苦悶の欄

第七章

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その日の朝、彼女は殺人に関する国際法上の微妙な点について、父親に訳あ りげな質問をいくつかした。父親がほかのことに気を取られ、はなはだしく興 奮していなければ、恐らくこの質問の奇妙さに気がついていただろう。 「いいか、帰らなきゃたいへんなことになるぞ!」彼は憂鬱そうにそう告げ た。「ドイツ軍はエクス・ラ・シャペルでリエージュ攻撃に備えている。そう、 あいつらはベルギーに襲いかかるつもりだ! それがどういうことか分かるか ? イギリス参戦だよ。労働問題や女性参政権問題やアイルランド内乱なんぞ、 去年の冬、テキサスに降った雪みたいにあっという間に消えてなくなるだろう。

連中は参戦するぞ。しなけりゃ国家的自殺行為だ」 娘は大きく目を見開いて父親を見た。彼女は、父がカールトン・ホテルの靴 磨きの受け売りをしていることを知らなかった。そして思っていたよりも父は 外交問題に通じているのではないかと考えはじめた。 「そうとも」彼はつづけた。「我々は帰国しなければならん、急いでな。ド ンパチがはじまればここは非戦闘員には安全な場所じゃなくなる。わしは帰る ぞ、定期船を買収してでも」 「とんでもないわ!」と娘が言った。「これこそ一生に一度の好機よ。あた し、なにもわかってないお父さんにだまされて、絶好の機会を逃したくないわ。 ほら、ここであたしたちは歴史とむかい合っているのよ!」 「アメリカの歴史だけでたくさんだよ」彼は手も足も放り出した。「なんだ、 その目つきは?」 「骨の髄まで田舎者なんだから」彼女の言葉には思いやりがこもっていた。 「お父さん……あたし、お父さんが大好きよ。アメリカの政治家の中には理解 できない事態を前にしてほうけたような顔をしている人もいるでしょうね。お 父さんがそんなふうにならなければいいと思うわ」 「無駄口はもういい!」彼は大声を出した。「わしは今日、汽船会社の事務 室に行って掛け合ってくる。選挙のときより激しくな」 父が固く決心していることが、娘には分かった。長い経験から得た知恵で、 彼女は思いとどまらせようとはしなかった。 その暑い月曜日のロンドンは、警戒体制に入った都市、恐れおののく人々の 都市であった。ある新聞の号外に載った噂は次の号外で否定され、その次の号 外で再び肯定された。先見の明ある人間は幸せからはほど遠い表情を浮かべて 通りを歩いた。不安が町を支配した。そしてスコットランドヤードの威圧的な 壁のむこうで「不当監禁」されている苦悶の欄の友人を思いやるテキサス娘の 胸にも、その不安はこだましていた。

午後、父親は勝利者のようなにこやかな笑みを浮かべて現れた。三日後に汽 船サロニア号で出航予定だった男から、途方もない額で切符を買い取ったらし い。 「連絡列車は木曜日の朝十時に出る」と彼は言った。「最後のヨーロッパ見 学と帰る準備をしておきなさい」 たった三日間!

娘は聞きながら気持ちが沈んだ。三日のうちにあの不思議 な謎の結末を聞くことができるだろうか。公共の刊行物を使って、型破りな声 のかけ方をしてきた男の最後の命運を見極めることができるだろうか。そうだ わ、あの人、三日経ってもまだスコットランドヤードにいるかもしれない、囚 人として! ほんとうにそうなったとしたら、立ち去ることはできない。とて もできるものじゃない。彼女はもう少しで父親に洗いざらい話をするところだ った。父の怒りを静め、その協力を取り付ける自信があったのである。が、彼 女は次の朝まで待つことにした。そしてもし手紙が来なければ、その時は…… しかし火曜日の朝、手紙が来た。その最初のほうには喜ばしい知らせが書か れていた。最初のほうには……そのとおり、喜ばしい知らせが。ところが最後 のほうには! これがその手紙である。

安否を気遣う親愛なるお嬢さま 英国インド陸軍大尉を殺害したかどで監禁され、わたしに有利な証拠はなに もなし、希望はまことにかぼそい、小さな声で語りかけるだけ、そんなありさ まをご存知のお嬢さまが、私の安否を気遣っているだろうと考えるのはうぬぼ れでしょうか。 お嬢さん、ご心配はもう無用です。先週の木曜以来、私の運命であった驚く べき日々の中で、もっとも驚くべき一日が経過したばかりなのです。そして今、 私は自由の身となって夕闇に包まれた自分の部屋に腰かけ、先ほど経験したば かりの思いも寄らぬ冒険のあと、思う存分、平和と静寂を味わいながら、あな たへの手紙を書いているのです。

私への疑惑は晴れ、巡査たちの見張りも、もうありません。スコットランド ヤードは私にたいしてひとかけらの興味すら抱いていないのです。なぜならフ レイザー=フリーア大尉の殺人者がとうとうつかまったからです!

