幽霊書店

第十五章 ミスタ・チャップマン、魔法の杖を振る

Chapter 16 10,303 words Public domain Markdown

ギッシング通りは幽霊書店の爆破事件をそう簡単には忘れそうになかった。 ワイントラウブの地下室から司法省が四年間捜しあぐねていた情報が見つかり、 おとなしそうなドイツ系アメリカ人の薬剤師がじつは何百もの焼夷弾を作った 職人で、その爆弾がアメリカおよび連合国の船舶や弾薬工場に仕掛けられてい たことが判明、さらにそのワイントラウブが翌日ボストンのブロムフィールド 通りで逮捕され自害したことが伝えられると、ギッシング通りは興奮に沸き 立った。ミルウォーキー・ランチは本屋の爆破跡を見学に来た野次馬どもでお おいに繁盛した。ジョージ・ワシントン号の船内図の断片がメツガーのポケッ トから見つかり、オクタゴン・ホテルの厨房係で共犯者でもあった男が、ウッ ドロウ・ウィルソンの愛読書の一冊に見せかけた爆弾を汽船の大統領特別室に 仕掛けるはずだったことを告白すると、人びとは憤慨し、その怒りはとどまる ところを知らなかった。ミセス・J・F・スミスはドイツびいきの町などもう まっぴらだと宣言し、ミセス・シラーの下宿を引き払った。おかげでオーブ リーは使いたくてたまらなかった浴室がやっと使えるようになった。 つぎの三日間は司法省の係官の相手で忙しく、彼のほうにも確かめたい懸案 事項があったのだがなにもできなかった。しかし金曜日の午後遅く、納得のい くまで話をしようと決意をかため、本屋を訪ねた。

残骸はきれいに片づけられ、粉々になった建物正面は板でふさがれていた。 なかに入るとロジャーが床に座って、まわりに乱雑に積み上げられた本の山を 見わたしていた。ミスタ・チャップマンがとある有名な建築会社に口をきいて くれたおかげで、さっそく修復作業ははじまっていたが、それでも商売再開ま でにはすくなくとも十日はかかるだろうと彼はいった。「今回の宣伝効果を徒 花《あだばな》にしたくないんだけどね」と彼は悲しそうにいった。「古本屋 が新聞の第一面を飾るなんて、そうそうあることじゃない」 「広告は信じてないんだと思ってましたが」とオーブリーはいった。 「わたしが信じている広告は、金のかからない広告だよ」 オーブリーは大破した店内を見て微笑んだ。「請求書は相当な額になりそう ですね」 「きみ。これこそわたしに必要だったものだよ。わたしの生活はマンネリ化 しつつあったんだ。爆弾はわたしが忘れていた本やら持っていることすら知ら なかった本をきれいに吹き飛ばしてくれた。おや、こんなところに『結婚して もしあわせになる方法』がある。出版社はこれを『小説』に分類しているんだ な。こっちは『壺葬論』、『書籍狂の恋』、それに『ミスルトウの嘆かわしき 事実の書』か。隅から隅まで大掃除する必要がある。今は本気で掃除機と キャッシュ・レジスターを買い入れようと思っているんだ。ティタニアのいっ ていたことは正しいよ。この店は汚すぎる。あの娘にはいろいろなことを教 わった」 オーブリーは彼女がどこにいるのか知りたかったが、あからさまに訊くのは ためらわれた。 「たしかに」とロジャーはいった。「たまには爆発もいいものだ。新聞記者 が根掘り葉掘り質問に来たあと、六つほどいろいろな出版社から本を出さない かという申し出があった。文化会館事務局からは『公共奉仕としての書籍業』 という題で講演してくれといわれるし、店を再開するのはいつだと、問い合わ せの手紙が五百通も届いた。米国書店協会は来年の春の年次総会で挨拶してく れだとさ。わたしもはじめて人から認められたわけだ。かわいそうなボックの ことさえなければ――ついてきなさい。あいつは裏庭に埋めてやったんだ。お 墓を見せてあげよう」 柵の近くの悲しいほど小さな土饅頭の上に大きな黄色い菊の束を差した花瓶 が置かれていた。 「ティタニアがこれを飾ったんだよ。春になったらここにハナミズキ《ドッ グウッド・ツリー》を植えるつもりだといっていた。小さな墓石をたててやる よ。どんな文字を刻もうかと考えているところだ。『死者を鞭打つ事なかれ 《デ・モルツィス・ニル・ニシ・ボヌム》』はどうかと思ったんだが、ちょっ と不真面目な感じだな」 住居部分は爆発の被害をまぬがれていた。ロジャーはオーブリーを居間に連 れて行った。「ちょうどいいときに来てくれた。ミスタ・チャップマンが今晩 うちに来て、みんなで楽しくおしゃべりをすることになっているんだ。この事 件にはまだわからないことがたくさん残っている」 オーブリーは片目でティタニアの姿を探しつづけていた。ロジャーは彼の落 ち着きのない視線に気がついた。 「ミス・チャップマンは午後から休みなのだ」と彼はいった。「今日初めて 給料をもらって、あんまりうれしいものだからニューヨークまで散財に行った のさ。父親といっしょに出かけている。申し訳ないんだが、夕ご飯の支度でわ たしはヘレンを手伝わなければならない」 オーブリーは暖炉のそばに座り、パイプに火をつけた。彼の心に重くのしか かっていたのはつぎのようなことだった。はじめてティタニアに会ってから ちょうど一週間がたつ。その一週間のあいだ、目覚めているときは彼女のこと を考えない瞬間はなかった。いったい女の子は恋に陥るのにどのくらいの時間 がかかるのだろう。男なら――彼がよく知っているように――五分で充分だ。 しかし女の子の場合はどうなのだろう?

