幽霊書店

第三章 ティタニア到着

Chapter 4 11,215 words Public domain Markdown

朝食後の最初の一服は年季の入った喫煙家にとっていささか重要な儀式であ る。ロジャーは階段の下にたたずみ、パイプの火皿に火をいれた。強烈な青い 煙がもうもうと吹き出され、急いで階段をのぼる彼の背中で渦を巻いた。その あいだ、彼の頭はもうすぐやってくる雇用人のために小さな空き部屋を準備す るという楽しい仕事のことでいっぱいだった。そして階段をのぼりきったとき、 彼はパイプの火がすでに消えていることに気がついた。「パイプを詰めたりか らにしたり、火をつけたりつけ直したりで、人生の大事な問題にあまり時間を さけないような感じだな。考えてみると、人生というのはどのみち、たばこを 吸ったり、お皿を汚して洗ったり、人と話のやりとりをしたりして、その大半 が過ぎていく」 この考え方はなかなかおもしろいと思い、彼はまた一階におりていって、そ のことをミフリン夫人に告げた。 「さっさと部屋の支度をしてしまいなさい」彼女はいった。「こんな朝早く からおかしな説法はやめてちょうだい。朝ご飯が終わったら家庭の主婦は哲学 なんかやっている暇はないの」 ロジャーは新しい助手のために客室を準備するという仕事を存分に楽しんで いた。それは裏に面した二階の小さな寝室で、ドアを開けると狭い通路があり、 その通路はべつのドアを隔てて店の回廊部分に繋がっていた。二つある小窓か らは、そのあたりのブルックリンのつつましい屋根々々が見えた。その下には おなじ数だけのたくましい人々と、乳母車と、まずいコーヒーをいれたカップ と、チャップマン・プルーンの箱が隠れていた。 「ところで」彼は一階に呼びかけた。「今晩の夕食にプルーンを用意してお いたほうがいいぞ。ミス・チャップマンに敬意を表して」 ミフリン夫人はユーモアたっぷりに黙っていた。 こうしたあたりさわりのない首脳会議のあいだ、ミフリン夫人が手ずから選 んでアイロンをかけた、ぱりっとした綿モスリンのカーテンをかけながら、店 主はその光る目でニューヨーク湾に浮かぶ巨大なフェリー、スタテン島と文明 をつなぐ船の姿をとらえていた。「眺めにほんのすこしロマンがあればいい」 と彼は思った。「世間ずれした若い娘に生きることの刺激を思い出させるには、 それで充分だろう」 ヘレン・ミフリンが采配をふるう家だから当然予想されるように、その部屋 はどんな住人でも受け入れられるよう万全の用意がととのえられていた。しか しロジャーは間借り人となるべき迷える若者に(彼が考える)好ましい精神的 影響を与えることができるよう、みずから一工夫することをかって出たのだ。

