第五章
娘はその言葉を聞いて落胆した。あれほど彼女を夢中にさせた謎の解決を永 遠に手に入れることなく、リヴァプールかサウサンプトンから船出する、はな はだ不幸な自分の姿を思い描いた。彼女は抜け目なく父親の心を食べ物のほう にそらそうとした。食事をするならストランド街のシンプソンズがどこよりも おいしいんですって。歩いて行ってみない?
彼女は、ちょっと遠回りしてア デルフィ・テラスを通って行こうと言った。彼女は以前からアデルフィ・テラ スを見たかったようであった。
静かなストランド街を通るとき、家々のいかめしくて近づきがたい門構えと、 その後ろの素敵な庭を念入りに調べながら、彼女は奇怪な謎のありかを探そう とした。しかしどの家も皆よく似ているのである。そのうちの一軒の前にタク シーが止まっているのを彼女は見た。
夕食のあと、父親は「お茶のカップばかり出てくる気取ったイギリスの劇」 を見るよりミュージックホールに行こうと熱心に訴えた。彼の勝ちであった。 その夜遅く、彼らがカールトン・ホテルへ帰るとき、街頭で号外が配られてい た。ドイツが戦時体制に入った! テキサスの娘は、明日の朝はどんな手紙が自分を驚かしてくれるだろうと思 いつつ、床についた。次の日、こんな手紙が届いた。
親愛なる上院議員の娘さんへ それとも下院ですか? どちらかはっきり分かりませんでした。しかしテキ サスのおうちにいらっしゃらないときや、娘さんの目を通してヨーロッパをご 覧になっていないときは、きっといずれかの立派な組織の議員をなさっている のでしょう。それぐらいのことは一目で分かりました。 しかしワシントンはロンドンから遠く離れています。そして私たちの最大の 関心事はロンドンなのです。もっともお父さんの選挙区民にそんなことを知ら せてはいけませんが。いったん旅行者気分が抜ければロンドンは実にすばらし い驚くべき都市です。私は今、七歳のときにこの都市にほれこんでしまったと いう新聞記者が書いた、それは魅力的なエッセイを読んでいます。七歳という のは彼にとって光り輝く都市のすべてがハイストリートの角のフィッシュ・ア ンド・チップスに象徴されるような年頃です。私は彼と連れ立って真夜中、秘 密めいた灰色の大通りを歩きました。時にはゴミ箱にぶつかり、時にはロマン スにぶつかりながら。いつかあなたにそんなロンドンをご紹介したい。もちろ んゴミ箱からあなたをお守りしますよ、あなたがゴミ箱から守ってあげる必要 のある人なら。でも、考えてみたら、あなたはそんなボンヤリさんじゃありま せんよね。 あなたが聞きたいのはアデルフィ・テラスのこと、今は亡き英国インド陸軍 大尉のことだということは分かっています。昨日は、デーリー・メールであの メッセージを発見し、ヒューズ大佐の訪問を受けたあと、何事もなく過ぎて行 きました。晩はあなたへの三通目の手紙を出して、しばらくこの都会のぎらぎ らした光と薄暗闇を交互に通りすぎながら、歩いて部屋に帰りました。そして 六百万の家々に住む人々が暑さにうだっているなか、私はバルコニーで煙草を くゆらせたのでした。 なにも起きませんでした。私は少々がっかりし、少々だまされたような気が しました。何日も立てつづけにどきどきするような劇を見たあと、初めて晩を 家で過ごしたときに感じる、だまされたような気分です。今日、八月の第一日 がはじまったのに、なにもかもがなりをひそめたように静かでした。実は、フ レイザー=フリーア大尉の突然の死が、さらなる展開をとげて私を動揺させた のは、今日の夕方になってからでした。それはまことに奇怪きわまる展開で、 早速そのお話をしようと思います。
