幽霊書店

第十三章 ラドロー通りの戦い

Chapter 14 8,591 words Public domain Markdown

オーブリーは意志の力と意識下にひそむ時間感覚だけをたよりに、つぎの日 の朝六時に起床した。魅力的な若い娘にこれくらい心のこもった行為が捧げら れることは、そう滅多にあることではない。若者は真剣に、原始人のように一 心に眠った。それは彼にとってほとんど宗教的な儀式だった。ある二流の詩人 が言ったように、彼は「眠りを生涯の仕事とした」のだ。 しかしロジャーがどの列車に乗るのかわからなかった彼は、絶対にその跡を 見失うわけにはいかなかったのである。六時十五分には彼はミルウォーキー・ ランチでコーヒーとコーンビーフのハヤシ料理を食べていた(この店に閉店時 間はない――「当店は『最後の審判の日』まで営業します。女性専用テーブル あり」と看板には書かれている)。慣れない早起きにはつきものの軽い憂鬱感 にひたりながら、彼は近くて遠いティタニアのことを慈しむように考えた。彼 には好きなだけ空想にふける時間があった。地下鉄へ急ぐロジャーがあらわれ たのは七時十分過ぎだったからである。オーブリーは見つからないように慎重 に距離を置いて跡をつけた。

書店主と追跡者はともにペンシルベニア駅で八時の汽車に乗ったが、二人の 気分には雲泥の差があった。ロジャーにとってこの遠出は単純に心浮きたつ遊 山の旅だった。店に縛られていた期間があまりにも長かったため、一日じゅう 外に出ていられるなど夢のような話だった。葉巻を二本買い――めったにない 贅沢だ――列車がハッケンサックの沼沢地をがたごとと通り過ぎるあいだ、朝 刊を膝の上に置きっぱなしにしていた。彼はオールダム蔵書の鑑定に呼ばれた ことをたいへんな誇りに感じていた。ミスタ・オールダムはきわめて著名な蒐 集家で、裕福なフィラデルフィアの商売人だった。ジョンソン、ラム、キーツ、 ブレイクのえり抜かれた蒐集本は世界じゅうの好事家の羨望の的である。ロ ジャーは自分よりも名の知られた業者がたくさんいて、彼らがこのコレクショ ンを調べて鑑定料を手にする機会に飛びつくであろうことをよく知っていた。

長距離電話で聞いたところによると、ミスタ・オールダムはコレクションを売 ることになり、オークションに出す前に今の市場でどれくらいの値がつくもの か、専門家の意見をあおぎたいということだった。ロジャーは稀覯本や手書き 原稿の今の相場にはあまり通じていなかったので、旅のほとんどは注釈つきの カタログで最近売買された本を見ながら過ごした。その本はミスタ・チャップ マンが貸してくれたものだった。「今回の招待は、いつもわたしがいっていた ことの証明だな。どんな分野であろうと、芸術家はたんなる商売人以上のもの としていつかは認められるのだ。どこで聞きつけたのか、ミスタ・オールダム はわたしが古書の販売をやっているだけでなく、その愛好家でもあることを 知ったのだろう。彼は宝物の鑑定人として、本を蝋燭のようにあきなう連中で はなく、わたしを選んだというわけだ」 オーブリーの気分は書店主のしあわせな気分とはまったくの正反対だった。 まず第一にロジャーは喫煙車に座っていたが、オーブリーは見つかるのを恐れ ておなじ車両には入らず、パイプなしで我慢しなければならなかった。彼は二 両目の最前列に陣取り、ときどきガラスのドアを通して、安物のハバナの煙に 包まれた、獲物のはげた後頭部に視線を飛ばした。第二にワイントラウブがお なじ列車に乗るものと期待して、改札口を最後の瞬間まで見張ったのだが、ド イツ人はあらわれなかった。ワイントラウブの昨夜の言葉から、薬屋と本屋が いっしょに任務に当たるものと決めつけていたのだ。あきらかに彼の勘ちがい だった。彼は爪をかみ、飛ぶように流れる風景をにらみつけ、ちくちくと痛む 胸のなかでさまざまな心配事に思いをめぐらせた。気がかりの一つはニュー ヨークにもどるだけの充分な持ち合わせがなく、フィラデルフィアでだれかに 借金するか、事務所に電報して送金を頼まなければならないことだった。この 冒険に乗り出したとき、出費がこれほどかさむとは思ってもいなかった。

