第十二章 オーブリーは他人とはちがうサービスを決意する
若者がその日曜日のオーブリーくらいみじめな午後を過ごすことは、そう多 くはないだろう。ただ一つの慰めは、彼が本屋を出てから二十分後にタクシー がやってきて(彼はそのとき寝室の窓辺に座ってふさぎ込んでいた)ティタニ アが乗り込み、走り去ったことである。ラーチモントの一行に合流するのだと 思い、彼女が「交戦地帯」と彼が呼んでいるところから抜け出したことを知っ て喜んだ。オー・ヘンリーははじめて彼に慰めを与えなかった。パイプは苦く てまずかった。ワイントラウブがなにをしているのか知りたくてたまらなかっ たが、昼日中にさぐりを入れる勇気はなかった。暗くなるまで待とうと彼は考 えた。安息日の通りの静けさと、サッカレー大通にむかう乳母車の行列を見な がら、彼はたんなる想像上の疑惑が、彼女との友情をぶち壊しにしてしまった のだろうかと、もう一度思った。 とうとう彼は狭苦しい寝室に我慢ができなくなった。下の階でだれかが悲し げにフルートを吹いていた。胸の張り裂けそうな思いをしている者にはひどく 残酷な拷問である。下宿人が教会に行っているあいだ、疲れを知らないミセ ス・シラーは軽く家の掃除をしていた。隣の部屋でじゅうたん掃除機が行った り来たりしながら単調な摩擦音を立てていた。彼はいらいらと階段をきしませ て下におりたが、浴室からはいつもの水を撥ね散らかす音が聞こえた。玄関の 鏡の枠には鉛筆書きのメモがあった。「ミセス・スミス、ターキントン 1565にご連絡を」と書いてある。理由もなく腹を立てた彼はノートから紙 を引きちぎりこう書いた。「ミセス・スミス、バース4200にご連絡を(註 温泉都市バースは浴室のバスとおなじ綴り)」彼は二階に上がって浴室のド アをノックした。「入ってこないで!」あわてた女の声が叫んだ。彼はメモを ドアの下から差し込むと下宿を出た。
風の強いプロスペクト公園の小径を歩きながら、彼は容赦なく自分を責めた。 「おまえが馬鹿なことをしたおかげで彼女とは二度と会えなくなったんだぞ」 彼はうめいた。「なにかを証明しないかぎりは」本棚の前に立つティタニアの 顔が狂おしいまでに心に浮かんできた。「たのしみながら仕事をしようと思っ ていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」つぎの彼女の言葉には、どれだ け怒りに満ちた確信がこもっていただろう。「男の人は何人も見ているけど― ―あなたみたいな人ははじめてよ!」 心は千々に乱れていても使い慣れた業界の言葉づかいが自然と口をついて出 た。「すくなくとも『他人とはちがう』ことを認めてくれたわけだ」彼は悲し げにいった。彼はグレイ・マター社社訓集の第一条を思い出した。それは雇い 主が販売員の参考のために出した気のきいた小冊子だった。
「ビジネスは『信頼』のうえに築かれる。グレイ・マター社のサービスをク ライアントに売り込む前に、自分自身を売り込まなければならない」
「どうやって彼女にぼくを売り込むか?」彼は考え込んだ。「とにかくやれ ることをやるしかない。他人とはちがうサービスをするしかないんだ。ここで くじけたら、彼女は二度とぼくに話しかけてくれないぞ。それだけじゃなくて、 会社は父親のひいきを失ってしまう。考えられない話だ」 考えられないとはいいつつも、彼はそのことをさんざん考えた。長々とつづ く広告板のそばを歩いていたので(彼はフラットブッシュの郊外にむかってい た)、ときどき広告のアイデアが頭に浮かんできた。彼は広告板にチャップマ ン・プルーンを宣伝する色鮮やかなリトグラフが張られているさまを想像した。 「アダムとイブは新婚旅行でプルーンを食べた」という標語が頭にひらめき、 この文句にすばらしい絵が添えられているところを思い描いた。このように男 というものはだれでも苦悩の時間にみずからが選んだ専門分野に慰めを求める のだ。運命に打ちのめされた詩人は精妙な脚韻で傷を癒す。禁酒法支持者はほ かの人が禁酒に苦しむ様子を思い描いて、憂鬱のどん底を切り抜ける。デトロ イト市民はどれほどつらい目にあっても修理する自動車があるかぎり自分の手 で命を断つことはない。