私は今晩、ソーホーの小さなレストランで食事をしました。私についていた ウエイターはイタリア人だったので、私は愚かしくも得意げに「十課で覚える イタリア語」を使って話しかけ、面白がっていました。私たちは彼が住んでい たフィエゾレの町について話をしました。かつて私は月明かりのなか、フィエ ゾレから丘を下ってフローレンスまで旅したことがあります。バラの花が鮮や かに咲き誇る、どこまでもつづく壁は忘れられません。そしてさびしい女子修 道院と門をガチャンと閉める二人の灰色の長服を着た尼僧。また、軍隊の夜営 地からさすサーチライトがアルノー川と家々の屋根をしきりに飛び跳ねる様子 も覚えています。それは、ここヨーロッパでは、閉じることのない軍神マルス の目のようでした。そして花々が絶えず上のほうからこっくりこっくり首をた れ、ときどきかがみこんでは私の顔をかすめるのです。私はこの先に待ってい るのは二流ホテルではなく、天国じゃないかと思うようになりました。今だっ てあんな旅ができるんじゃないかと思いますよ。いつの日か、いつの日か……。
私はソーホーで食事をし、暑い湯気の立つ八月のたそがれ時に、アデルフィ ・テラスに戻りました。私を巻きこんだ謎は一応、動きを止めたように思われ ました。アパートの前に客待ちのタクシーが停まっていましたが、別にどうと も思わず、私は暗い廊下に足を踏み入れ、のぼりなれた階段をのぼりました。
部屋のドアが開いていました。書斎は暗く、ただ外からロンドンの街の灯が 射しこんでいるだけです。入り口を入ると、かすかに甘いライラックの匂いが しました。庭にはライラックの花はなく、あったとしても、今はその季節では ありません。いえ、この匂いは女性によって持ちこまれたのです……机の前に 座り、私が入ると同時に頭をあげた女性によって。 「勝手に入ってごめんなさい」彼女は英語を本で覚えた人に特有の、正確で 完璧な言葉づかいをしました。「少しお話があるのです。すぐ帰りますから」 私はなにを言っていいのか分かりませんでした。ただ小学生のように口を開 けて突っ立っていました。 「私はご忠告を申しあげたいのです。忠告する人って好かれるとはかぎりま せんわね。それでもあなたなら聞いてくれると思いますの」 その時やっと口がきけるようになりました。 「聞いていますとも」と私は間抜けのように言いました。「でも、まず明か りを」そしてマントルピースの上のマッチに手を伸ばしました。
女はすばやく立ち上がり、私とむかい合いました。彼女はベールをかけてい ました。厚手のベールではなく、ふわふわしたあだめいたものでしたが、しか し顔を隠すには十分でした。 「お願いですから」と彼女は大きな声で言いました。「明かりはつけないで」 私がぐずぐず返事をしないでいると、口を尖らせるような調子でこう付け加え ました。「大したお願いではないでしょう。どうかお断りにはならないで」 私は明かりをつけると言い張るべきだったと思います。しかし彼女の声はチ ャーミングで、物腰は非の打ち所がなく、ライラックの匂いはずっと昔の我が 家の庭を思い出させました。 「分かりました」と私は言いました。 「よかった。感謝しますわ」と彼女は答えました。彼女の口調が変りました。 「この前の木曜日の晩、七時少し過ぎに、あなたは上の部屋から争う音を聞い たのですね。警察に証言したのはそういう内容でしたわね」 「そうですよ」と私。 「時間は間違いありませんか」私は彼女が笑っているような気がしました。 「もっと遅かったとか、早かったのではありませんか」 「七時すこし過ぎに間違いないです」と私は答えました。「なぜかと言うと、 ちょうど夕食から帰ってきて、鍵を開けているときに国会議事堂のビッグベン が……」 彼女は押しとどめるように手を挙げました。 