第四章 消える本
「なあ、おまえ」その日の晩の食事のあとでロジャーはいった。「ミス・ ティタニアにうちの朗読の習慣をご披露したほうがいいと思うんだが」 「退屈じゃないかしら?」とヘレンがいった。「みんながみんな本を読んで もらうのが好きなわけじゃないから」 「あら、わたしは大好きです!」とティタニアが叫んだ。「本を読んでもら えるなんて思ってもみなかったわ。子供の時いらいです」 「あなたに店番を頼んで」ヘレンはロジャーをからかいたい気分になって いった。「わたしはティタニアを連れて映画に行くわ。まだ『ターザン』を上 映していると思うの」 ミス・チャップマンが心中どうしたいと思ったかはともかく、ターザンを見 に行けば書店主をがっかりさせることはそのしおれた顔つきからわかった。そ こでこの傑作映画への興味をすばやく打ち消した。 「せっかくですけど、『ターザン』って、ジョン・バローズ(註 米国の自 然史家、文筆家。ティタニアはエドガー・ライス・バローズと勘違いしてい る)の自然の話じゃありません? ミセス・ミフリン、あれはすごくつまらな いと思います。ミスタ・ミフリンに本を読んでもらいましょうよ。わたし、編 み物かごを持ってきます」 「邪魔がはいっても気にしないでね」とヘレンがいった。「だれかがベルを 鳴らしたら、ロジャーは急いで店に出なければならないから」 「わたしに行かせてくださいな」ティタニアがいった。「その、お給料を稼 ぎたいんです」 「わかったわ。ロジャー、ミス・チャップマンを居間にお連れして、わたし たちがお皿を洗うあいだ、本でも見ててもらいましょう」 しかしロジャーは朗読をはじめたくてうずうずしていた。「皿洗いはあとま わしにしよう。せっかくの機会なんだから」 「お手伝いさせてください」ティタニアがいいはった。「皿洗いってすごく おもしろそう」 「だめ、だめ。うちで過ごす最初の晩なのに」ヘレンがいった。「ミスタ・ ミフリンとわたしがあっという間にかたづけてしまうから」 そういうわけでロジャーは居間の石炭の火をかき回し、椅子をととのえ、読 み物用にティタニアに「衣服哲学」を手わたした。彼が妻と台所に消えると、 そちらの方から洗い桶のなかで瀬戸物がかちゃかちゃと鳴るにぎやかな音や、 お湯が飛び散る音が聞こえてきた。「皿洗いのいちばんいいところは」ロ ジャーの話し声が聞こえた。「手がとてもきれいになることだな。古本屋を やっているとなかなか味わえない感覚だ」 彼女は「衣服哲学」にちらりと「一瞥をくれた」だけで見むきもせず、テー ブルの上にまだ読んでいないタイムズの朝刊をみつけ、取り上げた。彼女は
「なくしもの 1アゲートラインにつき50セント」
という見出しのついた欄に視線を落とした。最近、小さな真珠のブローチをな くしたばかりだったので、彼女はその欄にさっと目を通した。こんな投稿を読 んで彼女はくすくすと笑った。
なくしもの――インペリアル・ホテルの化粧室にて入れ歯を紛失。43丁目 西134番地スチールまで連絡を請う。無条件にて謝礼進呈。
それからつぎのような投稿を見つけた。
なくしもの――トマス・カーライルの「オリバー・クロムウェル伝」をギッ シング通りとオクタゴン・ホテルのあいだで紛失。見つけられた方は十二月三 日火曜日深夜までにオクタゴン・ホテルのアシスタント・シェフまでお返しく ださい。
「あら」と彼女は声をあげた。「ギッシング通りって――ここのことだわ! それにアシスタント・シェフが読むにしてはへんな本ね。このごろ、あそこ のランチの味が落ちたのも当然だわ!」 ロジャーとヘレンが数分後、居間にもどってきたとき、彼女は書店主にその 広告を見せた。彼はひどく興奮した。 「おかしなことがあるものだ」と彼はいった。「あの本にはなんだか妙なと ころがある。おまえに話したかな? この前の火曜日――ギルバートという若 者がここに来た晩なので覚えているんだが――髭の男があの本を買いに来たん だ。しかし棚にはなかった。つぎの日、水曜日の晩、わたしはずいぶん遅くま で書き物をしているうちに、机の上で居眠りをしてしまった。