幽霊書店

第十一章 ティタニア、ベッドのなかで読書をこころみる

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オーブリーはオペラグラスを手に窓際に座ったが、すぐに自分が疲れ切って いることに気がついた。ロマンチックな英雄的行為にはやる心も疲れにはかな わない。夢を追い求める者すべてにとって手ごわい敵である。その日は長い一 日だったし、前日は頭をかち割られそうになった。窓を押し上げ、冷たい風に あたりながら、彼はかろうじて目を開けていた。うとうととしかけたときに、 通りのむこう側から足音が聞こえてきた。 それまでも何度か眠い目をこすり、ブルックリンの清らかな闇を、罪のない 人々がそぞろ歩くのを見ていたのだが、しかし今度こそ待ちかまえていたもの が来たようだ。その男は慎重かつ自信のある足取りで人目をはばかるように進 んできた。オペラグラスは、本屋のそばの街灯の下に立ち止まった男の姿を、 オーブリーの目に大きくうつした。薬屋のワイントラウブだった。

本屋の正面は真っ暗闇で、舗道より下の部分がかすかに不思議な光を放って いるだけだった。オーブリーはそれを見て変だとは思ったものの、店の入り口 にオペラグラスをむけつづけた。ワイントラウブがポケットから鍵を取り出し、 ひどく用心しながら鍵穴に差し込み、そっとドアを開けるのが見えた。ドアを 開けたままにして、薬屋は店のなかに入った。 「いったいなにをしているんだ?」オーブリーは怒りを覚えた。「あの野郎、 自分用の鍵まで持っているぞ。まちがいない。あいつとミフリンは手を組んで いるんだ」 一瞬彼はどうしてよいかわからなかった。下に駆けおりて通りのむこうに行 くべきだろうか?

彼が躊躇しているそのとき、本屋の左の角にあわい光の筋 がさした。オペラグラスをのぞくと、おぼろに見える本棚に懐中電灯の黄色い 光の輪が映っていた。ワイントラウブが棚から一冊の本を引き抜くと光は消え た。つぎの瞬間、男はふたたび入り口にあらわれ、音を立てないように注意し ながらドアを閉めると、ひっそりすばやく通りをむこうへ去った。すべてが終 わるのに一分しかかからなかった。ドアの下のあたりに一、二分のあいだ黄色 い楕円形の光が二つ見えていた。オペラグラスで見るとその光の斑点は地下室 の窓だった。やがてその光も消え、すべてがおだやかな薄暗闇に包まれた。震 えるような街灯の明かりのなかに、「この店には幽霊がいます」という本屋の 看板が白く光った。 オーブリーは椅子に深く腰掛けた。「なるほど」彼はひとりごちた。「あの 店にぴったりの名前だ。いったいどういうことなのかさっぱりわからないぞ。 やっぱりただの本泥棒なのかな。あいつとワイントラウブでにせ初版本を作っ たりとか、その手の詐欺をはたらいているのだろうか? なんとかして調べた いものだが」 彼は窓辺で見張りをつづけたが、ギッシング通りの静けさを破るものはなに もなかった。遠くのほうから高架鉄道がワーズワース・アヴェニューのカーブ をきしりながら通過する音が低く聞こえてきた。通りを横切り、店のなかに飛 び込んで、何事もなかったかどうか確かめるべきだろうか。しかし健全な若者 ならだれでもそうだが、彼は物笑いの種になることを恐れていた。疲労が徐々 に彼の懸念を麻痺させていった。遠くの教会の鐘が二時を打ち、こだました。

彼は服を脱ぎ捨てベッドにもぐり込んだ。

目を覚ましたのは日曜日の十時だった。陽の光が大きく部屋を半分に区切っ ていた。白いモスリンのカーテンが窓から外にはみ出し、旗のようになびいて いた。オーブリーは時計を見て叫んだ。急に今までの信頼を裏切ったような気 がした。道のむこうで起きていたこと、あれはなんだったのだろう?