何マイルも歩くうちに、オーブリーの絶望的な気分は徐々に風に吹き飛ばさ れて消えていった。ゼウスの陽気な双子の息子、オリソン・スウェット・マー デン(註 実業家。楽観主義を基底にしたビジネス書で有名)とラルフ・ウォ ルド・トライン(註 ヘンリー・フォードにも影響を与えた新思想の主導者) の朗らかな精神が彼に寄り添っていて、不可能なことなどなにもないことを思 い出させてくれたようだった。とある小さなレストランにはソーセージとシ ロップのかかったホットケーキがあった。ギッシング通りにもどるとあたりは 暗くなっていた。彼はさらなる奮闘にむけて気を引き締めた。
九時頃、彼は裏の路地を歩いていた。彼はミセス・シラーの下宿の部屋に外 套とクロムウェルの表紙を置いてきていた――しかし書き込みは用心してポ ケットのメモ用紙に写してあった。本屋の裏の明かりを見て、ミフリン夫妻と 雇い人が無事家に着いたことを知った。ワイントラウブの薬局の裏に来たとき は、建物の外郭を注意して調べた。
薬屋は前にも説明したようにギッシング通りとワーズワース・アヴェニュー の交差する角に建っていた。ちょうど高架鉄道が長いカーブを描いてまわり込 んできている場所である。このカーブを支えるために高架道の足場が建物の裏 の屋根から突き出していて、オーブリーは前の日、その事実をしっかりと観察 し目に焼きつけていた。薬局の正面は三階建てだったが、後ろの方はがくんと 落ち込んで二階建てになっており、平らな屋根がのっかっていた。この屋根か ら窓が二つのぞいていた。ワイントラウブの裏庭は路地に面していたが、門は 閉まっていた。柵をよじ登るのはむずしくなかったものの、そこまで露骨な手 段に訴えることはためらわれた。
彼は最寄りの階段をつかって高架鉄道の駅にあがった。五セントを払って回 転ゲートを抜け、プラットフォームに出る。列車が走り去るのを待ち、風が吹 きすさぶ長い厚板のプラットフォームにだれもいないことを確かめると、線路 脇を走る細い歩道に飛びおりた。帯電している第三レールのすぐそばだったの で、用心ぶかく歩かなければならなかったが、外側に張りつくようにしてなに ごともなく進むことができた。十五フィートほどの間隔を置いて大梁がレール と直角に交わるようにわたされ、下の通りから垂直に延びる支柱に支えられて いた。四つ目の大梁はワイントラウブの家の裏の隅に突きだしていて、彼はそ れに沿ってそろりそろりと這うように進んだ。下の舗道には通行人がいるので、 見つかりはしないかとびくびくしなければならなかったが、しかし梁の先端ま で無事たどり着くことができた。ここから十二フィートほどの高さを飛びおり ればワイントラウブ薬局の裏側の屋根にいける。一瞬彼は、そこにおりてしま えばおなじ経路でもどることはできないのだと思った。しかしその危険は承知 でやらなければならない。梁の上にまたがって脚をぶらぶらさせている彼の姿 は人目を引く危険性がおおいにあった。
彼はそのとき外套を持ってこなかったことを後悔した。というのは外套を先 に落としてその上に飛びおりれば着地したときに音が響かないだろうからだ。
彼は上着を脱ぎ、屋根の片隅に慎重に落とした。それから手でぶら下がるよう にしてできるだけ身体を低い位置に持っていき、列車が頭上を通り、その轟音 でほかのすべての音を消す瞬間を抜け目なくねらって手を放した。
数分間、彼はブリキの屋根の上にうつむけに横たわっていた。そのあいだに いくつもの苦々しい思いが頭に浮かんできた。本気でワイントラウブの家に忍 び込むつもりなら、なぜもっと綿密な計画を練らなかったのか? たとえば、 なぜ家のなかに人が何人いるのか確かめなかったのか? なぜ友達のひとりと 時間をしめし合わせてワイントラウブに電話をかけてもらい、家に侵入しても 気づかれないよう、より確実な手立てを工夫しなかったのか? それに家に 入ったらなにを見、なにをしようというつもりなのか?