正面のドアを開 けたままにしていたのだろう、すきま風で目を覚まして、ドアを閉めに行った ら、その本がほかの本からすこし突き出た格好で、いつもの場所に収まってい るのを見たんだ。それから昨日の晩、コーンパイプ・クラブのメンバーがここ にいるとき、その本から引用しようと見に行ったら、またなくなっていた」 「もしかしてアシスタント・シェフが盗んだのかしら?」ティタニアがいっ た。 「しかし、そうだとしたら、なぜそのことを広告にだしたりするのだ?」ロ ジャーが訊ねた。 「彼が盗んだのなら」ヘレンがいった。「せいぜい楽しんで読んでほしいわ。 あなたがあんまりあの本の話をするから、一度わたしも読もうとしたけど、つ まらなくってあくびが出たわ」 「本当に盗んだのなら」と書店主がいった。「こんなにうれしいことはない。 わたしの主張の正しさが証明されたんだからね。つまり人々は本気で良書を求 めているんだよ。アシスタント・シェフが盗みをはたらくくらい良書が大好き なら、この世界の民主主義も安泰だ。盗まれやすいのはたいてい愚劣きわまり ない本ばかりだ。ダグラス・フェアバンクスの『人生を価値あるものに』とか マザー・シプトンの『神託の書』とか。いい本が盗まれるのなら、本泥棒なん か気にならないね」 「この商売がどんなにすごい原則に支配されているかわかったでしょう」ヘ レンがティタニアにいった。彼らは火のそばに座って、本が棚にもどってきて はいないかと、店主が確認しに行っているあいだ、編み物をしていた。 「あった?」もどってきたときヘレンはいった。 「いいや」ロジャーはそういって、もう一度広告を取り上げた。「どうして 火曜日の真夜中までに取りもどしたいのかな?」 「寝床で読みたいからじゃないかしら」とヘレンがいった。「不眠症に悩ん でいるのかもね」 「読むまえになくしてしまうとはなんとも残念な話だ。彼に感想を聞いてみ たい。ぜひとも訪ねていきたいものだ」 「損益勘定につけて忘れなさいな」ヘレンがいった。「ほらほら、朗読はど うするの?」 ロジャーは個人蔵書の棚に目を走らせ、手あかのついた一冊を引っ張り出し た。 「感謝祭は過ぎたから、気分はもうクリスマスだ。そしてクリスマスといえ ばチャールズ・ディケンズだな。おまえ、いつもの『クリスマス・ストーリー ズ』じゃ、うんざりかい?」 ミセス・ミフリンは両手をさしあげ落胆の仕草をした。「彼はこの時期にな ると毎年あの本を読むの」彼女はティタニアにいった。「でも、それだけの価 値はあるわね。気さくなミセス・リリパーとはおおかたの友達よりお付き合い が深いんですもの」 「それ、なんですか?『クリスマス・キャロル』?」とティタニアがいった。 「それなら学校で読まされたけど」 「いいや」とロジャーがいった。「べつの話で、それよりはるかに出来がい いものだよ。みんな『キャロル』はいやというほど聞かされるけど、ほかの話 はこのごろ読まないようだね。わたしとしては、毎年この話を読まないとクリ スマスが来た気がしない。これを読むと古きよき時代の本物の宿屋や、本物の ビーフステーキ、そして白目のマグにそそがれた本物のエールが恋しくてたま らなくなる。お二人さん、わたしはディケンズを読んでいると、ときどき血の したたるサーロインを思い浮かべる。ほかほかに茹でたじゃがいもに、わさび 大根のおろしたやつをたっぷり添え、下にはぴかぴかのテーブルクロスを敷き、 そばには真っ赤に燃えるイギリス製の石炭ストーブ――」 「どうしよもない夢想家ね」とミフリン夫人がいった。「彼の話を聞いてい ると、ディケンズが死んでこのかた、だれもまともな食事をしていないみたい に思えてきちゃう。下宿のおかみさんもリリパー夫人とともに死に絶えたん じゃないかと思えてくるわ」 「それはひどすぎます」とティタニアがいった。「わたしがブルックリンで 食べたじゃがいもくらいおいしいじゃがいもはきっとないでしょうし、ここで 会ったおかみさんくらい優しいおかみさんはいないと思うわ」 「そうだね」とロジャーがいった。「もちろん、そのとおりだ。しかしそれ でもヴィクトリア朝のイギリスが消えたとき、なにかが世界からなくなったん だよ。二度ともどってこないなにかがね。たとえば乗合馬車の御者だ。じつに はつらつとした、人間味のある連中だった!