救いがたい理想主義者である彼は家主として、かつチャップマン氏の令嬢の雇 い主として、責任を重く受け止めていた。いかなる部屋のあるオウム貝も、傷 つきやすい魂の館を広げるのに、これ以上望ましい機会に恵まれることはない だろう。(註 人間の知性の成長をオウムガイに喩えたオリバー・ウエンデ ル・ホームズの高名な詩から) ベッドの脇には読書灯つきの本棚があった。ロジャーが考え込んでいた問題 は、このたった一人の会衆にたいして、どんな本と絵がもっとも優れた説教師 になるだろうかということだった。ミセス・ミフリンはひそかにおかしがって いたのだが、彼は以前そこにかけていたサー・ガラハッド(註 アーサー王伝 説に出てくる高潔の騎士)の絵をはずしてしまっていた。その絵をかけた理由 は(彼がいうには)サー・ガラハッドがいま生きていたなら、本屋になっただ ろうから、というものだった。「彼女が若いガラハッドにうつつをぬかすよう では困るな」彼は朝食の席でそういった。「その先には早すぎる結婚が待ち受 けている。わたしがやりたいのは、彼女の部屋によく撮れた現実の男の写真を 一枚か二枚貼ることだ。全盛期には魅力にあふれ、彼女が目にしそうな若者な ど、どれも生ぬるく欲の皮が張っているようにしか見えなくなる男だ。そうす れば今どきの若者に愛想をつかし、本屋の仕事に本気で打ち込むようになるか もしれない」 そこで彼は出版社の「宣伝担当」がいつもどさりと置いていく作者の写真と 肖像画を入れた蓋つきの大箱をひっくりかえして、しばらく時間を過ごしたの だった。ひとしきり考えたあと、彼はよさそうに思えたハロルド・ベル・ライ トとスティーブン・リーコックの銅版画を捨てて、シェリー、アンソニー・ト ロロープ、ロバート・ルイス・スティーブンソン、そしてロバート・バーンズ の写真を選んだ。それからさらに熟慮をかさね、シェリーもバーンズも若い女 性の部屋にはいまひとつむいてないと判断し、それらを除外してサミュエル・ バトラーの肖像画を採用することにした。このほかに彼がとても気に入って、 自分の机の前にかけていた額入りの記事をつけ加えた。以前、ライフ誌から切 り抜いたもので、彼はこれを読むとおおいに愉快な気持ちになった。それはこ んな内容である。

友に貸したる 本のもどりきたりて

この本が友人の書棚と、そのまた友人の書棚という危地を乗り越え、思った 以上によい保存状態で手元にもどってきたことにたいし、わたしは謙虚に心か らの感謝を捧げる。

友人がこの本を幼児のおもちゃにおあつらえむきだと思わなかったことにた いし、あるいは火のついた葉巻の灰皿代わりや、マスチフ犬の輪形おしゃぶり の代わりにしなかったことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。 この本を貸したとき、わたしはもうなくしたも同然だと思っていた。わたし は長い別れのつらさを受け入れた。そのページを二度と目にすることはないと 思った。 しかしその本がもどってきたのだから、わたしは嬉しくて天にも昇る心持ち だ! やわらかくなめしたモロッコ革を持ってきたまえ。製本しなおし、名誉 の棚に飾ってやろう。なぜならこの本は人に貸し出され、ふたたびもどってき たのだから。 そういうわけだから、わたしが借りた本のうち何冊かはもうじき返してやっ てもいいだろう。

「よしよし! これを読めば、書物にたいして守るべきいちばん大事な徳義 がわかるはずだ」 これらの飾りを壁にかけ、彼はベッド脇の書棚に置くべき本を考えた。 これはごくごく念をいれて検討すべき問題である。ある権威たちは、客室に ふさわしい本は苦もなくたちどころに休息へといざなう催眠作用のある本だと 考える。この一派が勧めるのは「国富論」、「帝政下のローマ」、「萬国年 鑑」、ヘンリー・ジェイムズのある種の小説、そして「ヴィクトリア女王書 簡」(全三巻)である。このような本は(夜遅くには)一度に数分しか読むこ とができず、それでいて有益な知識の断片を与える、というのが彼らのもっと もらしい議論である。

