 ミセス・シラーは契約成立の早さに面食らったようだった。彼女は新しい下 宿人の受け入れをもうちょっといろいろな話――天候のこととか、お手伝いさ んがなかなか見つからないこととか、お茶の葉を洗面台に流して捨てる若い女 の下宿人のこととか――をして厳粛なものにしたかった。こうした世間話は一 見漫然と交わされるようだが、じつはとても大切な役目がある。それによって 身を守るすべのない下宿のおかみさんは、彼女にたかろうとする見知らぬ人物 の品定めができるのだ。彼女はまだこの紳士をよく見ていなかったし、名前さ え知らなかった。それなのに彼は一週間分の家賃を払い、もう部屋に落ち着い てしまったのである。 オーブリーは彼女が躊躇している理由を察し、名刺をわたした。 「結構ですわ、ミスタ・ギルバート。お手伝いの女の子にきれいなタオルと 鍵を持たせますから」 オーブリーは窓辺のゆり椅子に腰掛け、モスリンのカーテンを一方に寄せて 留め、照明の輝くギッシング通りを眺めた。住まいを変えたことで彼の心は浮 き立っていたが、愛らしいティタニアのすぐそばにいるというロマンチックな 満足感は、無意味なことをしているのではないかという一抹の思いによって台 無しにされていた。それは若者にとって負傷や死よりも恐ろしいものなのだ。
幽霊書店の明るい窓がはっきりと見えたが、そこへ行く適当な理由がなにも思 いつかなかった。しかもミス・チャップマンのそばにいることは、予想とはう らはらに、なんら心の慰めにならないことを彼は思い知った。彼女に会いたい という強い思いが彼を襲った。ガス灯を消し、パイプに火をつけてから窓をあ け、本屋の入り口にオペラグラスの焦点を合わせた。店がもどかしいほど間近 に見えた。店の正面には平台、電球の下にはロジャーの掲示板が見え、そして 一人か二人、特徴のない客が棚を丁寧にのぞいてまわっている。そのとき、な にかがシャツの第三ボタンの下で激しく飛び跳ねた。彼女がいる!
明るい虹 色の小さなレンズのなかにティタニアの姿があった。白いVネックのブラウス に茶色のスカートをはいた天使のような存在は本を読んでいた。彼女が腕を伸 ばすと腕時計がきらりと輝くのが見えた。彼女のまぶしい無心な顔、横から見 た楽しげな頬と顎、それが拡大鏡で見たときのように驚くほどくっきりと見え た――「あんな娘が古本屋で働いているなんて!」彼は叫んだ。「まったく神 を冒涜するようなものだ! チャップマンは気が狂ったにちがいない」 彼はパジャマを取り出し、ベッドの上に投げ出した。歯ブラシとかみそりは 化粧台の上におき、ヘアブラシとオー・ヘンリーは整理だんすの上に載せた。 なかば真剣な、なかばふざけた気分で、彼は小さなリボルバーに弾を込めて尻 ポケットに入れた。六時になったとき時計のねじを巻いた。これからなにをす るのか、いまひとつはっきりしなかった。オペラグラスを握って窓辺で監視を つづけるのか、それとも通りに出てもっと近くで本屋を見張るべきか。冒険の 興奮のせいで頭の傷のことはすっかり忘れ、身体に元気がみなぎっていた。マ ディソン・アヴェニューを離れるとき、彼はこの非常識な遠出の言い訳を考え た。ブルックリンで静かな週末を過ごせば、月曜日にボスに提出することに なっているデインティビッツの広告コピーの原案を書きあげることができるだ ろう、と。しかしいざここに来てみると、とうていそんな退屈な仕事をやる気 にはなれなかった。「デインティビッツ・タピオカ」や「みんな大好きチャッ プマン・チップス」の「視線を釘づけにする」レイアウトなど落ち着いて考え ている場合じゃない。この世でいちばん麗しい《デインティエスト》人がほん の数ヤード先にいるのだから。彼は世界の合法的な商業活動さえ止めてしまう 若い女性の驚くべき力を、生まれてはじめてまざまざと感じた。彼は実際、便 箋を取り出し、こう書きつけるところまではいったのだ。
みんな大好きチャップマン・チップス 秘密の製法で作られたこのおいしいチップスは、独特のぴりっとした味わい と香りのなかに、成長を助けるあらゆる栄養を詰めこんでいる。なにしろポテ トは野菜の王様――