彼らに比較できるような人間が 今いるだろうか?
地下鉄のドアの開閉係? タクシーの運転手?
深夜営業 の軽食堂をいろいろうろついて運転手たちの話に耳を傾けてきたが、彼らはあ まりにもせわしなく動きまわるため、ディケンズが類型化したようには彼らの 姿をとらえることはできない。ほら、そうしたものはスナップ写真では写し撮 ることができないんだ。タイム露出による写真でなければならない。でも軽食 堂の食べ物が非常にうまいことは請け合うよ。最高の食事にありつける場所は、 例外なく運転手がたむろする店のカウンター席だ。彼らは寒いなかを運転して ものすごく腹を空かせているから、食事のときはあったかくてうまい物をほし がる。ブロードウエイ七十七番街の近くにフランクスという小さな店があるが、 そこのハムエッグとフレンチフライはピックウイック氏が食べたのに負けない くらいおいしいよ」 「わたし、ぜったいエドワードにそこに連れて行ってもらいます」とティタ ニアがいった。「エドワードはうちの運転手なんです。アンソニアにお茶を飲 みに行ったことがあるの。あそこから近いわね」 「やめたほうがいいわ」とヘレンがいった。「ロジャーがそういう店に行っ て帰ってくると、タマネギのにおいがぷんぷんして涙が出るくらい」 「アシスタント・シェフの話をしていたんだったな」とロジャーがいった。 「それなら『だれかの手荷物』を読むとしよう。これは給仕長の話だからね。 わたしは、いまどきそんな給仕長が実際にいるのかどうか知りたくて、よく給 仕か給仕の手伝いになりたいと思ったものさ。人間の本質にたいする知識をひ ろげ、人生が文学にあらわれているのとおなじくらいいいものかどうか調べる ためにも、ありとあらゆる職業についてみたいのだ。ウエイターにもなりたい し、床屋、売り場監督――」 「ロジャーったら。朗読をはじめたら?」 ロジャーはパイプの灰を落として、ボックを椅子から追い払い、腰をおろす と、かぎりない喜びを味わいながら、居酒屋好きならだれもが愛する給仕長、 クリストファーの印象深い人物描写を読み出した。「『このつたない書き物は 給仕の手になるものであり』」彼ははじめた。編み棒はせっせと動き、炉格子 のそばの犬は寝そべって、仲のよい友達に囲まれた犬のみが知る、贅沢な忘我 の境地にひたっていた。ロジャーはことのほか上機嫌で、とりわけ聞き手がも らす小さな笑い声に気をよくしていたのだが、第一章をあと十ページもすすめ ば、興趣尽きないあの喫茶室の請求項目に至るというとき――最近のホテルの 請求書がこのように書かれていないのはなんとも残念なことだ――店のベルが からんと鳴った。パイプとマッチ箱を取り上げ、「いつもこうなんだ」とぼや くと、彼は急いで部屋を出た。