日曜日の夜を、私は不名誉にもスコットランドヤードの独房で過ごしました。

私は眠れませんでした。いろいろなことを考えたのです……たとえばあなたの ことを。そしてその合間に、身動きも取れないくらいまわりに張り巡らされた 罠から逃れる手立てのことを。領事館の友人ワトソンが夜遅く訪ねてきて、と ても気を遣ってくれました。しかし彼の声にはなにかが欠けているのです。彼 が帰った後、恐ろしいことですが、結局、彼も私の有罪を信じているのだと確 信を抱きました。

一夜が過ぎ、今日という日も、詩人風に言えば「歩みも遅々と」大部分が過 ぎて行きました。私は日射しを受けて黄色くみえるロンドンを思い、カールト ン・ホテルを思いました。今はもうイチゴはないでしょうね。私のウエイター、 あの背筋をぴんと伸ばしたプロシア人は、今ごろ、祖国ドイツで連隊行進に加 わっているでしょう。そして私はあなたのことを考えました。

今日の午後三時に私はブレイ警部の部屋に連れ戻されました。しかし私が部 屋に入ったとき、警部はそこにいませんでした。ただヒューズ大佐のみが、い つものとおり身だしなみよく、冷静な態度で、窓からわびしい石畳の中庭を眺 めていました。私が入ると、彼は振り返りました。私は見るも痛ましい姿をし ていたのに違いありません。後悔の表情が彼の顔を横切ったのですから。 「いや、まことに申し訳ない!

昨日の晩、釈放させようと思っていたので すが、あまりにも忙しかったのです」 私は黙っていました。なにが言えるでしょうか。忙しかったなど、随分ふざ けた言い訳だと思いました。しかしすぐにも法の網を逃れることができるのか と思うと、胸がどきどきしはじめました。 「許していただけないかも知れませんね、昨日、あなたをあんなふうに見捨 てたりして。ただ、あれはどうしても必要だったのです。間もなくご理解いた だけると思うのですが」 私は態度を少し軟化させました。なにしろ彼の声と態度には疑いようのない 誠意があったのです。 「いまブレイ警部を待っているんですよ。この事件の決着を見届けたいと思 っていらっしゃるでしょう?」 「最後まですべてを」と私は答えました。 「当然です。警部は昨日の会見の後、すぐ呼び出しを受けました。どうも大 陸のほうで仕事があるようです。しかし幸いにも、ドーヴァーに着いたとき、 彼と連絡が取れまして、ロンドンに戻ってきてもらいました。彼が必要なので すよ。フレイザー=フリーア大尉殺害の犯人が見つかったのですから」 私はそれを聞いてわくわくしました。私にとって、それこそ熱烈に望んでい た結末なのです。大佐は話すのを止めてしまいました。数分後、ドアが開いて ブレイが入ってきました。まるで昨夜は服を着たまま寝たような様子で、その 小さな目は血走っていました。しかしそこには忘れることができない火のよう なきらめきがありました。ヒューズはお辞儀をしました。 「こんにちは、警部」彼は言いました。「仕事の邪魔をして、ほんとうに申 し訳ありません。しかしあなたが私にホンブルグ帽の借りがあることを、どう してもお伝えしたかったものですから」彼は警部に歩み寄りました。「いいで すか、賭けに勝ったのは私です。フレイザー=フリーア大尉を殺した男を見つ けました」 奇妙なことにブレイはなにも言いませんでした。彼は机に座ると、そこに積 まれた郵便の山をぼんやりと眺めました。ようやく彼は顔を上げると、疲れた ような口調で言いました。 「あんたは切れ者だな、ヒューズ大佐」 「いいえ、そんなことはありません」とヒューズは答えました。「運がよか ったのです――最初から。この事件にたずさわることができて、ほんとうによ かったと思います。私が捜査に参加していなかったら、きっと無実の人間が憂 き目を見ることになったでしょう」 ブレイの大きく丸々とした手は、机の上の手紙をもてあそびつづけました。 ヒューズはつづけます。 「有能な警部としてあなたも、私がホンブルグ帽を勝ち取るに至った一連の 事情に興味がおありではないですかな。もうお聞きでしょうが、私が捕まえた 男はフォン・デア・ヘルツ。十年前はドイツ政府のために働いていたいちばん 優秀な秘密諜報員でした。ところがここ数年は不可解にも我々の前から姿を消 していました。我々陸軍省はずっといぶかしく思っていました」 大佐は椅子に腰を下ろし、ブレイにむかい合いました。 「フォン・デア・ヘルツはもちろんご存知ですよね」彼は何気なく言いまし た。 「当然だ」ブレイはやはり疲労困憊した声で言うのです。 「奴はイギリスにいるスパイどもの首領格です」ヒューズはつづけました。 「彼を捕まえたことは、ちょっとした自慢の種になりますな。いや、うぬぼれ るのはよしましょう。私が捕まえてなくても、かわいそうなフレイザー=フリ ーアが捕まえていたでしょうから。ただフォン・デア・ヘルツは運よく先に大 尉を殺すことができたというだけです」 ブレイは目を上げました。 「あんたが話すといってたのは……」彼は言いかけました。 「これから話しますよ」とヒューズ。「フレイザー=フリーア大尉はインド で不祥事をおこし、昇進の機会を失いました。彼は軍務に不満を抱いている、 嫌気がさしていると疑われました。そしてソフィー・ド・グラフ伯爵夫人がそ の魅力で彼を誘惑し、大尉の忠誠心を殺し、仲間にひきこもうとしはじめたの です。