「どうでもいいことです」と彼女は言いました。その声には鉄のような響き がありました。「あなたはもうはっきりとは覚えていないのです。考え直して みたら、争う音を聞いたのは六時半より前だったかもしれない。そう結論する ようになったのです」 「ほう?」と私は言いました。嫌味をこめて言ってやろうとしたのですが、 私はすでに彼女の調子に気を呑まれていました。 「ええ、そういうことなんです!」と彼女。「ブレイ警部に今度会ったら、 そう言うのです。『六時半だったかもしれない』そう言うのです。『もう一度 考え直したら、はっきりしなくなった』と」 「いくらすてきな女性に頼まれても、こんな重要な事柄に関して事実を捻じ 曲げることはできません。あれは七時過ぎ……」 「私は女性のためになにかをしてほしいと言っているのではありません」と 彼女は答えました。「あなたのために、そうしてほしいと言っているのです。 お断りになればあなたにとってとても困ることが起きるかもしれませんよ」 「なんの話なのか、さっぱり……」 彼女は一瞬、黙りこみ、そしてむき直りました。私は彼女がベール越しに私 をみつめているのを感じました。 「アーチボルド・エンライトとは誰ですか」と、彼女は言いました。私は愕 然としてしまいました。彼女が手にしている武器がなにか分かったのです。「 警察は」と彼女はつづけます。「あなたが大尉のところへ持って行った紹介状 が、フレイザー=フリーアを親愛なる従兄弟と呼ぶ男によって署名されていた ことも、それが大尉の家族のまったく知らない人であったことも、まだ知りま せん。しかし、いったんその情報がスコットランドヤードに届けば、あなたが 逮捕を逃れる見こみは、まずありませんよ。警察はあなたと事件を結びつける ことはできないかもしれない。でも、あなたはとても厄介な立場に追いこまれ るでしょう。個人の自由って大切にすべきじゃありません? それに事件に決 着がつく前に、広く世間の注目を浴びてしまいます……」 「それで?」 「それであなたは争いを聞いた時間に関して記憶違いをするのです。考え直 してみると、あれは七時じゃなくて六時半だったかもしれないと。さもないと ……」 「さもないと?」 「さもないと、大尉に渡した紹介状が、匿名でブレイ警部の元に送られるで しょう」 「手紙を持っているのか!」と私は叫びました。 「私は持っていません」彼女は答えた。「でも手紙はブレイに送られます。 あなたは嘘をついていたことがばれるでしょう。そうなったら逃げられません よ!」 私はとても不安になりました。疑惑の網の中に追いこまれてしまったような 気分でした。しかし私はこの女の自信に満ちた声に憤慨してもいました。 「それでも証言を変えることは拒否します。真実は真実ですから……」 女はすでにドアのほうに移動していました。彼女は振り返りました。 「あしたは」彼女が答えました。「ブレイ警部に会えそうですね。先ほど言 ったとおり、私は忠告をしにここに来たのです。おとなしく従ったほうが身の ためですよ。三十分早くても、遅くても、どうでもいいじゃないですか。しか もその違いがあなたには監獄を意味するのです。おやすみなさいまし」 彼女は出て行きました。私は廊下まで追いかけていきました。下の通りのほ うからタクシーががたがたと走りだす音が聞こえました。
私は部屋に戻り、座りこみました。気が動転したのです。窓の外では都会が 絶え間なく交響楽を演奏しています。バス、列車、決して止むことのない人声。
私は外をみつめました。冷ややかな煉瓦の家々がひしめき、冷ややかなイギリ ス人どもが住んでいる、なんと広大な土地なのでしょう!