彼は本屋を望み見た。ギッシング通りは昼前のさわやかな静けさに包まれ明 るく慎みぶかく見えた。ミフリンの家にはだれもいないようだ。最後に見たと きと変わらなかったが、ただ正面の大窓の内側にいかつい緑の日よけがおろさ れ、本でいっぱいのアルコーブをのぞくことができなかった。 オーブリーは部屋着のかわりに外套を着て、シャワーを探しに部屋の外に出 た。おなじ階にある浴室には鍵がかかっていて、なかからたっぷり水を撥ね散 らかす音が聞こえた。「いまいましいミセス・J・F・スミスめ」と彼はいっ た。裸足とパジャマのすねを恥ずかしく思いながら下の階に行こうとしたとこ ろ、手すり越しにミセス・シラーと宝探し《トレジャー》犬がなにやら家事に いそしんでいるのが見えた。パグは彼のパジャマの足を見つけてきゃんきゃん と吠えはじめた。オーブリーは冷たいシャワーを邪魔されていらいらと後じ さった。彼は手早く髭を剃り服を着た。

下におりる途中でミセス・シラーと出会った。非難がましい目つきだなと彼 は思った。 「昨日の晩、男の方が面会にいらっしゃったんですよ」と彼女はいった。 「お会いできなくて残念だとおっしゃっていました」 「帰るのが遅かったものですから」とオーブリーはいった。「名前をいいま したか?」 「いいえ、また来るとだけ。階段でひっくり返って下宿のものがみんな起き ちゃいましたの」彼女は苦々しくつけ加えた。

彼は本屋から見られないように急いで下宿を離れた。なにごともなかったこ とを確かめたくて仕方がなかったが、通りのまむかいに下宿していることはミ フリン夫妻に知られたくなかった。道路を斜めに横切りながら、昨夜食事をし たミルウオーキー・ランチが開いているのに気がついた。なかに入ってグレー プフルーツ、ハムエッグ、コーヒー、そしてドーナッツで朝食を済ませた。彼 はパイプに火をつけ、さてつぎはどうしようと考えながら窓際に座っていた。 「まったく困ったことになった」と彼は思った。「どう出たところでうまくい かない。なにもしなければ、あの娘の身になにかが起きる。首を突っ込むのが 早すぎると、彼女のご機嫌を損ねてしまう。ワイントラウブとあのシェフがな にを企んでいるのか、それさえわかればいいんだが」 軽食堂はがら空きに等しかった。彼のそばで店主と店員が椅子に座って話を していた。オーブリーは突然彼らの話にぎくりとした。 「なあ、あの本屋のおやじ、一山当てたにちがいないぞ」 「だれです、ミフリンですか?」 「そうさ。今朝、店の前に止まっていた車を見たか?」 「いいえ」 「すげえ大型車だぜ」 「きっと借りたんじゃないですか? どこに行くつもりだったのかな?」 「さあね。とにかくでっかい車が入り口の前に止まっていたぜ」 「ほら、あいつが雇ったべっぴんさんを見ました?」 「もちろん。今頃なにをやっているのやら。彼女とドライブとしけ込んでる のかな」 「でしょうね。ぼくだって行きたいですよ――」 オーブリーはなにも聞かなかったかのように立ち上がり食堂を出た。あの娘 は彼が寝過ごしているあいだに誘拐されたのだろうか?

武者修行の旅がとん だ失敗に終わったことを思うと彼は恥ずかしくて顔が赤くなった。最初に考え たことはワイントラウブの髭をつかんで、本屋との関係を白状させることだっ た。つぎに考えたのはミスタ・チャップマンに電話をして今までの経過を報告 し注意をうながすことだった。しかし実際になにが起きたのかを確かめるまで はどちらの行動もむだに終わりそうだ。彼は本丸の本屋に乗り込み、得体の知 れない秘密をあばいてやろうと心に決めた。

彼は裏の路地に急いでまわり、住居として使っている部屋を見まわした。二 階の窓が二つ、わずかにあいていたが、人がいる気配はない。裏門はあいかわ らず鍵がかかっていなかった。彼は大胆に裏庭へ入っていった。

柵に囲まれた狭い庭は、冬の弱々しい日差しを浴びて落ち着いて見えた。一 方の側には低木と多年草が生い茂っていて、その根本は藁に覆われていた。芝 地は平坦でなく、草は黄褐色にしおれ、霜を浴びて葉に斑が入っていた。台所 のドア――登り段をあがったところにあった――の下には、葡萄をはわせた小 さな格子と丸太のベンチがあった。ロジャーが夏の夕方パイプをふかす場所で ある。この格子の後ろに地下室へのドアがあった。オーブリーが取っ手に手を かけると、鍵がかかっていた。