彼女はそれに成功したように思われました。ドイツの外務省はそう思いまし た。我々、陸軍省もそう思いました。彼がインドにいるあいだは。 ところが大尉と女がロンドンに来たとき、我々は大尉を不当に評価していた ことに気がついたのです。彼は最初の機会が訪れたとき、我々に、名誉挽回の 努力をしていること、危険なスパイどもを、自分もその一人のふりをして、一 網打尽にしようと考えていることを伝えてきたのです。彼は、ロンドンでフォ ン・デア・ヘルツ、つまりスパイの中でもいちばんの大物に会うのが自分の使 命だと語りました。そしてこの男の居場所がわかったら、また連絡するとも言 いました。それから数週間、私は伯爵夫人を見張りつづけました。また大尉も、 一応ですが、監視していました。というのは、恥ずかしながら、私は彼を完全 に信頼していなかったのです」 大佐は立ちあがって窓のほうへ行きました。そして振り返ると、話をつづけ ました。 「フレイザー=フリーアとフォン・デア・ヘルツはお互いのことをまったく 知りませんでした。手紙を連絡手段として使うことは禁じられていました。し かしフレイザー=フリーアはなんらかの方法でスパイの首領から連絡がくるこ とを知っていたのです。しかもデーリー・メールの私事広告欄を注意して見ろ と言う示唆も受けていました。今や我々は、あの四つの奇妙なメッセージを説 明できます。あの欄を見てラングーンから来た男は白いシナギクをボタン穴に さし、ネクタイにはコガネムシのピンをし、ホンブルグ帽をかぶって、先週の 木曜日の晩十時にリージェント通りのイ・オールド・ガンブリヌス・レストラ ンでフォン・デア・ヘルツと会わなければならないことを知ったのです。我々 も知っているように、彼はこれらの指示にしたがって準備をしました。その他 にも彼がしたことがあります。彼がスコットランドヤードに来るのは論外です から、巧妙な手を使って一人の警部とホテル・セシルで落ち合うことにしたの です。その時に、フォン・デア・ヘルツが木曜日の晩、大尉に正体を明かした ら、その場で逮捕するという手はずがととのえられたのでした」 ヒューズは話を中断しました。ブレイは手紙の山をもてあそびつづけ、大佐 はそんな彼をいかめしい顏つきでみつめていました。 「かわいそうなフレイザー=フリーア!」ヒューズはつづけます。「彼にと って不運だったのは、フォン・デア・ヘルツが自分を罠にかける計画を、警部 とほとんど同時に知ったことでした。スパイに残された道はただ一つしかあり ませんでした。彼は大佐の下宿先を突き止め、あの晩の七時にそこへ行き、忠 節で勇敢なイギリス人を殺害したのです」 緊迫した静寂が部屋を満たしました。私は椅子から身を乗り出して、いった いこの絡み合った謎が解けた先に、なにがあるのだろう考えていました。 「私が持っていた手がかりは実にわずかでした」ヒューズは話を進めます。 「しかし私に有利なこともありました。つまりスパイは警察だけが殺人犯を追 っていると思っていたのです。彼は私をまこうともしませんでした。なぜなら 私が捜査に当たっていると思っていなかったからです。それまで何週間ものあ いだ、私の部下は伯爵夫人を見張っていました。私は監視をつづけさせました。