別の一派が勧める就寝前の読み物は短編小説、短い逸話集など、さっと読め て生きがよく、しばらくは目覚めた状態でいさせてくれるが、それだけに最後 にはいっそう心地よい眠りをもたらす作品だ。こちらの先生方は幽霊談や痛ま しい話さえよかろうと言う。この手の読み物にはオー・ヘンリー、ブレット・ ハート、レナード・メリック、アンブローズ・ビアス、W・W・ジェイコブズ、 ドーデ、ド・モーパッサン、さらに場合によってはあの鉄道売店の嘆かわしい 古典、作者トマス・W・ジャックソン氏が「これは永遠に売れるし、永遠の千 年後にも売れるだろう」と語った「アーカンソー横断 普通列車の旅」すらふ くまれる。さらにジャックソン氏が人間の知性に攻撃を加えたべつの一冊、 「おれの生まれはテキサス 人の指図は受けない」も加えていいだろう。この 本は(作者によると)「固ゆで卵みたいなもので、白身と黄身を攪拌しようっ たって、そうはいかない」というものだそうだ。ジャックソン氏の本はほかに もあって、タイトルは思い出せないが、「これらは悲しみを吹っ飛ばすダイナ マイトだ」と彼は話している。ミフリンにとって客がこうした作品を求めてく ることくらい腹立たしいことはなかった。彼の義兄で作家のアンドリュー・マ ギルは以前(単なる嫌がらせから)業界で「鳩色ウーズ」と呼ばれているビ ロード仕上げの革に金文字をあしらった麗々しい装丁の「アーカンソー横断 普通列車の旅」をクリスマスプレゼントとしてロジャーに贈ったことがある。 ロジャーは仕返しにロバート・コルテス・ホリデーが「浮き出し模様のついた ヒキガエルの皮」と評する装丁の「偶像破壊主義者ブラン」二巻を(相手のつ ぎの誕生日に)贈った。しかしこれは物語とは関係のない話だ。 ロジャーはミス・ティタニアの書棚になにを置こうかと考えながらたのしい 朝の時間を過ごした。何度かヘレンが、下におりて店番をしなさいと声をかけ たが、彼は床に座ったまま足のしびれも忘れて、最後の間引きのために二階に 運びあげた本を眺めまわしていた。「たいへんな特権だよ」と彼はひとりごち た。「若者の心を感化するというのは。妻は、たしかにすばらしい女性だが ――わたしが幸運にも彼女に出会ったとき、彼女はどこから見ても分別盛りの 年だった。心の成長を適切に監督するなど不可能だった。しかしチャップマン の娘はまったく白紙の状態でうちに来るわけだ。父親の話だと、彼女は上流階 級の子女がつどう学校に行っていたらしい。それなら、やわらかい心のまきひ げはきっとまだ芽生えていないだろう。ひとつ(彼女に気づかれないように) ここに置く本を使って彼女をためしてみよう。そのどれに反応するかで、今後 の方針が立てられる。週に一度は店を閉めて文学について短い話をしてやるの もいいかもしれない。たのしみだな! そう、『トム・ジョーンズ』を手はじ めに、イギリス小説の発達に関するミニ講座とか――いや、これはだめだ! しかし、わたしは教師になるのが夢だったし、これはそのいいきっかけにな るかもしれない。隣近所に声をかけて週に一度こどもたちを集め、小さな学校 をはじめる。実際は『月曜閑談』をするってわけだ! わたしはブルックリン のサント・ブーブと呼ばれるかもしれないぞ」 新聞記事の一節が彼の頭をよぎった――「この類いまれな文学の徒はその輝 かしい才能を古本屋の店主というつつましい外見の下に隠しているが、今や衆 目の認めるところ――」 「ロジャー!」ミセス・ミフリンが階下から呼びかけた。「お店に来てちょ うだい! お客さんが『フォウミー・ストーリーズ』のバックナンバーがある か知りたいんですって」 邪魔者を追い出してから、ロジャーはまた考え込んだ。「この選定は」と彼 は物思いに沈んだ。「もちろん、仮のものでしかない。予備試験的に彼女がど んなものに関心を示すか、調べるためのものだ。まず選ぶべきは、彼女の名前 からして当然シェイクスピアとエリザベス朝の文人たちだ。すばらしい名前だ な、ティタニア・チャップマンというのは。プルーンには偉大な徳が備わって いるにちがいない!