私はひどく孤独を 感じました。付け加えて言えばすこしおびえてもいました。まるでこの巨大な 都市がゆっくりと私に迫ってきたような気がして。 あの謎の女は何者なのか? フレイザー=フリーア大尉の人生に対して、そ して恐らくその死に対してもでしょうが、どんな関係を持っているのか。なぜ 厚かましくも私の部屋に来て、とんでもない要求をつきつけるのか。
私は、安らかな生活を犠牲にしても、真実に固執すべきだと決心しました。 そして私はその決心を手放すことはなかったはずです、間もなく別の人が私を 訪ねてこなければ。この訪問は最初の訪問よりはるかに不可解で驚くべきもの でした。 ウオルタースが私のドアをたたいて、二人の紳士が面会を望んでいると告げ たのは、九時ぐらいのことでした。すぐさま私の書斎に入ってきたのはノーマ ン・フレイザー=フリーア中尉と立派な老紳士で、後者は貴族の家の壁に掛か っている色あせた肖像画のような顔をしていました。初対面の相手です。 「お邪魔ではないでしょうね」と若いフレイザー=フリーアが言いました。
私は大丈夫ですと請合いました。青年の顔はげっそりやつれていました。目 には恐ろしい受難の色がありましたが、それでも彼の身体からは、強い決意が 光輪のようにあふれているのです。 「父を紹介いたします。フレイザー=フリーア将軍、退役将校です。ここに 来たのはとても重要な用件のためでして……」 老紳士がなにかをつぶやきましたが聞き取れませんでした。私に分かったの は、彼が長男を失いショックを受けていることでした。椅子を勧めると、将軍 はそれに応じましたが、青年は苦悩に満ちた様子で床を歩くのでした。 「長居はいたしません」と彼は言いました。「また、こういう時は、もって まわった話し方をする気になれません。直截に申しましょう。我々はあなたに 折り入って頼みがあるのです。とても重要なお願いです。お断りになるかも知 れませんが、そうであったとしても我々はあなたを非難などできません。しか し、あなたが、もしも……」 「一生のお願いなのです」と将軍が突然割ってはいってきました。「しかし、 おかしな話ですが、私には、願いをきいてもらったほうがいいのか、断わられ たほうがいいのか、分からんのですよ」 「お父さん、どうか、僕が言いますから……」青年の声には思いやりがこも っていましたが、しかし断固としていました。彼は私のほうにむき直りました。 「あなたが警察に証言なさったところによると、七時をちょっと過ぎた頃に、 上の部屋から争う音が聞えてきたんですね。その結果、わたしの兄は命……つ まり、その……お分かりになりますね」 一時間足らず前に帰った訪問者の目的を思い合わせるなら、青年の質問は驚 くべきものでした。 「そのように証言しました」と私。「それが真実ですから」 「当然です」フレイザー=フリーア中尉が言いました。「しかし……ええと ……実は、我々がここに来たのは、あなたに証言を変えてもらえないかとお願 いするためなのです。どうか、残酷にも身内を失った私たちに免じて……一生 この恩は忘れませんが……争いのあった時間を六時半にしてはもらえないでし ょうか」 私はあっけにとられてしまいました。 「その……理由は?」私はやっとのことで声を出し、訊くことができました。 「詳しいことはお話しできません」と青年が答えました。「ただ、これだけ は申しあげましょう。この前の木曜日の晩七時に僕はたまたまサボイ・ホテル で友人たちと食事をしていました。あのときのことを忘れそうにない友人たち と」 年老いた将軍が飛びあがりました。 「ノーマン」彼は叫びました。「お前にこんなことをさせるわけにはゆかん !