列車は十時にブロードストリート駅に着き、オーブリーは終着駅の人ごみを 縫い、市庁舎プラザをまわって書店主の跡をつけた。ミフリンは道を知ってい るようだったが、グレイ・マター社の注文取りはそれほどフィラデルフィアの 地理にくわしくなかった。彼はサウス・ブロード通りの立派な眺めにすっかり 驚き、たった今ニューヨークから来たばかりだというのに、舗道をにぎわす人 びとに傍若無人にもみくちゃにされ、くやしく思った。 ロジャーはブロード通りの巨大なオフィスビルに入り、急行エレベータに 乗った。オーブリーはおなじエレベータに乗る勇気はなかったので、ロビーで 待つことにした。彼はエレベータの操縦係から建物の反対側にべつのエレベー タがあることを知った。そこで操縦係に二十五セント銀貨を一枚わたして見張 りの役を頼み、見逃すことがないようミフリンの容貌を正確に教えた。そのと きにはオーブリーはすっかり不機嫌になっていて、エレベーターの位置をあら わす表示器をめぐって操縦係に口論をふっかけるありさまだった。この建物の 表示器はガラスチューブでできていて、色のついた液体が上下してエレベータ の動きを表示するのだが、それを見てオーブリーはいらただしげに、こんな旧 式の仕掛けはニューヨークではとうの昔に使われなくなっているといったのだ。

操縦係は、ここがいやならニューヨークに帰ったらどうです?

二時間しか離 れてないんですから、といい返した。このいい争いのおかげで時間が早く過ぎ た。

一方、ロジャーは町の外から来た著名人として歓待されることを期待してう きうきしながらミスタ・オールダムの贅沢なスイートに足を踏み入れた。ブラ ウスがやや透けすぎの、きれいな若い女性が、なんのご用でしょうと、彼にた ずねた。 「ミスタ・オールダムに会いたいのですが」 「どちらさまでしょう?」 「ミフリン――ブルックリンのミフリンです」 「お約束ですか?」 「そうです」 ロジャーは期待に胸を躍らせて待った。そこにあったのはぴかぴかに光るマ ホガニー製のオフィス家具、きらめく緑の水差し、音を立てずてきぱきと動き まわる若い女性たちの姿だった。「フィラデルフィアの女の子はびっくりする ほど美人だな」と彼は思った。「しかしミス・ティタニアとは比べものになら ないが」 さきほどの若い女性がいささか困惑した様子で専用事務室からもどってきた。 「ミスタ・オールダムとお約束がございましたか?

覚えていないとのこと なんですが」 「ええ、まちがいありませんよ」とロジャーはいった。「土曜日の午後、電 話で決めたんです。ミスタ・オールダムの秘書から連絡がありました」 「お名前をもう一度伺ってもよろしいでしょうか?」彼女はそういって Mr. Miflin と書いた紙切れを見せた。 「f が二つです」とロジャーがいった。「ミスタ・ロジャー・ミフリンです。