一冊目はクリストファー・マーローにしよう。それから キーツ。若い人はりんとした冬の月夜に『聖アグネス祭前夜』を読んで身震い すべきだ。『ビマートン書店の二階で』も入れなければ。なにしろ本屋の話な んだから。ユージーン・フィールドの『トリビューン初等読本』は彼女のユー モアのセンスをためすのにいい。それからおなじ理由で『アーチー』はぜひ入 れなければ。下にいってアーチーのスクラップブックを取ってくるか」 ロジャーがニューヨーク・イブニング・サンのユーモア作家、ドン・マーキ スの熱烈な崇拝者だったことを説明しておくべきだろう。マーキス氏はかつて ブルックリンに住んでいたことがあり、店主は彼のことをウォルト・ホイット マン以来、この街に栄誉をもたらしたもっとも傑出した作家であると、倦むこ となく語った。アーチーは想像上のゴキブリで、彼を通してマーキス氏はきわ めて良質な笑いを表現するのだが、ロジャーはこれをいつも心を躍らせながら 読み、アーチーの切り抜きはすべてスクラップブックに保存していた。いまロ ジャーはこの分厚い本を、とりわけ大切な宝物を保管する机の横の穴から取り 出した。彼はそれにぱらぱらと目を通し、ミフリン夫人は彼が甲高い笑い声を あげるのを聞いた。 「いったいそれはなんなの?」彼女は訊いた。 「なに、アーチーだよ」彼はそういって、朗読をはじめた。

都会の下にワイン貯蔵庫があり 老人ふたりが座って酒を飲んでいる 服は破れ 髪にも髭にもほこりが混じり 一人はコートを着ていたが 足は素足にひとしいありさま 頭の上を電車が走る 聖誕祭を祝うため 家路を急ぐしあわせな人々を乗せ アディロンダックスの山中では猟師たちが鉄砲を撃ち 半島沖の海を大きな船が航海していた 小さな女の子がやってきて おじいちゃんにキスをねだった まだ小さくてよちよち歩きもままならない おじいちゃん キスして ナニーちゃんにキスして でもおじいちゃんは彼女の頭にウイスキーの瓶を投げつけた 外では雪が舞いはじめ 遙か海上を水夫を乗せた船がゆく 天使のようなナニーはもう一言もしゃべらない 祖父は笑ってウイスキーの悪魔に乾杯した もう一人の男が口を開いた 彼はやつれてぐったりしていた 涙が頬をつたっていた 涙のほかはただ青白い顔 あの子はエリー湖をわたって仕事に通う両親が大好きだった 兄貴 あの子をぶつのはすこし軽率だったんじゃないかい しっかりおめかしして会いに来たんだ 母親の庭からクリスマス用の花を摘んで ハドソン川の下のトンネルをくぐって 兄貴 血も涙もなくなったのはラム酒のせいかい

「いったいそれのどこがおもしろいっていうの?」ミセス・ミフリンがいっ た。「なんてかわいそうな女の子でしょう。そんなのひどいわよ」 「先があるんだ」ロジャーはそういって朗読をつづけようとした。 「ありがたいけど、もうたくさん」ヘレンがいった。「『谷間の恋』の韻律 をそんなふうに使うなんて罰金ものだわ。わたしは市場に行ってくるから、ベ ルが鳴ったら出てちょうだい」 ロジャーはアーチーのスクラップブックをミス・ティタニアの書棚に加え、 集めてきた本の吟味をつづけた。 「『ナーシサス号の黒人』を入れておこう」彼はつぶやいた。「物語は読ま ないとしても、序文は読むかもしれない。後世に残るという点では、これこそ 王侯の大理石の墓や記念碑をしのぐものだ。ディケンズの『クリスマス・ス トーリーズ』は下宿のおかみさんのなかのおかみさん、リリパー夫人を紹介す るために。出版社の連中は、ストランド街のノーフォーク通りというと、そこ に事務所をかまえる著作権代理業者で有名だと思っているが、あそこがリリ パー夫人の不滅の下宿があったところだと、どのくらいの人が知っているだろ う? サミュエル・バトラーの『ノートブックス』は彼女の知性にほんの ちょっぴり刺激を与えるために。『箱ちがい』は英語で書かれた最高のファル スだから。『旅は騾馬をつれて』を読めば、名文とはどういうものかがわかる だろう。『黙示録の四騎士』は人間の悲哀にたいする憐れみの気持ちを教える はずだ――いや、待てよ。若い女性には分厚すぎるかな。これははずしておい て、ほかのを見よう。モシャー氏の出版カタログ。これがいい! ある愛書家 が「書物の喜び」と呼んでいるものの本当の意味がわかるだろう。『杖の随筆 集』――そう、今でも優れたエッセイストは活躍している。合本製本した『パ ブリッシャーズ・ウイークリー』で業界の内情をすこし知ってもらおうか。 『ジョーの少年たち』はかるい気ばらしが必要なときのため。『古代ローマ 詩』と『オースチン・ドブソン詩集』は名詩に目を開かせるため。いま学校で は『古代ローマ詩』を読ませているのかな? サラミスの海戦と一七七六年の 残忍な英国軍兵士《レッド・コート》の話で子供たちを育てているような悪い 予感がする(註 米国が独立を宣言したそのすぐあとに、この小説の舞台であ るブルックリンでアメリカ軍とイギリス軍が激突している)。さて、おつぎは さりげなくロバート・チェンバーズ(註 スコットランドの著述家)を入れて 彼女の気に入るかどうか様子を見てみよう」 彼は誇らしげに書棚を眺めた。「悪くないぞ」彼はひとり言をいった。「彼 女を笑わせるためにレナード・メリックの『女に関する噂』だけつけ加えてお こう。題を見たらきっとなんだと思うだろうな。ヘレンは聖書も入れるべきだ というだろうが、彼女が読みたがるかどうか、わざと入れずにおこう」 彼は男性らしい好奇心から整理ダンスの引き出しをあけ、妻がどんな準備を したのか確かめた。どの引き出しをあけてもラヴェンダーを入れた小さな綿モ スリンの袋がほのかな香りを放っているのを見て彼は満足した。「申し分な し」彼は感想をいった。「まったく申し分なし!