同時に彼が考えていたのは、内輪ネ タを使ってもいいなら、今回の事件を利用してデインティビッツのためにユ ニークな広告コピーを作ることができる、ということだった(あらゆる広告マ ンとおなじく、彼も広告コピーを「書く」というかわりに、常に広告コピーを 「作る」といった)。

後ろに衣擦れの音が聞こえたかと思うと、彼女が立っていた。灰色の毛皮の コートを着て、鮮やかな色の小さな帽子をかぶっていた。頬は冬の空気にさら され、ほんのり色づいている。オーブリーは立ち上がった。 「あら、ミスタ・ギルバート! お会いしたかったのに、どこに隠れてい らっしゃったの? この前の日曜からお顔も見てないし、お話もしてないわ」 彼はまともに口もきけなかった。彼女はコートを脱ぎ、話しつづけた。思い に沈むようなまじめな表情をしていたが、それは微笑みよりもずっと彼女に似 合っていた。 「先週あなたがなにをなさったか、ミスタ・ミフリンからくわしくお話を聞 きました――通りのむかいにお部屋を借りて、あのにくたらしい男を監視して いたのね。わたしたちがぼんやりしているときに、あなたはなにもかも見抜い ていらっしゃたのね。わたし、日曜日の朝に、あなたにむかってとんでもない ことをいっちゃったけど、それを謝りたいんです。許してくれる?」 オーブリーはそのときくらい自分を売り込む手腕が衰え果てたことを感じた ことはなかった。目が彼を裏切りそうな気がして、言葉にならない恐怖を覚え た。涙で潤んできたのである。 「そんなことは言わないでください。とにかくわたしにあんなことをする権 利はなかったんですから。それにミスタ・ミフリンに関していったことはまち がいでした。あなたが怒ったのは当然です」 「あなたに感謝できるせっかくの機会なんだから、その喜びを奪わないで ちょうだい。あなたがあの晩わたしの――みんなの命を救ってくれたのよ。 ボックも助かったかもしれないわね、あなたの話を信じていたら」彼女の目は 涙でいっぱいだった。 「ほめられるべき人がいるとしたら、あなたです。だって、あなたがいな かったら、スーツケースは持って行かれ、たぶんメツガーは爆弾を船に持ち込 み、大統領を吹っ飛ばしていたでしょうから――」 「あなたと議論するつもりはないわ。わたしは、ただ、ありがとうっていい たいの」 その晩しあわせにあふれた数人の人びとがロジャーの食事室に集った。ヘレ ンはオーブリーに敬意を表してサミュエル・バトラー風卵を用意し、ミスタ・ チャップマンは本屋の成功を祈るためにシャンパンを二本買ってきた。オーブ リーはワイントラウブの犯罪歴を調べていた秘密捜査官とどんなことを話した のか、教えてくれと頼まれた。 「今となってみるとなにもかもとても単純に思えて、どうしてすぐに見抜け なかったのか不思議なくらいです。わたしたちは休戦協定が締結されたら自動 的にドイツの陰謀もなくなるものと思いこんでいました。どうやらワイントラ ウブは、ドイツからわが国に送りこまれた、もっとも危険なスパイのひとり だったようです。わが国の船舶が航海中に起こした火災や爆発のうち、三十件 から四十件は彼の仕業だといわれています。ここに住み着いてからずいぶん経 つし、市民権証書を取ったものだから、だれも彼を疑いませんでした。しかし 彼が死んでから、手ひどい扱いを受けていた妻が口を割り、彼がどんな活動を していたか、いろいろ話してくれたんです。