遅かれ早かれ、フォン・デア・ヘルツは彼女に接触するだろうと考えていたの です。私の考えは当たりました。そしてついに自分の目で、まがうかたなきフ ォン・デア・ヘルツその人を見たとき、私は愕然としましたよ、警部、圧倒さ れるような思いでしたよ」 「そうかね」とブレイ。 「その後、私は、彼がアデルフィ・テラスのあの事件とどう結びついている のか、鋭意調査に取り掛かったのです。大尉の書斎にあった指紋は、なぜかこ とごとく拭き取られていました。しかし私は屋外で犯人の指紋を見つけました。 それは庭から外へ通じる、めったに使われない門の埃についていたものです。

私は疑いをかけていた男から、その右手の親指の指紋をこっそりと採取しまし た。両者の類似は驚くほどでした。次に私はフリート街の新聞社へ行き、幸運 にもデーリー・メールに送られたあの四つのメッセージのタイプ用紙を手に入 れたのです。それを見ると小文字のaが文字列を外れていることに気がつきま した。私は容疑者の所有しているタイプライターで書かれた手紙を手に入れま した。aが列をはみ出していました。そのころアーチボルド・エンライトとい う、我々のあいだでは売国奴としてよく知られている裏切り者のろくでなしが、 イギリスにやって来たのです。容疑者と彼はイ・オールド・ガンブリヌスで落 ち合いました。そして最後に、私がフォン・デア・ヘルツに間違いないと確信 する男の下宿を訪ねたとき、私はベッドのマットレスの下からこのナイフを発 見したのです」 ヒューズ大佐は警部の机の上に、私がフレイザー=フリーア大尉の書斎で最 後に見たインドのナイフを放り出しました。 「昨日の朝、この部屋にいたとき、私はこうした証拠をみんなつかんでいた のですよ。それでもそれらが示す答えはあまりにも信じがたく、あまりにも驚 くべきものなので、私は確信が持てませんでした。さらに強力な証拠がほしか ったのです。それで私はここにいるアメリカ人の友達に疑惑がかかるようにし むけました。私は待っていました。フォン・デア・ヘルツもさすがに危険を察 知するだろう、機会さえあれば、イギリスから出て行こうとするはずだ、と考 えていました。彼がどんなにずる賢いとは言え、そうなればクロであることの 証拠は決定的になります。予想は的中し、彼はその日の午後、伯爵夫人を釈放 し、二人そろって大陸へむかったのです。彼をドーヴァーで捕まえることがで きたのは幸運でした。そして喜んで夫人のほうはそのまま見逃したのです」 私は驚くべき真相にそのときようやく気がつき、はっとしました。ヒューズ がその獲物を見下ろして、微笑んでいました。 「ブレイ警部」と彼は言いました。「あるいはフォン・デア・ヘルツ、あな たを二つの犯罪で逮捕します。一つはイギリスに潜入したドイツのスパイ組織 の首領として、二つ目はフレイザー=フリーア大尉殺害の犯人として。それか ら差し出がましいようですが、あなたの有能さには敬意を表したいと思います」 ブレイはしばらく返事をしませんでした。私は麻痺したように椅子に座って いました。やっと警部が顔を上げました。彼は驚いたことに笑顔を浮かべよう としていました。 「帽子はあんたのものだ」彼は言いました。「が、ホンブルグまで買いに行 かなければならんぞ。喜んで費用は全額払うが」 「恐れ入ります」ヒューズが答えました。「遠からずあなたのお国を訪問し たいと思います。しかし、帽子選びにうつつを抜かすわけにはいかないでしょ うね。もう一度賞賛の言葉を差し上げましょう。あなたは少々注意が足りなか った。しかしあなたの地位を考えればそれも当然でした。スパイ狩りを専門に するスコットランドヤードの一部局の指揮者なのですから、警戒の必要などな いと思っていらっしゃったのでしょう。フレイザー=フリーアは実に運が悪か った。あなたのところへ行って、あなた自身の逮捕の手はずをととのえたのだ から!