足りないものといえば灰皿 くらいだ。ミス・ティタニアがときどき見かけるような現代風の女なら、まっ さきに要求してくるだろう。それとたぶんエズラ・パウンドの詩集だな。ヘレ ンがいうようなボルシェビキの雌狐じゃなければいいが」 その日の午後早く、ギッシング通りとスインバーン通りの角に止まったかが やくリムジンにボルシェビキじみたところはかけらもなかった。緑の制服を着 た運転手がドアをあけ、美しい茶色の革のスーツケースを取り出し、藤色の座 席の奥からあらわれた見目麗しい乙女にうやうやしく手をさしのべた。 「鞄はどこにお運びしましょうか、お嬢さま?」 「つらいけどお別れよ」とミス・ティタニアは答えた。「わたしの居場所を、 あなたに知られたくないの、エドワーズ。頭のおかしなわたしの友達が、あな たから聞き出すかも知れないもの。こんなところにまで来て邪魔されたくない わ。わたしは文学でとっても忙しいんだから。あとは歩いていく」 エドワーズはにこりと笑ってお辞儀をし――彼はこのユニークな若い女相続 人を崇拝していた――運転席にもどった。 「ひとつだけお願いがあるの。お父さんに電話して、わたしが仕事につい たって、言っておいて」 「かしこまりました、お嬢さま」彼女の命令であれば、リムジンを政府の貨 物自動車にだって追突させる気のエドワーズがいった。 ミス・チャップマンは手袋をはめた小さな手を、ハンドバッグのなかに差し 込んだ。このちょっと変わったハンドバッグはきらきら光る細い鎖で手首につ ながれていた。彼女は五セント白銅貨を取り出し――それは彼女に似つかわし い、ピカピカした愛想のいい五セント白銅貨だった――彼女の運転手におごそ かに手わたした。おなじようにおごそかに彼はお辞儀をかえした。車は何度か 堂々たる弧を描いたあと、たちまちサッカレー大通りをすべるように走り去っ た。 ティタニアはエドワーズが見えなくなったことを確かめ、注意深くあたりを 見まわしながら、しとやかな足取りでギッシング通りを進んだ。小さな男の子 が「ねえ、鞄を持とうか」と叫び、彼女は危うくうなずきかけたが、今や週給 二十ドルの身であることを思いだし、手を振って彼を追い払った。わたしがこ の若い女性の容貌を説明しなかったら、もちろん読者は不満を覚えるだろう。 そこで彼女がギッシング通りにそって数ブロック歩くあいだを、この目的のた めにあてようと思う。