それによると大統領が講和会議に 行くことを発表すると、ワイントラウブはさっそくジョージ・ワシントン号の 大統領特別室に爆弾を仕掛ける決意をしたのです。ミセス・ワイントラウブは ひそかにこの人殺しの計画に反対していたので、やめるように説得したのです が、彼はじゃまをしたら殺すぞと彼女を脅しました。彼女は命の危険を感じな がら生活していたんです。わたしは夫ににらまれたときの彼女の顔を覚えてい ますから、その話は信用できると思います。 ワイントラウブにとって爆弾を作ることなどもちろん造作もありません。彼 の家の地下室には悪魔のようになんでもそろった実験室があり、そこで何百も の爆弾を作ったんです。問題はどうすれば怪しまれないような爆弾ができるか、 そしてどうすれば大統領の個室にそれを持ち込めるか、です。彼は爆弾を、本 の表紙に隠すことを思いつきました。ただ、どうしてあの本を選んだのかはわ かりませんが」 「たぶんわたしがなにも知らずにヒントを与えてしまったのだろう」とロ ジャーがいった。「あいつはこの店に入り浸っていたのだが、ある日ミスタ・ ウィルソンは本好きだろうかと訊かれたことがある。わたしはそうだと思うと いって、『クロムウェル伝』のことを話した。ウィルソンの愛読書の一つだと 聞いていたのでね。ワイントラウブは非常に興味を示して、いつかその本を読 まなければならないといっていた。そういえば、あのアルコーヴのなかでしば らく本を探していたな」 「きっと彼は運が味方してくれていると思ったでしょうね。メツガーという 男はもう何年もオクタゴンでアシスタント・シェフをしていたのですが、 ジョージ・ワシントン号に乗ってホテルのコックの一団とともに大統領の食事 を作る役に選ばれたのです。ワイントラウブはこうした情報をドイツのスパイ 組織の上層部から手に入れました。メツガーはホテルではメシエとも呼ばれて いたらしく、非常に頭の切れるシェフで、スイス市民としての偽造パスポート を持っていました。彼も組織の手先でした。元々の計画ではワイントラウブと メツガーのあいだで直接的なやりとりは行われないはずだったのですが、仲介 役が別件で司法省にあげられて、アトランタ刑務所に入れられてしまったので す。 ワイントラウブは疑われることなくメツガーと連絡を取るいちばんいい方法 は、古本屋の本を利用することだと考えたらしい――それも買う人がないよう な本をです。メツガーはどの本かは知らされていたけれども――たぶん仲介役 が急にいなくなってしまったために――どの店にそれがあるのかわからなかっ たのでしょう。だから最近あちこちの本屋にクロムウエルの本の問い合わせが あったのです。 ワイントラウブは当然メツガーと直接会おうとはしませんでした。あの調剤 師はわが身を大切にしていましたからね。シェフはようやく目的の本がある本 屋の場所を知り、急いでここにやって来ました。ワイントラウブがこの店を選 んだのは、まさかこんなところでスパイの暗号がやりとりされるとはだれも思 わないと考えたからですが、また同時にあなたに信用されていて足繁くやって きても全然不思議じゃないからです。メツガーがはじめてここに来たのは、覚 えていらっしゃるでしょうが、たまたまわたしがあなたといっしょに夕ご飯を いただいた晩でした」 ロジャーはうなずいた。「彼は例の本がほしいといったのだが、驚いたこと にみつからなかった」 「そうです。ワイントラウブが数日前に取っていって、悪魔の仕掛けをなか に組み込むために寸法を測り、また装丁し直していたんですから、当然です。