書店主をしています」 女性はひっこんで、またすぐもどってきた。 「ミスタ・オールダムは取り込んでいるのですが、すこしだけならお会いす るとのことです」 ロジャーは専用事務室に案内された。大きな、風通しのいい、本棚の並ぶ部 屋だった。白く短い髪に、生き生きした黒目を持つ長身痩躯のミスタ・オール ダムは礼儀正しく机から立ちあがった。 「はじめまして」と彼はいった。「申し訳ありません。ですが、約束が思い 出せないのですよ」 こりゃ相当なうっかり屋にちがいないぞ、とロジャーは思った。五十万ドル のコレクションを売る手配をして、すっかり忘れてしまうんだからな。 「あなたにいわれてここに来たのですよ。コレクションの売買の件で」 ロジャーはミスタ・オールダムの目つきがなんとなく鋭くなった気がした。 「お買い求めになりたい、ということですか?」 「わたしがですか?」ロジャーはむっとしたようにいった。「ちがいます。 コレクションの見積もりに来たんです。あなたの秘書から土曜日に電話があり ました」 「失礼ですが、なにかのまちがいでしょう。わたしはコレクションを売る気 は全然ありません。あなたに連絡したこともありませんよ」 ロジャーはあっけにとられた。 「なんですって」彼は声が大きくなった。「あなたの秘書が土曜日に電話し てきて、今日の朝、ぜひともわたしに本の鑑定をしてもらいたいと、あなたが 要望しているといったのですよ。そのためにブルックリンから出てきたんで す」 ミスタ・オールダムがブザーに触れると、中年の女性が事務室に入ってきた。 「ミス・パターソン、土曜日にミスタ・ミフリンに依頼の電話を――」 「電話してきたのは男でした」 「非常に申し訳ないんですがね、ミスタ・ミフリン」とミスタ・オールダム がいった。「お気の毒ながら――だれかにかつがれたようですな。さきほどお 話ししたように、そしてミス・パターソンが証明してくれるはずだが、本を売 る気はまったくないし、そんなことを許可したこともありません」 ロジャーは困惑と怒りでいっぱいだった。コーンパイプ・クラブのだれかに 一杯食わされたんだ、と彼は思った。喜び勇んだ自分の単純さかげんを思い返 し、痛ましいほど顔が赤らんだ。 「どうかお気を取り直してください」ミスタ・オールダムは小男の腹立ちを 見ていった。「むだ足を踏んだとお考えになることはありません。今晩、郊外 のわたしのうちで夕ご飯を食べて蔵書を見ていきませんか?」 しかしロジャーはプライドが高すぎて、この思いやりのある慰めの言葉を受 け入れることができなかった。 「すみませんが、お招きに預かることはできません。店の仕事が忙しいです し、緊急の用件だと思ってこちらに来ただけですから」 「それではまたべつの機会にでも」とミスタ・オールダムはいった。「そう だ、あなたは本屋さんなんですね。あなたのお店は知らないけれども、名刺を いただけませんか。今度ニューヨークに行ったら、立ち寄りたいと思います」 ロジャーは相手の儀礼的な誘いを断りつつ、できるだけいそいで退去した。

自分のきまりの悪い立場にひどくいらいらし、通りに出るまで自由に息をする こともできなかった。 「ジェリー・グラッドフィストのくだらない冗談だな。絶対まちがいない」 彼はつぶやいた。「ファニー・ケリー(註 1864年スー族によって五ケ月 間囚われの身となり、その回想録で有名になった)の名にかけて、とっくりお 灸を据えてやる」 ふたたび跡をつけはじめたオーブリーでさえロジャーの怒りに気がついた。 「ご機嫌斜めだな。なにに腹を立てているんだろう」 彼らはブロード通りをわたった。それからロジャーはチェスナット通りを歩 きはじめた。オーブリーは書店主がある建物の入り口前で足を止め、パイプに 火をつけるのを見ると、自分も数ヤード手前で足を止め、市庁舎のウィリア ム・ペンの銅像を見上げた。風の強い日で、折からの突風に彼の帽子が吹き飛 ばされ、ブロード通りをころころと転がった。彼は半ブロック走ってようやく 帽子をつかまえることができた。チェスナット通りにもどるとロジャーの姿は なかった。彼はチェスナット通りを急いで進んだ。あせって何人もの歩行者に ぶつかったが、十三丁目まできて、がっかりして立ち止まった。小柄な書店主 はどこにも見あたらなかった。街角に立つ警察官に話しかけてみたが、なにも わからない。そのブロックを探しまわり、ジュニパー通りを走って行ったり来 たりしたが、結局徒労におわった。時間は十一時で、通りは混雑していた。

彼は南北両半球の書籍業を呪い、自分自身を呪い、フィラデルフィアを呪っ た。それからたばこ屋に入って、たばこを一箱買った。 もしかしたらロジャーに出くわすかも知れないと、彼は一時間あまりチェス ナット通りの両側を歩いてまわった。そのとき、ふとある新聞社を目の前に見 い出し、そこの編集部で古い友人が論説委員をしていることを思い出した。彼 はなかに入り、エレベータで上にあがった。