彼はこうした質問に まったく答えることができなかった。
外はやけに寒く、上着を着直したときはほっとした。小型拳銃はまだ尻ポ ケットのなかだ。べつの考えが浮かんできた――それはテニスシューズを履い てくるべきだったということだった。しかし彼が履いているゴムヒールの靴は アメリカ全土で宣伝されているブランドなのだと思うとなんとなく安心できた。
彼は一つの窓の下枠まで静かに這っていった。窓は閉まっていて、部屋の内部 は暗かった。ブラインドがほとんど下までさがっていたが四インチほどの隙間 が空いていた。用心しながら下枠からのぞき込むと、奥のほうに明るい光を浴 びたドアと通路が見えた。 「一つだけ気をつけなければならないのは、子供たちだな。きっと二人以上 いるだろう――子供のいないドイツ人なんて聞いたことがない。起こしたりし たら、泣きわめかれる。この部屋は南東をむいているから、たぶん子供部屋だ ろう。それに窓ががっちり閉まっている。たぶんドイツ人は寝室の通気にはこ れがいいと思っているんだ」 彼の推測はそう的はずれでもなかったようだ。というのは目が薄暗がりに慣 れると、子供用ベッドが二つ見えたような気がしたからだ。それからべつの窓 の方へ這っていった。こちらはブラインドが窓枠の下まできっちり下りていた。
慎重に窓を持ち上げてみると鍵がかかっている。どうしたらいいのかわからな かったので、最初の窓にもどり、腹ばいになってのぞき込んだ。窓枠は屋根よ りわずかに高い位置にあり、なかを見るには手を突いて身体をすこしだけ浮か す必要があったが、これはなかなかにつらい姿勢だった。しかもブリキ板の屋 根は動くと騒々しくつぶれやすい。しばらく寒さに震え、パイプを吸っても大 丈夫だろうかと思いながらはいつくばっていた。 「もう一つ気をつけるべきことがあるぞ」と彼は思った。「それは犬だ。 ダックスフントを飼っていないドイツ人なんて聞いたことがないからな」 明かりに照らし出されたドアを長いこと見つめていたがなにも起きず、これ では時間のむだだと思いはじめたとき、恰幅のいい、人の良さそうな女が廊下 にあらわれた。彼女は彼が観察していた部屋に入ってドアを閉めた。電気をつ け、恐ろしいことに服を脱ぎはじめた。まったく予想もしていなかったことな ので、彼は急いで退却した。こんなところにいてもなにも得るものがないこと は明らかだった。びくびくしながら屋根の一方の端に座り込んで、つぎにどう しようかと考えた。 そうするうちに、ほぼちょうど真下にある裏口のドアがあき、ドアの前の階 段脇に置いてあるゴミ入れがガチャンと鳴った。ドアはおそらく三十秒ほどあ いていただろう。男の声――ワイントラウブの声だ、と彼は思った――がドイ ツ語を話していた。生まれてはじめて大学のドイツ語講師がここにいたら助か るのに、と思い――その場とはまったく関係のないことだが――あの講師は今 どうやって生計を立てているのだろうとちらりと思った。末尾の動詞がおもお もしく響く、長々しくて、いかつい文だったが、彼は重要と思われる一節を聞 き取った。「ナッハ・フィラデルフィア・ゲーエン」――「フィラデルフィア に行く」 ミフリンのことだろうか? と彼は思った。 ドアがまた閉まった。雨樋越しに身を乗り出してみると、台所の明かりが消 えた。すぐ足下の窓の上部からなかをのぞこうとしたのだが、身を乗り出しす ぎて、手にしたブリキの樋がぐにゃりと曲がった。どうやったのか自分でもわ からないが、彼は壁に沿ってすべり落ち、足が窓枠をとらえた。手は頭の上の ブリキの雨樋をつかんだままだった。急いでその姿勢から下におりると、裏口 のドアが目の前にあった。念入りに計画を練ったとしてもこれ以上静かにはお りられなかっただろう。しかし彼はひどくあたふたして、勘づかれたのではな かろうかと、庭の端に身を隠した。