彼は爆弾の入れ物として原物の表紙が必要でした。つぎの日の晩、あなたが教 えてくれたように、本はもどってきました。正面ドアの合い鍵を作り、自分で 返しに来たのです」 「木曜日の晩、ここでコーンパイプ・クラブの集まりがあったとき、またな くなっていたね」ミスタ・チャップマンがいった。 「ええ、あのときはメツガーが取っていったのです」とオーブリーがいった。 「彼は指示を誤解して、本を盗むものだと思っていました。仲介役がいなく なって、行きちがいが生じはじめていたんですね。わたしが思うに、メツガー は情報を得たら、あとは本をその場に置いておかなければならなかったのです。 とにかく彼は混乱し、つぎの日のタイムズ朝刊に広告を出しました――例の 『なくしもの』の広告です。あれで本屋の場所はわかったが、つぎになにをす ればいいのかわからないということを伝えたかったのでしょう。それから広告 にでていた十二月三日火曜日深夜という日付は、まだその正体を知らないワイ ントラウブにいつ自分が船に乗るかを伝えるためのものでした。ワイントラウ ブはあらかじめスパイ組織から『なくしもの』の広告欄に注意するよう指示を 受けていました」 「なんてことかしら!」ティタニアが声をあげた。 オーブリーはつづけた。「以上の推測が百パーセント正しいとはいえないか も知れませんが、いろいろ考え合わせると、そういうことになります。ワイン トラウブはじつに慎重な男でしたが、今度ばかりはメツガーと直接コンタクト を取る必要があると考えました。彼は金曜日に本を持って会いに来いと伝えま した。一方、メツガーはホテルのエレベータでわたしに話しかけられ、ひどく 怯えていました。彼はミセス・ミフリンが覚えていらっしゃるように、あの晩 本を店に返しに来ました。わたしが家に帰る途中で薬屋に立ち寄ったとき、彼 はワイントラウブといっしょにいたにちがいありません。わたしは薬局の本棚 に『クロムウェル伝』の表紙を見つけました――どうして彼が不注意にも表紙 をそんなところにほったらかしにしていたのかわかりません――そして彼らは わたしがなにかを知っているとただちに感づいたんです。それで橋の上までわ たしを追いかけ、殺そうとしました。ワイントラウブが日曜日のまだ暗いうち に店に押し入ったのは、金曜日の晩にわたしが表紙を持って行ってしまったか らです。爆弾を組み込む本の表紙が必要だったのです」 オーブリーはみんながじっと聴き入っていることを気持ちよく意識した。彼 はティタニアの視線をとらえ、うっすらと顔を上気させた。 「お話しすべきことはだいたい以上です。連中が必死になってわたしの命を 狙おうとしたので、なにか後ろ暗いことがあるに決まっていると思っていまし たよ。つぎの日の土曜日の午後、わたしはブルックリンに来て、通りのむかい に部屋を借りました」 「それからわたしたち、映画に行ったわね」ティタニアが明るくいった。 「そのあとのことは皆さんご存じでしょう――その晩メツガーがわたしの下 宿を訪ねてきたこと以外は」彼はそのとき起きたことを話した。「彼らはすぐ 間近まで迫っていたんです。窓辺のたばこに気がつかなかったら、彼の思うつ ぼだったでしょう。もちろんわたしが勘ちがいしていたこともご存じですね。 わたしはミスタ・ミフリンが彼らとぐるになっていると思ったのですが、それ に関してはお詫びしなければなりません。そのせいでわたしはミスタ・ミフリ ンに叩きのめされてしまったんですよ、フィラデルフィアで」 オーブリーはラドロー通りまで書店主をつけたこと、喧嘩になって負かされ たことをユーモラスに語った。 「彼らはわたしを遅かれ早かれ殺すつもりでいたと思います」とオーブリー はいった。「そしてミスタ・ミフリンを町からおびき出すために偽の電話をか けました。メツガーにこの本屋までスーツケースを取りに来させたのは、ワイ ントラウブの周辺で接触するのをできるだけ避けたかったからでしょう。一見 したところあれは古本の詰まった鞄に過ぎませんでした。たぶんあの爆弾本は ページを開こうとしないかぎり安全だったのです」 「本当に危ないときに、お二人とももどってこられたのよ」ティタニアが賛 嘆するようにいった。「午後はほとんどわたしひとりだったんです。ワイント ラウブがスーツケースを置いていったのが二時ごろ。メツガーが取りに来たの が六時ごろでした。わたし、わたすのを断ったんです。あの人、あんまりしつ こいんで、ボックをけしかけるわよって脅かさなければならなかったわ。わた しはあのかわいい老犬をおさえるだけで精一杯。メツガーに襲いかかろうとし てやっきになっているんですもの。シェフは帰ったけど、きっとワイントラウ ブのところに相談に行ったんだと思いました。それでスーツケースをわたしの 部屋に隠したの。ミスタ・ミフリンは触るなっていったけど、それがいちばん 安全だろうと思ったんです。そしたらミセス・ミフリンがもどってきました。 わたしたちはボックを裏庭に放して、夕ご飯の支度をはじめました。ベルが 鳴ったので、わたしはお店のほうに行きました。あの二人のドイツ人がブライ ンドをおろしていました。なにをしているのっていったら、わたしを捕まえて 黙れっていうんです。それからメツガーがわたしにピストルを突きつけ、その あいだもう一人がミセス・ミフリンを縛りあげたの」 「悪党どもめ!」オーブリーが叫んだ。「やつらは当然の報いを受けたわけ だ」 「さあ、皆さん」とミスタ・チャップマンがいった。「それだけで済んだこ とを天に感謝しましょう。ミスタ・ギルバート、今回の事件を通して考えたこ とがあるのですが、それは後でいうことにします。さて、ミスタ・オーブ リー・ギルバートの健康を祈って乾杯しましょう!