友人は汚れた小部屋のなかで書類の海に囲まれ、テーブルに足を載せたまま パイプをふかしていた。彼らはうれしそうに挨拶をした。 「おやおや、だれかと思ったら!」おどけた新聞記者が大声でいった。「ほ かでもないタンバレイン大王じゃないか! いったいこんな辺境の地になんの ご用かな?」 オーブリーは大学時代の古いニックネームを使われ、にやっと笑った。 「昼飯をいっしょに食べようと思ってきたんだ。それから家に帰るためのお 金を借りようと思ってね」 「月曜日にか?」相手は叫んだ。「このあたりじゃ火曜日が給料日だってい うのに? いやいや、左様なことはおっしゃいますな」 彼らは静かなイタリア・レストランで昼飯を食べ、オーブリーは手短に過去 数日間の冒険を物語った。新聞記者は話が終わったとき、考え込むようにパイ プをふかしていた。 「その娘を見てみたいな」と彼はいった。「タンボよ、君の話には真《まこ と》の響きあり。怒りと叫びにみちてはいるが、ちゃんと意味はあるようだ。 その男は古本屋なんだね」 「そうだ」 「じゃあ、彼のいる場所はわかる」 「いいかげんなことをいうなよ!」 「調べる価値はあるよ。南九丁目九番地のリアリーに行けよ。この通りの先 だ。連れて行ってやる」 「よし、行こう」オーブリーはすぐにいった。 「それだけじゃないぞ。おれの最後の五ドル札を貸してやろう。おまえのた めじゃなくて、その娘さんのためにな。おれの名前くらい伝えてくれよ」 チェスナット通りに着いたとき彼は指さした。「この一ブロック先さ。いや、 ついていくわけにはいかない。ウィルソンが今日、議会で演説するし、大 ニュースが入電することになっているんだ。じゃあ、きみ、さようなら。結婚 式に招待してくれ!」 オーブリーはリアリーがなんの店なのか見当もつかず、居酒屋のようなもの を想像していた。しかしそこに着いてみると、なぜ友達がそこをロジャーのう ろつきそうな場所といったのかがわかった。女性が花嫁を見ずに結婚式のお祝 いパーティーの脇を通り過ぎることができないように、愛書家であればだれも がこの有名な古本屋に立ち寄らずにはいられないだろう。荒涼とした日で、通 りを冷たい風が吹きすぎていったが、店頭の平台には人だかりがして、ごちゃ ごちゃに積み上げられた本を引っかきまわしていた。なかを見ると白い書棚が ずらりと並んでいて、色とりどりの装丁がつづれ織りのように建物のはるか奥 までつづいていた。

彼はいさんでなかに入り、あたりを見まわした。店のなかは適度な混み具合 で、大勢の人が立ち読みをしていた。彼らは後ろから見ると普通そのものだが、 目には書籍狂の興奮した、食い入るような光が宿っていた。あちらこちらに店 員が立っていて、オーブリーはその表情に古本屋らしい静かに瞑想するような 落ち着きを認めた――もっともミフリンをのぞいた古本屋という意味だが。