彼女をうしろから観察する者があれば、クレメンス・プレイスに着くまでに、 暖かいツイード服が彼女の身体にぴったり合うよう仕立てられていることや、 小さな茶色のブーツがペンシルベニア鉄道のプルマンポーターのような淡褐色 のスパッツに覆われていることや、からだつきはほっそりしているが元気をみ なぎらせていることや、業界用語で「ヌートリア」と呼ばれる、オパールのよ うに白濁した色の高価な襟巻きをしていることに気がつくはずだ。うしろを歩 く観察者は思わずチンチラという言葉を思い浮かべるだろう。もしも彼が父親 なら、小切手帳に残されたたくさんのサイン入りの控えを思い浮かべるかも知 れないけれど。観察者がクレメンス・プレイスで横道にそれていたなら、彼が 得た印象は「金がかかっているが、それだけのことはある」という大ざっぱな ものにとどまるにちがいない。 しかしこの驚くべき女性の観察者は、おそらくギッシング通りをさらにすす んでハズリット通りと交わるつぎの交差点まで彼女を追って行くはずだ。そこ でうまく舗道の彼女に並び、こっそり横目を使う。抜け目のない男なら、かし いだボンネットが視界をさえぎらない右側を通るだろう。彼は(文句のつけよ うのない)かわいらしい頬とあご、どんなに曇った日でも一日じゅう太陽の光 をたたえている髪の毛を目にするだろう。心おどる境涯にあってやや進みがち なのもいたしかたないプラチナの小型腕時計も、ちらりと垣間見れるかもしれ ない。灰色がかった毛皮のなかには、野暮な春にはけっして咲かず、十一月と 五番街のショーウィンドウのなかにしか見られないスミレの花束を認めるだろ う。 この観察者は自分の用事などにはおかまいなく、ギッシング通りをさらに数 間歩きつづける。そして何気ないふうを装いつつ、半ブロック先の、道がワー ズワース・アヴェニュー高架鉄道駅へ折れるところで立ち止まり、まるでなに かを思い出し、いかにもどうしようかと迷ったふりをしてうしろを振り返った はずだ。一見なにも見ていないようだが、彼はこの光り輝く歩行者を一瞥し、 彼女の深い青い目につよい衝撃を受けることになる。決意を秘めた小作りな顔 は快活なようでいて、青春の熱気がもつ不思議な哀しさをおびていた。頬は興 奮と身が引き締まるような空気のなかを急ぎ足で歩いたせいで照り輝いて見え ただろう。観察者はきっと野生のヌートリアの毛皮と、むき出しになったなめ らかなV字型の喉元の優美な対照に気がついたはずだ。そのとき彼は、この魅 力的な女性が立ち止まってあたりを確認し、驚いたことに、どことなく陰気な 感じのする古本屋へと踏み段を駆けおりるのを目撃する。観察者はブルックリ ンが神の格別のご加護のもとにあるのだという驚くべき確信をあらたに抱いて 自分の用事を片づけにその場を去るだろう。 ロジャーはリッツ・カールトン・ホテルのロビーとセントラル・パーク乗馬 学校で育ったひねくれ者を予想していたので、この若い娘のさわやかな飾り気 のなさに目を見張った。 「ミスタ・ミフリンですか?」煙がたちこめる部屋の隅からいそいそと出て きた彼にむかって彼女はいった。 「ミス・チャップマンだね?」彼は鞄を受け取って答えた。「ヘレン! ミ ス・ティタニアがお出でだ」 彼女は店の薄暗いアルコーブを見わたした。「雇っていただいて、ほんとう にありがとうございます。父から噂はよく聞いています。父はわたしのことを 手に負えない娘だっていうんですよ。これが父のいう文学なんですね。いっぱ い勉強したいわ」 「あら、ボックね!」と彼女は叫んだ。「父が世界で最高の犬だっていって います。ボティチェリかだれかから名前をとったんですってね。わたし、彼に プレゼントを持ってきました。鞄に入れてあるの。いい子ねえ、ボッキー!」 スパッツに慣れていないボックは彼なりのやり方でそれを調べていた。 「まあ、お嬢さん」とミセス・ミフリンがいった。「お会いできてうれしい わ。うちが気に入ってくれたらいいけれど、でもどうかしらねえ。ミスタ・ミ フリンは気むずかしいから」 「あら、もちろんですわ!」とティタニアがいった。「いえ、その、きっと ここが大好きになります!