疑いもなくこの映画の ヒーローなんですから」 彼らは歓声をあげて乾杯し、オーブリーはそうした機会にふさわしく顔を赤 らめた。 「そうだわ、忘れていたわ!」ティタニアが叫んだ。「今日の午後買い物に 行ったとき、ブレンターノ書店に立ち寄ったの。運よくほしかったものが置い てあったわ。ミスタ・ギルバートへ、幽霊書店の思い出に」 彼女は食器棚のほうへ飛んでいき、小さな包みを持ってもどってきた。 オーブリーはうれしさのあまり動顛しながらそれを開けた。カーライルの 「クロムウェル伝」だった。彼はどもりながら礼をいおうとしたが、ティタニ アの輝く顔に浮かぶ表情を見て――というより見たような気がして――ふぬけ のようになってしまった。 「おなじ版だね!」とロジャーがいった。「それじゃ、あの謎のページ番号 を調べようじゃないか! ギルバート、メモを持っているかね?」 オーブリーはノートを取り出した。「これですよ。これがワイントラウブが 表紙の裏に書いた記号です」

153 (3) 1, 2.

ロジャーは記号を眺めた。 「これなら難しくはないはずだ。この版には三冊の本が一冊にまとめられて いる。第三巻の153ページ、第一行と第二行を見てみよう」 オーブリーはそこをめくった。彼は書かれていることを読み、にっこりした。 「ずばり当たりましたよ」 「読んでちょうだい!」みんなが叫んだ。

「護国卿の警備員をたぶらかして、寝室にいる護国卿を爆弾で殺害、および そのほかの細かい計画を遂行」

「ここからヒントを得たとしても不思議はない」とロジャーがいった。「わ たしがいつもいっているだろう?