断じて……」 「お父さん、静かにしてください」青年はうんざりしたように言いました。 「とことん話し合ったじゃありませんか。お父さんは約束なさったんですよ… …」 老紳士は椅子に沈みこみ、手で顔を覆いました。 「もしも証言を変えてくださる気があるなら」と若きフレイザー=フリーア はつづけて言いました。「僕はただちに警察に行って、兄を殺したのは……僕 だったのだと告白します。警察は僕を疑っています。連中はこの前の木曜日の 午後遅く、僕が拳銃を買ったことを知っています。土壇場になってそれはナイ フに代えられたのだと思っています。連中は僕が兄に借金をしていたことを知 っています。そして金のことで喧嘩したことも。それから兄が死ぬことで得を するのは僕だということ、僕だけなんだということも」 彼は急に言葉を切り、私のほうにむかってきました。両腕を前に差し出し、 二度と忘れることのできない嘆願の身振りをして。 「僕のためにそうしてください」と彼は声をあげました。「僕に自白させて ください。この恐ろしい出来事を今ここで終わらさせてください」 そんな頼みに返事をしなければならなかった人など、今までひとりもいなか ったにちがいありません。 「どうして?」私は思わずそう言い、何度もそれを繰り返していました。「 どうして? どうして?」 中尉は私のほうを振りむきましたが、私はあのような目つきを二度と見たい と思いません。 「兄を愛していたからです」彼は言いました。「だからです。兄の名誉のた め、一族の名誉のため、僕はあなたにこんなお願いをするのです。信じてくだ さい、こんなお願いはほんとうにつらい。僕からは、これ以上のことは申し上 げられません。兄とはお付き合いがありましたか」 「ほんのご近所付き合いですが」 「では、兄のために……僕の願いを聞いてください」 「しかし……殺人となると……」 「あなたは争いの音を聞いた。僕は兄と喧嘩したのだ、と言うつもりです。 そして正当防衛として兄に打ちかかったのだと言います」彼は父親のほうにむ き直りました。「ほんの数年間、刑務所に入るだけのことです……僕は耐えま す!」彼は叫びました。「一族の名誉のために!」 老紳士はうめき声を発しましたが、頭は上げませんでした。青年は色あせた 絨毯の上を、檻の中のライオンのように行ったり来たりしました。私はどう答 えたものだろうと迷いながら立っていました。 「なにをお考えになっているのか分かりますよ」と中尉。「ご自分の耳を信 じられないでしょうが、お聞きになったとおりなのです。すべては……あなた 方アメリカ人の言い方を借りれば……あなたにかかっているのです《アップ・ トゥー・ユー》。あなたのお国に行ったことがありましてね」彼はみじめな笑 みを浮かべました。「僕はアメリカ人を理解しているつもりです。あなた方は 悲嘆にくれた人間を、今の僕のような人間を、拒むような人たちではない」 私は彼にむけた視線を将軍のほうに移し、そしてまた彼を見ました。 「よく考えなければなりません」と私はとっさにヒューズ大佐のことを思い 出しながら答えました。「後ほど……明日にでも……結論をお伝えします」 「あした」と青年が言いました。「僕たちはブレイ警部の前に呼び出される でしょう。その時、お答えが聞けるでしょうね。それがイエスであることを心 から望みます」 別れの挨拶もそこそこに、彼と傷心の老紳士は出て行きました。表の戸口が 閉まるや、私は急いで電話口に行き、ヒューズ大佐がくれた番号に電話をかけ ました。電話線のかなたからふたたび彼の声が聞こえたとき、私はほっと胸を なでおろしました。私はすぐに会う必要があると言いました。彼は、不思議な 偶然ですが、ちょうど私のところに来ようとしていたのだと言いました。
大佐が来るまでの半時間、私は夢うつつの状態で歩き回りました。彼がドア から入ってくるや、私は二つの驚くべき訪問の話を浴びせかけはじめました。
女の訪問に関しては、彼はほとんどなにも言いませんでした。ただ、どんな様 子をしていたか教えてほしいと言い、私がライラックの香水のことを話すと、 にこりと笑いました。フレイザー=フリーア青年の荒唐無稽な願い事の話しを すると、彼は口笛を吹いてこう言いました。 「なんと!
面白い。実に面白い。しかし驚きはしませんな。あの青年はみ どころがありますよ」 「だけど私はどうしましょう」と私は聞きました。 ヒューズ大佐は微笑みました。 「あなたがなにをなさろうと、大勢に影響ははないのです」と彼は言いまし た。「ノーマン・フレイザー=フリーアは兄を殺していません。それはそのう ち証明されることです」彼はちょっと考えて「ブレイはあなたが証言を変えれ ばきっと喜ぶでしょう。彼は事件と青年中尉を結び付けようとしてますからね。 いろいろ考え合わせた上で言えば、もし私があなたの立場だったら、明日、機 会を見計らって警部を満足させるようなことを言いますな」 「つまり……争いがあった時間はまちがっていたかもしれないと?」 「そうです。あなたがそう言ったからといって、フレイザー=フリーア青年 が永遠に罪を負わされたりしないことは保証しますよ。それに、そうしてくれ ると、私にも都合がいいのです」 「そうですか」と私は言いました。「でも私にはなにがなんだかさっぱり分 かりません」 「そうでしょうとも。説明したいのは山々ですが、できないのです。こう言 っておきましょうか。フレイザー=フリーア大尉の死を陸軍省は極めて重大視 している。そして暗殺者を追って、全く別の捜査が二つ同時に進行している。