些細なことにこだわるような気分ではなかった。本屋の謎をあばこうという 彼の決意は固かった。ドアの右、煉瓦の舗石の位置に低い窓があった。埃まみ れの窓ガラスを通してみると、内側には留め金が一つしかないようだ。彼は窓 ガラスをかかとで蹴りつけた。ガラスが地下室の床に散らばる音とともに、低 いうなり声が聞こえた。留め金をはずし、ガラスの割れた窓を押し上げ、なか をのぞいた。ボックがとまどったように首をかしげ、低いうなり声をあげてい た。無意識に身体のなかからでてくるようなうなり声である。 オーブリーはやれやれと思ったが、しかしにこやかにこういった。「やあ、 ボック! いい子だ! ようし、おとなしくしてろよ!」驚いたことにボック は彼を友達と認めて尻尾をかすかに振った。けれどもうなり声はつづいている。 「形にこだわるばかりが能じゃないってことを、犬もわかってほしいな」と オーブリーは思った。「正面の入り口から入れば、ボックはなにもいわないん だ。こんなところから入ろうとするからとまどっているだけで。とにかく、い ちかばちかやるしかない」 彼は三角形の鋭いガラスの破片がのこる窓を慎重に持ちあげて足からなかに 入ろうとした。ボックが突き出された足にどれほど食いつきたいと思ったかは わからない。しかし彼は老犬であり、永年受けてきた人間のやさしさが戦闘本 能を鈍らせていた。さらに彼はオーブリーをちゃんと覚えていて、そのズボン のにおいになんら敵意を感じなかった。そういうわけで彼は小さく抗議のうな り声をあげるだけで我慢したのである。彼はアイリッシュ・テリヤだが、シン フェイン党とは無縁だった。 オーブリーは床に飛び降りると犬を撫でて、自分の幸運に感謝した。彼は地 下室を見まわした。怪物でも潜んでやしないかと思っているような目つきだっ たが、ビール瓶の箱以上にぞっとするものはなにもなかった。彼は静かに地下 室の階段をのぼりはじめた。ボックは当然興味津々といった様子で後ろからつ いて行った。 「まいったな」オーブリーは思った。「家のなかをどこまでもついてこられ ちゃたまらない。なにかに触っただけで、すねの肉にかじりつかれるかもしれ ないし」 彼が裏庭へ通じるドアをあけると、ボックは屋外を好むアイリッシュ・テリ ヤの本能にしたがって外に走り出た。オーブリーは急いでまたドアを閉めた。 ボックの顔が割れた窓のところにあらわれ、憤慨と驚きの入りまじった奇妙な 表情を浮かべてのぞき込んだので、オーブリーは声をあげて笑いそうになった。 「よしよし。どうもしやしないよ。ちょいと見てまわるだけだから」 階段をのぼるとそこは台所だった。あたりはしんと静まりかえっていた。目 覚まし時計がつまずいて転びそうになるくらい大急ぎで時を刻んでいた。ゼラ ニウムの鉢が窓辺に飾ってある。調理用レンジは蓋が取られ、注意深く火が絶 えないようにしてあり、おだやかな暖かさをまわりにまき散らしていた。暗い 小さな食器室を通ると食事室だった。ここも異常はないようだ。白いヒースの 鉢がテーブルの上にあり、コーンパイプが食器棚に置いてあった。「こんなに 犯罪っ気のない誘拐犯の部屋など聞いたことがない。映画監督がこれよりまし なセットを組むことができなかったら屈辱ものだな」 その瞬間、頭の上から足音が聞こえた。不思議なくらいやわらかな、かすか な足音だった。とたんに彼は警戒して身がまえた。最悪の事態になりそうだっ た。

二階の窓が勢いよくあいた。「ボック、裏庭でなにをしているの?」声が聞 こえてきた――ひどく澄んだ、命令するような声で、なんとはなしに豪華なガ ラスのタンブラーを叩いたときの、か細い響きを思い出させた。ティタニア だった。

彼は驚いて立ちつくした。するとドアがあいて階段をおりてくる音が聞こえ た。どうしよう、こんなところを見つかったらおしまいだ。彼女はなんと思う だろう?