本は死物なんかじゃないのさ!」 「驚いたわ」とティタニアがいった。「本は爆薬だって教えていただいたけ ど、ほんとうなのね! ミスタ・ギルバートが聞いてなくてよかったわ。さも ないときっと疑われていたでしょうから!」 「これはやられたな」とロジャーがいった。 「ねえ、みんなで乾杯しましょうよ」とティタニアがいった。「わたしが 知っているなかでいちばん愛らしくて、勇ましい犬、ボックの思い出のため に!」 彼らは愛犬の死にふさわしい厳粛な表情で酒を飲み干した。 「善良な皆さん」ミスタ・チャップマンがいった。「今となってはボックの ためにしてやれることはなにもありません。しかし残ったわたしたちのために なら、できることがあります。わたしはティタニアとずっと話し合っていたん です、ミスタ・ミフリン。こんな惨事のあとですから、わたしはまずできるだ け早く娘を本屋の仕事から引き離そうと思いました。彼女には少々刺激が強す ぎると考えたのです。静かな生活を送り、頭を冷やすのが目的でここに送り出 したのですからね。ところが、娘は帰りたくないというのですよ。もしも一族 の者が本屋になるというのなら、それを正当化できるようにわたしも本屋のた めになにか貢献したいと思います。あなたは馬車に本を積んで旅をし、文学を 田舎に広める計画をお持ちでしたね。そこでもしもあなたとミセス・ミフリン がその計画を進める適当な人材を見つけることができるなら、あなたのいうパ ルナッソス号を十台買いそろえ、来年の春には活動が開始できるよう準備をさ せていただきたいと思います。いかがです?」 ロジャーとヘレンは顔を見合わせ、それからミスタ・チャップマンを見た。 ロジャーはその瞬間にいちばん大切な夢の一つが実現するのだと思った。ティ タニアもこれには驚き、椅子から飛びあがると父親のもとに駆け寄りこう叫ん だ。「ああ、お父さん、お父さんはほんとうにすてきだわ!」 ロジャーは厳かに立ちあがり、ミスタ・チャップマンに手をさしのべた。 「チャップマン社長」と彼はいった。「ミス・ティタニアがおっしゃったと おりです。あなたは人類が誇りとすべき方だ。けっして後悔はさせませんよ。

今がわたしの人生で最高にしあわせな瞬間です」 「では、この件は片がつきました」とミスタ・チャップマンがいった。「詳 細はあとで話しましょう。さて、もう一つ気になっていることがあります。も しかしたらこんな場所で仕事の話をするのはよくないのかも知れませんが、し かしこれはいわば家族のパーティーのようなものですから――ミスタ・ギル バート、これはわたしの義務としてお伝えするのですが、グレイ・マター広告 代理店に広告業務を委託するのは止めるつもりでいます」オーブリーは肩を落 とした。彼は最初からこのような悲惨な結末を恐れていた。万事に手堅いビジ ネスマンなら、諜報部員のようにスパイを追いかけ、路地で盗み聞きをし、他 人をドイツびいき呼ばわりする若い社員がいる会社などに、巨額の利益がか かった仕事を任せるはずがないのだ。オーブリーは思った。ビジネスは信頼の 上に築かれる。ふらふらと冒険にでかけるような男にミスタ・チャップマンが どんな信頼を置くことができるのか? それでも彼は自分の行動を恥じてはい なかった。 「残念です、社長」と彼はいった。「わが社はあなたのお役に立とうと努力 しました。事務所にいるときは何時間も心を傾け、あなたの会社の宣伝企画を 立てたのです」 彼は屈辱的な姿を見られ、ティタニアのほうに顔をむけることができなかっ た。 「まさにそのことなんだがね」とミスタ・チャップマンがいった。「きみに は多大な時間を費やすだけじゃなく、すべての時間を費やしてもらいたい。デ インティビッツ株式会社の宣伝部長補佐に就任することを了承してくれ」 全員が歓声をあげ、オーブリーはその晩三度目であったが、まじめな宣伝マ ンとして身にあまる栄誉を感じた。彼はなんとかそのうれしさを言葉であらわ し、それからこうつけ加えた。 「今度はわたしが乾杯の音頭を取りましょう。ミフリン夫妻の健康と、幽霊 書店、わたしがはじめて――はじめて――」 彼は思いきっていうことができず、「はじめて文学の意味を知った場所に乾 杯」とつづけてしまった。 「居間に席を移しましょうよ」とヘレンがいった。「楽しいお話が山ほどあ るし、ロジャーはきっとお店の改造計画を話したくてうずうずしているから」 オーブリーはいちばん最後までその部屋に残っていたのだが、そのときティ タニアがハンカチを落としたのはただの偶然ではないと考えていいだろう。ほ かの人々は廊下をわたって居間に入っていた。