一つはブレイが指揮し、もう一つは私が指揮している。ブレイは私がこの事件 の捜査に当たっていることを知らないし、私はできるかぎり知られたくないと 思っている。あなたは好きなほうの捜査に協力していただいて結構です」 「私はブレイより、むしろあなたに協力します」 「よろしい!」と彼は答えました。「あなたは今までうまくやってきました よ。もしもよければ、今晩、私の手助けをしてくれませんか。そのお願いをす るために、電話をもらう前から、こっちへ来ようとしていたんですよ。あなた はアーチボルド・エンライトと名乗った男、大尉宛ての紹介状を書いた男を、 まだ覚えていて確認することができますね?」 「もちろんできますとも」と私は言いました。 「では、私のために一時間ほど時間を割いてください。どうか帽子の用意を」 そう言うわけで、カールトン・ホテルのお嬢さん、私はつい先ほどライムハ ウスへ行ってきたところなのです。ライムハウスがどこか、あなたはご存知で はないでしょうし、これからも知ることはないと思います。そこは絵になると 同時に、吐き気を催させ、色鮮やかにして邪悪なのです。得体の知れない匂い がまだ鼻の中に満ちています。不吉な景観が、まだ目の前に浮かんでいます。 そこ、ライムハウスはロンドンのチャイナタウンなのです。よこしまな道とむ なしい犯罪の匂いを芬々とさせながら、ウエスト・インディア・ドック通りを 中心に、都会の残りかすの底に横たわっているのです。異教徒中国人のあの特 異な姿だけでなく、さまざまな人種とさまざまな土地のならず者が薄暗い明か りの路地をうろつき回っています。アラブ人、インド人、マレー人、日本人、 コンゴから来た黒人、スカンジナビアから来た白人……七つの海を渡るあらゆ る船から吐き出された連中を見ることができます。ここでは酔っ払った獣ども が大勢、給金をポケットに、それぞれ好みの罪悪を求めるのです。阿片が好き でたまらない連中のためには、計ったように一定の間隔をおいて阿片ランプの 看板が並んでいます。 ヒューズ大佐と私はそこに入って行きました。狭いライムハウス通りは、う す暗い店からさす明かりでところどころ黄色く照らされていたものの、ほとん ど真っ暗といっていいでしょう。店はよろい戸を堅く閉ざし、かすかな光の筋 しか外に洩れてこないのです。そこをさんざん歩き回って、とうとう立ち止ま ったのがハリー・サン・リーの「レストラン」の黒い入り口の外の暗闇でした。
私たちは十分、十五分と待ちました。すると一人の男が通りをこちらへやって 来て、そのドアの前で立ち止まったのです。男の意気揚揚とした歩き方は、ど こかで見たことがあるような気がしました。そのときランプのかすかな光が… …それはハリー・サンのほんとうの商売を示すものなのですが……男の青白い 顔に当たって、私はこのまえ、インターラーケンの涼しい晩に、その男を見た ことを思い出しました。ユングフラウが睨むように見下ろし、ライムハウスな ど一瞬たりとも生きていくことができないあのインターラーケンで。 「エンライトかね」とヒューズがささやきました。 「間違いありません!」と私。 「よし!」彼は力をこめて答えました。 すると今度は別の男が通りをやって来て、大佐の前で急に直立不動の姿勢を とりました。 「奴を見張れ」とヒューズは静かに言いました。「目を離してはいかんぞ」 「分かりました」男は敬礼すると階段を上り、黒い憂鬱なドアにむかって軽 く口笛を吹きました。 ミルウオール・ドックの時計が十一時を打ったとき、大佐と私はバスに乗り、 明るく楽しいロンドンへ戻るところでした。バスの中でヒューズはほとんど口 をききませんでした。