訪問者が例の宣伝マン、オーブリー・ギルバートであることを知って、彼は うれしい驚きを味わった。 「やあ、きみか!」と彼はいった。「きみのためにとっておいたものがある。 ジョゼフ・コンラッドの引用でね、宣伝に関するものだ」 「おもしろそうですね」とオーブリーがいった。「わたしも持ってきたもの があります。この前の晩、ご馳走していただいたので、勝手ではあるんですが、 たばこをお持ちしました。ほら、ブルー・アイド混合たばこの缶です。わたし の大好きなやつで、気に入っていただけるといいんですが」 「こいつはいい。こんなに親切にしていただいたからには、コンラッドの引 用は免除してさしあげるべきだろうな」 「ちっともかまいませんよ。どうやら広告を酷評しているみたいですね。聞 かせてください!」書店主は机に引き返すと、散らかったなかから、ようやく 彼が書いた紙片を見つけた。
しかし私とても、人類同胞に対する愛情がないわけではないので、現代の宣伝 方式をいささか嘆きたくなることがある。たしかに現代の宣伝方式は、個人個 人の経営の才、創意工夫、厚かましさ、敏腕などの特質を遺憾なく証明してい るのかも知れないが、私の眼には、人間精神の堕落の一形式である騙されやす さ《ガリビリティ》が、広く蔓延している証拠としか思えない。 ジョゼフ・コンラッド
「どう思うかね?」とロジャーがいった。「これは『無政府主義者』という 話に出てくるんだが」 「わたしはなんとも思いませんよ」とオーブリーがいった。「あなたのお友 達、ドン・マーキスが先日、夕刊でいっていたように、思想を信じる人がなに をしようと、かならずしも思想それじたいにその責めがあるわけじゃないです からね。コンラッド氏はいかがわしい広告をいくつかご覧になったんでしょう。 それだけのことです。いんちきな広告があるからといって、宣伝の原則が悪い とはいえません。でもそんなことより、わたしがここに来たほんとうの理由は これを見せたかったからなんです。今朝のタイムズに出ていました」 彼はポケットから「なくしもの」の欄の切り抜きを取り出したが、それはす でにロジャーが注目したものだった。 「ああ、それはちょうど見たところだ」とロジャーはいった。「棚からその 本がなくなっていたが、きっとだれかが盗んだのだろう」 「そのことでお話ししたいことがあるんです」とオーブリーがいった。「今 晩、わたしはオクタゴン・ホテルでチャップマン氏と夕食をともにしました」 「そうだったのかい?
知ってるだろうが、お嬢さんが今ここに来ている よ」 「そうおっしゃってました。なんだかおもしろい巡り合わせですね。先日、 ミス・チャップマンがお宅で働くことになっていると聞いて、アイデアが浮か んだんです。それなら彼女のお父さんはブルックリンに格別の興味を抱いてい るだろうから、ここブルックリンでデインティビッツ製品の展示キャンペーン をはるのはどうだろうと思ったんです。あの会社の販売促進キャンペーンはう ちが一手に引き受けているんです。もちろん、お嬢さんがここに来ることに なっていることなど、わたしは知らないふりをしてましたが、でも話の最中に ご自分でそのことをもらしたんです。さて、ここからが本題です。わたしたち は十四階のチェコスロバキア・グリルで夕食を取ることになっていたのですが、 エレベーターであがっていくとき、シェフの制服を着た男が本を持っているの を見たんです。わたしはなんの本だろうと思って彼の肩越しにのぞきました。
当然、料理の本だろうと思っていました。そうしたら『オリバー・クロムウェ ル伝』だったんです」 「すると彼は本を取りもどしたんだね?