二人は目を合わせ、オーブリーはじっと注がれる彼女の真剣なまなざしのな かで溺れてしまいそうな気がした。こんなにすぐそばにいて、しかもたった二 人きりだという喜びは、かえって拷問のようだった。まるで世界に見捨てられ、 ランプの下でテーブルクロスが輝く、光の小島に取り残されてしまったかのよ うだった。

彼の手にはあの大切な本が握られていた。頭のなかで千の思いが入り乱れた が、そのうちの一つだけを思い切って口にした。 「わたしの名前を書いてもらってもいいですか?」 「喜んで」彼女の声はかすかに震えていた。彼女も心臓が高鳴り不思議と動 揺していたのである。

彼は自分のペンをわたし、彼女はテーブルに座った。彼女はすばやく手を動 かした。

ティタニア・チャップマンから オーブリー・ギルバートへ、 感――

彼女は手を止めた。 「困ったわ」彼女はすぐにそういった。「今書かなければなりません?」 ランプの光に生き生きと輝く顔が彼を見あげた。オーブリーはどういうもの か身体が麻痺してしまい、彼女のまつげに輝く小さな金色のきらめきのことし か考えることができなかった。今度は彼女が先に目をそらした。 「あのね」彼女の声は奇妙に震えた。「言葉づかいを変えたほうがいいかも しれない」そして彼女は部屋から駆け出した。

居間に入ると、父親が話をしていた。「じつを言うと、わたしは娘が本屋の 仕事をつづけたいといったことを喜んでいるんです」ロジャーは彼女を見あげ た。 「うむ」と彼はいった。「きっと本屋が気に入ったのでしょう! こういう 場所に住むと本に夢中になってほかのことを考える暇なんかありませんからね。 きみも本に出てくる人物のほうが現実の人よりももっと現実的に思えてくるよ うになるよ」 ミセス・ミフリンの腕に抱かれたティタニアはほかの人に気づかれないよう にヘレンの手を握った。彼らはこっそりと微笑みを交わした。

訳者後記

この翻訳は1919年発行 Grosset and Dunlap 社版を底本にしました。

訳出に当たって次の書籍を参考にしました。訳文をそのままお借りした物も あれば、一部変更して使わせていただいたものもあります。ここに記して感謝 します。 「ジョージ・ハーバート詩集」鬼塚敬一訳・著 南雲堂 「続 ジョージ・ハーバート詩集――教会のポーチ・闘う教会」鬼塚敬一 訳・著 南雲堂 「天路歴程」竹友藻風訳 岩波文庫 「エリザベス朝演劇集I」小田島雄志訳 白水社 「O・ヘンリー ミステリー傑作選」小鷹信光編訳 河出文庫 「コンラッド短編集」中島賢二訳 岩波文庫 「豪華版世界文学全集38 世界詩集キーツ編」安藤一郎訳 講談社 「シェイクスピア詩集」関口篤訳 思潮社 「草の葉」酒本雅之訳 岩波文庫

本書で紹介されている本は、一般になじみのないものも多いため、簡単な読 書案内を附すことにしました。ただし私が住む札幌市の市立図書館に蔵書があ る場合は、書名、訳者名、出版社名を記すだけにしました。それ以外はかつて 訳が出ていたとしても、入手困難と見なし、説明を附けてあります。作者が適 当に作ったと思われるタイトルは省略しました。また Internet Archive が絶 版になっている本を公開してくれなければ、この読書案内は完成できなかった であろうことも言い添えておきます。

読書案内

序文

Parnassus on Wheels (1917) by Christopher Morley (1890-1957) 「幽霊書店」の前編に当る短い小説で、荷馬車に乗って田舎で本を売るミフリ ンがヘレンに出会い、大冒険の末結ばれるまでを描く。