彼は細い通路を歩きながら、しあわせそうに掘り出し物を探す人々を眺めた。

地下の教育書部門へおり、二階の医学書を陳列した回廊に行き、さらに奥の一 段と床の高いドラマおよびペンシルベニアの歴史書コーナーにも行ってみた。 ロジャーの姿はどこにもなかった。階段下の机に、痩せた、まじめで親切そう な書誌研究家が座っていて、巨大な目録に目を通していた。彼はふとあること を思いついた。 「カーライルの『クロムウェル伝』はあるかい?」 相手は顔をあげた。 「残念ですが切らしています。ほんの数分前にべつのお客さまもおなじ本を お尋ねになりましたよ」 「なんてことだ!」オーブリーは大げさにいった。「買っていったのか?」 客がこんなふうに力んでも、書店主はとくに驚かない。初版本をあさる連中 の奇癖には慣れっこなのである。 「いいえ。店に本がなかったんです。長いこと店には置いてないですね」 「その客は赤い髭を生やした、明るい青い目のはげた小男か?」オーブリー はしわがれた声で聞いた。 「ええ――ブルックリンのミスタ・ミフリンですよ。ご存じですか?」 「知っているとも!」オーブリーは叫んだ。「どこに行ってしまったんだ? やつの跡を、町じゅう追い回していたんだ、あの悪党め!」 沈着な書店主は風変わりな客をたくさん見てきたのでこの質問者の激しい口 調にもびくともしなかった。 「ちょっと前にここにいらしたんですよ」彼はおだやかにいい、軽い興味を 抱いたかのように、いきり立つ若い宣伝マンを見つめた。「外で見つかるん じゃないでしょうか、ラドロー通りで」 「それはどっちの方だ?」 背の高い男――べつに名前で呼ぶのを躊躇するいわれはないのだから、フィ リップ・ウォーナーと呼ぼう――の説明によると、ラドロー通りはリアリーの 一方の側に面した細い裏通りで、店の後ろで直角に曲がっているという。この 狭い小路にそって店の側面には差し掛け屋根がわたされ、その下に本棚が並ん でいた。そこはリアリーが十セントの均一本――つつましい購買者の心をひく 奇妙に黒ずんだ本――を並べている場所だった。この年季の入った棚に沿って、 多くの悩める魂がしあわせをつかもうと可能な限り接近したのだった――結局、 しあわせは(おそらく数学者が言うように)曲線上にあるのであり、わたした ちはそれに漸近線のようにしか近づくことができないのである――この小路を よく訪れる人びとは自分たちのことをいたずらっぽく「ラドロー通りビジネス マン連合」と称し、毎年行う晩餐会ではメンバーがその年の最高の掘り出し物 について発表をするのだが、チャールズ・ラムやユージーン・フィールドなら その司会役になることを名誉に思ったことだろう。 オーブリーは店を飛び出し小路を眺めた。ラドロー通りビジネスマン連合が 六人ほど棚に手を伸ばしていた。そのいちばんむこう端にロジャーがいた。小 さな顔を開いた本のあいだに突っ込んでいる。彼はずんずんと大股に近づいた。 「やあ」彼は怒った声でいった。「ここにいたな!」 ロジャーは機嫌よく本から顔をあげた。趣味に熱中して自分がどこにいるか も忘れてしまったようだ。 「おや!」と彼はいった。「ブルックリンでなにをしているんだね? ほら、 ごらん。『トゥックのパンテオン』だよ――」 「どういうつもりなんだ?」オーブリーが大声で詰問した。「ぼくをからか おうというのか?

貴様とワイントラウブはフィラデルフィアでなにを企んで いる?」 ロジャーの心はラドロー通りに舞いもどってきた。彼は若者の紅潮した顔を やや驚いたように見て、本を棚にもどし、その場所を頭のなかにメモした。今 朝の失望に終わった出来事がいらだたしさとともによみがえってきた。 「なんの話かね?」と彼はいった。「そんなこと、きみになんの関係がある んだ?」 「おおありさ」オーブリーはそういって書店主の顔の前で拳を振った。「悪 党め、ぼくはずっと跡をつけていたんだ。貴様の企みをあばこうとしてな」 赤い点がロジャーの頬骨の上に広がった。一見するとおとなしそうだが、彼 はかっとなりやすく、手を出すのも早かった。 「チャールズ・ラムの名にかけていうがね!」と彼はいった。「お若いの、 きみは礼儀を知らないな。大型広告がお望みなら、両方の目に一つずつお見舞 いしてやろう」 オーブリーは犯罪者が縮みあがるだろうと思っていたのだが、この口答えを 聞いて自制心を失うほど怒り狂ってしまった。 「このちびのボルシェビキが。もうちょっとでかければ叩きのめしてやると ころだ。さあ、貴様とドイツびいきの友達がなにを企んでいるのかいえ。さも ないと警察に通報するぞ!」 ロジャーはきっとなった。髭は逆立ち、青い目は光を放った。 「厚かましい犬っころ」彼は静かにいった。「人目のないそこの角までつい て来い。じきじきに個人指導をしてやろう」 彼は先に立って路地の角を曲がった。めくら壁にはさまれたこの狭い道筋で 二人は顔をつきあわせた。 「グーテンベルグの名前にかけて」ロジャーは守護聖人に呼びかけていった。 「どういうことか説明しなければ、一発お見舞いしてやるぞ」 「そいつはだれだ?」オーブリーはせせら笑った。「貴様の好きなドイツ野 郎の一人か?」 そのとき彼は顎に鋭い一撃を受けた。ロジャーが砂利敷きのむらのある足下 を計算に入れていたらもっと強烈だったろう。しかも自分より何インチも上背 のある敵なだけに、その一撃は充分顔に届かなかった。 オーブリーは自分より背の低い男は殴らないという自分の信条を忘れ、やは り守護聖人――世界広告クラブ連合――に呼びかけて、猛烈な強打を書店主の 胸に放った。相手は小路の幅を半分ほどよろめき退いた。