私はその情報をホテル・セシルのフロント係から聞きました。あなた の立場からすれば、彼を殺すのは当然です。しかも、さっきも言ったように、 多少危険を犯しても大丈夫でした。あなたは、大尉殺害の知らせがスコットラ ンドヤードに届いたら、自分が捜査を指揮できるよう、前もって手配していま した。巧妙に仕組みましたな」 「あの時はそう思えた」とブレイが認めました。そのとき初めて、私は彼の 声に苦い響きを聞き取りました。 「たいへん残念なことですが」とヒューズ。「今日か、遅くとも明日にはイ ギリスは戦争に加わるでしょう。それがどういうことか分かっていますね、フ ォン・デア・ヘルツ。ロンドン塔、そして銃殺刑執行隊!」 彼はゆっくりと警部のそばを離れ、窓にむかい合うように立ちました。フォ ン・デア・ヘルツは机の上のインドのナイフをぼんやりひねくり回していまし たが、ふと怯えたような目つきで部屋の中をすばやくみまわすと、その手を振 り上げたのです。そして私が止めようと前に飛び出すよりも先に、ナイフを自 分の心臓に突き立てました。 ヒューズ大佐は私の叫びを聞いて振り返りました。しかし目の前の光景を見 ても、あのイギリス人は動じませんでした。 「惜しい」と彼は言いました。「実に惜しい人物だった。勇気があって、し かもすぐれた頭脳の持ち主でしたよ、疑いもなく。しかし……これは彼の優し い気遣いですな。いろいろな面倒を省いてくれたのですから」 大佐は私をすぐ釈放してくれました。スコットランドヤードの冷え冷えとし た壁を経験した後には、とても心地よく感じられる明るい日射しを浴びて、彼 と私はともにホワイトホールの通りを歩きました。彼は前日、私に疑惑の目を むけさせたことをもう一度詫びましたが、私はなんの恨みも抱いていないと言 って彼を安心させました。 「分からないことが一つ二つあるのですが」と私が言いました。「インター ラーケンから私が持ってきたあの手紙は……」 「簡単なことです」と彼は答えました。「エンライトは……今はロンドン塔 の牢獄ですがね……フレイザー=フリーアと連絡をとろうとしました。奴は大 佐を忠実なスパイ団の一員と思っていたのです。郵便で手紙を送るのは危険だ と思われました。そこで、あなたの親切な協力によって、大尉に自分の居場所 と、目前に迫ったロンドン到着の日付を教えたわけです。フレイザー=フリー アは、あなたが計画にまきこまれることを望まず、あなたを遠ざけるために従 兄弟の存在を否定したのです。もちろんそれは真実でしたが」 「なぜ伯爵夫人は私に証言を変えるよう要求したのですか」 「ブレイがやらせたのですよ。彼はフレイザー=フリーアの机を捜してエン ライトの手紙を手に入れました。彼は若い中尉に罪を押しつけようとやっきに なっていました。あなたと、あなたの犯行時刻に関する証言が邪魔だったので す。彼はあなたを脅迫し……」 「でも……」 「分かりますよ、伯爵夫人がなぜ次の日、私に告白したのか不思議に思って いるのですね。私は少々脅してやったのですよ。矢継ぎ早の質問の網にひっか かって、身動きができなくなったんですな。彼女は何週間も見張られていたこ とや、フォン・デア・ヘルツも思っていたほど安全ではないことを悟り、急に 怖くなったんでしょう。頃合いを見計らって、私は、彼女をブレイ警部のとこ ろへ連れて行かねばならないだろうと言いました。これが彼女にアイデアを与 えたのですね。彼女は嘘の告白をでっちあげ、彼のもとに行きました。そこで 彼女は、彼が危険であることを知らせ、二人で逃げたと言うわけです」 私たちは少しのあいだ黙って歩きつづけました。まわりでは毒々しい見出し をつけた午後の号外が、来るべき恐怖をこれ見よがしに報じていました。大佐 は厳粛な面持ちでした。 「フォン・デア・ヘルツはどのぐらいスコットランドヤードにいたのですか」 私は聞きました。 「ほぼ五年です」ヒューズが答えました。 「信じられませんね」私はつぶやきました。 「そうですね」と彼が答えました。「しかしそれはこの戦争が明らかにする 数多くの信じられない事実の最初の一つに過ぎません。二カ月もたてば、さら に信じがたい新たな暴露を前に我々はこんなことは忘れてしまっているでしょ う」彼はため息をつきました。「ここにいる人々が、我々を待ちうける恐るべ き試練に気がついてさえいれば!