彼と話をしに行かなければならな いな。カーライルのファンなら、お見知りおき願いたいものだ」 「待ってください。わたしは今朝の新聞で『なくしもの』の広告を見ていま した。あの欄はいつも目を通すんです。宣伝企画のヒントをつかむことがしば しばありますから。人が心から取りもどしたいと思うものを調べれば、彼らが ほんとうに大切にしているものがわかります。大切にしているものがわかれば、 どんな製品の宣伝をもっと拡大すべきか、情報をつかむことができます。なく しもの欄に本が出てきたのはわたしの知るかぎりはじめてでした。だからわた しは『書籍業が浮上してきたぞ』と思いました。それで例の本を手にしたシェ フを見たとき、わたしは冗談のように『本が見つかったんだね』といったんで す。彼は外国人のような風貌の髭もじゃの男でした。シェフにしては変わって いますね。スープに浸かってしまいそうですもの。彼はまるでわたしが肉切り ナイフを突き立てようとしているみたいに見返してきました。その様子はこっ ちが怖くなるくらいでした。『うん、そうなんだ』と彼はいい、本を脇の下に はさんで見えなくしてしまいました。なかば怒ったような、なかばおびえたよ うな感じでした。それで、もしかしたら客用のエレベーターには乗ってはいけ ないことになっていて、支配人に言いつけられるのを恐れているのではないか と思いました。ちょうど十四階に着こうとしたとき、わたしは彼に小声でいっ てやりました。『大丈夫、だれにも言いやしないよ』って。そのときの彼のお びえかたといったらありませんでしたよ。真っ青になったんです。わたしは十 四階でおり、そのあとから彼もおりてきました。話しかけてくるのかなと思っ たんですけど、チャップマン氏がロビーにいて、その機会がありませんでした。 でも彼はわたしが最後の救いのチャンスででもあるかのように、グリルに入る のを見ていたんです」 「可哀想にその男は本を盗んだかどで警察に訴えられると震えてたんじゃな いかな。なに、気にしなくてもいい、本は彼にやるさ」 「彼が盗んだんですか?」 「わからない。しかしだれかが盗んだんだろう。ここから消えたんだから」 「いやいや、待ってください。ここからおかしなことになるんです。わたし は、新聞の広告を見たあと、彼に会うなんて妙な偶然だなと思っただけで、そ のことは忘れてしまいました。チャップマン氏と長いこと話をし、プルーンと ポテトチップスのキャンペーン・プランを議論しました。わたしが参考までに 用意したキャッチコピーも見せたんです。それからお嬢さんのことをお話に なって、わたしはあなたと知り合いであることを打ち明けました。わたしはオ クタゴンを八時ごろ出ました。そして地下鉄でここにかけつけ、あなたになく しものの広告を見せ、たばこをわたそうと思ったんです。そしたらアトラン ティック・アヴェニューで地下鉄をおりたとき、なんと、あのシェフをまた見 かけたんです。おなじ列車をおりたんですよ。そのときはもちろん私服を着て いたんですが、白い制服とパンケーキ・ベレーを脱いだその姿を見たら、すぐ ある男のことを思い出しました。だれを思い出したと思います?」 「想像もつかない」ロジャーはすっかり話しに引き込まれていた。 「ほら、わたしがここに来た最初の晩、あの本を探しに来た教授みたいな格 好の男ですよ」 「ほう! そいつはきっとカーライルに夢中なんだ。あの晩、本があるかと 聞かれてわたしが見つけられなかったとき、ひどく失望していたからね。かな らずあるはずだといい張るので、わたしは変なところに置かれていないかと歴 史の棚をしらみつぶしに探したことを覚えている。彼は友達からここにあるの を見たと聞いて、わざわざ買いにきたのだそうだ。市立図書館に行けばきっと 一冊手にはいるといったんだが、それじゃだめだというんだ」 「あいつは頭がおかしいですよ。だって地下鉄を出てから通りをずっとつけ てきたんですよ。絶対まちがいない。マッチを買おうと角の薬局に立ち寄った んですが、そこを出たとき、彼は街灯の下に立っていたんです」 「カーライルじゃなくて現代の作家だったら、世間の注目をひこうと出版社 がうしろで糸を引いているとも考えられる。あの連中は作者の名前を印刷物に 載せるためならどんなことでもやるからね。