そしてあしたはブレイ警部を満足させてやりなさいとい う忠告を繰り返して、ストランド街に私を残し、去って行ったのです。 お嬢さん、こうして私は今、自分の書斎に座って、間もなく夜明けとともに 訪れるもっとも重要な日を待っているのです。今晩は波瀾に満ちた一晩でした。 あなたもそれは認めてくれるでしょうね。ライラックの香水をつけた女に、嘘 をつかなければとんでもない目にあうだろうと脅され、ハンサムな青年中尉か らは、家族の名誉ためにそのおなじ嘘をついて、彼が確実に逮捕監禁されるよ う協力してくれと頼まれる。そして今晩、私は地獄へ行き、インターラーケン で会ったアーチボルド・エンライトが悪魔と手を結んでいるさまを見ました。
寝なければいけないのですが、寝つけないことは分かっています。あした、 大尉殺害事件が山場を迎えることは間違いありません。そしてふたたび、私は 自分の意に反して主役を勤めることになってしまいました。 この巨大な灰色の悲しい都市の交響楽は、今は単なる遠くのざわめきに過ぎ ません。なにしろもう真夜中に近いのですから。これからこの手紙を出しにい きます……ここはロンドンですからイギリス風に「投函する《ポスト》」とい うべきでしょうか……その後は自分の薄暗い部屋で夜明けを待ちます。待ちな がら私は大尉やその弟やヒューズやライムハウスやエンライトのことばかりで なく、しばしば……いえ、何度も何度も……あなたのことを考えるでしょう。 この前の手紙で私は世界大戦なんてばかばかしいと言いました。しかし今晩 ライムハウスから帰ってくると、皇帝は動員令に署名をしたと新聞が伝えてい ました。オーストリア参戦、セルビア参戦、ドイツ参戦、ロシアとフランス参 戦。ヒューズが言うには、イギリスも、もうすぐそれにつづくそうです。私も それに間違いないと思います。恐ろしいことになりますよ、我々の前に立ちは だかる未来は。私は、少なくともあなたには、幸せだけがもたらされることを 祈っています。 お嬢さん、私がお休みと書くとき、書きながら声に出して言っているのです。 そして私の声には、今はまだとてもお話しできないような気持ちがこめられて いるのです。
苦悶の欄の男
テキサス娘のすみれ色の目ににくからず映ったのは、日曜日の朝、自室で読 んだ手紙の最後の文句であった。しかしイギリスの早期参戦を予想した一文は、 思わぬ不都合の出来《しゅったい》を彼女に思い起こさせた。昨晩、戦争を知 らせる号外が出て、お気に入りの靴磨きの予測が正しいことを確認したとき、 普段は落ち着いている父親がうろたえた様子を見せた。父親は悠長な人間では ない。それに父親は重要と見なしていない事柄に関しては、娘の言うがままに なるのだが、断固たる態度の必要ありと認めれば、テコでも動かなくなること を、彼女はよく知っていた。彼にはアメリカがいつにもましてすばらしい国に 見えるらしく、即刻帰る決意をしたのである。反論はなんの効果ももたなかっ た。 その時ドアをノックする音が聞こえ、父親が入ってきた。その真っ赤な、汗 だくの、どう見ても不満そうな顔を一目見て娘は元気づいた。 「汽船会社に行って来たんだが」と彼ははげた頭を拭きながらぜいぜい息を した。「平日とおなじように営業していたよ。しかし休業してるも同然だった。 なにもできないのだから。どの船も予約で手すりまで一杯だ。ここを脱出する には二週間はかかる。もしかしたらそれ以上かかるかもしれん」 「残念だわ」と娘は言った。 「いいや、そうじゃあるまい。お前は喜んでいるだろう。こんなふうに足止 めを食うのはロマンチックな小説みたいだと思っておるだろう。わしも若いこ ろの情熱を取り戻したいものだ」彼は新聞紙で顔をばたばたとあおいだ。「幸 い昨日、至急運送便取扱所に行って金貨をいっぱいおろしておいた。攻撃がは じまったら、この町で小切手を現金にするのはいささか難しくなるだろうから な」 「それは賢明だったわ」 「朝ご飯に行く準備は?」 「ちゃんとできてるわよ」彼女は微笑んだ。
二人は下へ降りた。娘はレビューの小唄を口ずさみ、父親はそんな彼女を睨 んでいた。彼女はもうしばらくロンドンにいられることがうれしくてならなか ったのである。あの謎がまだ未解決なのに、出発なんてできるものですか、と 彼女は思った。