国家として統制がとれておらず、準備は不 足している。われわれが払わなければならない犠牲を思うとぞっとします。し かもその多くは無駄な犠牲です。それでも時間がたてば、いつかは、なんとか 切りぬけられるんでしょうけど」 彼はトラファルガル広場で私に別れを告げました。そしてこれからすぐ亡く なった大尉の父親と弟を探しだし、彼らの血族がほんとうは祖国に忠実であっ たことを話してやらなければならないと言いました。 「彼らにとって、この知らせは暗闇にさす一筋の光になるでしょう」と彼は 言いました。「あなたにはもう一度お礼を言います」 私は彼と別れ、下宿に戻りました。謎はついに解けました。悪夢としか思え ないような結末ではありましたが、しかし解決したことは解決したのです。私 は心安らかであるべきなのです。しかし、たった一つ私をさいなみ、休ませよ うとしない、まがまがしい事実があるのです。お嬢さん、私はそれをお話しし なければなりません……ですが、それが一切の終わりになりはしないかと不安 なのです。なんとかあなたのご理解がいただけたらいいのですが!

私は部屋の中を歩き、考えこみ、困惑し、迷いました。そして今、決心しま した。他に方法はありません。あなたに真実をお話ししなければなりません。 ブレイがフォン・デア・ヘルツであったという事実にもかかわらず、彼が罪 の露見により自殺したという事実にもかかわらず、あれやこれや一切合切にも かかわらず、ブレイはフレイザー=フリーア大尉を殺していないのです! この前の木曜日の晩、七時すこし過ぎに私は階段をあがり、大尉の部屋に入 り、机からナイフを取りあげ、彼の心臓に突き刺したのです! どのような挑発を私が受けたのか、どのような深刻な必要が私を動かしたの か……このすべてを知りたければ明日までお待ちいただかなければなりません。

私は自己弁護を用意しながら、もう一日不安な日を過ごすことになるでしょう。

慈悲深い奇跡が起きて、あなたが私を許し、私にはそうする以外どうしようも なかったのだということを理解してくれることを望みながら。 お嬢さん、事件の一部始終を知るまで結論を下さないでください。私が証拠 を洗いざらい、あなたの美しい手に差し出すまでは。 あなたの卑しきしもべ。

苦悶の欄の男から来た六番目の、そして最後から二番目の手紙は、初めのう ち、それを読む娘の顔に安堵の笑みを浮かべさせた。彼女は友人がヴィクトリ ア・エンバンクメントに沿った、あの灰色の壁のむこうで、もはや、やるせな い思いをしてはいないことを知り、無条件に喜んだ。読み進むにしたがい、ま すます興奮を覚えながら、彼女は手紙の中のヒューズ大佐がしだいに事件の核 心へと近づき、ついに椅子に座るブレイ警部を指差し、犯人と指摘するまで、 彼の一挙手一投足をじっと見守ったのである。これは十分納得のいく解決であ り、彼女の友人を監禁した警部には、当然の報いであった。ところが手紙の最 後では、飛行船から落とされた爆弾さながらの唐突さで、イチゴ男が罪の告白 をしているのだ。実は彼こそが殺人犯だった!

彼はそれを認めている!

彼 女は自分の目が信じられなかった。 しかしぞくぞくするようなこの一週間のあいだに、すっかりおなじみとなっ てしまった便箋には、彼女の目の色とおなじすみれ色のインキで確かにそう記 されていたのである。彼女は手紙を二回、三回と読んだ。当惑が怒りへ変わり、 彼女の頬は炎のように紅くなった。が、彼はすべての証拠を目にするまでは結 論を下さないでくれと頼んでいる。確かにそれは筋が通った要求だったし、公 正を保つためにも彼女はそれを認めてやらなければならなかった。