しかしカーライルの著作権はとっ くに切れているから、そんなことをしても意味がないんだがな」 「サミュエル・バトラー風卵のレシピを盗もうとして監視しているんじゃな いでしょうか」そうオーブリーはいい、二人は声をあげて笑った。 「なかに入って妻とミス・チャップマンに会っていきなさい」ロジャーは いった。若者は弱々しく遠慮したのだが、書店主には彼がミス・チャップマン と知り合いになれる機会を、胸を高鳴らせて待っているのが手に取るようにわ かった。 「こちらはわたしの友人だよ」ロジャーがオーブリーを小部屋に案内すると、 ヘレンとティタニアはあいかわらず暖炉のそばに座っていた。「おまえ、オー ブリー・ギルバートさんだよ。ミス・チャップマン、こちらはギルバートさ ん」 オーブリーの意識には本の列や、燃えさかる石炭や、ふくよかな女主人、そ して人なつこいテリヤがぼんやりと映っていた。しかし聡明な若者の心はひた すら一点に焦点を合わせ、こうしたものはすべてにこやかな見習い店員の添え 物に過ぎなかった。若者の感覚はどれほどすばやく真に重要なデータをかき集 め吸収してしまうことか! そちらの方に視線をむけた様子もないのに、彼は 人間に可能なもっとも驚くべき電光石火の計算をやってのけたのだった。彼は 知り合いの若い女性をすべて足し算し、その総計が目の前の娘に及ばないこと を知った。太陽系と広告商売を含めて、自分が知る宇宙からこの新しい驚異を 引き算すると、残りがマイナスの数字になることに彼は気がついた。自分の知 性の内容に、いつまでも変わることがないと彼が勝手に決めつけた、ティタニ アの美という定数を乗じると(わたしの思い違いでなければ、教師はこのこと を「掛け合わす」といっていた)、そこから玉のような赤ちゃんが生まれてき たので一驚した。そして自分の経歴を、左手の肘掛け椅子のなかの存在で割っ てみると、まったく商が立たないのだった。ロジャーが椅子をもう一つ持ち出 すあいだに、彼はこうした計算をすべてやってのけたのだ。
育ちのよい若者が持つべき礼儀正しさで、オーブリーがまず本能的に考えた ことは、女主人との挨拶をきちんとすませなければならない、ということだっ た。彼は青い眼、絹のシャツウエスト、そしてすてきな形のあごを断固として 心の目から追い出した。 「お招きいただいてありがとうございます」彼はミセス・ミフリンにいった。 「先だっての晩にこちらにお邪魔しまして、ミスタ・ミフリンに夕食をご馳走 していただきました」 「お会いできてうれしいわ」ヘレンがいった。「あなたのことはロジャーか ら伺ってます。夫の変な料理で食中毒なんか起こさなかったでしょうね。ハロ ルド・ベル・ライト風桃のブランデー漬けを見たらびっくりすると思うわ」 オーブリーは愛想よく大丈夫でしたといいながらも、視線をあるべき場所 (と彼が感じていたところ)から必死になってそらそうとしていた。 「ミスタ・ギルバートはついさっきおかしな体験をしてね」とロジャーが いった。「その話をしてくれないか」 オーブリーははなはだむこう見ずにも、好奇心に満ちた青い稲妻にわざと身 を投げ出し、その直撃を受けて身体の自由がきかなくなってしまった。「オク タゴンであなたのお父さんと夕食をごいっしょしていたんです」 その青く輝く高圧電流は「楽しき我が家《オーム・スイート・オーム》」 (註 電気抵抗の単位オームとホームをかけて)のように感じられたが、いっ ぺんに当たりすぎるのは、さすがにヒューズが飛ぶのではないかと心配になっ て、彼はあわててミセス・ミフリンのほうにむきなおった。「じつはですね」 彼は説明した。「わたしはミスタ・チャップマンの広告をたくさん作っていて、 仕事の相談をするため会う約束をしたんです。いまプルーンの一大キャンペーン を計画しているところなんです」 「お父さんは働き過ぎだわ。そう思いません?」ティタニアがいった。 オーブリーはミス・チャップマンの家庭事情という庭園にいたる好都合な話 題だと思って歓迎したのだが、ロジャーはシェフとクロムウェル伝の話をして くれと強くうながした。 「その人、ここまであなたをつけてきたの?」ティタニアが大声を出した。 「なんておもしろいんでしょう!