しかしミス・ティタニアの顔が彼の手と頭のあいだに割り込んでくるのだ。 この世界をチャップマン・チップスであふれさせたとしても、あの娘に危害が 及ぶようなことがあればなんの意味があるだろう? 「この顔か、一千のチッ プスを戦いにおもむかせたのは?」(註 クリストファー・マーロー「ファウ スト博士」の一節「この顔か、一千艘の船《シップス》を戦いにおもむかせた のは」をもじって)そう彼はつぶやき、一瞬、オー・ヘンリーのかわりにオッ クスフォード版詞華集を持ってくればよかったと思った。 ドアをノックする音がして、ミセス・シラーがあらわれた。「電話ですよ、 ミスタ・ギルバート」 「ぼくにですか?」オーブリーはあっけにとられていった。自分に電話が来 るはずがない、と彼は思った。だれもここにいることを知らないのだから。 「半時間ほど前にきた紳士と話がしたいというので、きっとあなたのことだ ろうと思ったんですけど」 「名前を名乗りましたか?」 「いいえ」 オーブリーはつかの間、電話に出ないでやろうかと考えた。しかしそれでは ミセス・シラーに怪しまれると思い直した。彼は階段を駆けおり、電話のある 所へむかった。それは正面玄関の階段の下だった。 「もしもし」と彼はいった。 「あんたが新しい下宿人かい?」声が――深い、がらがらした声がいった。 「そうですが」 「半時間前にかばん一つでやってきた紳士だね?」 「そうだよ。あなたはだれなんですか?」 「友人だよ。あんたのしあわせを願うものだ」 「お初にお目にかかります、友人にしてしあわせを祈ってくれる方」オーブ リーはにこやかにいった。 「警告したかっただけだ。ギッシング通りにいると危ない目にあうぜ」 「そうなのか?」オーブリーは鋭くいった。「きみはだれだ?」 「友人さ」受話器が低くうなった。その声にはオーブリーの鼓膜に不愉快な 振動を与える、ざらつくような低音の響きがあった。オーブリーは怒りがこみ あげてきた。 「いいか、友人《ヘア・フロイント》」彼はいった。「あんたが昨日の晩、 橋の上で僕のしあわせを祈ってくれたやつなら、気をつけろ。お前の企みなど お見通しなんだ」 沈黙が訪れた。それから相手は重々しく繰り返した。「わたしは友人だ。 ギッシング通りにいると危ないぜ」ガチャッと音がして、相手は電話を切った。 オーブリーはひどく困惑した。彼は部屋にもどると、電気もつけず窓際に 座って、本屋を見ながらパイプをくゆらし考えた。 なにやら得体の知れないことが起きつつあることは疑いの余地がなかった。
彼はそれまで数日間の出来事を振り返った。
本好きの友達がギッシング通りの本屋のことをはじめて教えてくれたのは月 曜日のことだった。火曜日に彼はわざわざその本屋を訪れ、ミスタ・ミフリン と夕食をともにした。水曜日と木曜日は事務所でいそがしく働き、ブルックリ ンでデインティビッツの集中キャンペーンをひらくアイデアを思いついた。金 曜日はミスタ・チャップマンと食事をし、それから一連の奇妙な出来事を経験 した。彼はそれを箇条書きにした。
(1)金曜日のタイムズ朝刊に載った「なくしもの」の広告。 (2)エレベータのなかでなくしたはずの本を持っていたシェフ――そいつ は火曜日の晩にオーブリーが本屋で見た男と同一人物だった。 (3)ギッシング通りでふたたびシェフを見かける。 (4)本屋に本がもどされる。 (5)ミフリンは本は盗まれたといった。それならなぜ広告を出したり、ま た返却したりするのか? (6)本の表紙がつけかえられていた。 (7)本来の表紙をワイントラウブの薬局で見つける。 (8)橋の上での出来事。 (9)「友人」からの電話――明らかにドイツ訛りがあった。
エレベーターのなかでオクタゴンのシェフに話しかけたとき、相手が見せた 怒りと恐れの表情を思い出した。先ほどの奇妙な脅迫電話が来るまで、橋の上 での襲撃はたまたま物取りにやられたものと説明することができたが、今では 本屋を訪ねたこととなにかしら関係があると結論せざるを得なかった。彼はま た、はっきりとはわからないが、ワイントラウブの薬局が事件に関わっている ような気がした。本の表紙を薬局から持ち逃げしなければ襲われることはな かったのではないか?
彼はかばんから表紙を取り出して、もう一度調べた。
無地の青い布張りで、背中には金文字で題名が刻印され、下のほうには「ロン ドン チャップマン・アンド・ホール出版社」という文字が書かれている。背 表紙の大きさから見て、あきらかに大部の本であるらしい。表紙の内側を見る と60という数字が赤鉛筆で記されている――これはロジャー・ミフリンが書 き込んだ値段だろうと彼は思った。裏表紙の内側にはつぎのような符号が並ん でいた――
Vol.3 -- 166, 174, 210, 329, 349 329 ff. cf. W. W.
この記号は黒インクで、小さく丁寧に書かれていた。その下にはまったく筆 跡の違う薄いすみれ色のインクで
153 (3) 1, 2
と書かれていた。 「どうやら本のページのようだな」とオーブリーは思った。「あの本を調べ ておいたほうがよさそうだ」 彼は表紙をポケットにしまい、夕食を食べに外に出た。「この謎には三つの 側面があるぞ」彼はみしみしとなる階段をおりながら思った。「本屋、オクタ ゴン、ワイントラウブの店。しかしあの本がすべてを解く鍵になりそうだ」