数分待っても恐れていたことは起きなかったので、彼は勇気を出した。家の 奥のほう――ワーズワース・アヴェニューから離れたほう――には舗装した小 径がついていて、その先には屋外から地下室に通じる、斜めにかしいだ旧式の ドアがあった。彼はそれを油断なく見つめた。路地に面した窓の一つから明る い光がさしていた。彼は四つんばいになってその窓の下へ這っていったが、の ぞき込む前にもうすこしあたりを調べることにした。地下室に通じるドアの、 片方の扉が開いていたので、隙間に鼻を突っ込んでみた。下は真っ暗だったが、 塗料と薬品の強い湿ったにおいが立ちのぼってきた。用心しながらくんくんと においをかいでみた。「この下に薬をしまっているんだな」と彼は思った。
注意しながら四つんばいのまま明かりのともる窓のほうへ這ってもどった。
一度に数インチずつ頭をあげ、とうとう窓枠より上に目を持っていった。残念 なことに窓の下半分はすりガラスだった。壁に取りつけられたパイプから突然 液体が噴き出し、地面についていた膝にかかった。においを嗅ぐと、またして も強烈な酸のにおいだ。細心の注意を払って、煉瓦の壁にもたれながら立ち上 がり、窓の上半分からなかを盗み見た。
薬を調合する部屋のようだった。人がいなかったので、急いでなかを見わた した。壁に沿ってさまざまな瓶が並んでいる。秤が載っている背の高いカウン ター、机、流し。奥には店舗のほうから見えた竹のカーテンがかかっていた。 どこもかしこもひどく散らかっていた。すり鉢、ビーカー、タイプライター、 分類棚、フックで留めた古い埃だらけの処方箋の束、錠剤とカプセルの紙袋、 それらすべてが乱雑に置かれていた。三脚台に載せられたガラスの器のなかで なにかの混合液が青いガスの炎に熱せられていた。とりわけオーブリーの注意 を引いたのは、カウンターの一方の端に無造作に積まれた、高さ数フィートに もなろうとする古本の山だった。 さらにもっと気をつけてみると、調剤台の上にある、鏡と思われたものは、 じつは店のなかをのぞくのぞき穴だった。そこを通してワイントラウブが葉巻 のケースの後ろに立ち、夜おそく訪れた客にたいしていつもの商売用の愛想を 振りまいているのが見えた。客が立ち去るとワイントラウブはドアに鍵をかけ、 ブラインドをおろした。そのあと調剤室にもどってきたので、オーブリーは見 つからないように頭を引っ込めた。 ほどなく危険を承知でもう一度なかをのぞくと、そこには奇妙な光景があっ た。薬屋はカウンターの上にかがみこんでなにかの液体をガラス容器に注いで いた。彼の顔はぶら下がっている電灯の真下にあり、オーブリーはその変貌ぶ りに驚いた。葉巻とソーダ水を売る、一見にこやかな薬屋の表情は消え、その かわりに重苦しい、残忍な、顎の大きな顔があった。まぶたが目の上に垂れか かり、巨大な顎の先は四角く突き出、脂肪のついた頬は油ぎって光っている。 その顎が強い感情を抑えるかのようにかすかに震えた。男は仕事に完全にのめ り込んでいた。肉の厚い下唇が上唇をなめた。頬骨の上には深くて赤い傷痕が あった。オーブリーはその忌まわしいほど残忍な仮面が持つ荒々しい迫力に、 身がすくむような驚きを感じた。 「これがもの静かなおじさんの正体か!」 ちょうどその時、竹のカーテンがひらいて二階で見た女があらわれた。オー ブリーは我を忘れてじっと見つめた。彼女は色あせた部屋着を着て、これから 寝ようとしているかのように髪の毛を編んでいた。彼女は怯えているようだっ た。唇が動くのが見えたから、なにかしゃべったにちがいない。男は液体の最 後の一滴を注ぐまでカウンターにかがみつづけた。口をきっと引き締めると急 に身体を起こし、腕を伸ばして命令するように指さしながら、彼女のほうに一 歩近づいた。オーブリーは彼の顔がはっきりと見えた。そこには獣以上の獰猛 さがあった。女の顔はおどおどした、懇願するような表情を浮かべて語りかけ るのだが、荒々しい仕草の前にはなすすべがなかった。