本のお仕事がこんなに刺激的だなんて知ら なかったわ」 「今晩はドアに鍵をかけたほうがいいわ、ロジャー」とミセス・ミフリンが いった。「さもないと『大英百科事典』を丸ごと持って行かれるかもしれな い」 「なにをいっているんだ、おまえ」とロジャーがいった。「わたしはすばら しいニュースだと思う。つつましい職業の男がよい本ほしさのあまり本屋を見 張って本をくすねる機会をうかがっている。これほど心強いことは聞いたこと がない。『パブリシャーズ・ウイークリー』に投稿しなければならん」 「あのう」とオーブリーがいった。「みなさんのささやかなパーティのお邪 魔になるでしょうから、わたしはこれで」 「邪魔なんかしておらんよ」とロジャーがいった。「わたしたちは朗読をし ていただけだ。ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』は知っているか ね?」 「残念ながら」 「朗読をつづけようか?」 「お願いします」 「ええ、ぜひ」とティタニアがいった。「ミスタ・ミフリンはロンドンの焼 き肉レストランに勤めるすてきなボーイ長の話を読んでいたのよ」 オーブリーはパイプを吸う許可を請い、ロジャーは本を取り上げた。「しか し喫茶室の勘定書を読み上げるまえに、軽く飲み物でもいただいたほうがいい だろう。この一節はなにかやりながらでないと読むことができない。おまえ、 みなさんにシェリーを一杯さしあげるのはどうだい?」 「お恥ずかしい話なんですけど」とミセス・ミフリンがティタニアにいった。 「夫はなにか飲みながらでないとディケンズが読めないの。禁酒法が施行され たらディケンズの売れ行きはがくんと落ちるんじゃないかしら」 「わたしは一度ディケンズの作品のなかでどのくらい酒が飲まれているか一 覧表を作ったことがある」ロジャーがいった。「その総計たるや驚くべきもの だよ。たしか大樽で七千個分なんだ。そういう計算はじつに楽しい。わたしは ロバート・ルイス・スティーブンソンの物語に出てくる暴風雨について短い随 筆を書こうといつも思っている。ほら、R・L・Sはスコットランド人だから 雨にくわしいんだよ。ちょっと失礼して地下室から瓶を取ってくる」 ロジャーは部屋を出、残りの者は地下室へおりていく彼の足音を聞いていた。 ボックは犬の習性にしたがって彼のあとについて行った。地下室のにおいは犬 にとってはすばらしいご馳走である。独特の風味を持つ古いブルックリンの地 下室はとりわけそうだった。かまどから暖かい光がさし、ロジャーが焚きつけ 用に使っている、荷箱を割って作った薪がうずたかく積まれた幽霊書店の地下 室は、ボックにとってはうっとりするような場所だった。ざくざくと石炭をす くうシャベルの音と、その石炭のかたまりを鉄のシャベルから火のなかへ放り 込むしゅっという心地よい音が下から聞こえてきた。ちょうどその時、店のベ ルが鳴った。 「わたしに行かせて」ティタニアが飛び上がっていった。 「わたしが行きましょうか?」とオーブリーがいった。 「とんでもない!」ミセス・ミフリンは編み物を下に置きながらいった。 「二人とも在庫のことはなにも知らないでしょう。座って楽になさってて。す ぐもどりますから」 オーブリーとティタニアはもじもじしながらたがいを見つめた。 「お父様から、よ……よろしく伝えてくれとのことでした」とオーブリーが いった。それは彼がいおうとしていたことではなかったのだが、しかしどうい うわけか彼にはその言葉を発することができなかった。「いっぺんに全部の本 を読もうとしてはいけないよ、といっていました」 ティタニアが笑った。「ここにいらっしゃるまえに父に会うなんておかしな 偶然ね。お父さんてかわいいところがあると思わない?」 「じつはビジネス上のおつきあいしかなくて。でも確かにすばらしい方です。