父のいうことは一言も信じちゃいけません。わた しは本に目がないんですから。売っちゃうなんて、もったいないわ。このスミ レはあなたのために持ってきたんです、ミセス・ミフリン」 「なんてご親切なこと」すでに彼女の虜になっていたヘレンはいった。「い らっしゃい。さっそく水にさしておきましょう。部屋に案内するわ」 ロジャーは二人が二階で動きまわる音を聞いた。彼は急に自分の店が、若い 娘をおくには、いささか陰気な場所ではないかと思えてきた。「レジの器械を 入れておくべきだったな」と彼はぼんやりと考えた。「どうも商売人らしくな いと思われそうだ」 「それじゃ」ティタニアとふたたび下におりてきたときミセス・ミフリンが いった。「わたしはケーキを焼くから、あなたは雇い主におかえしするわね。

彼がお店のなかを案内して、本がどこにあるか教えてくれるわ」 「そのまえに」とティタニアがいった。「ボックにプレゼントをわたすわ」 彼女は大きな薄葉紙の包みを見せ、幾層にもなった被いをといて、やっと一本 の頑丈な骨を取り出した。「シェリーでお昼を食べたんです。そのとき、ボー イ長に頼んでこれをもらったの。大笑いされちゃったけど」 「台所に来てあげてちょうだい」とヘレンがいった。「彼はあなたの生涯の 友になるでしょう」 「すてきな犬小屋!」荷箱を改造してつくったボックのねぐらを見たとき、 ティタニアが叫んだ。店主の器用な大工仕事の結果、荷箱はカーネギー図書館 の模型に変じていた。ドアの上には「閲覧室」と書かれたプレートがかかり、 内部には本棚の絵が描きこまれている。 「しばらくしたらあなたもミスタ・ミフリンに慣れるでしょう」ヘレンが愉 快そうにいった。「自分が気に入るまで、まるまる一冬、あの犬小屋に手をか けていたのよ。ボックのかわりに自分が住む気なのかと思ったくらい。なかに 描かれている本はみんな犬が出てくる本なの。彼が作ったタイトルもたくさん あるわ」 ティタニアはぜひなかをのぞきたいといった。ボックはすいと自分のすみか に入ってきた新しい彗星のような女性にこんなふうに注目され、おおいに気を よくした。 「まあ、すごいわ!」彼女はいった。「『オマル・ケイナインのルバイヤー ト』ですって。うまいものねえ!」 「あら、まだまだあるのよ」ヘレンがいった。「『ボーナー・ロー著作集』 とか『ボーンの古典選集』とか『教理問答とドグマ』とか、よくまあ思いつく わね。(註 いずれも犬や骨にかけた言葉を織り交ぜている)ロジャーがそん な冗談を考える精力の半分でも仕事にむけてくれたら、わたしたちは今ごろお 金持ちになっていたのに。さあ、お店を見ていらっしゃい」 ティタニアは机に座っている書店主を見つけた。「もどりました、ミスタ・ ミフリン」と彼女はいった。「ほら、わたし、売上伝票の記載用にとがった鉛 筆を買ってきました。練習したから、いまじゃ髪に挿すのもうまくできるんで す。カーボン紙とかいろいろ入った大きな赤い帳簿、あれがあるといいんです けど。ロード・アンド・テイラーズ百貨店で、売り子たちが帳簿に記載してい るのを見て、すてきだなって思いました。それからエレベーターの動かし方も 教えてください。わたし、エレベーターに興味津々なんです」 「まいったな」とロジャーがいった。「そのうちわかるだろうが、ここは ロード・アンド・テイラーズとは大ちがいだよ! エレベータなどないし、売 上伝票もレジの器械もない。頼まれないかぎり、接客することもない。お客さ んはここに来て店のなかを見てまわり、欲しいものが見つかったらわたしがい る机までもどってきて金を払うんだ。値段はどの本にも赤い鉛筆で記されてい る。お金はこの棚の箱のなか。この小さなフックにかかっているのが鍵だ。売 り上げは全部この台帳に書き込む。本を売ったら、ここに書き込むんだよ。受 取金額といっしょに」 「でもつけで買う場合はどうします?」 「つけは認めない。すべて現金払いだ。だれか本を売りに来たら、わたしの ところに来るようにいいなさい。ここで何時間も本を読む人を見ても驚いては いけないよ。この店を一種のクラブみたいに考えている人がたくさんいるんだ。 たばこのにおいがいやじゃなければいいがね。というのは、ここに来る人はほ とんどみんな店内でたばこを吸うんだ。見てごらん、そのための灰皿が置いて あるだろう」 「たばこのにおいは大好きです」ティタニアがいった。「うちの父の書斎は こんなにおいがします。でもこれほど強いにおいじゃないけど。それからわた し、虫が見たいわ。ほら、本の虫。父はあなたのところにたくさんいるって いっていました」 「ちゃんと見られるさ」ロジャーは笑いながらいった。「ここに出たり入っ たりしているよ。あしたは仕入れた本がどう配列されているか教えよう。慣れ るのにしばらく時間がかかると思う。それまであちこち、なにがあるか見て、 暗闇のなかでも特定の本が探せるくらいに棚を覚えなさい。妻とわたしはこの ゲームをしてよく遊んだものだ。夜、電気をみんな消して、わたしが本のタイ トルをいい、彼女がどれくらいその近くの本を取れるかためすんだ。それから わたしの番。目指す本から六インチ以上離れていたら罰金を払わなければなら ない。なかなかおもしろいものだよ」 「すごく楽しそう。油断のならないお店なのね!」 「これはわたしがおもしろいと思った本の紹介をのせる掲示板だ。これはい まちょうど書いていたカードだよ」 ロジャーはポケットから四角い厚紙を取り出し、画鋲で掲示板に留めた。 ティタニアがそれを読んだ。