二人とも頭に血が上ってみさかいがなくなっていた――オーブリーは過去数 日間の心配と疑惑が積もり積もっていらだっていたし、ロジャーはもともとか んしゃく持ちなところに不当な無礼を受けて怒りを爆発させていた。この対決 は背の高さと重量に勝り、二十才も若いオーブリーのほうが有利だったが、幸 運は書店主に味方した。オーブリーの強打は相手を道の反対側の縁石の上まで よろめかせた。そのあと一気に襲いかかり、強烈な一撃で相手を倒すつもり だった。しかしロジャーは冷静にかまえ、地の利を利用した。縁石の上に立つ と、彼はわずかだが高さで相手の優位に立ったのである。オーブリーがぞっと するような憎しみを顔に浮かべて飛びかかってきたとき、ロジャーは顎に容赦 のないパンチをお見舞いした。オーブリーは足を縁石に当て、砂利の上に後ろ むきにひっくり返ってしまった。頭を砂利に強く打ちつけ、古傷がまた開いた。

目の前がくらくらし、気持ちも動揺し、彼はその瞬間に闘う気力を失った。 「この横柄な青二才」ロジャーがあえぎながらいった。「まだやる気か?」 そのとき彼はオーブリーがほんとうに怪我をしていることに気がついた。若者 の側頭部を血がしたたり落ち、かれはぎょっとした。 「たいへんだ。殺してしまったのかもしれない!」 彼は泡を食って角を曲がり、店の外に立っていたレアリー書店の店員をつか まえた。店の前に小さなボックスがあって、そこで店頭本の販売をしていたの である。 「すぐ来てくれ」彼はいった。「裏に大けがをしている人がいるんだ」 彼らが走って角を曲がると、オーブリーがふらふらしながら彼らのほうに歩 いてきた。ロジャーの心のなかを大きな安堵感が駆け抜けた。 「きみ。たいへん申し訳ないことをした――大丈夫かね?」 オーブリーは真っ青な顔で彼をにらんだが、気が動転して話すこともできな かった。うなり声を上げ、他の二人がそれぞれ両側から彼を支えた。レアリー の店員は店のなかに飛び込み、裏にある貨物用エレベータのドアを開けた。こ うしてぶらぶら本を見ている数人の客に見られただけで、オーブリーは古本の 包みのように店内に運び込まれた。 ミスタ・ウォーナーが店の裏で彼らを迎えた。いくぶん驚いていたようだが、 物静かな態度は変わらなかった。 「どうしたんですか?」 「ああ、『トゥックのパンテオン』を奪い合っていたんだ」ロジャーがいっ た。

彼らはオーブリーを店の奥の小さな専用事務室に連れて行った。そこで椅子 に座らせ、血の出ている頭を冷たい水で洗った。どんなときでも手はずのいい フィリップ・ウォーナーは外科用の絆創膏を持ってきた。ロジャーは医者に電 話をしようとした。 「やめてください」オーブリーは落ち着きを取りもどしていった。「いいで すか、ミスタ・ミフリン、この頭の傷はあなたがつけたなんていい気になって 思わないでくださいよ。この前の晩、あなたのいまいましい店を出てからブ ルックリン橋の上でやられたんです。しばらく二人だけになれるなら、話した いことがあります」