広告の力も信じていらっしゃる」 「あなたは本がお好き?」 「いえいえ、本とはあまり縁がありませんでした。きっとものを知らない人 間だとお思いになるんじゃないかな――」 「そんなことない。わたしはうれしいわ、世のなかにある本をみんな読んで ないことが罪じゃないと思える人に会えて」 「ここは変わったお店ですね」 「そうね。幽霊書店なんて名前もおかしいわ。どういう意味なのかしら」 「ミスタ・ミフリンがいうには、偉大な文学の霊にとりつかれているってい うことらしいです。連中があなたに迷惑をかけなければいいんですが。トマ ス・カーライルの霊はとても活動的なようですね」 「幽霊なんて怖くないわ」ティタニアがいった。 オーブリーは火を見つめた。彼は、自分も事情があってこの店にちょいとと りつこうと思っている、といいたかったのだが、どうすれば警戒されずに打ち 明けられるかが、わからなかった。そのとき、ロジャーがシェリー酒の瓶を 持って地下室からもどってきた。彼がコルクを抜いているとき、店のドアの閉 まる音が聞こえ、それからミセス・ミフリンが部屋に入ってきた。 「あのね、ロジャー」と彼女はいった。「クロムウェルがそんなに大事なら、 この部屋にしまっておいたほうがいいわよ。ほら、見て」彼女はその本をテー ブルに置いた。 「これは驚いた!」ロジャーが叫んだ。「だれがこれをもどしてくれたん だ?」 「あなたのお友達のアシスタント・シェフだと思うわ。ともかく彼はクリス マス・ツリーみたいな髭を生やしていた。とても礼儀正しかったわ。自分はと てもうかつだった、先日、ここで本を見ていたんだけど、うっかりこいつを 持って店を出てしまったっていうの。迷惑をかけた分、お金を払うといったん だけど、もちろんわたしは断ったわ。あなたを呼んできましょうかって訊いた んだけど、急いでいるからって」 「それはなんだかがっかりだな。わたしは本物の愛書家を見つけたと思った んだが。さて、それではミスタ・トマス・カーライルの健康に乾杯しよう」 みんなは乾杯をし、椅子に座った。 「それからあたらしい従業員にも乾杯」とヘレンがいった。これもあっとい う間に杯が乾された。オーブリーは勢いよくグラスをからにし、ミス・チャッ プマンの明敏な目はそれを見逃さなかった。ロジャーはディケンズに手を伸ば しかけた。しかしまず最初に彼の愛すべきクロムウェルを取り上げた。彼は注 意ぶかくそれを眺めていたが、ふと本を明かりの近くにかざした。 「謎はまだ解明されたわけじゃないぞ。これは製本しなおしてある。もとも との装丁じゃない」 「まちがいない?」とヘレンは驚いていった。「おなじに見えるけど」 「装丁はうまく似せてあるが、わたしはだまされないよ。だいいち、上の角 がすり切れていて、見返しにインクの染みがあったんだ」 「染みならまだついてますよ」オーブリーは肩越しにのぞき込んでいった。 「ああ、しかしおなじ染みじゃない。長いこと手元にあったからすっかり覚 えているんだ。いったいあの変人はなんのために製本しなおしたんだ?」 「まったくもう」とヘレンはいった。「さっさとしまって忘れてしまいなさ い。用心しないとみんなの夢のなかにまでカーライルが出てくるわ」