戦争を食い止めたはずの一冊 戦いが終わった今こそトマス・ハーディーの「覇者たち」を読むべきである。 わたしはこの本を売りたいとは思わない。なぜならわたしの最高の宝物の一つ だからである。しかし全三巻を熟読玩味すると約束してくれる人には喜んでお 貸ししよう。

思慮あるドイツ人が大勢「覇者たち」を読んでいたら、一九一四年七月から の戦争は起こらなかっただろう。

講和会議に先だって代表全員にこの本を読ませてやれば、戦争は二度と起き ないはずだ。 R・ミフリン

「すごいわ」ティタニアがいった。「そんなにいい本なんですか? わたし も読んでみようかしら」 「あんまり良すぎて、できることならフランスにむかう船のなかで、ミス タ・ウィルソンに読ませたいくらいだ。船に持ち込むことができればいいんだ がね。まったくすばらしい本だよ! これを読むと憐れみと恐ろしさで胸がつ ぶれそうになる。ときどきわたしは夜中に目をさまし、窓の外を見て、ハー ディーの笑い声をきいたような気持ちになるんだ。どうも彼と神様がごっちゃ になりかけているようだ。しかしハーディーはあなたが読むにはすこしむずか しすぎるだろう」 ティタニアはわけがわからず、なにもいわなかった。しかし心のなかではい そがしくメモを取っていた。ハーディ、むずしい、胸がつぶれる、ためしに読 んでみよう。 「わたしがあなたの部屋に置いた本をどう思ったかね?」ロジャーがいった。

彼は彼女が自発的に感想を述べるまで待とうとみずからに誓っていたのだが、 我慢ができなかったのだ。 「わたしの部屋にですか? あら、ごめんなさい。気がつかなかったわ!」