彼は食器室に飛ぶようにもどり、身体をちぢめて隅に隠れた。足音 が階段の下に達したのがわかった。中央のホールからは直接台所に通じるドア がある。だから彼女が食器室を通る必要はない、と彼は思った。彼女が台所に 入る音が聞こえた。

不安のあまり彼は洗面台の下にしゃがみ込んだのだが、曲げた足が壁により かかっていた大きなブリキのお盆に触れてしまった。それはすさまじい音を立 てて床にずり落ちた。 「ボック!」ティタニアが鋭くいった。「なにをしているの?」 オーブリーは惨めな気持ちで犬の吠え声をまねるべきだろうかと思ったが、 すでに遅かった。食器室のドアがあいてティタニアがなかをのぞいた。

二人はどちらも恐怖の目つきで数秒間相手を見つめた。面目を失って隅っこ の棚の下にしゃがんでいても、オーブリーの麻痺した感覚は、これほど美しい 女性の姿は見たことがない、と彼に語りかけていた。ティタニアは青い化粧着 と、訳のわからぬ奇妙なひらひらしたレースのボンネットをかぶっていた。彼 女の輝く黒髪は太い二本のおさげに編まれて両肩に垂れていた。その青い目は 驚きと警戒の色をありありと浮かべていたが、それはすぐさま怒りに変わった。 「ミスタ・ギルバート!」彼女は叫んだ。彼は一瞬、彼女が笑い出すのでは ないかと思った。その時、新たな表情が彼女の顔に浮かんだ。彼女はなにもい わず背をむけると走り去った。二階に駆けあがる音が聞こえた。ドアがばたん と鳴り、鍵がかかった。窓が急いで閉められた。ふたたび静寂が訪れた。 あまりの無念さにまともにものも考えられぬまま、彼は窮屈な体勢から立ち 上がった。いったいどうしたらいいのだろう? どうしたらわかってもらえる だろう?

彼は痛々しいまでに悩みながら食器室の洗面台のそばに立っていた。 こっそり家から出ていくべきだろうか? いや、説明もしないでそんなことは できない。それに彼は得体の知れない危険がこの家に迫っていると、いまだに 確信していた。どんなにばつの悪い思いをすることになろうと、ティタニアに 注意をうながさなければならない。彼女が化粧着を着てさえなければ――こと はずっと簡単だったのだが。

彼はホールに出てきて、自信を失いそうな自分を励ましながら階段の下に 立った。しばらくじっと待ってから、彼は咳払いして呼びかけた。 「ミス・チャップマン!」 答えはなかったが、頭の上で軽く、すばやく動く音が聞こえた。 「ミス・チャップマン!」彼はもう一度呼んだ。 ドアのあく音が聞こえ、冷ややかな調子の澄んだ声が一階に投げかけられた。

今度は氷を入れた細めのタンブラーのような響きだった。 「ミスタ・ギルバート!」 「なんです?」彼は情けない声でいった。 「タクシーを呼んでくださる?」 落ち着いた、命令的な口調がなんとはなしに彼をいらだたせた。もちろんい ろいろ問題はあっただろうが、しかし彼の行動はまったくの善意から出たもの なのだ。 「喜んで」と彼はいった。「でもその前にお話ししたいことがあります。と ても重要なことなんです。怖がらせてしまったことはお詫びのしようがありま せんが、ほんとうに緊急を要するんです」 短い沈黙があった。それから彼女がいった。 「ブルックリンておかしな場所ね。ちょっと待ってちょうだい」 オーブリーは壁紙の模様を指でたどりながらぼんやりと立っていた。急にパ イプを吸いたくてたまらなくなったが、こんな時にたばこをふかすのはエチ ケットに反するような気がした。 ほどなくティタニアはいつもの服装で階段の上にあらわれた。彼女は踊り場 に座り込んだ。なにもかも最悪だとオーブリーは感じた。彼女の顔が見られた ならば、決まりの悪さも多少は報われるというものだ。しかし光が彼女の後ろ の階段の窓から差し込み、顔が影になっていた。彼女は膝に腕をまわし、手を 組んで座った。光は階段を斜めに横切り、彼女のくるぶしだけが光って見えた。