彼女はくるりとむきを 変え姿を消した。オーブリーは薬屋のさし示す指が震えているのを見た。彼は ふたたび頭を引っ込めた。「人ごみのなかで見たらさびしそうに見えるような 顔なんだがな」と彼は思った。「それに映画で見る表情はなんでも誇張されて いるものと思っていたが。ふむ、あいつはセダ・バラ(註 妖婦役で有名な俳 優)の相手役を演じるべきだ」 彼は舗装した小径に張りつくように身を伏せた。もうちょっと探りを入れる ことができれば、大きな手がかりがつかめそうな気がした。上の窓の明かりが 消えたので、彼は必要ならすばやく動くことができるように身がまえた。もし かすると男は地下室のドアを閉めに外に出てくるかもしれない―― そう思ったときに小径のむこう、彼と台所のあいだに、光るものが見えた。
光は地面に接した小さな格子窓からさしていた。どうやら薬屋は地下室におり ていったようだ。オーブリーは音を立てずに這ってそちらにむかった。明かり のともる窓ガラスに近づき、壁に張りついてなかをのぞいた。
窓があまりに汚れていてはっきりとは見えなかったが、どうやら化学実験室 と機械の修理工場を組み合わせたような場所だった。長い作業台が数個の電灯 に照らされている。その上には妙な形のガラス瓶と雑多な道具がのっていた。 ブリキの板、いくつもの銅管、ガスバーナー、万力、シリンダーのついた煮沸 器、色つきの液体が入った大きな広口瓶。にぶいうなるような音も聞こえたが、 それはモーターとベルトでつながれた、回転する機械から聞こえてくるようだ。 もっとはっきり見えないものかと目をこらしているうちに、ガラスの汚れと 思っていたものが、じつは内側から白色塗料を塗りつけたものだとわかった。 それが一ケ所だけ剥げ落ちてのぞき穴になっていたのである。いちばん彼を驚 かしたのは作業台のまわりに散らかっている多くの本の表紙だった。そのうち の一つは「クロムウェル伝」だと断言できた。あかるい青の表紙布はもうおな じみだった。 その晩二度目であったが、オーブリーはかつての彼の先生がその場にいたら 助かるのに、と思った。「化学の教授がここにいてくれさえしたら。いったい なにを企んでいるんだろう。あいつが調剤した薬を飲むのはごめんだな」 長い時間夜気にさらされ、歯がかちかちと鳴った。しかも身体を伏せていた 溝には、調剤室の流しから排水が流れてくるらしく、ずぶ濡れになってしまっ た。薬屋は彼に背中をむけていたため、地下室でなにをしているのかわからな かった。彼はもう充分に一晩分のスリルを味わったように感じた。這うように して裏庭にもどり、散らかったからの箱のあいだを注意しながら歩いた。頭の 上で高架鉄道の列車が轟音を立て、明るく電気に輝く車両がカーブを回って通 り過ぎた。列車の音が鳴り響いているあいだに柵を乗り越え、路地に飛びおり た。 「さてさて。あのボルシェビキ総司令本部でなにが起きているのか教えてく れる人がいたら、ベン・フランクリンが創刊した雑誌の好きな場所に全面広告 をのせてやってもいいぞ。なんだかオクタゴン・ホテルを地図の上から消す準 備をしているみたいだ」 ワーズワース・アヴェニューに出ると、まだあいている菓子屋があったので、 身体をあたためるために熱いチョコレートを一杯飲みに入った。「この仕事の 必要経費は少々高くつきそうだ」と彼はひとり思った。「これはデインティ ビッツに請求しなければならないな。まさしくグレイ・マター社はほかとはち がうサービスを提供する! わが社はチャップマンの製品を大衆に宣伝するだ けじゃなく、ブルックリンを襲う恐怖にたちむかい、彼の家族を犯罪から守る のだ。それにしても本屋がつきあっているあの相手は気に入らない。もしも 『フィラデルフィアに《ナッハ・フィラデルフィア》』が合図なら、ひとつ跡 をつけてやろう。朝になったらフィラデルフィアに出発だ!」