彼の心は自分でも気がつかないうちに歩き慣れた道を進んだ。「シルクストッ キングの広告にうってつけのすてきなポーズだ!」と彼は思った。「目も覚め るような全面広告ができるぞ。アンクルシマー社に話を持ちかけなければなら ないな」 「それで?」彼女はいった。彼女は笑いをこらえることができなかった。彼 の姿があまりにも哀れだったのである。彼女は吹き出し、鳥がさえずるような 愛らしい笑い声をあげた。「どうしてパイプをおつけにならないの? ドイツ の皇帝みたいに悲しそうだわ」 「ミス・チャップマン。もしや――あなたがどうお考えになっているかわか りませんが、しかし今朝ここに入り込んだのは、わたしが――その、ここがあ なたにとって安全な場所ではないと考えるからなんです」 「そのようね。だからタクシーを呼んでとお願いしたの」 「この店のまわりでおかしなことが起きています。こんなふうに独りでいる のはよくありません。あなたの身になにかがあったのではないかと不安になっ たんです。もちろんわたしは知らなかったんです、あなたが――あなたが― ―」 彼女の頬にほのかな巴旦杏の花が咲いた。「本を読んでいたのよ」と彼女は いった。「ミスタ・ミフリンがあんまり寝床で読書する話をするから、ためし てみようと思ったの。お二人は今日いっしょに外出しようって誘ってくれたん だけど、わたしは断ったの。だって本屋さんになるんですもの、文学にすこし でも追いついておかなければならないわ。読まなければならない本がたまる一 方なのよ。お二人が出て行ったあと、わたし――わたし――つまりベッドで本 を読むのがみんながいうようなものかどうか、ためしてみたかったのよ」 「ミフリンはどこに行ったんです? いったいなんだってあなたをここに置 いてきぼりにしたんです?」 「わたしにはボックがいるわ。いったいなによ、日曜の朝のブルックリンが そんなに危険とは思えないわ。お知りになりたければいいますけど、彼とミセ ス・ミフリンはお父さんのところへ一日遊びに出かけたんです。わたしも行く ことになっていたんだけど、断ったの。それがあなたとなんの関係があって? あなたって『箱ちがい』のモリス・フィンズベリーとおなじくらい悪者ね。

犬の吠え声が聞こえたとき、ちょうどその本を読んでいたのよ」 オーブリーはだんだんいらいらしてきた。「わたしが余計な真似をしたと 思っているようですが、一つ、二ついわせてください」彼は金曜日の晩に店を 出てから起きたことを手短に語ったが、道のまむかいに下宿していることは省 いた。 「なにかひどく感心できないことが起きているんです。はじめミフリンは被 害者なのかと思っていました。この店から貴重な本をかっぱらう陰謀があるん じゃないかと思ったんです。でもワイントラウブが自分の鍵でここに入るのを 見て、気がつきました。やつとミフリンはぐるなんです。そういうことなんで すよ。やつらがなにを企んでいるのかはわかりませんが、わたしはどうも気に 入らない。ミフリンはお父さんに会いに行ったといいましたね。きっとあなた をだますための口実に過ぎないはずです。わたしならミスタ・チャップマンに 電話して、あなたをここから連れ出すべきだといいますね」 「ミスタ・ミフリンの悪口はやめてちょうだい」ティタニアが怒っていった。 「彼はお父さんの古い友達のひとりよ。あなたがこの家に押し入って、わたし を死ぬほど怖がらせたことをミスタ・ミフリンが知ったら、なんていうかしら?

頭を殴られたことはお気の毒に思いますわ。だってそこがお弱いようなんで すもの。おあいにくですが、自分の身は自分で守ります。映画と勘ちがいしな いでちょうだい」 「それじゃ、あのワイントラウブの行動をどう説明するんです?

夜中にだ れかが店のなかに出たり入ったりして本を盗んでもいいんですか?」 「そんなこと、お答えする義務はありません。説明する義務はあなたにある と思います。ワイントラウブさんはもの静かなおじさんよ。おいしいチョコ レートを五番街の半値で売っているのよ。ミスタ・ミフリンが教えてくれたけ ど、彼はうちのお得意さまなの。きっと仕事のせいで昼間は本が読めなくて、 夜中にここに来て本を借りるのよ。たぶんベッドで本を読むんでしょうね」 「夜中に裏の路地でドイツ語を話すようなやつがもの静かなおじさんとは思 えませんね。いいですか、あなたの幽霊書店はトマス・カーライルよりもっと たちの悪いなにかに取り憑かれているんですよ。これを見てください」彼はポ ケットから例の本の表紙を取りだし、そこに書き込まれた符号を指さした。 「それはミフリンさんの筆跡ね」ティタニアは上の列の数字を指さしていっ た。「好きな本にはそういう印をつけるのよ。面白い一節を見つけたページを あらわしているの」 「そうです。そしてこっちはワイントラウブの筆跡です」オーブリーはすみ れ色のインクで書かれた番号をさしていった。「これがやつらの共謀の証拠 じゃないなら、いったいなんだというんです。クロムウェルの本がここにある なら、見せてくれませんか」 二人は店舗に移動した。ティタニアが先に立ってかびくさい通路を進んで いった。オーブリーは確信に満ちた頑固な彼女の小さな肩を見て腹が立った。

彼は彼女をつかんで揺さぶってやりたいという激しい気持ちに襲われた。彼女 の輝かしい、なにも知らない青春が、薄汚れた本の納骨所にあるということが 彼には不愉快だった。「彼女はこんな店にはふさわしくないんだ――『リベレ イター』(註 1918年発刊の社会主義雑誌)に載ったパッカードの広告み たいなものだ」と彼は思った。

二人は歴史のアルコーヴに立っていた。「ここにあるわ」と彼女はいった。 「ううん、ちがう――これは『フリードリヒ大王の生涯』だわ」 棚には二インチの隙間があった。クロムウェルは消えていた。 「たぶんミスタ・ミフリンがどこかに持っていったんだと思う。昨日の晩は ここにあったもの」 「それはちがう」とオーブリーはいった。「いいですか、あれはワイントラ ウブが持って行ったんです。この目で見たんだ。はっきりいいましょう。戦争 はけっして終わっていないんです。ワイントラウブはドイツ人。カーライルは ドイツびいき――それくらいは大学で習いました。あなたの友達のミフリンも、 話を聞いたかぎりでは、ドイツびいきだと思います!」 ティタニアは頬を赤く燃え立たせて彼とむかい合った。 「いいかげんにして!」彼女は叫んだ。「つぎはわたしのお父さんも、つい でにわたしもドイツびいきだっていうんでしょうね! ミスタ・ミフリンに直 接いってもらいたいものだわ」 「そのつもりですよ、ご心配なく」オーブリーは顔をゆがめていった。彼は 絶望的なまでにティタニアのご機嫌を損ねたことを理解したが、自分の信念を 曲げようとはしなかった。沈む心で彼は彼女の顔を見た。それは色あせた装丁 の並ぶ棚の前にくっきりと浮かんでいた。彼女の目は深い、燃えるような青に 輝き、あごは怒りに震えていた。 「いいこと」彼女はつよい口調でいった。「わたしかあなたか、どっちかが ここを出て行くのよ。あなたがまだいるつもりなら、わたしのためにタクシー を呼んでちょうだい」 オーブリーも彼女とおなじくらいむかっ腹をたてていた。 「帰りますよ。でもフェアに振る舞ってもらわなくちゃ困ります。ミフリン とワイントラウブの二人はなにかを企んでいる。これは誓っていいます。これ から証拠をつかんであなたにお見せします。でもわたしが彼らを見張っている ことは教えてはいけません。そんなことされたら、もちろんあいつらは計画を 中止するでしょう。あなたがわたしをどう思おうとかまいません。でもそのこ とだけは約束してください」 「なにも約束なんかできません。二度とあなたと口をきかないこと以外は。

男の人は何人も見ているけど――あなたみたいな人ははじめてよ」 「あいつらに警告しないと約束するまでここを出て行くことはできない」彼 はいい返した。「いまのことはあなたを信じて打ち明けたのです。やつらはも うわたしの下宿先を知っている。これが冗談だと思いますか?

二度もわたし を消そうとしたんですよ。あなたがこのことをミフリンにもらせば、彼はほか の二人に警告するでしょう」 「あなたは店に押し入ったことをミスタ・ミフリンに知られるのが怖いの ね」彼女は嘲るようにいった。 「そう考えるのはあなたの自由です」 「なにも約束しませんからね!」彼女は突然あらあらしくそういった。それ から顔色が変わった。挑戦的な小さな口元がゆがみ、その痛ましい曲線の両端 から力が抜け落ちていくようだった。「いいわ、約束する」と彼女はいった。 「それがフェアだと思うわ。どっちにしろミスタ・ミフリンには話せない。あ なたにおびえたことなんか恥ずかしくて話せない。にくたらしい人。ここでた のしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだ わ!」 一瞬、彼女が泣き出すのではないかという恐ろしい思いが頭をよぎった。し かし彼は映画のなかでヒロインが泣く場面を思い出し、手近にテーブルと椅子 がなければそういうことにはならないはずだと思った。 「ミス・チャップマン」と彼はいった。「申し訳なくて言葉もありません。 でも誓っていいますが、わたしがしたことは真心から出たものです。まちがっ ていたなら、二度とわたしに話しかける必要はありません。まちがっていたな ら、お父さんに――グレイ・マター社との広告契約をやめるようにいえばいい。 それ以上はなにもいえません」 その言葉の通り、彼は口がきけなくなった。彼女のためなら自分を犠牲にし ても平気なつもりだった。

彼女はなにもいわず彼を正面のドアから送り出した。